あなたの街のあなたの教会
八千代聖書バプテスト教会

 週報

2017年10月29日   望みの神

ローマ人への手紙15章7節16節


ユダヤ人の救いは約束により、異邦人の救いは神の憐みによると言われている。約束であるなら請求する権利を持つが、憐みの場合にはその資格さえないものが一方的な恵みによって手にするのである。朝6時から働いたブドウ園の労働者にとって1デナリは当然支払われる賃金だったが、夕5時に来た人には期待しない恵みだった。

こ の立場の違う2種類の人が教会を構成した。そのたとえ話の様にユダヤ人は神の憐みを妬ましく思ったのだ。既得権益が侵されようとするときに人は激しく抵抗 する。しかしそれさえも本来は神の一方的な恵みだったのだ。キリストはユダヤ人だげでなくすべての人の贖いの代価としてご自身をささげられた。これが新約 の恵みだ。

パ ウロは異邦人の使徒とされたことを自覚し、それに誇りを持っていた。だからと言って異邦人教会、あるいは異邦人クリスチャンだけが恵まれれば良いとは考え なかった。絶えず両者の融和とキリストにおいて一つになることに心を砕いている。この手紙を書きながらエルサレムに向かう彼は、エルサレム教会に献金を携 えていた。

パ ウロは、異邦人は以前「この世にあって望みもなく、神もない人たち」だったと言う(エペソ2:12)。しかし今、キリストにおいて希望を見出した。あなた はキリストにあって、どのような希望をもっているだろう。あなたの神は望みの神だろうか。神はキリストにあって私たちを受け入れ、神の民、永遠の命の相続 者とされたのだ。


2017年10月22日   忍耐と励ましの神

ローマ人への手紙15章1節〜6節

 

初 代教会にとって異邦人とユダヤ人の共存は大きな問題であった。エルサレム会議の主題は異邦人が救われるためにユダヤ教の習慣や規定を守らなければならない かどうかということだった。結論としては、ご存知のように私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのだから、その必要はないということだっ た。

し かし交わりのためにいくつかの原則が伝えられた。異邦人側に配慮を求めたのである。ここで弱い人とは依然として律法規定に引きずられている人のようであ り、強い人とはそれから解放されている人のように見える。だから異邦人の使徒とされたパウロは自分を力ある者としている。律法はすでに終わったものだとし た。

だ からといって一方的に意見の異なる者を黙らせたり、切り捨てようとはしなかった。それはキリストの心と御業に反するからである。最も強い方であるキリスト はご自分を決して喜ばせることはなかった。逆に自らのいのちを犠牲にして、救いの道を完成してくださった。これが模範であり、教会の育てる交わりと進む道 だ。

異 なった背景にある人々は一つになり、神をほめたたえるためには信仰による忍耐と神の励ましが必要なのである。多人数であろうが、少人数であろうが、日本人 だろが外国人であろうが、神の助けによって教会は一つにされる。現実が理想からはるかに遠いように見えても、神は私たちに希望を与えてくださる方であるの だ。


2017年10月15日主のために生き主のために死ぬ

ローマ人への手紙14章1節〜12節


多くの宗教はそれぞれ特有な禁忌(タ ブー)を持っている。食物規定でいえば特定の動物の肉を食べない。もちろん時代によって変化する。日本では殺生を禁じる仏教の影響で江戸時代まで表向きに は肉食は禁じられていた。キリスト教はユダヤ教の持っていた食物規定を破棄したが、初代教会信徒の中には肉食を否定する人がいた。

こ れは異教の神々に捧げられた肉が流通していたことと関係していたとも考えられるし、あるいは律法規定から完全に自由になっていなかった人もいたのかもしれ ない。まだ新約聖書が完全に文書化される以前のことである。礼拝をささげる日についても定まっていなくて、日曜日とされるには、まだしばらく時間が必要 だった。

こ れが教会の交わりや運営に軋轢を生じさせていたようである。そこでパウロは互いに裁き合わぬように勧めたのだ。私たちはとかく自分がやってきたことが正し いと思いがちである。しかし案外、聖書の中にはっきりと規定されていることはそれほど多くない。だからといって無秩序だと困るわけで一定の基準が生まれる のだ。

大 切なことはまず自分の中で確信を持つことであるという。主の裁きの座に立っても恥ずかしくないように判断する。そして違った意見を持った人がいても安易に 批判したり裁いたりしないということだ。特に同信の人々は主のためにそれをしているのだから、判断は主にお任せする。自己絶対化の誤りに陥らないようにし たい。


2017年10月8日   イエス・キリストを着る

ローマ人への手紙13章8節〜14節


普 段、制服やユニフォームを着る機会があるだろうか?クリスチャンの身につける制服は、イエス・。キリストだとパウロは言っている。キリストを着る−なんだ か恐れ多い感じがするかもしれないが、他書によれば新しい人を着るとも言われている。それはキリストによって新しく造り変えられた心から出てくる生き方の ことである。

ま ず愛の他には何の借りもあってはならないとある。これを聞いて、クリスチャンはローンを組めないのかと思わなくても良い。借りたものは返すのはクリスチャ ンでなくても当然、愛することにおいてはそうではないと言う導入部分なのだ。キリストも律法を、神を愛することと、人を愛することがその神髄だと言われた ことを思う。

形 式よりも心、そして心遣いは実際の行為に現れるものである。律法に見られる様々な禁止事項は、決して人を縛り付けるものではなく、隣人愛の実践として当然 の帰結である。そして私たちは主の日の近いことを覚えて、目を覚ましているようにと勧められている。あの十人の乙女の中の愚かな娘ではなく賢い娘でありた いものだ。

学 生は在学中にしかその制服を着ることはないだろう。また、退職する人はその会社のユニフォームを返さなければならない。いずれもその立場にあった時だけの ものである。しかし私たちはこの制服を脱ぐ必要はない。最初は着心地が今一つに思えたとしても、着続けるうちにそれが本物になってくるのだ。キリストを着 なさい。


2017年10月1日   クリスチャンと国家 

ローマ人への手紙13章1節〜7節


 新約聖書は1世 紀の中ごろから50年ほどの間に、ローマ帝国内で誕生した初期キリスト教文書の集まりである。キリストの誕生が皇帝アウグストの時代であり、公生涯の始ま りは皇帝ティベリウスの時代であったとルカは記している。当時パレスチナはローマの統治下にあり、パウロはローマ諸都市を巡って、キリスト教を布教した。

 パウロは時の政治機構に神の摂理をみている。神が立てられたものだというのである。これは当時のユダヤ人はどう思っただろうか。彼らはキリストが現れて、ローマの圧政から解放し、イスラエル国家を再建してくれると期待していたからだ。この手紙が書かれて10年数年後に、エルサレムはユダヤ人の反乱が起こり鎮圧される。

  パウロは聖霊に導かれ、より広い視野で世界と神の御計画を見ていた。実際に彼の伝道活動にとってローマによる地中海世界の統治は好都合であったのだ。彼は 市民権を持っており、その権利を神の国のために用いている。私たちは社会においてもそこに神の摂理の御手が働かれていることを覚えて、正しくふるまうこと が必要だ。

 一方、黙示録の中には国家(ローマ帝国)が 大バビロンと呼ばれ、悪魔的な様相を示している場面が登場する。国家が暴走し、迫害の嵐が吹き荒れるそんな時代が来ることがある。私たちの取る道はどこに あるのだろうか。私たちは主の御心であるがゆえに国家に従うのであって、為政者が御心に反するときには、主に従う道を選ぶ。

 
2017年9月24日   あなたがたは神の神殿 

コリント人への手紙第一3章10節〜17節

 

門 前町と呼ばれる都市がある。寺社を中心に発展してきた場所で、善光寺なら長野、東照宮は日光、近場だと新勝寺の成田などである。パウロが伝道したコリント の町にも神殿があって、今もアポロ神殿遺跡として観光名所となっている。コリントの教会にあてた手紙を読むと、他の教会にはない特殊な問題を抱えていたこ とが判る。

彼 らの宗教的な熱心さは、異教の影響を色濃く受けていたようだ。それまでの彼らの宗教的な習慣や経験が、悪影響を及ぼしていた。キリスト教徒としての成長を 阻害し、教会に混乱をもたらしていたのだ。分裂傾向があり、不道徳は容認されていた。礼拝は混乱することもしばしばで、特に異言が競われると無秩序に陥っ たのだ。

パ ウロはここであえてあなたがたは神の神殿なのだと言って、彼らの存在理由を語る。その町に数多くのギリシャ、あるいはローマ神殿があろうとも、真の神が共 におられる神殿はコリントの教会しかないのだと。大理石で建てられた神殿ではない。神の民の集まりこそが、キリストの体であり真の神殿だと教え諭している のである。

ひ るがえって私たちがこの町に置かれている理由は何だろうか?それは神が共におられることが証しされることだろう。神の言葉を聞ける所、御救いの門が開かれ ている所、祈りを聞かれるお方のおられる所である。ソロモンは献堂の時に祈った。この宮で捧げられる祈りを聞いてくださいと。これは私たちの始まりの祈り でもある。

 

2017年9月17日   善をもって悪に打ち勝つ 

ローマ人への手紙12章14節〜21節


ク リスチャン倫理の中でも、復讐の禁止は最も特徴的であり、衝撃的な教えだと言えよう。これほど人間の本姓と対立するものはないからだ。世界情勢を見ても、 やられたらやり返すことは鉄則であるし、戦争開始の条件にもなりうる。また、小さな子供の世界でも同様で、喧嘩はそこから始まるのだ。泣き寝入りを好む人 はない。

そ れゆえ、この聖書箇所さえ、誤って引用されることもある。復讐する主語を自分に置き換えてしまう。あたかも目には目、歯には歯という同害報復が許容されて いる教えを、倍返しの報復を奨励すると解釈するのと同じである。山上の説教でキリストは自分の敵を愛せよと言われ、善をもって悪に打ち勝つことを教えられ たのだ。

一 体だれがこの教えに生きることができるのだろう。自分に対して害を加える人をどうして愛することができるのだろう。あるいは悪を野放しにすれば、多くの被 害が広がるのではないだろうか。しかし、私たちは知るべきである。いや知っているはずである。神がおられて全てをご覧になり、全てのことにおいて裁かれる ことを。

神 が悪を裁かれる、この確信に立って初めて、復讐に手を染めないという決断が可能になるのだ。詩編の中に呪いの詩編と呼ばれるものがある。悪に対して神の裁 きを願う詩編だ。神の報復を祈る言葉に戸惑いを覚える方もあるかもしれない。しかしこれは自ら手を下して罪を犯す代わりに、神に委ねる、悪に打ち勝つ方法 なのだ。


2017年9月10日   
愛に生きる
ローマ人への手紙12章9節〜12節

ク リスチャン生活の基本は、礼拝であり、自らを主にお捧げして歩むことだった。その具体的な姿が描かれる。愛に偽りがあってはならない。偽りの愛とは偽善的 な愛のことだ。コリント13章の愛の賛歌の逆を考えればよい。持ち物全部を寄付し、自らを火の中に投げ入れても、その動機が利己的なものであれば、それは 愛とは呼べぬ。

愛(ア ガペー)に対して、兄弟愛と記されるのはフィラデルフィア(都市の名前にもなっている)という言葉が使われ、隣人愛のことである。その基本は相手が自分よ りも勝っていると思えとある。自分だけが正しいと考える人が多い中で、他者の中に優れた部分を見つけて接することができるならば、おのずとその関係は違っ てくるはずだ。

次の勧めは自分自身に関することである。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えよ―実際にいつもこのように歩めればよいのだが、人は流されやすく怠惰になる。だからこそ、自分のからだを聖い、生きた供え物としてささげよと勧められていたのだ。それは毎週の礼拝であり、日毎朝毎の祈りの中で神の愛の燃料が注がれる必要がある。

 目 の前に見えるものが暗くても、その先にある神の祝福を望み、困難を乗り越えたのは、旧約聖書の聖徒たちの姿だった。目に見えない方を信じる私たちは、その 告白のよう生きようではないか。そして、福祉をまだ国家が担わなかった時代は、隣人愛の実践が大切だった。特に信徒同士の助け合いの中に、神様の愛は現わ されるのだ。


2017年9月3日   
聖い生きた供え物
ローマ人への手紙12章1節〜8節

一 体、私たちは礼拝に何をしに来ているのだろう。ある人は兄弟姉妹に合うことを楽しみにやってくるかもしれない。これは神の家族として当然のことだろう。ま たある人は聖書を学びにやっている。神の言葉を聞くことが最も大切なことだと思うからだ。しかし、パウロは言う。私たちは自らを献げるために礼拝に出席す るのだと。

で は、聖い生きた供え物として神に献げるとは何を意味するのだろう。まず、聖いとは、道徳的に清いという意味以上に、特別なことのために聖別されたという意 味だ。また、生きた供え物とは、旧約聖書の屠られた家畜ではなくて、キリストの贖いによって、神をほめたたえることのできる存在としてみ前に立つというこ とである。

そ して献げるのは私たちの頭でもなければ、お金でおなく、口でもない。あなたがたの身体を献げよと言われる。これは奉仕への生活に私たちが招かれていること と関係しているように思える。この章では具体的なクリスチャン生活についての勧めが始まる。そう、礼拝とは単に日曜日の1時間のことではなく私たちの生活を指すのだ。

全生活が神を証しする礼拝であり、そのクライマックスとも言えるのが主日の礼拝ではないだろうか。ここでもパウロは私たちが体の一部分であり、それぞれの恵みに従って主と教会に仕えることを勧めている。これらの勧めは強圧的に命じられているのでは


2017年8月27日   
神が味方ならば
ローマ人への手紙8章31節〜39節


ど んな時にも裏切るとこのない友人や家族がいる人は幸せである。特につらい状況に置かれたときにそれが明らかになる。イスラエルの王ダビデは息子アブシャロ ムの謀反によって都落ちをした。それまで王にかしずいてきた家臣たちの内に、敵味方が如実に現れた。命がけでダビデに従う者がある一方、王の命を狙う者も あったのだ。

パ ウロは私たちにとって、神とキリストは絶対的な味方であると言った。自分の利益のために神を利用しようとする人がそう言ったなら、恐ろしい思い上がりであ る。しかし、神によって召され、義と認められた人には、当然の帰結である。なぜならこれは神によって始められた働きだからだ。御子のいのちが犠牲になって いるのである。

そ の神の動機はキリストにある神の愛だという。これがクリスチャンを支える土台となっている。基本的な信頼関係である親子関係も本来そうである。条件付きの 愛情は偽物なのだ。どんな時にも神の愛は変わることなく、私たちをキリストから引き離す物も、そんな力も存在しないのだ。ここでパウロは高らかな勝利宣言 をしている。

決 して彼は安閑とした生活をしていたわけではない。それどころか取り巻く環境は、もうこの働きを止めてしまいたい、継続が困難だと思わせるようなことが山積 していた。まるで屠られる羊のようだとも言っている。しかし、目に見えない方に目を向けていたパウロは負けなかった。私たちはこの神の愛を本当に信じられ るだろうか?


2017年8月20日   摂理を信じる信仰
ローマ人への手紙8章26節〜30節

 イエス・キリストは聖霊について「もうひとりの助け主」と呼んだ。キリストが父の御許に帰られた後に、信者たちを助けるお方 をそう表現した。あなたはこの聖霊のお働きを意識しているだろうか?私たちの祈りはこのお方の執り成しによって発せられていることを知っているだろうか? 私たちの内にこの方は住んでおられるのである。
 このお方は、迷いやすく頑迷な私たち/神の羊を導く羊飼いなのだ。詩篇23篇には羊飼いの務めが記されているが、御霊は私たちを神の御許へと間違いなく 導いてくれるお方である。羊は目が悪い。自分の進む道を判断できない。それ救うのは羊飼いのむちと杖、羊飼いにひかれていく羊は安心である。私たちには御 霊がおられると言う。
 私たちの先々は誰も分からない。しかし明日を知っておられる方を信じる人は、たとえその時の状況が理解できなくても、それが安全であり、最善であること を信じられるはずである。なぜなら、神はすべてのことを働かせて益としてくださるとあるからだ。摂理を信じるとは、神のご計画には間違いがないことを心底 信頼することだ。
 神のご聖霊の導きに従って私たちは生きていく。聖書を通して私たちに語りかけ、また祈りのうちに主の道を示してくださる。もしこのお方を知らないとうな ら、ひょっとして気づいていないのかもしれない。なぜなら、この方の助けがなければキリストを信じることはできないからだ。意識して、この方のか細き声に 耳をすませよう。

2017年8月13日   
神の相続人

ローマ人への手紙8章16節〜25節


相 続と聞いてまず考えるのは、遺産相続のことだろう。市内でも畑の広がる郊外の一角に小さな宅地が造成されることがしばしばある。畑の所有者が亡くなり、相 続した人が一部を手放すようである。日本の法律では財産の所有者が死んでから相続ということが出てくるが、聖書の時代には親が定めたときにすでに相続人と なったようだ。

先 回学んだように、相続する人は財産の持ち主の子どもだった。実子、養子を問わず法的に子と認められる人が相続人となったのだ。キリストを信じる人は、神の 子となり、神の相続人となるというのは、救いが単にその人の心の持ち方が変わるというレベルのことではなく、神の前における立場が決定的に変わったことを 表しているのだ。

で は私たちはすでに相続人であるが、一体何を相続したのだろう。あるいは将来何を相続するのだろう。キリストは柔和な者は幸い。その人は地を受け継ぐと言わ れた。私たちは神の国を相続した。そしてキリストとの共同相続者であると言われている。神の国は目に見えないが、神のご支配の中に私たちが置かれているこ とを意味する。

神 の救いの中に私たちが置かれている様々な祝福、特権を私たちは与えられているのだ。最終的に神の相続が明らかになるのは、私たちの体が贖われるその時であ ると使徒パウロは言っている。聖書の死後の世界は、神の新しい世界がもたらされる時に、主にある者が復活することである。神の国を相続することの恵みに比 べる物はない。


2017年8月6日   
子とされること
ガラテヤ人への手紙4章1節〜7節

キ リストを信じる者は救われて神の子とされる。この「子とされる」という聖書の表現は養子縁組を意味している。現代の日本の法律でも同様の制度があるが特別 養子縁組を考えるとよく分かる。夫婦が血縁の無い子どもを養子とするのだが、家庭裁判所の承認が下りると戸籍には実子として記載がなされる。すなわち同等 の権利を得る。

新 約聖書の時代、ローマ帝国が地中海世界を支配しており、ローマ法によって治められていた。この養子縁組の制度は広く知られていて、ローマ皇帝の中にも血縁 が無くても、先代の子として皇帝になった人物は少なくない。これがキリストの救いを表わす一つの例証となった。以前は神の恵みから遠く離れていたが、今は 神の子とされた。

キ リストは、天におられる私たちの父よ、と主の祈りを教えられた。神は私たちの父である。しかし、神を父とお呼びするにはキリストによらなければならない。 キリストが父なる神を明らかにし、私たちの罪のための贖いとなってくださったことによって、私たちは信仰によって、神を父とお呼びできるようにされるの だ。アバ、父と。

子 とされることは養子縁組の制度を用いて説明されていた。私たちは以前は、特別な意味での神の子どもではなかったのだ。それがキリストの恵みによって神の子 とされた。それは単に立場の変化を表わすだけではなく、神の祝福と恵みを相続することを意味する。父なる神との親しい交わりと、変わることのない御手の中 に置かれる。


2017年7月30日
  義と認められるということ

ローマ人への手紙3章21節〜28節


今年は宗教改革500 年にあたる。マルチン・ルターがヴィッテンベルク城門に「95箇条の提題」を張り付けた時をその始まりとしている。そのテーマは信仰義認についてであっ た。すなわち、罪人である私たちは、キリストを信じる信仰によってのみ神に受け入れられる(義とされる)のであって、人間の努力や功績によらないのであ る。

こ の義と認められることと先回学んだキリストの贖いは、両翼の関係にある。鳥が片翼では飛べないように、一方だけではキリストによる救いが成り立たない。神 はキリストを十字架において、なだめの供え物とされることによって、ご自身の義を満足された。人類の罪はキリストの上に置かれ、神は私たちの罪をお認めに ならない。

こ の神様のお恵みが私たちの上に実現する方法が信仰義認である。信仰によって神の義を得ることができる、いや義と認められるのだ。神の律法によってこの義を 得ようとしたのが、パリサイ人律法学者であったが、パウロは決して律法遵守ではそれは得られないという。いや律法を満足させる事のできる人は誰一人いない のである。

