| 信仰の本殿・自然と伝説の奥の院 古美術と自然の霊宝殿 |
| 鞍馬山はもっぱら信仰のお山で、山自体が信仰の対象となっているので、信仰の歴史として神話や伝説が伴います。一つの知識として書きますが興味のある方は資料を求めて読んでください。 | |
| 由岐神社 創建は古く、朱雀天皇の天慶3年(940年)の勧請によると伝えられている。大巳貴大神・小彦名大神をお祀りしている。社名は、昔から天皇が天災や騒乱の時、勅して社前に靭(ゆぎ=矢を盛る器)をかけて祈られたことにもとずいています。鞍馬村の産土神で、毎年10月22日に行われる例祭は「鞍馬の火祭」として有名である。 本殿は慶長12年(1607年)に、又、拝殿は15年に豊臣秀頼によって再建された。 この拝殿は重要文化財で、桁行6間・梁間2間・単層・屋根は入母屋造り・桧皮葺とし、中央1間を通路にしたいわゆる割拝殿で、屋根中央に唐破風を付し、崖に臨んだ舞台造(懸造)となっている。通路は石段とし、中央より左に片寄っているが少しも目立たない。 拝殿から本殿に向かう石段の途中に、天然記念物の「がんかけ大杉」がある。他に重要文化財として、鎌倉時代の「石造狛犬一対」がある。 |
![]() 本殿(慶長12年再建) |
| 奥の院魔王殿 鞍馬山の信仰の歴史は魔王尊の降臨からはじまる。650万年前の昔、宇宙の大元霊である尊天の指令によって金星から派遣された大魔王尊が、人類救済の使命を帯び地球の霊王として鞍馬山上に降臨した。「大杉権現社」の所に、大魔王降臨説の大杉がある。樹齢千年で3本の幹よりなる巨大な杉であったが、昭和25年の台風で折れ、今は15m程の根幹を残している。大杉大権現(魔王尊影向の杉)を素材として光明心殿の魔王尊像と宝殿の三尊尊天像が新しく彫られ、霊宝殿では、大杉権現としてお祀りしている。折れた大杉権現の傍に植えられた大杉二世が元気にそだっている。 魔王尊の姿は分からない。降臨した時のまま16歳の若さをもって霊王として活動し、さまざまなお姿を現すという。永遠に16歳の若さを保ち、人類が遠い未来において水星に移住する時、人類を誘導してくれるという。魔王尊の姿を描きたいと思った「狩野法眼元信」は、奥の院で大祈願のすえ霊示があり、杉の大樹から垂れ下がった蜘蛛の引く糸をたどって描きあげたお姿がある。60年に1度、丙寅年に限り開扉される。 奥の院一帯が聖域で、魔王殿は累々たる奇岩(化石を含んだ水成岩)の上にあり護法魔王尊をお祀りしている。石灰岩の重なる柵内は、日本庭園の源流ともいわれる磐座(いわくら)である。 |
![]() 奥の院魔王殿 柵内は磐座で日本庭園 の源流といわれる |
| 僧正ケ谷不動堂・義経堂 不動堂は、方3間・単層・宝形造・本瓦葺・正面1間向拝付きの仏堂で、昭和9年の改修、建築細部は鎌倉中期頃の様式を参考にしたという。厨子には最澄(伝教大師)作という不動尊像が安置してある。不動堂から奥の院に至る鞍馬山中の渓谷を「僧正ケ谷」と言い、山岳修行者の霊地として呪術者の活動した場所である。謡曲『鞍馬天狗』には、牛若丸が天狗僧正坊が出会い武芸の修練を行った場所でもある。 牛若丸は、遮那王と呼ばれ7歳から16歳まで「東光坊」に預かられたが、平家を滅ぼそうと決心し学問し、夜は僧正ケ谷で天狗に兵法を習った。たまには15km程離れた京の町まで出かけていった。早足飛越にかけては人間業ではなかったとあるが、東光坊から僧正ケ谷まで来てみるとうなずける。付近には、義経を祀る義経堂や息つぎ水、鞍馬を去る時(16歳)名残を惜しんだといわれる1.2mの背くらべ石、木刀のあとをとどめる兵法石、硯石等遺跡伝説があり、9月15日には義経祭りが行われる。 |
![]() 義経堂 (古寺巡礼より |
| 本殿金堂・本坊金剛寿命院 鞍馬寺は、昭和24年に鞍馬弘教の総本山となりました。鞍馬弘教の精神を書物によると、宗派の垣根をこえて三身一体の尊天を尊崇し、国境や人権差別を超越して地球上の平和を祈り、全人類の進化と向上を願う世界観実体宗教である。よく「尊天さま」とか「まおうそん」という言葉が出てきます。入山案内によれば、「尊天」とは万物を存在させる宇宙生命・宇宙エネルギーであって、そのはたらきは愛と光と力とになって現れる。愛を月輪の精霊(千手観世音菩薩)、光を太陽の精霊(毘沙門天王)、力を大地の霊王(護法魔王尊)の姿で現し、この三身一体を「尊天」と称するとのことである。 |