ル ターの時代、贖宥状が売られ、罪の赦しはお金で買えると宣伝されていた。一方、ルターのようにまじめな修道士は難行苦行によってそれを求めた。絶望したル ターは今日の箇所であるローマ人への手紙を通して、神の義を再発見したのだった。その義とは人を裁く正義ではなく、キリストの贖いによって人を赦す恵み だったのだ。


2017年7月23日 
贖(あがな)われるということ

マルコの福音書10章41節〜45節


贖い- 教会に来ている人は当たり前に読めても、これを読める人はどれくらいいるだろうか?難読漢字に数えられるに違いない。贖うという文字の中に貝が2つあるこ とから、お金と関係あることは予想できる。新字体は「購」である。お金(代価)を払って、償う、救い出す、解放する、買い戻すという意味がこの言葉にはあ るのだ。

ヤ コブとヨハネは他の弟子たちよりも重要なポストに就かせてほしいとキリストに願う。当然、それを知った他の弟子たちは怒ったのだ。そんなやり取りを知りキ リストは改めて語る。自分は支配するために来たのではなくて、仕えるために来たのだと。人々から奪おうとする世の権力者ではなくて、命を与える救い主とし てである。

贖 いの代価として、自分のいのちを与える-この言葉は十字架の苦難と死を意味するものである。「この方(キリスト)にあって私たちは、その血による贖い、罪 の赦しを受けている」エペソ1:17ともある。私たちの救いのために、支払われた贖いの代価がキリストのいのちだった。そしてここに神の愛があると使徒 パウロは言う。ローマ5:8

贖 罪(しょくざい)の恵みは単に罪の赦しにとどまらない。神との和解がもたらされ、私たちは神の元に買い戻された。神の支配下におかれている。神の愛する対 象となったならば、私たちの生活は神の守りとご計画におかれているのだ。それはあらゆるものに勝る祝福である。キリストの贖いは、信仰によって得ることが できる。


2017年7月16日   
信じるということ

ルカの福音書7章36節〜50節


悔 い改めと信仰、これが新約聖書には繰り返し出てくる。キリストの第一声は、時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさいだった。悔い改める ということは、後悔、反省にとどまらず、神に立ち帰ることであった。そしてより積極的には、神を信頼して歩んでいくこと、神の備えられた救い−福音を信じ ることだ。

パ リサイ人シモン宅に招かれた夕食での出来事だった。パリサイ人に招かれる記事はそんなに見当たらない。彼らはイエス・キリストに対して批判的だった。ここ でも大歓迎というよりも、偵察といった目的だったのだろう。ここに一人の女性が忍び込み、キリストに油を塗る。罪深い女とあるが、不道徳で知られていたよ うである。

こ の対照的な二人の人物が、キリストを軸にその姿があぶりだされていく。シモンは人々から尊敬を受ける名士であった。またこの夕食の主催者である。一方この 女性は人々から蔑まれていた。しかしこの二人の違いは何か?それはキリストに対する態度に表れる。シモンは一般的な礼儀をも欠くが、女性は救い主として信 じていた。

信 仰があなたを救った、あなたの罪は赦されていると宣言される。罪が赦され、救われたのはこの女性のほうだったのだ。シモンには罪の自覚は乏しかった。この 女性は罪を悔いて、キリストによって赦された。彼女の行為はキリストに対する感謝だった。救いの道はキリストによって備えられている。求められることは信 仰なのだ。


2017年7月9日   最期に望むこと

テモテへの手紙第二4章9節〜19節


パ ウロの書いた手紙の中で、一番最後のものはテモテ第二である。彼は捕らえられ裁判を待っている。状況は思わしくなく、殉教をも覚悟して書かれたのがこの手 紙である。弟子テモテに最後の勧めをし、今後のキリストの働きを委ねようとしている。そして最後の部分では、テモテに、意外に思えるようないくつかのこと を頼んでいる。

一 つ目は、これが一番重要だったが、テモテに早く来てほしいと願う。パウロには妻子はいなかったようである。彼の最期を看取る親族は身近にいない。親しい友 人、同労者のルカだけが共にいると言っている。パウロは孤高の人ではなかった。人と人の交わりに生きた人だった。だからこそ、最期の時をそのような人と迎 えたかった。

次 に、上着を持ってきてほしいと言う。身の回りの物も手に入らない困窮した状況だったのか、あるいは自分になじんだお気に入りの物がよかったのかは分からぬ が、冬が来る前に用意をしておかなければならなかった。そうパウロはスーパーマンではなく、生身の人間だったのだ。身体の苦痛をできるだけ和らげることが 必要だった。

そ して、羊皮紙の書物を所望する。間違いなく、これは聖書だろう。何よりも神の言葉を読みたかったのだ。彼自身の手紙が聖書になっているにも関わらず、彼は 聖書を通して語られる神の言葉によって生かされていた。本当に必要なものは多くはない、これらは私たちにとっても外せないものであり、これが信仰を通して 与えらるのだ。


2017年7月2日   悔い改めるということ

ルカの福音書19章1節〜10節


  キリスト教の信仰を使徒パウロは「神に対する悔い改めとイエス・キリストに対する信仰」とまとめている。今日は前半の部分の神に対する悔い改めと言うこと を考えたみたい。悔い改めよという勧めを聞いて、どんなことをイメージするだろうか?権威者から、自分の悪行を反省し白状しろと迫られているように感じる かもしれない。

  けれども聖書が教える悔い改めと言うのは、断罪して切り捨てるためではなく、父なる神の元へ帰れという愛の招きである。ザアカイという取税人の頭が登場す る。ここでキリストは一言もザアカイの行為を非難してはいない。ただあなたの家に泊まることにしてあるといって、喜んで親しい交わりを望んでいることを伝 えたのだった。

  ザアカイは新しい人になった。これは命じられてそうなったのではなく、悔い改めの結果だった。すなわち神に立ち返ったときに、神の御心に従って生きること が喜びとなったのだった。悔い改めるということは方向転換を意味し、価値観や生き方が変えられるのだ。罪は神から離れた状態であり、悔い改めは交わり

の回 復をもたらす。

  キリストがザアカイをアブラハムの子と呼んだことには重要な意味がある。当時のユダヤ教の中では罪人と考えられ、神の祝福から除外されると考えられていた 人々を、キリストは間違いなく神の民であると宣言している。重要なことは真心から神の元に立ち返って、新しい歩みをはじめることなのだ。キリストはそのた めに来られた。


2017年6月25日   満ち足りる心

テモテへの手紙第一6章6節〜10節


モー セの十戒の最後の戒めは、あなたの隣人の家を欲しがってはならないである。これはむさぼりを戒めていると同時に、与えられた物で満足する生活を勧めてい る。単に物欲を抑制するだけのことではなくて、私たちの生活全体に大きな影響を及ぼすことになる。満ち足りることを知らない人は、隣人を欲望の道具とみな すのである。

むさぼりは端的に言って金銭欲と結びつく。キリストは山上の説教の中で、二人の主人に仕えることはできないと言われた。それは神と擬人化された富(マモン)である。また、使徒パウロも同様に、金銭を愛することが、あらゆる悪の根であると言っている。そして、何一つこの世に持って来なかったし、何一つ持って行けないと言う。

そ れでは一体、私たちはどのようにすれば所有の多寡にかかわらず、満ち足りた心を持つことができるのだろう。それは神に信頼し、信仰に生きることによって実 現するとキリストは言う。空の鳥を見よ、野の花を思え。神の愛はそれにも勝り、神を愛する人々に注がれている。もし思いわずらいから解放されるなら、どん なに幸せだろう。

私たちが神信頼に生きるためには、聖書の約束に立たなければならない。キリストは私たちに、決してあなたを離れず、見捨てないと言われる方であり、神はご自分の御子(キリスト)をさえ惜しまず死に渡されたのだから、御子と一緒に全てのものを恵んでくださると約束さされている。むさぼりと思いわずらいは信仰の対義語なのだ。


2017年6月18日   罪が赦されるということ

ローマ人への手紙7章13節〜25節


  キリストの救いとは、罪の赦しと永遠のいのちと言われるが、罪の赦しとは何を意味しているのだろう。使徒の働きにはパウロの説教が繰り返し出てくるが、そ こでは信じるものは罪の赦しを受けることができると結論づけられている。全人類に罪の赦しをもたらすことが、キリストがこの世に来られた目的であったとさ れるのだ。

  罪の赦しの必要性については、聖書が教える思想を理解しなければならない。大概の人は自分がまだましな人間だと思っているからだ。私たちの持つ罪の概念は 程度によって、それも他者との比較で考える。聖書はそこまで私たちを大悪人としたいのだろうか?聖書は罪を神との関係で考える。この前提がわからないと理 解できない。

  聖書の示す罪とは、神に対する反逆と不従順である。これは私たちの在り方そのものに関わる事柄であって、罪が赦された結果、失われた神との交わりが回復す るのだ。私たちが正しくありたい、思いやり深くありたい、他者を愛したいと願いながら、それができないのは、私たち自身の罪‐原罪がそれを妨げ逆に過ちを 犯させる。

 キリストの救いによってもたらされる罪の赦しとは、根本的に神との関係が変えられ、私たちが正真正銘、神の子どもとされることを意味している。罪の赦しのためにキリストは十字架で死なれ、3日目によみがえられた。信じる人は誰でもこの罪の赦しを手にすることができる。罪の裁きと罪の力からの解放を主は与えてくださる。


2017年6月11日   新しく生まれるということ

ヨハネの福音書3章1節〜9節


キ リスト教信仰は、一定の儀式を行ったり、人々と


は違う生活習慣を持つということではない。結果的にそうであったにしろ、それだけなら多くの宗教と何ら変わ らない。キリスト教は心に関する宗教であり、その人自身の変革を伴うものだ。それを新しく生まれるという言葉でキリストは表現された。神のいのちが与えら れるのである。

ニ コデモはユダヤ人の指導者と紹介されている。社会的、宗教的にも多くの尊敬を受けていた人物だった。彼は闇にまぎれてキリストの元に来た。この敬虔なユダ ヤ教徒にとっても、新しく生まれると言うことは驚きの教えだったのだ。彼らは熱心に律法を研究し、それを順守することによって、神の国に入ることができる と考えていた。

新しく生まれる-キ リスト教信仰を持つことを、ここではそのように表現している。神様はキリストを信じる時に、私たちの内に新しい霊のいのちをくださるのだ。私たちは自分の 能力や努力で自分自身を変えるのではなくて、この神のいのちによって新しい者とされる。その結果、神様の喜ばれる実りがもたらされるようになるのである。

私たちの心を神は変えてくださる。私たちは自分を変えることができなくても、神様は私たちを変えてくださる。実は信じることさえ、神がくださる賜物なのである。ニコデモは信じたようである。後に十字架のキリストを葬るためにヨセフとやって来た。新しく生まれた人は肉(生まれつきの性質)ではなく、聖霊の導きに歩む人である。


2017年6月4日   永遠のいのちを持つ

ルカの福音書18章18節〜30節


永 遠のいのち−改めて不思議な言葉だと思う。なぜなら、いのちとは有限なものだからである。いのちの尊さとは、繰り返しがきかないところにある。失われたい のちは決して戻ってこないのだ。この有限と永遠と言う−相対する概念が合わさった永遠のいのちとは、不死のことではない。それは死んでもなくならないもの である。

こ のいのちには2つの側面がある。一つは来世におけるものである。キリストにこの質問した人は、来世において得るいのちについて考えていた。生きている間に 神の戒めを守っていれば良いと考えた。しかし、それは自分自身の基準であって、神の基準には遠く及ばなかった。人にはできない。救いは神によるのだと宣言 されたのだ。

こ こで永遠のいのちを得ることと神の国に入ること、救われることは同義で用いられている。人は死んで終わるのではなく、その後がある。そして永遠のいのちと は自らの力で獲得できるものではなくて、神によって与えられるものである。神は最も尊い贈り物を、キリストの十字架の贖いによって、信仰によって与えてく ださる。

そ して永遠のいのちのもう一つの側面は現世におけるものである。永遠のいのちとは死後のことだけではない、実は今すでに私たちに与えられるものである。私た ちはキリストを信じる信仰によって、すでに永遠いのちを手に入れている。それは神と共にあるいのちであり、誰も私たちをキリストから奪い去ることはできな いのだ。


2017年5月28日   その請求は私に

ピレモン8節〜22節


  オネシモは逃亡奴隷だった。大都会ローマで身を潜めていたのだが、神は彼をパウロの元に導いた。あるいはオネシモはパウロの名を聞いたことがあったのかも しれない。そしてそこに行けば食べ物にありつけると考えたのだろうか?しかし最初の動機はそれほど重要ではない。オネシモはそこでキリスト教の信仰に導か れた−これが重要だ。

  オネシモはそれまでひた隠しにしていた身の上を語った。パウロも驚いただろう。知己であるピレモン家の奴隷であったとは思いもしないことだった。同時に神 様を賛美したに違いない。神のなさることは不思議で恵み深いと。オネシモはパウロの良き協力者となった。それゆえにパウロはオネシモをピレモンの所へ戻そ うと考えたのだ。

  この個人的な内容の手紙が聖書の中に入れられている理由は、ここに愛の実践があり、それが見事にキリストのご愛を現しているからに他ならない。パウロはオ ネシモに負債があることを知って、弁済を申し出ている。贖いとはキリストが私たちの罪の裁きを十字架で肩代わりしてくださったことだから、このことを思い 起こさせるのだ。

  主人を裏切り、遠く離れていたオネシモは私たちの姿であり、パウロの執り成しによって、主人の元に帰る道が開かれたことは、キリストによって救いの道が開 かれたことを教えてくれる。そしてその関係は愛によって結びつく関係となるのだ。この神の愛を知っていた人々であるからそこに神の愛が実現した。今も実現 するはずである。


2017年5月21日   同労者ピレモンへ

ピレモン1節〜16節


  ピレモンへの手紙は他のパウロ書簡と比べて、特異な手紙である。プライベートな内容が記されている。テモテやテトスにあてた手紙も個人宛ではあるが、内容 は教会運営や伝道姿勢についての指針である。パウロもこの手紙はおそらく公に教会で読まれるとは夢にも思わなかっただろう。これが聖書に入れられた理由は 何だったのだろう。

  ピレモンはコロサイ教会の中心的な信徒だった。彼は自宅を開放して教会としていた。初代教会の多くは自前の会堂はもたずに信徒宅で集会を行っていた。コロ サイ書よればこの教会はエパフラスが開拓し、現在はアルキポが牧師として働いていたようである。パウロはピレモンとは面識はあったがコロサイを訪ねたこと はなかったようだ。

  パウロはローマの獄中で一人の奴隷を導いた。それがオネシモである。そして驚くべきことに彼の口からピレモンの元からの逃亡奴隷であることを聞く。大都会 ローマで彼がパウロと出会う確率がどれくらいあるだろう。くすしき神の導きであった。そこでパウロはオネシモの主人だったピレモンに手紙を書いて、テキコ と共に送り出す。

  果たしてピレモンはオネシモを受け入れてくれるだろうか。パウロの言うことだからとしぶしぶ受け入れるのか、これはこれ、それはそれと拒絶するのか。そこ でパウロは思いやりのこもったこの手紙を書いたのである。同労者ピレモンへ。ピレモンは伝道者ではなかったが、共に神の国の働きを担う同労者であった。パ ウロは信じていた。


2017年5月14日   神の武具を身につけてA

エペソ人への手紙6章13節〜20節


パ ウロは当時のローマ兵の装備にあてはめて、神の武具を説明した。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の靴、信仰の大盾、救いのかぶと、神のことばの剣であ る。悪魔に立ち向かうために、パウロが勧める装備である。戦いに勝利するには敵を知ることがまず第一であり、次には、その策略/誘惑に対して備えをしなけ ればならない。

しっ かり立て−そうだ、弱気でふにゃふにゃな姿では武装することはできない。装具の要となるのは文字通り腰に巻くベルト、これは真理だと言う。悪魔は、本当に 神はそのように言われたのですか?といって誘惑をした。私たちの信仰はキリストの十字架と復活と言う歴史的な真理に基づく。キリストは自ら真理だと宣言さ れたのだ。

胸 当ては、心臓や身体を守るよろいである。それは正義である。キリストが着せてくださる義の衣は、悪魔の訴えから私たちを守る。足元には平和の福音の備えを はく。よき知らせを伝える者の足はすばらしいと言われているからだ。盾は悪魔の火矢を防ぐ、信仰だと言う。救いのかぶとは、決して私たちを神から引き離す ことはない。

唯 一防御ではなく、戦いの武器とされるのが神のことば/聖書である。悪魔の誘惑に対してキリストは神のことばで応戦した。そして武具には挙げられてはいない が、祈りの世界が、戦場であることが明らかにされている。神の武具で武装した神の子どもたちは、そこで勝利をえるように期待される。互いにスクラムを組ん で祈るのだ。


2017年5月7日   神の武具を身につけて@

エペソ人への手紙6章10節〜13節


  この手紙も最後に近づき、2つの勧告がなされる。一つはキリストの大能の力に強められる事と、もう一つは悪魔の策略に立ち向かうために神の武具を身につけ ることである。いわば召集の声がかけられているのだ。これは信仰生活が戦いであることを意識しているからだ。信じれば何の苦労も無いのではなくて、敵の攻 撃を受ける。

 敵とは悪魔である。神に敵対する勢力を聖書は明らかにする。目に見えない霊の世界()において、悪魔を頂点にする悪霊たちの邪悪な働きがある。誤解しないでほしいのだが、決してオカルト的なことを意味してはいない。普段の私たちの生活や、この世界情勢において、巧みにこの悪の力は働いて、神の働きを妨害しているのだ。

  私たちは自分自身の罪との戦いと同時に、外側からは悪魔の攻撃を受ける。悪魔の狙いは私たちを神から引き離すことにある。ある時は私たちのうぬぼれを誘 い、また逆に落胆の谷底に落として神への信頼を失わせようとする。キリストの血潮によって贖われた神の子どもたちを悪魔が奪い去ることは出来ないが、骨抜 きには出来る。

  戦いに勝つためにどうしても必要なことは、敵を知ることだ。その巧妙な策略はその身を隠すことである。私たちは神を信じ、目に見えない世界のあることを信 じるのだから、悪魔の存在とその策略に無知であってはならない。そのためには神の武具を身につける必要がある。霊的な戦いは血肉によって勝利することがで きないからだ。


2017年4月30日   働くことの意味

エペソ人への手紙6章1節〜9節


夫婦関係、親子関係、主従関係を教える原則は、前章の21節の「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」だった。従いなさいを、あるいは仕えなさいと訳すこともできる。キリストは最後の晩餐の始まりに、弟子たちの足を洗い、そのように教えられた。親子関係や主従関係においても、この原則、あるいは精神が大切である。

創 世記を見るとアダムとエバが善悪の知識の実を取って食べたため楽園から追放されていく。人類の堕落と呼ばれる個所だが、ここでは色々と興味深いことが教え られる。夫婦関係の劣化、そして産みの苦しみと労働の苦しみが与えられたとされる。だからキリストにより神との交わりを回復した人は、あるべき姿を取り戻 すのだ。

親子関係、これも堕落の影響から逃れることできない。キリストに先立つエリヤの働きに「父の心を子に、この心を父に向けさせる」マラキ46にあるのを思い出す。主従関係、これは現代においては雇用関係に置き換えることができるはずである。呪いとされた労働がキリストの恵みによって祝福となることを知らねばならない。

もちろん人を消耗品のように扱う主人や企業に尽くせというのではない。私たちは様々な労働や仕事に従事するのだが、それはキリストに仕えることなのだと考える。同様に雇用側も主を恐れて、自らの所有物のように(実際そうだった)扱ってはならない。このように目に見えないお方を見ながら生きてくことが新しい人の歩みだ。


2017年4月23日   妻に夫に 子に父に

エペソ人への手紙5章21節〜6章4節

 

 この個所では3種類の人間関係の教えが同様の原則で展開される。夫婦関係、親子関係、主従関係である。新改訳聖書では22節で改行しているが、21節で改行する方が良い。この節が、この3連の教えの基準である。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」とある。キリストの思いと行為を基準にして、これらは打ち立てられる。

  そしてこれらの教えには決まった順序がある。最初に、妻に、子に、しもべに教えが述べられ、終わりに夫に、父に、主人に教えられる。まず、夫婦の関係につ いて、必ず結婚式において読まれるのがこの個所である。しかし、結婚生活の教えであると同時に、より中心的なメッセージはキリストと教会における関係と なっているのだ。

 この視点から私たちは関係を構築しなければならない。単に道徳としてこれを守ろうとするならば、それはキリスト教信仰とはかけ離れたものとなる。キリストがご自身のいのちに代えて、教会(信徒の集まり)を贖い出されたことを本当に理解し、信じて初めて、この教えが意味あるものとなる。またより深く実感できるものとなる。

  従いなさいと言う言葉は、何か強制的な響きを感じる人もいるかもしれない。しかし、それは自発的なものであり、あるいは喜んで行われるものだ。キリストの 愛を知った人が喜んでキリストに仕えるのと同じである。だから一層、夫や親は、妻や子に対して多くのことを求められていることを知ることになる。キリスト が要である。


2017年4月16日   心はうちに燃えていた

ルカの福音書24章13節〜32節


  キリストの復活の情景をこれほど美しく、そして印象深く現す個所はないのではないだろうか−エマオ途上で−二人の弟子は復活のキリストにお会いする。おそ らく彼らがエルサレムから離れ、エマオへ向かったのは、失望と悲しみが大きな理由だったろう。イスラエルの贖いを期待したイエス様が十字架で殺されてし まったからだ。

  二人はいつの間にか近づいてきたキリストに気づかない。そして対話を始める。最初、話をしていたのはクレオパだった。しかし、最後にはこの旅人が語る。復 活のキリストは対話をされたのだ。説き明かされたのだ。これはまるで毎週日曜日に行われている礼拝説教を思わせる情景ではないだろうか?説教は一方通行で はないのだ。

  しかし物語はここで終わらない。エマオに到着すると、キリストはそのまま行ってしまいそうであったというのだ。彼らはここでお別れするのは惜しい、いや もっといろいろなことを聞きたい。是非、一緒にお泊まりくださいと願った。家に招き入れ、共に食卓を囲むとは、親しい交わりに入ることを意味する。そして 目が開かれる。

  そこで気づくのだ。私たちの心は内に燃えていたのだと。説き明かされる福音に戸惑いながらも耳を傾けるうちに私たちの心の中に神の恵みが到来して、私たち を神の国の喜びに満たしてくださる。迷うことなく、彼らは弟子たちの待つエルサレムに取って返す。主はよみがえられた、そしてそれは神の国の新しい始まり であったと。


2017年4月9日   父よ彼らを赦したまえ

ルカの福音書23章33節〜47節


4 福音書には8つの十字架の言葉が記されている。そのうちの3つがルカ福音書に出てきていて、独自のものである。その特徴は、一つは神を父と呼び、死に至る まで信頼を失わなかったことと、もう一つは他者に対する配慮、思いやりに満ちていることだ。これは、マタイ、マルコ両福音書が贖いの子羊を示すのとは対照 的である。

父 よ彼らを赦したまえ−誰に対してこれは語られているのだろう。彼ら、それはまず、キリストを十字架に釘付け、着物を分けた兵士たち、それをながめる民衆、 あざ笑う指導者たち、その現場にいた人々を指す。神の御子を十字架で殺してしまうと言う取り返しのできないことをしたのだ。これより大きな罪がどこにある だろう。

し かし、それだけではない。ペテロはペンテコステの日に神殿に立ってユダヤ人に向かってこう叫んだ。このイエスを、あなたがたが十字架に付けたと。ここでキ リストを十字架に付けた対象は、キリストを拒んだイスラエルに向けられている。その過ちに気づいて悔い改めてバプテスマを受けた3千人は初代教会に加わっ たのだ。

最 後に、これは私たちに向けられた祈りであることを忘れてはならない。パウロは私たちが罪人であった時にキリストは私たちのために死んでくださったと言う。 何をしているのか自分ではわからないとは、神を離れた私たちの姿であった。キリストは神の救いのご計画のために、自分を卑しくし十字架の死にまで従われた のである。


2017年4月2日   御霊に満たされて

エペソ人への手紙5章15節〜20節


  新しい人−キリストによってもたらされる−は、自己コントロールのできる人である。ここで「よくよく注意し」あるいは「良く悟れ」と思慮深くあることが勧 められている。自己吟味のできるためには、その時間と基準になるものが必要である。私たちの祈りの時間は正に自らを振り返る時であり、み言葉は主の御心を 示してくれる。

  酒に酔ってはならない−たとえば飲酒運転はなぜだめなのか?それはアルコールが身体機能を低下させるからだ。これから大切な試験に臨もうとする時にお酒を 飲んだり、試合の前に飲酒をするアスリートはいない。新しい人/クリスチャン/生かす原動力は、神のご聖霊である。御霊は私たち自身を神への思いと賛美へ と引き上げる。

  ペンテコステの日に人々は弟子たちを見て、昼間から酔っ払っていると嘲った。喜びにあふれて他国のことばで賛美をしたからである。しかしそれは御霊に満た されてのことだった。彼らは明確な知性と神からの喜びにあふれていた。その証拠にこの後のペテロの説教は、神の救いのご計画が明確に語られ多くの人がキリ ストを信じた。

 新しい人姿は礼拝者としての姿である。私たちは日曜日の礼拝の時間だけ礼拝をしているのではない。一日24時間すべて神を礼拝するものである。そして、それを象徴するのが礼拝なのだ。私たちができることは、自らを贖うことではなくて、キリストによって私たちを贖われた神をほめたたえ、感謝して生きていくことに他ならない。


2017年3月26日   光の子どもとして

エペソ人への手紙5章1節〜14節


 新しい人とされた私たち、「ですから」とパウロは語る。4章の後半では新しい人の対人関係が教えられ、5章に入るとその道徳的な性質が述べられている。そしてそれらは古い人とは対照的であることが繰り返されている。批判の対象となっている偶像礼拝者とは、まことの神を恐れず、暗やみ(隠れた所)で徒党を組んで神に逆らうのだ。

  この個所で勧められている道徳的な資質は、愛と清さ、真実である。愛のうちに歩めとは、神にならうことであると言われる。子は父に似、父にならう者となる はずである。愛された経験を持たない人は愛することを知らない。たとえ生い立ちにおいて愛を知らなくても、キリストの愛にふれた人は愛することを学び、知 ることができる。

  清さ、あるいは聖さと言った方が良いかもしれない。聖書の神は聖いお方である。啓示によらずに人が作り出した神々/偶像は必ずしも聖いお方では無い。おそ らくローマ時代に知られていたギリシャ神話の神々はおそろしいほど肉的で逸脱しているのである。父なる神のご性質、愛と聖さにならう人は、聖さを追い求め るのである。

  そして父なる神は正義の神である。それは光であるとも言いかえられている。新しい人は光に向かって歩む。私たちの心の中には良心が据えられているので、ど んな悪人でも恥ずべきことを光の中では行うことができない。私たちの生活が神の前に恥ずべきことがないとすれば幸いである。私たちは光の中へと招かれてい るのである。


2017年3月19日   古い人 新しい人

エペソ人への手紙4章17節〜32節

 

古 い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るようにと勧められている個所である。新しい人とはキリストを信じて歩む、新しい性質と生き方のことである。まず古い人の特 徴は、むなしい心で歩んでいたとされる。聖書は創造主によってこの世界が造られ、私たちは生かされているというが、その土台を知らぬままでは、意味と目的 を失う。

た だ、知らぬだけでなく、その結果として神のいのちから遠く離れてしまった。人類の堕落−それは社会だけではなく、私たち一人一人の内にもたらされているの だ。結果として道徳的に歯止めのきかない状態に陥り、それでも悪くないと開き直るのである。そんな姿をパウロは、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人と 呼んだ。

新 しい人の特徴は、キリストから聞き、キリストに学ぶとされる。キリストは私たちの罪を赦してくださっただけではなく、私たちに新しいいのちをくださった。 私たちの努力によって新しい人になるのではなくて、キリストの力によって新しく造り変えてくださるのである。この目に見えない恵みを見せるものがバプテス マである。

新 しい人の特徴が平易な言葉で表現される。表裏のある言動を慎むこと。それから怒りをコントロールすること。私たちはすでに神のものであっても、悪魔は誘惑 しようと狙っているからだ。神の聖霊を悲しませてはならない−これが新しい人の歩みの一つの基準となろう。心の優しい人なる、神の憐れみを知るものだから である。


2017年3月12日   召しにふさわしく歩む

エペソ人への手紙4章1節〜16節


エ ペソ人への手紙は4章から後半の部分に入る。前半の教理から、実践的な教えへと移行する。今日の個所は教会の目標とするところ、成熟した教会の姿が示され る。教会とは建物のことではない。神様によって招かれ、召された人々、すなわち信徒の集まりのことである。そして強調されていることは、一致を保つという ことである。

一 致とは自然にできあがるものではなくて、それぞれが作り上げるものである。教会の構成員ほど多種多様な人があつまったグループはないだろう。だからこそ一 人一人が他者を受け入れ合うことが必要となる。それを主導されるのは神の御霊である。しかし、一つであるということは全ての人の立場と役割が同じだという のとは違う。

キ リストご自身が教会に指導者として牧師、あるいは伝道者をお立てになり、その人を通して教会を建てあげようとされた。その目的は聖徒を整え、キリストの体 を建てあげることにあるとされる。一つは聖書と信仰の正しい教えに導くことであり、もう一つはそれぞれのクリスチャンたちが成熟した信仰へと成長していく ことにある。

教 会を築き上げる土台は愛であると繰り返される。そう、私たち人間の愛ではなくて、神の愛、アガペーの愛によってのみ教会はキリストの体へと建て上げられて いくことができる。私たちの救いはキリストと私という個人的な関係を土台とするが、私たちの信仰成長はこのように教会生活を通してもたらされることを神は 意図された。


2017年3月5日   人知を超えたキリストの愛

エペソ人への手紙3章14節〜21節


私 たちは愛をどのようにしてはかろうとするのだろうか。そもそも愛は目には見えないものだから、プレゼントの金額だとか、自分のことをどれだけ大切にしてく れたかなどから判断しようとするだろう。あるいは普段は気づかないが、何かのきっかけや、あるいはそれを失って初めてその大きさに思い当たることもあるだ ろう。

パ ウロはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるようにと祈った。人間の愛は独占的である。それは決して万人に向かうものでは なく、狭いもののはずだ。そう、ここからしてキリストの愛とは人知を越えたものである。アガペーの愛/無償の神の愛/を知ることができるようにとパウロは 祈る。

ま ず私たちに対する神のご愛は、神の熟慮に基づくお定めの中に見られる。私たちを御心の中にお選びになり、キリストの贖いによって神の民とされた。そしてこ の神の御手は喜びも悲しみも苦しみでさえ、神のご愛にもとづいて与えられることを教えてくれる。私たちのように感覚的あるいは短絡的に物事をお決めにはな らない。

ま た神のご愛はすべての人に向けられたものである。ユダヤ人も異邦人も無く、教会によって一つの体とされる。隔ての壁を打ち壊し、神を仰ぎ見ることにおいて 一致がもたらされる。私たちは、神のこの世に対する動機を神の愛であると信じるものである。これがキリストによって明らかにされた神の姿、聖書の示す神で ある。


2017年2月26日   神の永遠のご計画

エペソ人への手紙3章1節〜13節


囚 人であると語るパウロ、これは決して誇張や比喩では無くて、彼はローマで捕らわれの身であった。諸教会の信徒の中には、あるいは動揺する者もいたのかもし れない。もちろん犯罪者としてではなく、裁判を待っている状態であった。実際、使徒の働きの後半部分では、繰り返しパウロの無罪が強調されているように見 える。

そ んなパウロが強調したのは、この苦難自体が、神の福音を証するためであり、ひるがえって異邦人クリスチャンのために負ったものだと主張する。ユダヤ人であ るパウロは異邦人にキリストを伝えるために選ばれた器だった。そう、「聖徒たちのうちで一番小さなと」彼が言う訳は、以前、教会や信徒を迫害していたから である。

奥 義とは、キリストの恵みの前にユダヤ人も異邦人も無いということであり、キリストの贖罪によって二つは一つにされるということだ。旧約聖書の世界に生きて いた当時のユダヤ教徒にとっては、これは信じがたい、受け入れがたい宣言だった。なぜなら、神は自分たちを特別に選んで、神の民とされたと信じていたから である。

神 の永遠のご計画、それはキリストにあってすべての人が一つに集められることである。分断から和解へ、神の恵みは私たちを結びつけるものである。全世界に出 て行って福音を宣べ伝えよとの命令は、このように神の恵みがすべての人に及ぶことの印である。もし、この務めゆえの苦難を負っても決して恥ずべきことでは ない。


2017年2月19日   聖書の教える悔い改め

詩篇119編130節


福 音書の最初の呼びかけは、悔い改めて福音を信じなさいという言葉だった。バプテスマのヨハネが、そしてキリストご自身がこれをもって公生涯をお始めになっ た。また、パウロも信仰の内容を、神に対する悔い改めとキリストに対する信仰と表現した。悔い改めと信仰、これはキリストの救いにおける私たちの側の応答 である。

聖 書の教える悔い改めとは、単なる後悔や反省では無い。もちろん、自分自身の過ちや真実の姿に気づいて、悔いて恥ずかしく思うわけだが、そこからどこに向 かって行くかが問われているのだ。神の元へ帰る−そのように言いかえることができる。放蕩息子の姿がそれを現している。彼は立って父の元を目指した−方向 転換である。

聖 書は一貫して、私と神との関係を問う。自分自身の道徳性や業績を誇る人間は、創造者である神を見てはいない。あなたは神の前に失われているのではないか? もし、神との豊かな交わりを持ちたいのであれば、帰れ、そう告げるのである。キリストの十字架の救いはこの帰る手段をあらかじめ、備えてくださったという ことだ。

  いのちに至る悔い改め−そんな表現が使徒の働きに出てくる。帰った先には、神との交わりの回復がもたらされる。本来あるべき所に私たちは戻るべきなのだ。 このような気づきは、聖書のみことばと御聖霊の働きによってもたらされるものである。みことばの戸が開くと、光が差し込み、〜悟りを与えて(119130)くれるのだ。


2017年2月12日   十字架による和解

エペソ人への手紙2章11節〜22節


 先日トランプ大統領が就任演説で聖書を引用した。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むとは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう』詩133:1 驚いた。新大統領の言動が、和解よりも分断をもたらすように見えるからだ。おそらく兄弟たちとは自国民のことだと理解したのだろう。では、聖書は何と言っているだろうか。

 キリストの十字架は神との和解をもたらし、敵意を廃止されたと語る。ここで言う敵意とは、ユダヤ人と異邦人(非ユダヤ人)との区別のことである。旧約聖書には神がアブラハムを祖とし、選民イスラエルを創出したと述べる。そこには峻厳な区別があった。だから初代教会に異邦人が加えられていくことは大きなハードルでもあった。

  これを超えられたからこそ、キリスト教が世界宗教になったと言えるのだが、これはパウロが考え出したことではなく、イエス・キリストが正に体現されたこと だった。この手紙の読者のほとんどが異邦人であり、パウロはユダヤ人であったから、以前なら顔も合わせず、食事もしなかったであろうに、今は同じ神の民で 教会に連なる。

  福音によって民族や歴史の怨念から解放されて、一つになることができると言っている。もちろん、これを国家間の出来事として考えることは難しいが、少なく とも私たち一人一人の関わりにおいては、キリストの福音以外に真の平和はない。神の大きな憐れみを知る者、罪を赦された者同士が、垣根なしに受け入れ合う ことができる。


2017年2月5日   恵みのゆえ 信仰によって

エペソ人への手紙2章1節〜10節


こ の個所は、聖書の中でもキリストによる救いを見事に表現している代表的なところである。なぜ私たちに救いが必要なのか? それはどのようにして与えられる のか? その結果、以前と何が変わったのか? 神が私たちを救おうとされた動機とは? キリスト教の中心部分、神による人類の救いの内容について明らかに されている。

私 たちはキリストの救いを得るまでは霊的に死んだものであった。罪過と罪とは似たような言葉だが、前者は律法違反を指し、後者は的外れな生き方を指すと言わ れる。神の栄光を現すものとして生かされているはずなのに、神に背を向け、自らの欲望につき進み、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、神に敵対する陣営にいた のだと言う。

し かし神の怒りの対象であったはずの私たちを神は憐れまれた。その動機は神の愛である。キリストはこの神の愛を明らかにし、ご自身の生涯を通してそれを実践 された。その極致がキリストの十字架であった。神はキリストによって救いの道を開いてくださり、私たちがそれを感謝して受け入れるなら、新しい神のいのち をくださる。

恵み、賜物とは無代価ということだ。私たちの側には何一つ、負わせられないということである。ただ信仰によって受け入れることが神の救いのご計画だ。神様だけが崇められること−それが私たちの喜びであり目当てなのだ。あなたは神の陣営にいるのだろうか?
あるいは敵対者の陣営にいるのだろうか? 救いはシンプルである。


2017年1月29日   キリストのからだ/教会

エペソ人への手紙1章20節〜23節


エ ペソの手紙は教会について多く語り、教える。教会とはエクレシアの訳語であるが、元来は呼び出された者の集まり、集会あるいは会衆を意味していた。これが 信徒の集まりである教会をさす用語として用いられるようになった。建物ではなくて信徒の集まりのことである。そしてその集まりこそがキリストのからだであ るというのだ。

キ リストが神の右の座に着かれているとはどういう意味だろう。右は力や権威を表す。キリストが父なる神から一切の権限を委ねられていることを言っているの だ。私たちは現在キリストを見ることはできない。霊においては共におられても、実際にお会いするのは、新しい御代においてである。しかしそのお力は今もな お満ちている。

そのキリストが教会を通してご自身をお示しになるというのだ。キリストを頭に、教会はその身体、身体は頭()によって、制御され、あるいは動かされる。それぞれの教会もまた、人間の集まりであるが、それを司り、導き、養い育てるのはキリストご自身だと言うことになる。改めて教会に生きることの恵みを感謝せずにはいられぬ。

パ ウロが先に祈った3つの祈りは、教会において実現する。神がおられること、キリストの救いの豊かさは、他のどんなに楽しい集まりに行ってもえることができ ない宝である。そして、今も生きておられる神の力を私たちはそこで見出す。教会はキリストの御心の行われる場所、私たちはその身体、手足であり、目であ り、口なのだ。


2017年1月22日   聖徒の受け継ぐもの

エペソ人への手紙1章15節〜19節


  使徒パウロは手紙の中で祈る。おそらく祈りの言葉を考え推敲して書いたのではなくて、本当に声を出して祈ったことばが記されているのではないかと思う。当 時、口述筆記は一般的であり、パウロの手紙によっては筆記者の名がしるされているものもあるからだ。そしてこの祈りはこの手紙の要約、あるいはその後の記 述の導入となる。

 まず、私たちが信仰の恵みに預かるために必要なもの、神の御霊による知恵と啓示が求められる。信仰の始まりが私たちではなく神にあったように、神の御霊の働きなしには私たちは神についても、キリストの救いについても理解することはできない。IQには関係ない、唯一必要なことは私たちがへりくだって、聖霊の働きを願うことだ。

  そして、3つの願いがささげられる。これは過去、未来、現在における私たちに対する神のお恵みについてと言っても良いだろう。神のお召しによって与えられ る望み、聖徒の受け継ぐもの、信じる者に働く神の力、これらは世の中では決して手に入れることのできないもの、しかし目には見えなくても私たちの歩みを変 える力があるのだ。

  詳細はこれからこの手紙をひも解く中で明らかにされるが、改めて信仰による恵みを過小評価することがないようにしたい。サタンは神の恵みを色あせた物に見 せようとする。しかし、それは私たちがどのような犠牲をはらっても手に入れることのできないものなのである。良い真珠を見つけた商人は全財産を売り払うと −主は言われた。


2017年1月15日   この方にあって

エペソ人への手紙1章8節〜14節


 新改訳聖書は今まで3版まで版が重ねられているが、2版から3版への改訂では差別用語や不快用語の言い変えの他に、翻訳上の改訂も行われた。エペソ1章もその一つで、特に「この方にあって」という繰り返しを大事にして訳出されている。この方とはもちろんキリストのことであって、他訳では「キリストにおいて」となっている。

  2節から6節までの主語は「神」であったが、7節からの主語は「私たち」、13節は「あなたがた」となっている。先回学んだように、私たちがキリストの救 いにあずかり、クリスチャンとされたのは、神の選びと定めがあったのだが、今日の個所では、私たちの側の経験について語られる。そしてそれは「この方に あって」実現した。