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本殿金堂は、昭和46年に再建され、内部は外陣・内陣・内々陣に分かれ、内々陣に宝殿があり、中央に毘沙門天、東に千手観世音菩薩、西に護法魔王尊像が安置してある。本殿の前に、比叡山や京都市中を望む見晴らしのよい所に「翔雲台」がある。この大きな平板な石は、もと本殿背後の崖上に営まれた経塚の蓋石と伝えられている。この経塚は藤原時代のもので本殿拡張工事の際発掘され、出土品の総計178点(国宝)は一部を除き京都国立博物館に寄託している。お札や書物は内部の売店にある。本殿前の休息所には。お茶も用意されている。 本殿の東には、峯延上人に助けられた雌蛇が約束したとおり魔王尊に供える水が枯れることがなくなったので、雌蛇を祀った「閼伽井護法善神社」がある。また、西には、護法魔王尊を祀り、悪魔降伏・災禍抜除などの護摩供を修する道場の「光明心殿」がある。奥の院道の入口を挟んで鞍馬寺寺務所や鞍馬弘教宗務本庁のある「本坊金剛寿命院」がある。 本殿のすぐ下に1丈6尺の阿弥陀如来が鎮座し、鞍馬寺歴代の信徒各家の『酬徳尊牌』を祀る「転法輪堂」がある。石段を挟んで建つ「寝殿」は、大正13年貞明皇后行啓のとき休息所として建てられ、平安後期の貴族住宅様式の寝殿造と中世以降の武家住宅に見られる書院造を適当に用いた大正期の代表的建物である。8月1日から3日の『如法写経会』は寝殿で行なわれる。 |
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| 鞍馬山霊宝殿(鞍馬山博物館) 自然科学に興味のある人、古美術鑑賞の人はぜひ霊宝殿に行かれるとよい。鞍馬山の文化財・動植物の標本を展示している。一階は、鞍馬山の自然の相を展示しています。鳥獣、岩石、きのこ、昆虫、陸貝、植物のコーナーがあり、資料・標本・模型等を展示している。二階は主に寺宝展示室とし、当寺所蔵の什宝類を順次紹介している。経塚遺物の石造宝塔(国宝・藤原)は古さにおいてわが国最古に属する。他に坂上田村麻呂所用と伝えられる黒漆剣(重文・平安)や戦国武将の祈願文、書状等を展示する。別室の与謝野記念室には、寛・晶子夫妻愛用の机・書籍・歌稿等を展示する。三階の仏像奉安室には、当寺にとって最重要な仏像を安置してある 毘沙門天および脇侍吉祥天・善膩師童子の木彫立像三体(国宝・平安)は、いづれも一木彫、瞳に墨、唇に朱をさすほかは彩色しない白木のままとしている。毘沙門天は、175.7cmで「橡の木」で彫られ、小手をかざしてはるか彼方を望見する姿が鞍馬寺独特で、北方より平安京を守護する働きを現しており、11世紀の作と思われる。吉祥天は毘沙門天の后で、慈悲あふれるお姿に彫られている。この像は、桧を素材とし1126年の大火で消失し翌年に新しく彫られたといわれる。善膩師童子は、毘沙門天の5人の太子の一人です。素材は毘沙門天と同じ橡の木で、同じ時期の作と思われる。その他にも重要文化財の仏像等が展示してある。 霊宝殿の付近には、信楽香雲初代館長が晶子先生の直弟子であったことから、与謝野寛・晶子夫妻の歌碑と東京荻窪から移築された、晶子先生書斎「冬柏亭」があります。 |
![]() 木彫立像三体 ![]() 与謝野晶子書斎 (冬柏亭) |
| 鞍馬寺の名宝・経塚遺物 鞍馬寺は幾度となく災禍に遭いながら、前記の毘沙門天三尊像(国宝)の他、多数の文化財がある。 写真の毘沙門天像は、左手に鉾を持ち、右手を腰に当てて、毘沙門天のシンボルとなる宝塔を持っていないお姿は珍しく、鞍馬様と呼ばれている。秘仏になっている毘沙門天もこの形と云われている。仏師肥後別当定慶作の聖観音立像(重文)をはじめとする仏像がある。また、古い絵画・文書は残っていないが、新田義貞書状や足利将軍・秀吉・家康等からの書状や願文・令旨等があります。 その他に、一括して国宝の指定を受けた経塚遺物があります。末法思想が広まった平安時代後期には、再び仏法の栄える弥勒菩薩の時代が来るまで経典を書写し残しておくという願いや追善供養の念願や、あるいは、浄土へ生まれ変わりたい切望で、写経を行い土中に埋る風習が流行した。鞍馬寺でも1120年頃、重怡上人らによって雄大な規模の写経が営まれた。鞍馬寺経塚は、300点近い遺物が出土し、質・量とも日本に類例をみない物です。平安後期の物が多いが、鎌倉・室町時代の物もあり、一時期に造られた物でなく、何回かに亘って追納された「複合」経塚と考えられる。遺物は大きく5つに分けられる。1は、石宝塔の地上標識。2は経巻及び経容器類で、円筒形以外に、宝塔形・宝幢形・蓮弁付等珍しいものが出土している。その3は仏像類で、毘沙門天像を形どった懸仏が多い。4は、土製の六器や花瓶等の仏具類。その5は報賽物類である。自然が天から頂いた宝物であるなら。名宝類は、人の匠の技と信仰心が紡ぎ出した宝物です。 |
![]() 鞍馬の毘沙門天と いわれるお姿 |
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| 鈷剣(重文・平安) 鞍馬寺経塚遺物の内 銅宝塔と金銅三尊像(国宝・平安) | 跋毘沙門天 聖観音立像 |