  私たちの信仰は一から十まで、キリストの恵みによるのだ。神の選びにおいても、私たちの信仰の決断においても、そしてそれによって与えられる豊かな霊的な 富においても、キリストを抜きにしては語ることができない。神の救いのご計画は、キリストによって実現したのである。この世界はキリストによって完成へと 向かうのだ。

  私たちの側の経験は、福音を聞き、信じたということだが、それに先立って、このような神の豊かなお恵みが備えられていたことに目を向けると、神をほめたた えずにはいられないはずである。神に背を向けていた私たちは、神の子とされた。私たちには神の聖霊が与えられており、神のご栄光を目指して生きる者とされ ているのだ。


2017年1月8日   世界の基の置かれる前から

エペソ人への手紙1章1節〜7節


  エペソはローマ帝国のアジア州の州都であり、パウロはそこを伝道の拠点として選んだ。第3回伝道旅行においてエペソ教会が設立される。パウロの伝道の中で も最も祝福された働きとなり、エペソを中心にアジア州諸都市へと教会は広がっていった。エペソ人への手紙は、後にパウロがローマで幽閉中に記した獄中書簡 の一つである。

  手紙は前半が教理の部分、後半が実践の部分とはっきりと分かれている。前半では神の救いのご計画を深遠な思想の中で表現している。特に教会について多くの ことが教えられているのもこの手紙の特徴でもある。後半の部分ではクリスチャンとしての歩みが、教会の交わりだけに留まらず、社会や家庭においても教えら れている。

  手紙の書き出しは、意外とあっさりしている。3年間にわたり心血を注いで働いた教会ならば、もっと個人的な内容が含まれると思うが、おそらく最初から諸教 会への回覧が意図されていたからだろう。挨拶はそこそこに、さっそく本題に入る。その内容は私たちの信仰がイエス・キリストを中心としたものであることが 強調されている。

  キリストを抜きにして神との関係はあり得ない。キリストによって神は私たちの父となり、私たちが信仰をもつことができたのもキリストによって神の永遠の選 びがあったからだと言う。信じることに先立って神は恵みを備えてくださっていたのだ。神様の一方的なご愛がキリスト教信仰の揺るぎない土台であることは言 うまでも無い。


2017年1月1日   その恵みはとこしえまで

詩篇136篇


その恵みはとこしえまで−この繰り返しのことばを色々な訳で読んでみると、慈しみはとこしえに、   His love endures forever 等となっている。神の恵み、いつくしみ、そしてご愛は決して変わることがないのだ。それゆえ神は神の民との契約を誠実に守られる。旧約ではイスラエルの民、新約ではクリスチャンが神の民である。

ま ずそのご本質によってこの方は崇められるべきお方である。存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変である唯一の方だけが、賛美にふさ わしい。次に、創造の御業によってこの方はほめたたえられるべきお方である。私たちの住むこの世界は神によって造られた。神無くしてひと時も生きることは できない。

そ してこの方は救いの御業によってほめたたえられる。旧約聖書の出エジプトは、私たちが罪と死の縄目からキリストの十字架の血潮によって救い出されることを 意味している。罪の奴隷から神のしもべへと贖われたのだ。この神の恵みは決して失われることはない。なぜなら、その土台が、神の恵み、慈しみ、ご愛にある からだ。

そ して神はイスラエルの民を約束の地へと導かれたように私たちを天の御国へと導かれる。出エジプトで終わりではなく、それは出発である。ちょうどバプテスマ がゴールではなく、新しい出発であるのと同様である。私たちは、今年経験する様々な出来事や経験を通して、その恵みはとこしえまでとお応えするよう招かれ ている。


2016年12月25日   博士たちの礼拝

マタイの福音書2章1節〜23節


  クリスマスの飾りに馬小屋を再現することがある。飼い葉おけに寝かせられたキリストとマリヤとヨセフ、そばでは羊飼いたちがキリストを拝み、3人の博士が 贈り物をささげている。東方の博士と訳されるこの言葉はマゴス、賢者とも訳される。天文を研究する者たちで、東方とはユダヤから見てメソポタミヤ地方を表 すと思われる。

  彼らはどのようにして特異な輝きや動きをする星をユダヤ人の王のお生まれと理解したのかは定かではないが、異邦人である彼らがやって来たことに意味があ る。彼らは多くの犠牲と高価な献げものを持ってエルサレムを訪ねる。そして聖書の中にキリスト誕生の地が記されていたことを知る。ユダヤの民は神の啓示を 与えられていた。

  一方、ヘロデやユダヤ人の指導者たちはキリスト誕生の預言を知りながら、誰一人としてキリストの元には来ようとしなかった。しなかったばかりか、ヘロデに 至ってはその命を狙おうとした。神の民の拒絶と東方の博士の礼拝が対照的に描かれているのだ。それはこれからのキリストの生涯、キリスト教の進展を暗示す るものである。

  博士たちの贈り物、黄金、没薬、乳香もまたキリストの生涯を暗示するものとされる。この方は王としてエルサレムに入り、ユダヤ人の王という罪状が十字架に 掲げられる。それは永遠の祭司として我らを神に取り成すためである。その死は私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらす。私たちは今日、キリストに何をお献げ するだろうか。


2016年12月18日  羊飼いの見たクリスマス

ルカの福音書章8節20節


キ リストの誕生の知らせを最初に聞いたのは野宿する羊飼いだった。羊飼いほど旧約聖書の中では身近な仕事はない。アブラハムも多くの羊を所有していたし、そ の孫ヤコブは羊を飼う名人だった。ダビデも若い時代には羊の世話をして、野獣から家畜を守っていた。しかし、新約聖書の時代には羊飼いは人々から蔑まれて いたようだ。

そ の仕事の過酷さ以上に問題とされたのは、宗教的な戒律を彼らは守ることができなかった。それゆえ社会的な階層は最も低く、取税人、遊女たちと同列に置かれ た人々である。そして人々がくつろぎ、あるいは寝静まったその時間、彼らは働いている。そんな彼らに救い主の誕生が知らされた。どのような神様の意図があ るのだろう。

ル カの福音書の特徴の一つは神様の恵みから遠く離れていると考えられていた人々に、神様の憐みが豊かに注がれることにある。キリストのお生まれが告げられた のも、そのような羊飼いであった。そして喜んでその御告げを聞き、すぐにベツレヘムへ向かい、みどりごを探し当てる。羊飼いでもお会いすることのできる場 所だった。

天 の輝きと地の貧しさ、このコントラストにキリストの謙卑の姿をみる。神は人となられた。神の栄光をお捨てになって、人の子としてお生まれになったのだ。誰 でもキリストの許に来ることができる。あの、天使の御告げは今もなお、世界中の人々に響き渡っている。羊飼いのように喜んで、キリストの許にひれ伏そうで はないか。


2016年12月11日   マリヤの讃歌

ルカの福音書章46節55節


  ルカの福音書のクリスマスの出来事はまるでミュージカルかオペレッタの台本のようにみえる。舞台が変わると、賛美が湧き出していて、恐れから喜びに変わる 様が見事に描かれている。現に多くの作曲家たちがこのマリヤの讃歌に曲を付けている。しかし決してここでの主役はマリヤでは無い。生まれ来る男子、イエ ス・キリストである。

  御使いの御告げを聞いたマリヤは、お言葉どおりになりますようにと答えるが、その心は不安に包まれていたに違いない。だからすぐにエリサベツの元に急いだ のだ。恐れは杞憂に終わる。エリサベツから聞いた言葉は、御使いから聞いた言葉そのものだったからだ。自分の見た幻は間違いではなかった。救い主が来ら れ、その母となる。

 マリヤは自らの貧しさと卑しさ(身分の低さ)を 自覚していた。それは強大なローマ帝国に支配されるイスラエル民族の姿でもあり、その中でも日々の生活に事欠くような彼女の現実だった。その後、ベツレヘ ムに向かうが、そこでもマリヤとヨセフの貧しさが際立つのだ。だからこそ、最も低い所にもたらされる神の恵みをほめたたえる。

  この幼子によってそれは逆転する。古く旧約聖書の時代から約束されていた神の救いの約束は実現するのである。神の約束を待ち望んだ信仰の人々の思いが結集 する。約束のメシヤがお生まれになるのだ。自らの貧しさと卑しさを知るものが神の恵みをたたえる者となる。神の前に自分自身を謙る(へりくだる)ものが救いを得るのである。


2016年12月4日   その名をイエスと

マタイの福音書1章18節〜25節


  クリスマスの出来事はマタイ福音書とルカ福音書に記されている。マタイはヨセフを、ルカはマリヤを通して描かれている。マタイには父ヨセフの苦悩が、ルカ にはマリヤの不安と葛藤と共に、それを信仰によって受け入れていった姿を見る。いずれにしてもキリストの誕生、処女降誕はこの若い夫婦にとって大きな試み となったのだった。

  ヨセフはあらかじめ、神の御告げを聞いたわけではなかった。マリヤの妊娠を知ってから夢の啓示を受けている。それまではこれから起こることを知らなかった のだ。彼は正しい人だったと記されている。彼の判断はマリヤを守ると同時に、夫婦関係の解消を考えた。深い悩みの中で彼は神の声を聞く。その名をイエスと つけなさい−と。

  イエスとは旧約聖書のヨシュアに相当する名である。ヨシュアとはモーセの後継者で、カナンの地にイスラエルを導いた人物である。その名の意味は、主は救い という意味である。御使いが告げた通りの名であった。そして加えてその救いとは罪からの救いであるとされる。神と人類との交わりを破壊し断絶したものが、 罪であるからだ。

  預言のことばもそれを支持している。救いによってもたらされる神の恵みは、交わりの回復である。神がともにおられる−インマヌエルの神はこの方によって実 現するからだ。私たちの世界に神の御臨在と恵みがもたらされることになった。これがクリスマスの喜びである。その始まりはこの貧しい夫婦の信仰によっても たらされたのだ。


2016年11月27日 はっきり見えるようになって

マルコの福音書8章22節〜31節


  先回は聾唖の人の癒し、今回は盲人の癒しの奇蹟を読む。二つの話には共通点があることに気づく。どちらも彼らは人々にキリストの元に連れてこられている。 コミュニケーションにおいてハンディのある彼らとキリストとの出会いは自分の意志ではなかった。しかし、キリストは彼らを人々から連れ出して一対一で奇蹟 を行われる。

  どちらもキリストはつばきをして癒される。これもめずらしいことで福音書には数例しか記載されていない。これは聴覚や視覚が失われていた人に対して、何ら かの認識を呼び起こすものだったかもしれない。そして癒された人は口止め、あるいは村に入らぬように忠告される。耳が開かれ、目が開かれる奇蹟、これには 意味がある。

 特に盲人の癒しは2段 階の癒しである。最初、視覚がもどった彼はおぼろげにしか見ることができない。「木のようです」人を見ても棒のようにしか見えない。改めてキリストが彼に ふれるとはっきりと見えるようになった。そう、これは弟子たちのキリスト認識を示唆している。まだ悟らないのかと言われ、その後、信仰告白に導かれる。
 あなたはキリストです。この大切な答えがここで明らかになる。これまで記されてきた奇蹟とその驚き、問いかけはここに集約するのだ。そしておぼろげにし か見えていなかった弟子たちは正にあの盲人のようである。ここに至って初めてキリストはご自身の受難を預言される。キリストはご自身を十字架にささげるた めに来られたのだ。


2016年11月20日   エパタ 開け

マルコの福音書7章24節〜37節

 

  この個所の二つの奇蹟は異邦人に対する奇蹟である。ツロとは地中海沿岸の町で、この母親はギリシヤ人だと記されているし、デカポリスとは10の町と言う意 味で、ギリシヤ人の住む町であった。キリストの評判はユダヤ国内に留まらず、広く知られるようになっていた。そして、自身の元に来る人々を拒まれることは なかった。

  母は強し、そんな言葉を思い出す。恥も外聞もかなぐり捨てて、娘の救いのためにキリストに懇願する。そして一見、侮辱ともとれる言葉にもへりくだる。この 方だけが娘を救うことが出来ると言う思いが彼女を駆り立てたのだと思う。私たちが最期までキリストに求めないとするならば、この方の力を本当に信じていな いからだ。

  ろうあ者の癒しでは、キリストの肉声が記録されている。エパタ−開け、ここでもマルコはその意味を説明する。聞こえない耳に語りかけたわけだが、それが届 く。いきなり聴力が回復しても、すぐに言語が操れるようにはならないから、その奇蹟は言語能力も瞬時に与えられたということだ。私たちの耳は開いているだ ろうか?

  これらの奇蹟に対する反応は、異邦人の世界でもユダヤでも変わることがない。そして次の章には四千人の給食が記されているのだから、なおその感を強くす る。キリストの力はどのような人にも等しく現される。しかし、これらのことを見ながら、弟子たちの心はまだ閉ざされて、おぼろげにしか見えない。私たちは どうだろう?


2016年11月13日   人の心から出るもの

マルコの福音書7章1節〜23節


この個所には当時のユダヤ教の2つ の習慣が取り上げられて、その偽善が喝破されている。一つは儀式的な清めに関することであり、もう一つは父母に対する扶養の抜け道である。いずれもそれが あたかも神の律法の指示することのように教えられながら、実はその真意からそれ、しかも彼らの宗教的な良心をくらますものとなっていた。

汚 れ、「よごれ」ではなく「けがれ」とルビがふってある。同じ文字だが、ここで人々が注目していたのは衛生ではなく宗教的な問題である。けがれた物に触れる と自らもけがれた物とされるため、きよめの儀式が必要だった。これらのきよめには細則が作られていて、それを満たせば合格ということだった。人をけがすも のは何だろう。

コ ルバン−献げものという意味だが、両親の扶養費を回避するためにそのように言えば支出しなくても良かった。神の教えを自分たちの都合のいいように捻じ曲げ ていたのだ。神の御名を使った宗教的な偽善はより悪質である。なぜなら自らの自尊心を傷つけることなく神に喜ばれ、自分たちこそきよい神の民と思いこむこ とができた。

  人を本当に汚すもの、それは私たちから出てくるのだとキリストは教えられた。それは原罪をもった人間の本性だ。このことに気づき、神に受け入れられるため には、自分の内には何の良いものがなく、ただキリストの贖いだけが希望であることを信じるなら、神は私たちを喜んで受け入れてくださる。儀式ではなく良心 の宗教なのだ。


2016年11月6日   海上歩行

マルコの福音書6章45節〜56節


弟 子たちに強烈な印象を与え、長く記憶され、語り伝えられたキリストの奇跡が5千人の給食と海上歩行だった。嵐の中で風を沈めた時にも大きな恐れに包まれた 弟子たちであったが、またしても湖上での出来事だった。今回、キリストは舟内にはおらず、風で進むことができない弟子たちのところに、水の上を歩いて近づ かれたのだ。

ど のようしにしてこれらの奇跡が起こったかを説明することはできない。ある人は伝説だと考えるだろうし、ある人は湖上を歩いたのではなく水辺を歩かれたのを 見間違えたのだと言う。あるいは大切なことは事の真偽ではなく、信仰的にこれをどのように解釈するかだと言うだろう。しかし福音書はキリストの神性を証明 するとする。

マ タイ福音書の並行記事ではペテロがキリストに呼ばれて歩き出す場面が描かれている。ご存知のように途中で沈んでしまうのだが、この結末では弟子たちはキリ ストを神の子と礼拝する。一方、マルコはペテロのことは記さず、結末では驚いたが、まだ悟らないとされる。マルコはペテロの信仰告白までは結論を隠してい るのである。

も ちろん、この奇跡を信仰的に解釈することは重要だ。これは2千年前の弟子たちだけの経験ではなく、キリストを信じるすべての時代の人々の経験でもあるから だ。湖上で舟を漕ぎあぐねるのは教会であり、私たちである。そして、その解決はキリストからもたらされる。キリストが近づいて下さるのだ。この方を見つめ たいと思う。


2016年10月30日   五千人の給食

マルコの福音書6章30節〜44節


給 食といえば学校給食を連想するので、最初にこの奇跡の名称を聞いたときには不思議な感じがしたが、キリストによって5つのパンと2匹の魚から五千人もの人 が食事を給わった訳だから、文字通り給食であった。この記憶は非常に強烈であって、初代教会のシンボルにもしばしば用いられた。キリストの最大の奇蹟でも ある。

伝 道旅行から帰ってきた使徒たちとキリストの周りには数え切れない人々が集まってきた。キリストは彼らを憐れんでみことばを語っておられたが、弟子たちは解 散を提案する。日暮れが近づいてくるからである。そこでキリストは弟子たちに一つのチャレンジをした。この人たちに食べるものをあげなさいと。無理難題で ある。

人々の中に食べ物を探しても、そこには数名分の食料しかなかった。キリストは続けて不思議な指示を出された。人々を50人、100人単位にして座らせるようにと言う。弟子たちは何も分からないままに、主のお言葉に従った。主が祝福し、パンを割き、魚を分けるとそれが増えて人々の手に渡っていった。12かごの余剰もあった。

こ れは一体何事?逆にマルコの記述を見ても、弟子や人々の驚きは抑制されているほどだ。昔モーセは荒野でうずらとマナでイスラエルの民を養った。この方も人 々を魚とパンによって養われた。この方はモーセに並ぶ、いや勝る方である。まだ弟子たちの心は鈍く心は閉じていた。この奇蹟はこの方がキリストである印な のだ。


2016年10月23日   ヨハネとヘロデ

        マルコの福音書6章14節〜29節


12 弟子の派遣と帰還の間にはさまれているのがバプテスマのヨハネの最期である。マルコ福音書はこのヨハネの登場によって始まり、ヨハネがヘロデに捕えられて からキリストの福音宣教が開始される。文字通り、道を備える者としての使命を果たし、その生涯を終えたのだ。その唐突で道理にかなわぬ最後に心痛めるばか りだ。

こ こに登場するヘロデ王はヘロデ大王の息子にあたり、当時ガリラヤの国主であった。パレスチナ全体を統治した父とは違い、小粒ではあったが、同様にキリスト と神の国に敵対する人物として描かれる。しかしヘロデに多少、好意的な記述も見られる。ヨハネを捕えてはいたが、保護を加え、預言者として認めていたとい うのだ。

事 件は宴の席で起こった。ヘロデヤはヨハネを恨んでおり、娘に対する王の気前良い申し出に、一計を企む。ヨハネの首をお持ち下さいと。何ということだろう。 神の人ヨハネの命はこのようにして散ったのである。ヘロデ王はせめぎ合う心の内で、良心や道義ではなくて、自らの体面と不信仰を選び取って、神の恵みを放 棄した。

こ のヨハネとヘロデの出来事の中で、こだましている問いがある。それはイエスとは何者だろうということである。ヘロデは良心の呵責や神への恐れから、ヨハネ の再来と言っていたとある。しかし、ヨハネはキリスト登場の準備をする人物、来るべきエリヤだった。この方はそれ以上の方、モーセにも勝る(次回)。この方は一体?


2016年10月16日   12弟子の派遣

マルコの福音書6章1節〜13節


  畏敬の念に打たれた奇蹟の数々の後に記されているのは、故郷ナザレでの不信仰である。そしてそこでは奇蹟を行われなかったとある。長血の女やヤイロの娘の 奇蹟は、信仰によってもたらされた奇蹟だった。キリストのお働きは時にはご自身の主権の元に行われたが、人々の信仰によってキリストの御業が現されること が分かる。

  奇蹟は必ずしも信仰に結びつかない。いや、かえって私たちの欲望を刺激して、そこから利益を得ようとさせるのだ。キリストの奇蹟はこの方が神の御子である ことのしるしだったが、それを見た人が等しくキリストの前に跪いたのではない。跪いた人に奇蹟が行われたのだ。キリストが奇蹟の宣伝を禁じたひとつの理由 である。

 伝道の拡大のために12人の弟子たちが派遣される。彼らは使徒と呼ばれる(アポストロス:遣わされた者)。キリストに代わって、キリストの権威を委ねられたのである。彼らにも覚悟が必要だった。杖一本で行って来いというだ。それは神が支えてくださると言う信仰である。讃美歌に/信仰こそ旅路を導く杖/という賛美がある。

  使徒たちにも奇蹟を行う力が与えられたが、まず行わなければならないことは悔い改め/福音を宣教することだった。奇蹟は神の国の到来を告げ知らせるもの だった。いわば後の世界宣教の予行とも言える伝道旅行は、現代まで連綿と繋がるキリスト教の歴史の先駆けとも言える。私たちもこの国にこの時代、遣わされ ているのだ。


2016年10月9日   タリタ・クミ

マルコの福音書5章35節〜43節


タ リタ・クミ、これはイエス様のことばの音声が記されている数少ないものの一つである。新約聖書はギリシヤ語で記されているが、キリストを始めパレスチナの ユダヤ人の日常語はアラム語だったからだ。それほどこの奇蹟は弟子たちに深い思い出となったのだろう。会堂管理者ヤイロは娘を救ってもらうためにキリスト に願った。

一 刻を争う中、邪魔が入る。長血をわずらった女のいやしである。癒された女性も必死だったが、ヤイロにとっては一刻も早く娘の所にキリストをお連れしたかっ た。そこに自宅から知らせが入る。すでに時遅し、娘は息を引き取ったという。もう来て頂く必要はありません−そう申し出ることもできたが、主は信じよと言 われた。

死、 それは私たちがどうしても越えることのできない絶望の淵である。どんなに多くの人の病をいやすことができたとしても、死んでしまえばもうどうしようもな い。だから人々は「死んだのではない眠っているだけだ」と言われたキリストの言葉を聞いて、あざ笑ったのだ。しかし、父親ヤイロはどのような気持ちだった のだろう。

タリタ・クミ(少女よ起きよ)こ の言葉で少女は蘇生する。止まっていた鼓動が始まり、少女の眼が開く。喜びの前に、一同は大きな驚き、そう畏敬の念に包まれる。死はすべての終わりではな い。キリストは神の子どもたちを永遠のいのちに呼び覚ましてくださる。私たちが絶望と思うその先に希望を与えることができるお方なのだ。


2016年10月2日   あなたの信仰が救った

マルコの福音書5章21節〜34節


  5章後半の2つの奇蹟はヤイロの娘の記事に割り込むように長血の女の話しが語られている。どちらの奇蹟にも共通するのは信仰によってキリストの御業が行わ れたことである。一方的にキリストの権威が示されたのではない。イエス様ならという信仰が彼らに恵みをもたらしたのだ。今回は真ん中部分の長血の女の救い を見てみよう。

 長血とは婦人病で出血が長く続く状態だったと考えられる。出血が多量であれば生きて行くことができないが、そうではなかった。しかし、この病は健康上の弊害以上に大きな問題をはらんでいた。それは、宗教的に彼女が汚(けが)れたものとされ社会に受け入れられなかったのである。2重の苦しみを抱えて12年間彼女は生きてきた。

  治療のため財産を使い果たし−だまされもした−望みが尽きようとした時、キリストのことを知る。このお方にかけてみよう。いやこの方ならきっと救ってくだ さる。そっと後ろから近づき、その衣に触れると、病がいやされたことが分かったのだ。そして気付かれずにそこを立ち去ろうした。しかしキリストは名乗り出 よと言われた。

  恐れおののきながら、彼女は顛末を語る。この出来事の背景は彼女の口から聞いたことなのだ。そこで初めてキリストは救いを宣言される。ただ病がいやされた だけでなく彼女はキリストを信じ救われたのだ。長年の苦しみからの解放は、キリストによる罪からの解放、そして神との交わりの回復と永遠のいのちの賜物を 示唆している。


2016年9月25日   キリストの恵みを証する

マルコの福音書5章1節〜20節


  この人の異常性はまず、墓場に住んでいた。そこは死者のいる場所であり、生きている人のいるところでは無い。次に、彼は自分自身をコントロールすることが できず、他人ばかりでなく自分までも傷つけていた。それも驚くような力を持っていた。そして彼は自分が何者か分からない。レギオンとはローマ軍隊の単位(六千人)だった。

  この人の様子を見て、自分と同じだと思う人はあまりいないと思う。しかし同様の傾向を自らの内に見出すことは難しくない。自分自身を完全にコントロールで きる人はいないし、他人を傷つけたことを悔いたいり、自分自身が許せず自暴自棄に陥る、そんな思いを抱いている。この人に救いが必要だったように私たちに も必要なのである。

  しかし驚きを覚えるのはイエス様を神の子と呼んでいることではないだろうか。そしてレギオンは自分を豚に乗り移らせるよう願った。気味の悪い話だが、これ はその土地の人も同様で、二千匹の豚が死んだ事件は人々のうわさを呼んだ。この出来事は異邦人の地での奇蹟であった。この人が正気に返った証は服を着てい ることだった。

  しきりに同行を願う男に、キリストは勧める。あなたは自分の家に帰り、キリストの恵みを語るようにと。これは私たちの使命でもある。自分がどんなに立派な のかというのではなく、キリストがどんなにすばらしいことをしてくださったかを証することが大切なのだ。弟子たちの心に再びこだまする。「一体この方はど なたなのだろう」


2016年9月18日   嵐を静めるキリスト

マルコの福音書4章35節〜41節


種まきのたとえでは聞くことが繰り返されていた。神の国の到来は続く4つの奇蹟で一層明らかになる。それに繰り返されているものは、驚き、それも畏敬といえるような驚きである。人知を超えた出来事に私たちは喜ぶよりも恐れを覚えるものである。人々は「この方はいったいどなただろう?」という問いかけをするのである。

舞台となったガリラヤ湖はユダヤ北部の湖で、海面下200mの所にある。ちなみにそこからヨルダン川を流れ下った死海は海面下400mである。そんな地形もあって突然湖面に風が吹き下ろしてくることがあり、夕刻に船出をした一行はそれに巻き込まれてしまう。舟と言っても木造の小舟である。転覆すればひとたまりもない。

キ リストはそんな中、熟睡していた。よほど疲れておられたのだろう。弟子たちは悲鳴を上げて助けを求める。目覚めて一声「黙れ、静まれ」、湖は凪になる。 眠っておられた理由は疲れだけでは無かった。なぜ、信仰が無いのかと弟子たちに問われるからである。主が共におられるならば、何も心配はないではないかと いうことだ。

  これは弟子たちに対するレッスンであり、私たちに対するレッスンでもある。嵐−これは私たちの毎日につきものだ。慌てふためく弟子たち−これも正に私たち の姿、そこで何を主は教えようとされるのか。主が共におられることと、私たちをお見捨てにならないということではないか。どうして恐れるのか、主はそうお 語りになる。


2016年9月11日   からし種のたとえ

マルコの福音書4章21節〜34節


種 まきのたとえ話に続いて、4つの話しが続く。それらはいずれも一連の神の国のたとえである。神の国とは神のご支配を意味し、キリストによって神のご支配が 始まったのだ。それはまず、神の言葉を聞く者のうちに始まることが種まきのたとえで示されていた。神の御心を実現するために私たちは多くの実を結ぶことが 期待される。

こ の個所で繰り返されている言葉は「聞きなさい」という言葉である。単に音声として感じるというのではだめで、その内容をよく考え、実際の行動に移していく ことが求められている。あかりのたとえでは自らの信仰を明らかにすることが求められているし、はかりのたとえでは信仰に富む者はますます祝福されると言わ れているのだ。

し かし、私たちの神の国を大きくする働きは、私たちの努力によるのではなくて、神の国の持つ力、神によることが明らかにされている。人は種をまき、水をやる が、育てられるのは神の恵みである。だから私たちは自らできることを行い、結果は神に委ねればいいのである。私たちは種(神のことば)の生命力をふさいでいないだろうか。

か らし種は最も小さい種の象徴であった。人の生活に大きな因子となるのは、家庭であったり、その人の能力や運、不運のように思われがちである。神のことばを 聞くことにそれほどの力があるようには思わない。しかし、どのようなものよりも、私たち自身を大きく変え、豊かな実りをもたらすものなのだ。神の国はすで に来ている。


2016年9月4日   種まきのたとえ

マルコの福音書4章1節〜20節

  

  たとえ話にはいくつかのタイプがある。有名なサマリヤ人のたとえや放蕩息子のたとえは、ドラマ仕立てになっていて、特にパリサイ人との対立の中で、神の真 理が導きだされる。一方、この種まきのたとえはどちらかと言えば、教えることに主眼を置いたもので、最後には必ず弟子たちにそのたとえの意味が解説されて いるのである。

  キリストが神の国の到来を語り、ご自身の御業によってそれを明らかにされた時、そこには二つの反応があった。一つはユダヤ教指導者たちの反発と拒絶であ り、もう一方はキリストに献身した者たちの姿である。弟子団が結成され、真の神の家族とは信仰による家族であると明らかにされる。当然多くの実を結ぶよう に招かれている。

 このたとえの4タ イプの聞き手は時代を超えて普遍性のあるものだ。多くの人が聖書を開き、あるいは説教を聞いても、それが結実につながるかどうかは、聞き方に注意しなけれ ばならない。いや逆に求道心を持たない読み方、聞き方は神の恵みを自分から遠ざけていると言ってもいい。たとえには真理を隠す働きもあると言われている。

  私たちは常に自らに問いかけながら、聖書に聞く必要がある。不用意にみことばを聞いていないだろうか?あるいは継続することを忘れてはいまいか?心の中に 茨がはびこって神のめぐみをふさいでいないだろうか? 茨は取り除かなければならない。実を結ぶとは、キリストを信じて、神の国のために生きるものとされ ることである。


2016年8月28日   神 の 家 族

マルコの福音書3章20節〜35節


教 会は神の家族と呼ばれる。初めて教会に来た時に、兄弟姉妹という呼び方を聞いて、随分親族が多いのだなと思うこともある。そのようなケースもあるが、実際 に血は繋がっていなくてもキリストを中心とした家族なのだ。それはキリストの教えによる。神のみこころを行う人はだれでも、キリストの兄弟、姉妹、母だと 言われた。

こ の章の最初にはユダヤ教指導者たちの反感が敵意となっていく様子が描かれていたが。後半にはキリストに対する家族の無理解が記されている。人々から、あな たの家の息子はおかしくなったと言われて、家族が連れ戻しにやってきたほどだ。確かに公の生涯に入られてからのお姿は、それまでとは全く違っていて理解で きなかった。

不 思議な奇蹟、病を癒し、汚れた霊を追い出す。反対者たちはそれを悪霊のかしらの力によってやっていると揶揄する。それは神の子としてのしるしであったのだ が、どうしてもそれを認めたくなかったからだ。そこに彼らの間違いがあり、神の力をサタンの力とすることは、神の聖霊をけがすことであり、赦されない罪で あったのだ。

当 時、神をけがすことは最大の罪だと思われていた。しかし、キリストはそれさえも赦されると言われた。永遠に赦されない罪とはキリストを拒むことである。十 字架の強盗の一人は救いを約束され息絶える。なぜか?それはキリストを信じたからだった。信仰によって私たちは神の家族に加えられる。そこには何の条件も 無いのだ。


2016年8月21日   十二弟子の任命

マルコの福音書3章1節〜19節


宣 教の開始、その御業に対する驚き、そして指導者たちの反感、このように進んできたマルコ福音書だが、ついに指導者たちは手を組んでイエス・キリストを無き ものにしようと考えるようになる。神の御心よりも伝統や慣習を重んじたのだ。手を組んだパリサイ派とヘロデ党は、反ローマと親ローマの利害関係が対立する 人々である。

一 方、イエス・キリストの人気はウナギ登りで、全国から人々が集まって来た。そこで、混乱を避けるために、ガリラヤ湖に舟を浮かべて、そこから教えなければ ならなかったほどである。しかしこの人気は、うわべだけのものであったことを主もよく知っておられたのだ。皮肉なことにイエスを神の子だと認めたのは汚れ た霊だった。

神の国宣教のための組織作りが始まる。12弟子を選ばれたのだ。12という数はもちろん、イスラエルの12部族に倣っているそのメンバーとなったのはガリラヤ湖の漁師たち、中には気が短く「雷の子」とあだ名される者もあった。元取税人マタイや元熱心党員も含まれていた。熱心党というのは、今で言うテロリストであった。

キ リストは当時のユダヤ教の枠を超えて新しい運動を始めたことになるが、それは決して旧約聖書を否定したのではなかった。逆に、神の言葉から逸脱したあり方 に警鐘を鳴らし、神の約束の成就、完成としてその働きを進められたと言えよう。キリスト教会の始まり、その原型がここにある。私たちはこの働きに連なる者 なのである。


2016年8月14日 新しいぶどう酒は新しい皮袋に

マルコの福音書2章18節〜28節


  新約聖書の時代のユダヤ社会で、大切にされていた宗教的儀礼に、断食をすることと安息日を守ることがある。この二つの習慣に関してキリストはかなり自由に 振舞った。いや、本来の意味を明らかにし、実行したまでで、否定しているわけではない。それらを宗教的な戒律とみなし、自己義認の印としていることに反対 したのだ。

  イスラムでは断食を戒律とするが、キリストの時代もそうだった。熱心なパリサイ人は週に2度断食をすると言っている。しかし、断食は習慣で行うものではな く律法にもそんな規定はない。神の前にへりくだり悔い改めるときに、あるいは祈りに専心するために断食をする。花婿(キリスト)と共にある時には必要が無 いと言った。

  安息日は労働をしてはならなかった。彼らは39項目の規定を定めていたと言われる。弟子たちが非難されたのは他人の畑の物を盗んだからではなく、労働(麦 の脱穀!)をしたということだった。彼らのよりどころとする旧約から引用して、そのような細則がいかに荒唐無稽なものかを明らかにした。キリストは安息日 の主だと。

  人間の愚かさを考える。神様が良いものとして与えてくださった聖書の律法でさえ、自分勝手に解釈して自らの首を絞める。キリストは本来あるべき姿を回復し てくださるのだ。新しいぶどう酒はキリストの教え、新しい皮袋はキリストに従う者の生き方のことである。形式より真心、自己義認から信仰義認への転換を求 められる。


2016年8月7日   罪人を招くために

マルコの福音書2章13節〜17節


 国際社会や政治では、言葉以上に出来事の背後にメッセージが込められていることが多い。取税人レビ(マタイ)がキリストの弟子団に加えられたのもそうである。ガリラヤ湖の漁師たちが先に弟子となっているが、衝撃度からいえばこちらの方がはるかに勝っている。へ〜、イエス様って元取税人を弟子にしたんだ!罪人の友なんだ。

  正統的なユダヤ教徒には思いもしない、そして決して受け入れられない事がらである。この個所に出てくる2度目の「なぜ」がそれを示す。取税人や罪人と食事 をする−すなわち交流する−ことは、反宗教的、反社会的であり、国民感情からしても無理だった。これは古い因習や伝統に挑戦しているのだ。医者が必要なの は病人だと。

  確かに、定期的な検診は別にして、病院に行くのは身体の具合が悪く、治療を必要とするからである。そして疾患によっては自覚症状が出た時にはすでに遅いと いうこともある。宗教的な指導者である人々と罪人と言われる人々を比べれば、後者の方が自覚症状があったのだ。神の前に正しい人などいない。そう思い込ん でいるだけだ。

  キリストの招きはすべての人に向けられているが、応えるにはこれがどうしても必要だ。私のたましいは罪に病んでいるという自覚である。罪の赦しが必要な人 がキリストの元を訪れる。キリストは私たちを新しくしてくださるお方である。漁師が網を捨てたように、レビはそろばん?を捨ててキリストに従った。過去は 問われない。


2016年6月31日   あなたの罪はゆるされた 

 マルコの福音書2章1節〜12節


  最初の章にはキリストの御業とそれに対する驚きが繰り返されていた。病をいやし、霊を制し、汚れをきよめるその力は、神の国の到来を証しするものだった。 次の章の最初は有名な中風の人のいやしだが、キリストが罪を赦す権威をお持ちであることが明らかにされている。そして、この章で繰り返されるキーワードは 「なぜ」だ。

  罪を赦す権威、これもいまひとつ分かりにくいと思う。犯罪を犯して、刑期を終えて罪を償うということではないのだ。聖書の大前提の一つは人間は等しく罪を もっており、神の前にはそのままでは立てないということである。神殿では動物のいけにえが捧げられたが、これは私たちの罪を贖い、神に近づくために必要 だったのだ。

  だから中風という病気が、罪の結果だと言っていないことはおわかりいただけると思う。罪のゆるしは一部の人だけに必要なのではなく、すべての人に必要だか らである。罪のゆるしは病のいやしよりも偉大だ。ここでひとつめの「なぜ」が出てくる。律法学者たちは律法の規定を無視して、罪のゆるしを保障する発言に かみついた。

  もちろんそれを声には出していなかった。キリストにははっきりと聞こえたのである。罪のゆるしはキリストの贖いによって無代価で与えられる。それをいただ くためには信仰が必要なのである。この目的、使命のためにキリストはこの世に来られた。それが福音の中心であり、この書の中で明らかにされている神のお恵 みなのである。


2016年7月24日   力あることば 

マルコの福音書1章35節〜45節


 福音書の舞台となった時代は1世紀のユダヤ社会だった。私たちの感覚では理解できないこともままある。このツァラアト(思い皮膚病)冒された人の奇蹟もそうである。ポイントは病気が良くなったことではなくて、きよめられたことだ。だから繰り返し、きよくするという言葉が繰り返され、一度も癒すという言葉は出てこない。

  しかし、通常とは異なる状態を汚れているとし、宗教的、社会的に疎外することはどの時代にもある。律法規定では、汚れた人々は宿営に住むことができず、自 分が汚れているということを大声で知らせなければならなかった。症状が改善した場合は祭司の確認と宣言をもって、きよいとされ社会に復帰することができた のである。

  この人を苦しめたのは健康上の問題以上に、今のことばで言えば、人権が疎外されていることだったのである。キリストはここであえてこの人に触れて、きよめ の奇蹟を行われた。汚れに触れたものは汚れるというのが、当時の思想だったが、聖い者が汚れに触れると聖められたのだ。ここにも神の国の到来が明らかにさ れている。

 キリスト は厳しくこの人に口止めを要求された。これは福音宣教を妨げないためだったが、彼は口を閉ざすことができない。大挙して人々がやってきて、町中には入れな くなったとある。マルコは福音書の初めに、人々の受けた驚きと衝撃を記す。彼らはキリストをどのように迎えるのであろうか。次の章ではそれが明らかにされ る。



2016年7月17日   権威ある教え

マルコの福音書1章21節〜34節


マルコはキリストの御業の最初をカペナウムの安息日から始める。カペナウムはガリラヤ湖畔北西部の町である。キリストの初期伝道の中心地となった。会堂(シナゴーグ)は礼拝の場であり、教師(ラビ)が律法を教えた。その内容は先人たちの律法解釈の説明だったようだが、若きラビ、イエスの教えは人々に大きな衝撃を与えた。

そ の驚きを「権威ある者のように教えた」「権威のある、新しい教え」だと表現した。その内容をマルコは詳細には記していないが、神の国の到来を告げたに違い ない。神の国、すなわち神のご支配がもたらされるとき、悪霊は追い出され、病気は癒されるのである。人々を虜にしている悪しき汚れた力から、人を自由にし 解放する。

悪 霊につかれた人、それは精神的な疾患のことか? 重なる部分もあるが、それだけではない。聖書は実際に神に敵対し、人を滅びへと誘う存在−サタン、その支 配下にある悪霊の働きに警告を発している。キリストのことばが語られるとき、神に敵対する霊はあぶりだされる。聖き神の御子の前に、その人の内に留まるこ とはない。

神 を認めようとせず、人間自らの知恵と力で何でもできる−そのようなおごり高ぶりは自立ではなくて、悪霊の支配下にあるしるしと言えるのではないだろうか。 このカペナウムの最初の一日は神の国の到来を力強く証している。すでにキリストによって神の国は始まっている。キリストを信じる時神の国は私たちのものと なる。


2016年7月10日   悔い改めて福音を信ぜよ

マルコの福音書1章14節〜20節


今 日は投票日だが、選挙戦が始まると党首の第一声がマスコミをにぎわす。キリストの第一声はマルコによればこれである。「時が満ち、神の国は近くなった。悔 い改めて福音を信じなさい。」この短いことばにはキリスト教の核心が表明されている。キリストによってもたらされる神の国、そこに私たちはみな等しく招か れているのだ。

  悔い改めと信仰−それは回心を言い変えた表現でもある。繰り返しになるが、悔い改めとは単なる後悔ではなく、方向転換のことである。これまでのあり方に疑 問を感じ、いやそれだけではない、自己中心から神中心へと自己のあり方が変えられることである。そして、福音によって与えられる新しい歩みへと喜んで向 かっていくのだ。

  福音は私たちに罪のゆるしと永遠のいのちを約束する。キリストの贖罪によって私たちは救われるのである。これを全人格(知・情・意)をもって受け入れ、信 頼して、神にお任せしていく、これが信仰であり、信仰によって私たちは神の国へと入れられるのである。知的にも信じ、感情的にも委ね、自分の意思で神へと 向かっていく。

キ リストの最初の働きはガリラヤ湖の漁師たちを招くことだった。聖書の神は、私たちをお呼びになるお方である。キリストは、弟子たちは特別な職務、使徒職へ と招かれていったのだが、私たちもまた神に招かれている。まず私たちは救いへと招かれている。呼びかけられている。そして神の働きへと呼び、招かれている のである。


2016年7月3日   神の子イエス・キリスト

マルコの福音書1章1節〜13節


マ ルコの福音書は一番短く、マタイの福音書の半分くらいの量である。並行記事も多く、マルコの独自の内容は、一割にも満たないと言われる。その上、クリスマ スの記述や、山上の説教などのキリストの教えもない。この福音書は他の福音書の要約に過ぎないのだろうか?いやそれは違う。マルコは「神の子キリスト」を 描いている。

こ の福音書は最も臨場感のある記述をしている。奇蹟を行い、御言葉をかたるキリストの表情が見え、息遣いが聞こえる。弟子たちや、群衆の生き生きとした反応 が手に取るように分かるのだ。これは、ペテロの説教を土台に記されたと言われていることからも理解できる。作り話ではなくドキュメンタリーを私たちは提示 されている。

キリストは旧約預言の成就として登場する。その先導を果たすのはバプテスマのヨハネ、そう主の前ぶれである預言者エリヤ(旧約聖書の最後マラキ55)である。そして公に姿を現すのはヨハネによってバプテスマを受けたその時である。天から聖霊が下り父なる神の認証が与えられる。私の愛する子と。神の子として登場したのだ。

この方は力に溢れる。40日 間の荒野の試みにも負けることは決してない。神の子、私たちと同じ肉体を持ちながら、子なる神様なのだ。もちろん肉体を取ることによって多くの制限の中に おかれたが、この方は神の御力によって神の国をもたらしていく。そして最後に贖いを完成されるのだ。あなたにとって、キリストは神の子ですか?


2016年6月26日   信仰の戦いを勇敢に

テモテへの手紙第一6章11節〜16節


信 仰と聞くとどちらかと言えば静的なもののように思われるのだが、パウロはそれを戦いだと言った。動的な要素があるというのだ。清らかに讃美歌を歌い、静か に祈り、聖書を聴く。確かにこれは戦いとは対照的な姿に見えるに違いない、しかし信仰生活は私たちの生きることそのものであり、そこには多くの戦いが存在 するのだ。

信 仰の戦いとは神に従う道である。クリスチャンの目当ては永遠のいのちであるという。そのために避けるべきことと、守らなければならないことがあるという。 富の誘惑を避けるようにとパウロは再三述べている。私たちは目に見える富ではなく、目に見えない神に望みをおくようにと。そこで真実の私たちの姿が問われ るのだ。

私 たちが求めるべきものは神の喜ばれる姿−正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和−と言われている。残念ながらこれらの性質は生まれつきの私たちには備わって はいないようである。もちろんその片鱗はある。しかし神様のお求めになるものは裏表のない真実だ。群れのリーダーとして、テモテに模範、目標となるよう励 ました。

私 たちが永遠のいのちを獲得するとき、それはキリストとお会いするときであるという。この世のいのちは束の間であると聖書は語っている。そしてそれですべて が終わりというわけではない。信じる人はすでに永遠のいのちをいただいているが、完成するのはその時である。あなたは後悔しないために一体何を目指して進 むだろう。


2016年6月19日   主がともにおられたので

創世記39章


良 くご存知のヨセフ物語、この「主がヨセフとともにおられたので」というフレーズはこの章の中に何度も繰り返されている。その結果として「彼が何をしてもそ れを成功させてくださった」と。この言葉だけを見ると何か特別な人のように見えるだろう。何の努力もしないでうまくいって、何のストレスや悩みもないよう に見える。

し かし、この時ヨセフは兄たちに憎まれ、エジプトに売り飛ばされていたのである。 最後にはエジプトの宰相に上り詰めるヨセフだが、彼の前半生は下る経験の 連続だった。ポティファルのもとで一生懸命に働いて、ようやくよくなりかけた矢先、濡れ衣を着せられて、牢獄にいれられてしまう。どうして自分だけがこん な目に。

  主がヨセフとともにおられたので−あなたならこんな状況で神様が共におられるといえるだろうか?逆に、神様は私のことなんか見向いても下さらならいし、そ の祈りにも答えては下さらないと思うのではないか。しかし、ヨセフの素晴らしさは、主がともにおられたので、彼は主とともに歩んだということではないだろ うか?

  ヨセフは一人きりだったが、主がともにおられたので、信仰によって歩んだ。主がともにおられるとは、自分の思い通りになることではない。主がともにいてく ださるので、私たちは主に真実にお従いしていく。主はあなたとともにいてくださいますか?あなたは主とともにおられますか?主とはイエス・キリストのこと である。


2016年6月12日   満足していますか?

テモテへの手紙第一6章3節〜10節


 自分の生活に満足しているかと問われて何パーセントぐらいと答えるだろうか?ある程度の収入があり、健康で、家族も元気であれば、そこそこの満足度を答 える だろう。しかし、それらの内の一つでも問題を抱えていれば、その数字はぐっと下がるに違いない。あなたは今、どれぐらいの満足度がありますか?

 この手紙の中で、パウロはテモテに変わることのない満足感を持つことのできる秘訣を教えている。それは「満ち足りる心を伴う敬虔」であるという。この敬 虔と いう言葉は以前学んだように、キリスト教信仰と言い換えても良い言葉だから、私たちは信仰によって真の満足を得ることが出来ると教えているのだ。

 かなり禁欲的な教えに聞こえるだろう。衣食があれば満足せよ、金銭を愛することが悪の根だと。これはキリストの山上の説教を思い出す必要がある。神を第 一と するなら神が必要な物は備えてくださるということであり、金銭そのものが悪なのではなくて、それに捕われて神をないがしろにすることが悪である。

 この手紙が書かれたのは西暦60年の半ば、教会を巡る偽教師がいて、教会を混乱させたり、中には 余りにも金銭欲が強くて信仰を失ってしまった人がいたようだ。これは今日でも私たちが注意をしなければならないことである。もし、自分の満足度が少ないと 思うなら、その基準を神においてみてはどうだろう?


2016年6月5日
   教会指導者の選任

テモテへの手紙第一5章17節〜25節


こ の箇所は教会の教職者選任について記されている部分である。テモテはパウロからエペソでの働きを委ねられたわけだが、その中には次に働きを委ねることので きる牧師たちを選任することが含まれていた。着任早々、次の人をというのはいかにも気の早いようにも感じるが、教会の将来を見据えてのことだった。

二 重に尊敬を受けるにふさわしいというのは、神の働き人として敬われなければならないと同時に、その生活を教会が支えるようにという意味である。それを支持 する言葉として旧約聖書と福音書からの引用がある。どちらも聖書と呼ばれていることは、すでにキリストの教えが聖書と認識されていたことを示す。

3 章の監督の資格にも述べられていたように、牧師職の選任は慎重に行わなければならない。根拠のない噂話は排除されなければならないし、だからといって何の 審査もなしにその職に就くことはできないのである。神のお定めになったふさわしい候補者が与えられたならば、教会は按手をしてその働きを委ねる。

牧 師按手礼は、神様のお召をいただいた献身者が神学校で学び、実務を経験した後に、教会の権威のもとに授けられる。その審査は近隣牧師たちの協力と指導をい ただくことが一般的である。これらは文字通り胃の痛くなる務めだったのだろう。パウロの親心、テモテの健康を心配してアドバイスまで送っているのだ。


2016年5月29日   教会の愛の業に ついて

テモテへの手紙第一5章1節〜16節


子供 叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの−こんなことわざがあるが、パウロはテモテに、年寄り叱るなと言った。テモテは牧会者としてあらゆる世代 の人と接し、そして御言葉を伝えることに恐れを覚えていたのかもしれない。パウロはそれぞれ肉親に対するように自然体で−とアドバイスをした。

この 段落では特にやもめ/寡婦に対する教会の取り組みが教えられている。今のように福祉を国家が担うことがなかった時代には、教会がそれを担った。特に最も 弱い立場の人々である身寄りのない婦人たちの世話を教会がしていた。だからエルサレム教会で最初の問題となったのも寡婦に対する配給であった。

この 教会の善意、愛の業に甘える人々がいたのだろうか?実際に親族がいながら教会に面倒をかけっぱなしの人。あるいは若くして寡婦となったが、教会の徳を立 てない行為を繰り返す人。教会の働きが人を怠惰にしたり、負うべき責任を負わない抜け道にならぬように忠告する。本当の必要に答えるようにと

名簿 を作成し、その資格を審査するようにとある。身内がなく、キリストの信仰に生きた人で、残りの生涯を献身者として歩む人である。単に教会のお世話になっ ている人でなく、神の国ために祈りと奉仕に励む人である。このような人は決して教会のお荷物ではなく、尊敬の対象であることを忘れてはならない。


2016年5月22日   敬   虔

テモテへの手紙第一4章1節〜16節


親思 う心にまさる親心ということわざがあるが、テモテのことを思うパウロの思いがかしこに見て取れるのがこの手紙である。あるいは、はえ ば立て、立てば歩めの親心 ともいう。今は大きな問題になっていなくても、これから直面するであろう問題に対してパウロはテモテにアドバイスを送っているのである。

様 々な宗教的タブーをもたらす人々が起こることを警告した。キリスト教には食物規定はない。あるいは過剰な禁止事項もない。確かに道徳的な生活を送ることは クリスチャンの特質ではあるが、それは新しく造り変えられた者としての結果であって、決してそれを救いの条件にしてはいない。いやしてはならない。

年 若いテモテが教会を導いていくことの大変さを知っていたのだろう。内面においては敬虔であることをまず勧めている。この敬虔という言葉は他の訳では信心と なっていて、単に謙虚であるというよりも信仰深いという意味である。信仰によって生きていくのでなければ神の働きを続けていくのは困難である。

最 重要任務として聖書の朗読と勧めと教えがあげられているが、これはその人の才能や能力を超えて、聖霊の助けの中で行われることが明らかにされる。語る者も 聴く者も、説教は神の働きであることを受け止めなければならないのだ。今と未来のいのちが約束されている敬虔−信仰を改めて大切にしていきたい。


2016年5月15日   生ける 神の教会

テモテへの手紙第一3章1節〜16節


 このテモテへの手紙は牧会書簡と呼ばれる。パウロがテモテに送ったいわば牧会の指南書なのである。礼拝におけるあり方を述べた後に、教会の役職に関する 基準が述べられている。牧師と執事の二つの役職である。監督とあるが、これは牧師の立場をそのように表現している。当時からその務めの重要性が言い慣わさ れていたようである。
 牧師職には優れた道徳的な資質や、能力、経験が求められる。実際に牧師になるためには神学校で学び、実際の働きを始めて、按手礼を受けるまでに10年ほど必要である。神学校では知的訓練だけではなく信仰の鍛錬や実際的な伝道牧会の訓練を受ける。加えて 人生経験が求められるならば、多くの祈りを必要とすることは間違いない。
 牧師を補佐する執事および婦人執事(おそらくその妻)も 同様の資質が要求される。特に女性信徒に対する牧会配慮のために婦人があげられているようである。牧師も執事も決して名誉職ではない。実際の神の教会を導 くための神の僕なのだ。特に社会常識を踏まえたうえで、物事を信仰的に判断の出来る、霊的な資質が重要だとされる。
 ここでテモテの務めは何であったろう。この牧会者の資質に向けて努力することだったのか?彼はエペソ教会においてそのような働き人たちを育成し、働きを 委ねることが求められていた。いわばスーパーバイザーのようなものである。神の家、生ける神の教会を建てあげて行くことがパウロ、テモテの目的であり、神 の御旨であった。


2016年5月8日   男に 女に
テモテへの手紙第一2章8節〜15節


 随分と男尊女卑の考えをパウロが持っていたように見えるかもしれない。果たして女性は黙っていて男性に従うようにと言っているのだろうか。同様の箇所が コリント後書1114章にもある。読みよ うによってはイスラム原理主義の男性たちが女性に対して、主張していることとあまり変わりがないようにも見える内容である。
 し かしパウロは決して女性蔑視をしなかった。使徒の働きを見れば男性であろうと女性であろうと等しくパウロの協力者となっている。教会によっては女性が主要 なメンバーだった所もある。パウロの伝道を助けたアクラとプリスキラも場所によっては名前が逆のところもあるぐらいだ。ローマ書はフェべ(女性)に託された。
 こ の箇所もコリント後書も特に教会での礼拝が念頭に置かれている。「ですから」という接続詞で始まっているのはそのためである。男性は先の祈りを捧げるもの として立てられており、女性もその場にふさわしい身なりと心がけが勧められている。私たちが女性牧師を置かないのもこれらの箇所がその理由の一つとなって いる。
 最 後の箇所は解釈の難しい場所と言われる。子を産むことによって救われるとは?2つの理解が有力である。一つは安産を願う祈りとするもの。もう一つは女の子 孫から救い主が生まれるとされたこととする。救いは信仰によりキリストの贖いによってもたらされるものであるから、ここでは違った意味で述べられているの だ。



2016年5月1日   為政者の ために祈る

テモテへの手紙第一2章1節〜7節

エペソ教会の指導、牧会を委ねたパウロは、テモテに対して、どのように 集まりを導くかをアドバイスしている。その原型になったものは会堂(シナゴグ)での礼拝だったろう。基本的には聖書の朗読とその解き明かし、賛美と祈りである。これらの要素は現代におい ても変わらない。ただし最初に掲げられた祈りの課題は意外である。

為 政者のために祈るようにと勧めている。後の歴史の中で、キリスト教国となった国家においてこれが祈られるのは合点が行くように思うが、新約聖書の時代は ローマ時代であった。まだローマ帝国によるクリスチャンに対する迫害が始まる以前であったとしても、まずこのために祈れとは。もっと他に大切なことがある と思うのだ。

そ の理由は2つある。一つは神様の子供たちのためであり、もう一つはそれが神の望みだとある。国が戦乱に巻き込まれ、政情が不安定になると、国民の生命と財 産に大きな危機が及ぶ。紛争やテロを神は決して望んではおられないのだ。アブラハムが執り成しの祈りを捧げたように、教会そして信者には執り成しが委ねら れている。

そ して何よりも神は、全ての人が救われることを願っておられる。特定の人種や階級の選ばれた人々ではない。異教徒や無神論者であっても、神は全ての人を愛さ れているというのだ。ただ、だからといって、全ての人が救われるのではない。神と人との唯一の仲介者キリストを通して実現する。改めて平和の祈りが希求さ れている。


2016 年4月24日   神様の比較広告

テモテへの手紙第一1章12節〜20節

使 用前と使用後、比較広告で使われる手法である。ダイエットやフィットネス、化粧品や健康食品、これらのコマーシャルを見ていると誰でも自分も変えられるよ うに見える。神様の比較広告では/パウロは以前のキリスト教迫害者であったが、神の恵みによって宣教者とされた/を神様が見本としようとされたのだと言っ ている。

も ちろんパウロは自分自身を模範だと誇っているのではない。本当は穴があったら入りたいほどの過ちを犯したことを悔いている。いや、赦されるはずもないと感 じ、罪人のかしらだと言っている。しかし、そんな者をも赦される神様の憐れみを経験したのだった。キリストが恵みによって罪人を赦してくださる−これが福 音なのだ。

一 方、テモテは対照的な生育歴、信仰歴を持っていた。彼は信者を母に持つ、クリスチャンホームの出身である。幼い時から福音によって育てられた人物であっ た。パウロにように迫害者から宣教者へという大転換を経験したこともなく、素直に従ってきた。罪人であるには違いなかったが、そのかしらだとは言い難い人 物である。

パ ウロは自らを見本とされているというが、テモテはどうであろう。彼もまた違った意味の見本である。パウロのような経験をせずとも、主の救いと奉仕に叶うこ とができるのだ。そう、あらゆる人は見本となりうる。キリストを信じ、主の救いをいただいた人は、それぞれがユニークな見本である。大切なのは神の恵みの 豊かさだ。



2016年4月17日   信仰に よる神の救いのご計画

 テモテへの手紙第一1章3節〜11節


パ ウロが最初におくったテモテへのアドバイスは、誤った教えに対する警告だった。エペソに派遣された目的の一つであろう。一体どのような内容だったのかは分 からないが、旧約の律法を用いた無益な教えだった。それがさも新しい知恵をもたらすかのように宣伝された。神の啓示である聖書は勝手気ままに解釈できない のである。

聖 書を正しく読んでいく鍵は、神の救いのご計画という視点である。これは聖書自体の構成がそのようになっていると同時に、その内容もそれを示している。キリ ストによって完成された神の救いのご計画を理解した人々がキリスト教会を成立させていったのである。いわばその詳細な教えと主張が新約聖書だと言っても過 言ではない。

パ ウロはローマ人への手紙で律法の役割は罪を明らかにすることだと言っている。山上の説教でキリストは律法遵守とは形式ではなくてその内面、良心が問われる ことを指摘した。だれも神の前には立てない罪深い存在であることが、律法によって明らかにされる。そう、律法は私たちを神の救いに導く養育係(家庭教師)なのである。

テ モテの役割は福音を守り、明らかにすることだった。これは教会の指導者の務めであり、教会の務めである。教会がこの世に置かれている意味は、神の救いのご 計画を明らかにし、この救いへと人々を招くことである。多元主義的な時代の中での、救いはキリストにのみあるのだと信じるからこそ、私たちはこの務めを続 けるのだ。


2016年4月10日   信仰に よる真実の我が子

               テモテへの手 紙第一1章1,2節 

パ ウロには子供はいなかった。使徒の働きやその手紙を見る限り、結婚はしていなかったようである。しかし、神の国の働きにおいて我が子と呼ぶ人物がいた。そ れがテモテである。パウロの第二回伝道旅行で同行したのが青年テモテだった。ガラテヤ州ルステラ出身のユダヤ婦人の子であった。パウロの最も信頼した人物 である。

パ ウロはしばしば重要な任務をテモテに委ねた。例えば問題が勃発したコリント教会の指導のためにテモテはパウロの名代としてコリントに赴いている。彼はパウ ロの口となってその手紙を朗読し人々に勧めた。この手紙が記されたときはエペソ教会の牧会指導のために派遣されていた。その務めへのアドバイスがこの手紙 である。

だ からこの手紙の中には教会が大切にしなければならない事がら、教理的なことや実際の信仰生活や教会のあり方が記されていて、大変有益である。また一人の人 間ができることにはどんなに優れた人であっても限界のあることをパウロは知っていた。それ以上に自分が召された後のことを考え、宣教の働きを委ねておきた かった。

実 際の親子以上に強い結びつきがパウロとテモテにはあったに違いない。それは同じ神の働きに携わる者としての使命感と信頼に基づいていた。若いテモテのため にパウロはいつも祈っていた。その健康を心配し、心折れないようにと励まし続けた。伝統芸能の世界で芸が継承されるように、福音の精神も代々継承されてき たのだ。


2016年4月3日   あなたは 私を愛するか

ヨハネの福音書21章1節〜19節


弟 子たちは十字架を前にキリストを見捨てて逃げてしまい、復活の知らせを信じることができなかった。中でもペテロはその代表である。キリストを3度も知らな いと言った場面はどの福音書にもでてくる。これは弟子たちの間で周知の事実であったことを意味すると同時に、ペテロ自身が繰り返し語ったのではないかと思 われる。

自 らの不名誉につながる出来事が福音に合わせて語られていくことをどう感じていたのだろうか。あるいは使徒としての資質を問われることにならなかったのだろ うか。それを補完し、使徒としての再認証を告げるのがこの箇所である。新たに初代教会の指導者としてペテロや使徒たちは使命を与えられ遣わされて行くので ある。

ご 存知のように舞台はふたたびガリラヤ湖畔である。はじめの日に主から人間を捕る漁師にしてあげようと言われた、そこに主はお姿を現された。漁はふたたび大 漁。そう、同じ行程をたどっているのだ。しかしペテロは以前の彼ではなかった。失意の中で失格者との烙印を自らに押していた。復活の主に顔向けができな かった。

キ リストは責めもせずにただ一つのことを聞かれた。わたしを愛するかと。キリストがお求めになることはこれだけだった。ペテロは絶え入るようにあなたがご存 知ですと言うことしかできない。これが3度繰り返されたのは過ちを赦すためだった。わたしに従うようにと主はお求めになった。そんなペテロを主はお用いに なる。


2016年3月27日   キリス トは死に打ち勝たれた

マルコの福音書16章1節〜20節


マ ルコ福音書ではキリストが受難と復活を弟子たちに教えられた場面が3度ある。十字架の死が現実のものとなり弟子たちは四散するが、だれも復活の預言を思い 起こさなかった。死者が復活するなどということはだれも信じられなかったからだ。実際に復活の主を見たという証言をだれも真に受けようとはしなかったと繰 り返される。

多 くの人にとってキリストの復活は神話に過ぎないと考えられているだろう。弟子たちが作り出した、信仰上の事実であっても、歴史的な事実とは異なるとする。 しかし、そこにとどまり続ける限り、キリストの救いを自分のものとすることはできない。私たちの常識や経験では計り知れないことが起こったことにまず注目 すべきだ。

悲 しみに沈む女性たちの見たものは空の墓だった。キリストの遺体、墓は存在しない。そしてキリストは弟子たちに度々ご自身を現された。復活は蘇生ではない。 新しい身体を得られたことが示唆されている。多くの弟子たちに現れたその証言を無視できるだろうか。捏造?そんな一銭の得にもならないことに人は命をかけ ることはない。

キ リスト教の誕生はこの受難と復活を抜きにしては語ることができない。キリストは死に打ち勝たれたのだ。使徒パウロは死を人類最後の敵と呼んだ。単に生理学 的な意味ではなくて、神のいのちから切り離された霊の死を指している。神の裁きと呪いから救われて神との永遠の交わりに生きることができる。その保証が復 活である。


2016年3月20日   
十 字架のキリスト
マルコの福音書15章22節〜39節

キ リスト教のシンボルは十字架です。これを抜きにしてキリスト教は語れないし、存在しないのです。世界中に多くの信仰や宗教がありますが、その創始者が極刑 を受け殺された事例をほかに知りません。日本風に言えば、ご利益がないのです。十字架から降りて自分を救えと叫んだ群衆のように、どんな恵みを期待できる しょうか。

加 えて十字架で発せられたことばも衝撃的です。「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか?」これにこざかしい解釈は必要ないでしょう。文字通 り、神に見捨てられ死なれたのです。弟子たちに裏切られ、ユダヤ人指導者の妬みをかい、ローマの手によって処刑される。その上、父と呼んできた神は救って くださらない。

キ リストはご自身の使命を「贖いの代価として、自分のいのちをあたえるためである」と言われた。弟子たちに何度も、この最期についてお語りになっていた。十 字架は、人類に対する代償的な死であった。罪のない神の子が罪人に代わって神の呪いを負われたのである。この方が見捨てられなければ、救いの道は開かれな かったのだ。

十 字架は私たちに対する愛の神様のメッセージである。信じる私たちが救われたことの動かぬ確証である。この義の行為によって罪が赦される、罪の力から解放さ れるのだ。百人隊長は「この方はまことに神の子」であると告白した。私たちも頭を垂れて、主の十字架のお苦しみとその死をたどりつつ同様に申し上げようで はないか。


2016年3月13日   逃げ出した弟子たち
ルカの福音書14章43節〜72節

ユ ダの裏切りとペテロのキリスト否認、ユダヤ人議会(サンヘドリン)での取り調べをはさんで記されている出来事である。ユダはキリストを売った。失望し、見 切りをつけたのだ。ペテロは最後まで付いていくつもりだった。しかし逃げ出して、あの人を知らないと言ってしまった。恐ろしかった。自己保身に走ったの だ。

弟 子たちの期待はキリストによってユダヤ王国再建という現世利益だった。弟子たちだけでなくイスラエル民族の悲願とも言えよう。だが、キリストが求めたもの は、神の救いの計画の実現だった。目に見える神の国ではなく、目に見えない神の国であった。ローマからの自由ではなく、罪と死からの解放、救いだったの だ。

キ リストの苦難と復活を通してもたらされる神の国、誰ひとりそれに気づかない。悪魔でさえそれを知らなかった。知っていれば阻止しようとしただろう。この神 の救いのご計画が聖書に繰り返し記されていたことだとキリストは言われた。それを読み、御子としての知恵と父なる神のお語りかけに使命を知られたのだろ う。

ユ ダは赦されなかったが、ペテロは赦された。ユダの裏切りは計画的だった。またそこにはキリストへの愛や信仰のかけらもない。一方ペテロは弱さと愚かさがキ リストを否ませたが、キリストを愛し信じていた。キリストはこの違いをご存知だったからこそ、ペテロに否認を予告され、その後福音を託されたのではない か。


2016年3月6日   
ゲッ セマネの祈り
ルカの福音書14章22節〜42節


ゲッ セマネ/油搾りという意味で、正にキリストが苦しみ悶えて祈られた場所である。弟子たちとよく祈りの時を持ったオリーブの園であった。過越しの食事の席 上、弟子の裏切りを予告し、パンを裂き、杯を分けて、贖いの御業を明らかにされる。まっしぐらに十字架に向かう主とそれを理解しない周囲のギャップが描か れる。

ペ テロは力強く宣言する。命に代えても、自分だけは決して裏切りません。ほかの弟子たちも同じ思いだった。私たちは明日のことを知らない。いや明日ではなく て、数時間後のことも知らないのだ。弟子たちは、明日の朝には蜘蛛の子を散らすように、キリストを見捨てて逃げ出してしまう。主はそれをご存知だったので ある。

ゲッ セマネではキリストは弟子たちに共にいるようにと願う。そんなことはこれまで一度も無かった。あわてふためく弟子たちの中でも主はお一人、動揺することは なかったのである。しかし、ここでは唯一弟子たちに求めておられる。それほど、これから経験しなければならない十字架の苦難は恐ろしく、衝撃的であったの だ。

主 は何を恐れ悶えられたのか。十字架の苦痛? 死に対する恐れ? それは神から見捨てられ呪われたものとならねばならない恐れだったのではないだろうか。永 遠に神の御子であられるお方だからこそ、その恐ろしさをご存知なのだ。この祈りは苦難を前にした人間に対する模範であると同時に、十字架の真意を指し示し ている。


2016年2月18日   主に喜 ばれるささげもの

マルコの福音書14章1節〜11節


マルコ福音書には名前は出てこないが、マリヤの油注ぎとして有名な出来 事である。マリヤという名前は、非常にポピュラーな名前で、旧約聖書ではミリアムのことだ。イエスの母マリヤ、マグダラのマリヤ、そしてこのマリヤ(マルタと姉妹 )、他にも登場する。シモンというの はおそらくこの兄弟達の父親だったと考えられる。

キ リストの十字架が間近に迫っていた。祭司長たちはその時を狙い、ユダは裏切りを画策していたのである。そこに置かれたこの美しい出来事もまた、葬りの準備 であったとキリストから賞賛を受けている。キリストの十字架の死に向かって話は進んでいるのだ。それは「多くの人の贖いの代価としていのちを与える」行為 だった。

マ リヤの献げもの、それはナルドの香油だった。ひと瓶が一年分の給与に相当する金額である。弟子たちは、この塗油を浪費と考え、かなり強い調子でマリヤを責 めたのだ。確かにそれは正論であったが、よく考えると、それはマリヤの献げものであり、とやかく言われる筋合いはない。そして何よりも真心から出たもの だった。

神 様は私たちが見るように物事を判断しない。人の計算であれば、多く出したものが立派であり、神にも喜ばれるとするが、そうではない。2レプタの献金が同様 に賞賛されたのだ。マリヤがどれほど意識していたのかは不明だが彼女の献げものは主の大切なご計画に用いられたのである。主の言葉の通りに私たちはこれを 知る。


2016年2月21日   
ア ブラハムの一生

創世記25章1節〜11節


作 家の三浦綾子さんは晩年、死ぬという大切な仕事が残っていると言ったそうである。アブラハムの最期はこの大切な仕事をやり遂げたと言えよう。アブラハムは サラの亡き後、ケトラと再婚し6人の息子を得る。神によって多くの国民の父となると言われていた通りである。イシュマエルを含め8人の息子が与えられたこ とになる。

彼 は自分の死後、子供たちの間でトラブルが起こらぬように、家督はイサクに譲り、他の子供たちを遠ざけた。現代の感覚からすればこれは不平等に見えるかもし れないが、これはイサクが神の契約を受け継ぐ、約束の子だったからである。神の選びという観点からこのことは理解されねばならない。キリストに繋がる家系 である。

彼 は、自分の民に加えられていく。これはこの後も繰り返される表現で、神の人がその信仰を守り通して神の国へと迎え入れられたことを表している。キリストを 信じて救われることは何よりも大きな喜びであるが、それを最後まで保ち続け御国へ加えられるならばそれに勝る光栄と喜びがあるのだ。最後まで神に従い続け たのだ。

そ して、その信仰はイサクに受け継がれていった。信仰のバトンを渡して御国へと旅立ったのだ。私たちの大切な仕事の一つは信仰のバトンを渡すということだ。 何もこれは肉親に限った事ではない。パウロも言うように、私たちは福音を聞き、そして信じたのだ。このバトンを渡し終えて、キリストと兄姉の待つ御国へ行 きたい。


2016年2月14日   リベカの決断

創世記24章52節〜67節


世 界の国々では女性のリーダーが増えている。男性と女性、どちらの決断力が優れているかと言えば、女性かもしれない。モーセは、我が民を救えと神の声を聞い たとき躊躇した。ギデオンは恐れて、神のしるしを求めた。一方、ルツはあなたの神は私の神といって信仰の告白をし、エステルは死ぬのが御心でしたら死にま すと言う。

リ ベカもまたそうであった。昨日、会ったばかりのアブラハムの家令の願いを聞いて、はい、行きますと返事をしたのである。これは神のみ旨に従う、信仰の決断 であった。イサクとリベカの結婚を貫くものは神のご意思である。本人たちはもちろん、双方の親族たちもまた、これを神のお導きと受け止め、感謝し、祝福し ているのだ。

ア ブラハムがカナン人の娘をめとってはならないといった理由がここに見られる。結婚は神が定めた制度であるだけではなく、神によって二人が結び合わせられる ものだからである。それゆえ二人は結婚まで互いに清さを保ち、厳粛な誓いをもって結婚生活に入るのである。結婚がただ人間の営みに陥る時に実に多くの問題 が起こる。

イ サクもまた祈りながらその時を待つ。イサクとリベカの結婚は神に対する信仰と献身によって導かれたと言って良いだろう。パウロはキリストと教会を夫と妻に たとえた。キリストはご自身のいのちを捧げて教会を愛し、それゆえに教会は主にお従いするのである。とすれば結婚が軽んじられるなら信仰の土台が揺らぐこ とになる。


2016年2月7日   イサクの結婚

創世記24章1節〜21節


聖 書に出てくる聖徒たちは私たちと違う雲の上の人物であるかのように思われがちだが、決してそうではない。同様の経験をし、その中で神の働きを見た人々だっ た。冠婚葬祭という言葉があるが、実際、妻の葬りの次には息子の結婚が記されている。イサクの結婚話であるが、そこで重要な働きをしたのはアブラハムのし もべである。

ア ブラハムはイサクの結婚のために条件をあげる。それは親族から妻を迎えるよう、そしてその女性が嫁いでくるということだった。このことはアブラハム契約と 密接に関係していた。カナンが神様からの約束の地であること、イサクの伴侶も同じ神を信じていることはゆずれなかったのだ。信頼するしもべに全権を委ねて 送りだした。

し もべは主人の故郷に向かった。アラムとは現在の紛争地シリアのことである。彼もまた信仰に溢れる人物であって、この大事に祈りによって事にあたる。井戸で のリベカとの出会いと、そのかいがいしく働く姿に神の祈りの答えを見たのだ。私たちも祈りの答えを性急に判断するのではなくて、じっと見定めて行くことが 重要である。

ラ バンがすぐにやって来る。リベカの兄でおそらくこの時、家長であったのだろう。家に迎えられ会食の席が整えられると、しもべはすぐに本題を切り出す。リベ カを連れ帰ることができなければ食事を取れないというのだ。そこでの返答が「このことは主から出た」と言うことであった。だからアブラハムはここから嫁を 迎えたのだ。


2016年1月31日  サラの葬り 

創世記23章1節〜20節


ア ブラハムは妻の死に目に会えなかった。家畜といっしょに移動中だったのか、あるいは身体の弱ったサラがヘブロンで療養中だったのかもしれない。アブラハム は泣いた。どちらかというと感情をあまり表に出さないように見えたこの人も、人目をはばからず泣いたのである。文字通り苦楽を共にした糟糠(そうこう)の妻であった。

葬 りのためにアブラハムは墓所を求めることにする。実はまだ一片の土地も彼は手にしていなかったのだ。彼は気の長い当時の売買交渉を経て、相手の言い値でマ クペラのほら穴とその畑地を購入する。それはよそ者である彼が、後になって言いがかりをつけられないためであった。初めて手に入れたその土地に妻を葬った のである。

夫に良く従った妻だった。またアブラハムとともに信仰に歩んだ人だっ た。アブラハムに与えられた神の啓示を自らのものとして受け入れ共に故郷を後にしたのだ。その従順によって彼女は称賛されている。Tペテ36 このように葬りは故人を偲び、その歩みに倣う ことを確認する。そして天の御国での再会を望むのだ。ヘブ1116

キ リスト教の葬儀には悲しい中にも望みがある。涙の中にも慰めがある。それは死ですべてが終わるのではないことを知っているからだ。キリストは天の御国の門 を開いてくださった。十字架と復活は、罪の赦しと永遠のいのちの保証なのである。神の元へ向かう私たちの願いは、自らの死が神の栄光を現すものとなること ではないか。


2016年1月24日   主の山には備えがある

創世記22章1節〜14節


ア ブラハムの生涯のクライマックスと言って過言でない。神はアブラハムを試練に会わせられたとある。余りにも峻厳な神のお命じに、恐れを覚えるのは私だけで はないはずだ。これが信仰者の必ず通る道だとしたら誰が神を信じようと思うだろうか。アブラハム、ただ一人神の祝福の契約の担い手になった彼ゆえの試練 だったのだ。

次 に驚かされるのは、アブラハムの徹底的な従順、服従の姿だ。何一つ反論も、あるいは問いかけもせずに、粛々と神の命に従う。時を延ばすことなく翌朝イサク と2名の従者を伴い出発する。そして目的地であるモリヤの山にはイサクと二人で登るのだ。従者に邪魔されぬためである。神とアブラハムの息を飲むような時 間である。

そ してイサクの問いかけに答えるアブラハム。その胸に去来するものは何だったであろう。すべての退路を断った彼は祭壇の上のイサクを正にほふろうとする。正 気の沙汰か!アブラハム 彼は正気だった。その時、神から待ったがかかる。分かったと。そこには一頭の雄羊が備えられていた。神は一体何をしようとされた のだろうか。

こ れはキリストの贖いの型であった。モリヤの山とは後のエルサレムであり、そこに十字架が立てられた。キリストは十字架を背負いそこに向かう。御子は神の独 り子であった。御子は人類の贖いの羊となられたのである。それにしても、アブラハムの神への返答、はい、ここにおります。私たちはそのようにお答えできる だろうか。


2016年1月17日   イサクとイシュマエル

創世記21章


イ サク、その名の意味は笑い、神の御告げに失笑したアブラハムとサラだったが、誕生によってそれは本当の笑い−喜びとなった。冷やかしや嘲りの笑いではな く、本当に祝福と歓喜の笑いになったのだ。確かに誕生ほど人々に喜びと希望を与えるものはないだろう。まして、イサクは約束の子であり、アブラハム契約の 確証だった。

し かし、どんな喜びの背後にもそれを素直に祝えない人はいるものである。イシュマエル、女奴隷ハガルの子であったが、アブラハムの実子である。父親や家の人 々の注目がイサクばかりに集まるのは面白くなかっただろう。彼は幼児であるイサクをからかう。人間的には彼を責めるのは酷だとも思うが、すでに成人間近で あった。

そ う、そもそもの間違いはアブラハムとサラにあったのだ。しかし母となったサラはわが子の将来に禍根を残すようなものは断固として取り除いておきたかった。 母性愛は時には利己的である。二人を追い出すように夫に願う。悩んだ末、アブラハムはそれに従う。もちろん神の声を聞いたからだが、この親子に対し哀れさ が募る。

こ の時も神はこの親子を救い出される。イシュマエルの名は「主は聞かれる」という意味であった。イサクとイシュマエル、これは後にパウロによって信仰義認の 例証に使われた。約束の子が相続人となるように、キリストを信仰によって受け入れる人を義とされる。決して律法を守ることによるのではないと。我々は自由 の子だ。


2016年1月10日   救い出されたロト

創世記19章


ア ブラハムの執り成しの祈りの結果はどうなっただろう。ソドムの町には十人の正しい者はいたのだろうか?人の姿となった二人の御使いはソドムの町に入る。そ こにいたのはロトだった。広場といっても空き地ではなく、当時の城壁都市ではそこで政治や裁判が行われる公共の場だった。ロトはその町で顔役となっていた ようだ。

旅 人を迎え入れるロトの態度を見ると、彼は神の民としての特質を失ってはいなかった。加えてソドムの町の危険性を知っていたのだ。御使いとは知らずに二人を 歓待する。そこにやって来たのがソドムの人々。彼らを良く知りたい−婉曲的な言い方がしてあるが、これは性的な意味合いでホモセクシュアルのこと−と迫っ て来た。

こ の町の乱れように神の裁きは決定的なこととなる。御使いはロトに家族を集めるように助言するが、婿たちは耳を貸さなかった。ぐずぐずするロトを急きたて て、彼と妻と二人の娘の手を取り、その町から連れ出す。乱暴なようであるが、これは神の憐れみだった。罪とその力からの退散、これは早ければ早いほどよい のである。

 私 たちの救いも、神が私たちの手を取って罪と死から救い出してくださったのだ。ぐずぐずする私たちをキリストの血潮によって。一つの教訓が示される。ロトの 妻は塩の柱になった。振り向いてはならない−罪の世を慕ってはならいのだ。ロトの救出、その背後にアブラハムの祈りがあったことを私たちは知る。執り成し の力を


2016年1月3日  自分の日を数える

 詩篇90篇


モーセは聖書の中でも指導者中の指導者といえる。私利私欲のためではな く、神のご計画と神の民のために生涯を捧げ尽くした人物だった。この詩篇は神の人モーセの祈りという表題が付いている。ナイル川から引き出され、出エジプ ト、40年の荒野の旅路を経て、約束の地カナン目前で召されていったこの人の言葉には重さがある。

人 の命のはかなさが繰り返されているのは、神の御心に逆らい荒野で死んでいった第一世代の人々のことが考えられているようだ。一休さんは晩年、次のような歌 を正月に詠んだという。正月や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 似たようなことを人々は考えるものである。だがモーセとは決定的な違 いがある。

そ れはその人の人生が永遠に繋がっているかどうかということ。すなわち神をその基に置いているかどうかである。人が死んで終わりなら、こんなに虚しいことは ないのだが、決してそうではない。私たちの命は神から預かったものであり、その清算が求められるのだ。愚かな金持ちのたとえは神の前に富まなかった者の末 路である。

私 たちは自分の日を正しく数えることが求められている。最近、資産運用や保険見直しのコマーシャルをよく目にする。生きている間の日を数えることが勧められ ているなら、永遠につながる事項については一層の関心が必要だろう。主のために私たちはどのように日を数えるだろう。そして、そこに祝福を願いこの一年を 始めたい。


2015年12月27日   執り成しの祈り 

 創世記18章16節〜33節

ク リスマスでもしばしば名前が出てきたアブラハム。神の契約といえばまずこの人なのである。聖書をそしてイエス・キリストの救いの御業を理解する一つの鍵で ある。主と御使いは旅人の姿をとって、アブラハムを訪ねる。主が現れたとある。イサク誕生を告げた後、ソドムに向けて出発する。神の裁きをその町に下すた めであった。

裁 きを下さす神、何か恐ろしい感じがするかもしれない。神は愛ではなかったのか?裁きと救い、神の義と神の愛とは表裏一体である。神は決して罪をお見過ごし にされる方ではなく、だからこそ、我々の救いのためにキリストは十字架で死なれたのだ。罪は裁かれなければならない。そしてアブラハムは執り成す者として ここに立つ。

ソ ドムの町にはロトとその家族がいた。二人の人−御使い−は町へ向かい、アブラハムは一人主の前に立つ。神に裁きを思いとどまってもらうために彼は乞い願 う。あなたなら一体どのような理由をつけて神に語るのだろうか?自分自身の経歴や善行、あるいは信仰。アブラハムは神の義と憐れみに訴えた。これ以外に根 拠はないのだ。

そ して執拗に祈った。50人から10人まで6度も願ったのだ。だったら最初から10人と言えばいいのにというかもしれない。いや、これは彼の思いだったの だ。執り成しの祈りは他者の救いを願う祈りである。この精神はキリストの十字架のことば、「父よ、彼らをお赦しください」につながる。これは大切な教会の 務めなのである。


2015年12月20日 主キリスト 救い主

ルカの福音書2章1節〜20節


貧 しさ、卑しさ、惨めさ−きらびやかなクリスマスとは正反対に見えるこれらの言葉が、実はクリスマスの現実だったと言える。住民登録とは単なる戸籍作成では なく、それは徴兵と徴税のためであり、為政者の支配の手段だった。キリストが誕生した場所もまた人の住まいではなかった。これはメルヘンではなく悲惨な現 実である。

ア ンデルセンのマッチ売りの少女がクリスマスの日のお話だったことを思い起こす。幼い時には余りにもかわいそうなお話で、何がいいのか分からなかったが、今 はどうしようもできない貧しさや卑しさの中に現される神の恵みを伝えようとしたのだと思えるようになった。神の恵みが見いだせないような所にも神は恵みを 注がれる。

天 使の御告げを聞いた羊飼いたちもまた疎外された者たちだった。彼らの探し当てた幼子は飼い葉桶に寝かされていた。天空に現れた神の栄光とは正反対の暗くて 汚い場所だった。それでも神を賛美した。そこに救い主はお生まれになったのだ。キリストの貧しさと卑しさ、それはこの世界をお救いになるために負われたも のである。

キ リストの救いは、破たんした私たちと神との関係をあるべき姿に回復させる。罪からの救いをもたらす。罪のないお方が罪ある私たちに代わって十字架に死な れ、甦られることによって、私たちは罪と死、サタンの支配から解放されるのだ。幼子はこの使命を担ってこの世にお生まれになった。その背後にあるものは神 のご愛である。


2015年12月13日 バプテスマのヨハネ 誕生

ルカの福音書1章57節〜80節


ひ とつの命が生まれることは本当に不思議だと思う。無から有が生じる。もちろん受精からいのちは始まるのだが、今、存在しない人が1年後には人となっている のだ。一人の人の誕生が家庭を変え、あるいは社会を変えていく。それぞれに神様からの務めを託されて世に生まれるのである。バプテスマのヨハネは主役では なかった。

父 ザカリヤは待ちに待った息子の誕生の第一声は、キリスト誕生の喜びだった。まず自分の子供でしょと思うが、そうではなかった。わが子はキリストでは無く、 キリストに先立つ預言者だと認識していた。もちろんこれも大そうなことである。聖書の民は来るべきメシヤに先立って、預言者エリヤが来ることを信じていた からである。

ザ カリヤの讃歌の中で繰り返されることばが「救い」である。救いの角、これは救い主を意味する。そしてその内容は抑圧者からの開放、しかしそれは政治的なも のではなくて、罪の赦しに基づく救いなのである。ここに民衆の期待と神のご計画の齟齬があるのだが、ザカリヤはすでにそのことを聖霊により見通していたと いうことか。

神 の御救いは神の深い憐れみによってもたらされた。決して人間の知恵や努力、資質や運ではない。罪と死の奴隷とされた私たちを神は愛されたのだ。救い主は私 たちに神との和解、平和をもたらす。ザカリヤの讃歌の中には旧約聖書で語られた預言が凝縮されている。準備は整った。このようにして救い主のいよいよ誕生 するのだ。


2015年12月6日 その名をイエスと

ルカの福音書1章26節〜55節

 

受 胎告知とマリヤの讃歌、クリスマスの前半のハイライトである。イエスの母マリヤは自ら「卑しいはしため」と言っているが、決して謙遜ではなかった。ダビデ の家系には属していたが、すでに王家はなく、一貧民に過ぎなかった。ユダヤ社会においても政治的社会的な権力からは全く無関係のところで生活していたので ある。

し かしユダヤ女性であるなら、突然の御使いガブリエル出現に驚きはしたものの、その告げた意味は容易に理解できたはずである。それはダビデ契約の成就であ る。ダビデの子孫から王が生まれ王国を再興してくれるという約束だった。そして聖霊によって妊娠するという御告げに、おことばどおりにと自らを差し出すの である。

生 まれてくる子どもの名はイエス。これは旧約聖書のヨシュア、その意味は−主は救い給う−という意味である。生まれ来る子どもの名を心に繰り返しながら、マ リヤはエリサベツの家に急ぐ。これは御使いの言葉が本当かどうかを確かめるためであった。そしてエリサベツの返答に自らの経験が夢幻でないことを確信した のだ。

イ エス・キリストの誕生は永い神のお約束の成就であった。マリヤの讃歌の最後ではアブラハム契約の成就だと言っている。聖書を貫く神の救いのご計画を見てい るのだ。神はこの世界を御救いになるために、いよいよ独り子をお遣わしになった。そしてそれは最も貧しく、卑しい所から始まる。最も低い所に神の恵みは現 れる。


2015年11月29日 約束の子イサク

創世記17章1節〜8節 15章


古 くは人間の手の及ばないことがいくつもあった。出産はそのひとつである。不妊の女性が出産することに神の働きをみる、聖書に繰り返される出来事である。ア ブラハムとサラ、待ちに待った子どもの誕生が告げ知らされたときに、笑うのである。喜びの笑いではなく、そんな馬鹿なという笑いである。あきらめていたの だろう。

イシュマエル誕生がから13年、 アブラハムはこの子が約束の子かもしれないと考えていた。サラに至っては閉経後に何をいわんやということだったのだろう。そう、神様の特別な働きがあった と言っているのだ。これはキリスト誕生にこだまする。祭司ザカリヤとエリサベツにヨハネ誕生が、マリヤにはキリスト誕生が告知される。

ア ブラムがアブラハムとなり、サライがサラとされ、割礼が契約のしるしとなる。アブラハム契約がここに明示されているのだ。イスラエル民族の始まりである。 神は多くの国民の中からこの民族をお起こしになり、神のご計画を担うものとされた。それはその一人の子孫によって人類を罪から解放し、救いをもたらすため である。

約束の子の誕生をこの夫婦が待ち望んだように、約束の救い主がこの世に お生まれになった、これがクリスマスのメッセージである。イスラエル民族の歴史の中で、繰り返された神の約束と預言者による神の言葉はキリスト来臨を示し ていた(旧約聖書)。そして新約聖書におい て神の救いのご計画がキリストにおいて成就するのだ。


2015年11月22日 神の時を待つ

創世記16章1節〜16節


待 ち切れなかった!そういうことである。この地に来て10年、夫婦ともども神様の約束を信じてきたけれども、私にはもう無理、サラはそう思った。そこで女奴 隷ハガルによって子をもうけようとした。現代の感覚からすると違和感を覚えるが、古代オリエントでは合法的なこととされていた。アブラハムもそれを受け入 れる。

確 かに神様はアブラハムにあなたの子孫が一つの国民になると言われた。サラの子とは言っておられなかった。しかし夫婦であるからには、それは明白だったはず だ。アブラハムも待ち切れなかったのだ。ハガルはイシュマエルを身ごもるが、このことは祝福とはならず、混乱を招くことになる。ハガルはサラの所から脱走 する。

信 仰の父アブラハム、模範たる夫婦の姿はどこにいってしまったのだろう。そして何よりも憐れなのはハガルである。もちろん彼女にも非はあったが、主人の身勝 手な思いに翻弄されたのだ。しかし、神は弱く憐れな女性をお忘れにはならなかった。主の使いが現れる。聖書ではこれは特別なことである。神の憐れみが示さ れた。

ハ ガルの子には祝福が告げられたものの約束の子ではなかったのだ。人間の小細工によって神の計画が進められることはない。神はご自身の定められたときに御業 をなさるのだ。神の時を待つ、それは私たちには困難である。しかし、聖書の最後の言葉は、主イエスよ、来てくださいである。キリストの再臨を待ち望む言葉 なのだ。


2015年11月15日 天を見上げて

創世記15章1節〜7節


ア ブラハム契約として有名な個所である。今まで2度この約束は繰り返されてきたが、いわば正式な契約締結とでも言える。ただこの契約にはアブラハムの側の付 帯条項がない。条件抜きの、いわば神の一方的な申し出なのである。それを信仰によって受け取っていく、ここに後の偉大な信仰義認の教理が明らかにされてい るのだ。

あ なたの子孫は空の星のようになる。現在あまり実感のない表現だが、海辺の砂のようにという言い変えた表現のほうが分かりやすい。ただ宇宙望遠鏡から送られ てくる宇宙写真には正に数えきれない星が写し出されている。確かにネズミ算では瞬く間に天文学的な数字が現れるが、それは始まりがあってのこと。それが無 かった。

年 老いて子のないアブラハムは深く悩んだ。神様の約束はどうなってしまったのだろうと。このままだと後継ぎは養子を迎えざるをえないように思えた。しかし神 は実子によってこの約束が成就することを繰り返された。恐れるな、神は弱く迷いやすい私たちにそう語られる。よみがえられた主が弟子たちに語られたのと同 じである。

新 約聖書に繰り返し引用された信仰義認とは、神の救いは神の一方的な恵みに基づいており、私たちに求められているのは、信じること、へりくだって神の恵みを いただくことである。私たちの救いのためにキリストが十字架に死なれ、よみがえってくださったからだ。私たちがどんなに努力してもできないことを神はして くださる。

 

2015年11月8日 歴史の中に働かれる神

使徒の働き17章22節〜


 歴史はお好きですか?あまり興味がないひょっ としたら試験のための暗記科目だったからかもしれません。聞き覚えのないカタカナの羅列や年号に、難しい漢字、うんざりしたでしょう。でも歴史を好きにな るきっかけがあります。ドラマや歴史小説を読んだり、今ならアニメやゲーム等でも歴史好きの入り口になるのでしょう。

歴史、それは物語であることに気付きます。Historyここからstoryという言葉が生まれ たそうです。聖書の歴史は冒頭の天地創造と人類の拡散を別にすれば、旧約聖書ではBC2000年〜BC400年、新約聖書では紀元一世紀のイスラエル民族の歴史です。そしてそこには多くの物語があり、いやそ れ以上に一つの物語となっているのです。

神 は私たち人類の歴史にどのように関わりをもたれるのでしょう。使徒パウロはアテネでの説教の中で神は決して私たちから遠く離れたところにおられるのではな いと言いました。私たち人類の営みは神のご支配のもとにあると言います。そして神はご自身を歴史の中に啓示された。それが聖書に書かれている事柄といえま しょう。

西暦ではキリストの誕生を境に紀元前BCと紀元ADに分けます。BCはキリスト以前、ADは主の年という意味です。神 は遠く離れた所におられるわけではないとありましたが、それにもまして神はキリストを通してご自身を歴史の中に明らかにされたのでした。神の愛が示され、 キリストご自身によって救いに至る道が開かれたのです。


2015年11月1日    救  出
創世記14章13節〜24節

ア ブラハムの生涯の中で戦った唯一の記録である。メソポタミヤの4人の王がみつぎを納めることを拒否したパレスチナの5人の王を攻撃し、財産や人々を略奪し た。死海とヨルダンの低地が戦場となった。ユダ山地に暮らすアブラハムには被害は及ばなかったものの、捕虜の中にはロトとその家族が含まれていることを聞 いたのだった。

ア ブラハムはロト救出のためにすぐに立ち上がった。侵略者たちを追撃して、ロトや戦利品を取り戻したのである。凱旋帰還した彼の所に二人の王がやって来る。 ソドムの王とシャレムの王である。ソドムの王は戦利品の放棄を申し出、捕虜だけを返すように願う。しかしアブラハムは必要経費の他はすべて持って帰ること を許可する。

当 時のルールではそれはアブラハムのものであったが、彼は神の祝福が自らを富ませることを知り、所有権を放棄した。信仰による判断だった。そしてもう一人の 王メルキゼデク、彼はキリストの例証として新約聖書で引用されることになる。最初の祭司である。祭司とは神と人との仲立ちであって、彼が神の祝福を与えた のであった。

ア ブラハムとロト、前章ではその決断がロトにとって有利に見えた。そこにあった落とし穴、それはまずこのような形で現れた。それ以上に気をつけなければなら ないのはロトがすでにソドムの住人になっていたことである。神の民はそこに住んではならなかった。それがどのような悲惨をもたらすのか。それは後の章で学 ぶことになる。

 

2015 年10月25日   再  出 発

創世記13章1節〜18節


ア ブラハムの信仰の旅路は仕切り直し、彼がカナンに到着した場所に再び滞在し、主の御名を呼び礼拝をささげた。リセットされたように見えるが、その失敗から 学んだものは決して無駄にはならなかったようである。それは神は恵みと憐れみに富んでおられるということだ。信仰の旅路は木の年輪のように人格を豊かなも のにする。

こ こで困った問題が起こる。家畜が増えすぎたために、食料が足りなくなってロトとアブラハムの牧者たちが衝突したのだ。家族同様に共に歩んできた二人に別れ の時が訪れたのである。アブラハムは選択権をロトに譲って、境界を定めた。ロトはより食料の得やすい、緑の豊かなヨルダン川沿いの低地に移住して行ったの だった。

本 来なら年長者であるアブラハムが良い方を選んでも良かった。それが当然だったがあえて譲ったのだった。信仰のなせる業である。だがこれが正解だったことが 後に明らかになる。ソドムがそこにあったのだ。私たちは多くの場合、損得で物事を判断するが、そこにも神様のお働きがあることを覚え正しい分別が求められ るのだ。

ア ブラハムの再出発はただ彼が最初の地に戻ったことではない。そこで神様が再び彼に約束を繰り返してくださったことから始まる。より明確になった神の約束を 手にして再出発する。約束の確認とそこからの派遣、これは私たちが毎週繰り返す礼拝であり、主の晩餐の意味でもある。正に信仰者は何度でもやり直すことが できる。

 

2015 年10月18日   ア ブラハムの失敗

                    創世記12章10節〜20節


信 仰の父、神の友と紹介して始まったアブラハムの生涯だが、早くも暗雲がたれこめる。神様の導きに従って到着した約束の地、それなのに飢饉に襲われたのだ。 元来雨の乏しい地域にさらに日照りが続く。以前住んでいた場所では水に困ることはなかった。結局彼はもう一つの古代文明発祥の地であるエジプトに逗留する ことにした。

サ ラの美貌が年齢の割には注目されているが、一つはハムの子孫であるエジプトとセムの子孫とは肌の色が異なったのではとも言われる。アブラハムはサラが原因 で生存が脅かされることを恐れた。二人は生き延びるために、夫婦であるよりも兄姉であると言って口裏を合わせる。しかしサラはエジプトの王に召し入れられ てしまった。

サ ラの輿入れと同時にアブラハムには多くの財産が与えられたが、破滅と背中合わせであった。しかしここで神がこの夫婦を救われる。パロは身の回りに起こる不 吉な出来事をサラが原因であることを突き止める。そして迷信深い王は自分の身に害が及ぶことを恐れ、早くここから出て行くようにと命じた。神の選びが彼ら を救った。

恐 れが神への信頼へ向かわずに、人間の小細工に向かったときどうなるのか、私たちの戒めにしなければならない。アブラハムが救われたのは神の約束に基づいて いた。あなたを祝福する者を祝福し、のろう者をのろうと。この失敗は大きな教訓となったに違いない。私たちも人生の飢饉に際してどのようにすべきか考えさ せられる。

 
2015年10月11日   あなたの父の家を出て
創世記12章1節〜8節

創 世記は天地創造から始まり、最初の人類アダムとエバ、そして人類の堕落、ノアの箱舟、バベルの塔と世界を俯瞰してきたが、ここに至ってある人物にフォーカ スする。そうアブラハム、そしてその後、聖書はこの一つの家系に注目することになる。イスラエルはその子孫とされ、イエス・キリストの系図にはアブラハム が登場する。

ア ブラハム−当初アブラムであったが−とその父テラの家族はカナンを目指してカルデヤのウルを出発する。ここは遺跡群の発掘で有名でチグリス・ユーフラテス 川河口近くの古代都市である。また月神礼拝の中心だったとも言われる。まず、父テラはカナンを目指し出発したが途中ハランに定住した。古代シリヤ北部にあ たる地域だ。

テ ラがどうして志し半ばにして旅を止めたのかは分からぬが、アブラムは主の声を聞いて旅立つ。これが起点となった。小さな一歩が彼の生涯ばかりでなく、歴史 さえ変えたのだ。それは信仰の一歩でもあった。「あなたの生まれ故郷、父の家を出て」、青年期であればまだしも、それまで築きあげてきたものを捨てて彼は 出発したのだ。

ク リスチャンの始まりもこれに似ているかもしれない。これからキリストに従って行こうと心に決めて一歩を踏み出す。その一歩が起点となるのだ。テラとアブラ ハムを分けたものは一体何だったのだろう。それは聖書に啓示された真の神への信仰だ。この御方、キリストに従う人を神は祝福し、その人が他の人を祝福する 者となるのだ。


015年10月4日   バベル/混乱
創世記11章1節〜9節
  

聖 書の始まりは現在の中東、歴史でいうとメソポタミア地方である。その後、もうひとつの古代文明の栄えたエジプトにも舞台は広がり、両地域にはさまれた東地 中海沿岸パレスチナがイスラエルの約束の地、カナンと呼ばれた。この話の舞台はシヌアルの地、チグリス・ユーフラテス川流域、現在のイラン、イラクにまた がる地域である。

大 洪水が終わり、ノアの子孫たちによって仕切り直しされた世界であるが、人の考えることとやることは変わらなかったと言える。実際に歴史ではこの地域に初め て都市国家が生まれたとされ、ジグラットと呼ばれる遺跡/バベルの塔を思わせる/が残されている。彼らは何を目指したのか?天に届く塔を建てよう、神を目 指したのだ。

天 とは神の領域を指しており、自らが神にようになる−これは結局、現代人の姿とダブるのではないだろうか?医療の分野においても、政治や経済においても神を 抜きにした世界のめざすところはここに集約する。神は町と塔をご覧になるために降りて来られた。天は遥か遠く、神にようになると言い張る人間の姿はまこと に滑稽の極みだ。

神 はどうして人々に混乱をもたらしたのか?それは神の裁きだったのか。いや憐れみだった。破滅への道を留めたのだ。また地に満ちよと言われた御言葉は現実の ものとなった。我らの行く末を阻む神の御手は憐れみなのである。そして異なった言語でも一つにされる。ペンテコステの日に、一つ御霊で同じ神の言葉を聞い たのである。


2015年9月27日   虹 の 契 約

                    創 世記8章〜9章17節


約 一年間、暗い箱舟の中でノアたちは一体どんな気持ちでいたのだろう。一か月以上降り続く大雨、漂い始めた箱舟船中で、どこに流されていくのかも分からな い。ようやく地面に触れて箱舟が停止してからも、すぐには出ることはできなかった。募る不安とストレス、長い忍耐の時間だったと思う。天窓から見える光が 頼りだった。

そ のような中で次のことばは大きな慰だ。「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。」神は決して救 いの選びの中にいるものをお忘れにはならないのだ。クリスチャンは困難にあわないのではなく、困難の中でも神は決してお見捨てにならない、救ってくださる と信じている。

ノ アの放した鳩がオリーブをくわえて戻ってきたとき、長い忍耐は終わりを迎えた。屋上から見渡す緑の景色は喜びと希望を与えた。彼らが最初にやったこと、そ れは祭壇をきずき、いけにえをささげることだった。そう、礼拝をささげたのだ。神の救いに感謝し、神への献身を表したのだ。神はそれを喜んで受け入れてく ださった。

神 は彼らに約束を与え、そのしるしに虹を立ててくださった。ノアとその家族を、新しい世界の出発とされた。世界の管理と何よりも人の命を大切にするよう命 じ、地を満たすようにと祝福された。昔、虹は神の契約のしるしとなり、今は十字架がイエス・キリストによって、新しい神の契約のしるし、神の救いのしるし となったのだ。

 

2015 年9月20日   閉 じられた扉

創世記7章1節〜24節


先 週の茨城県常総市での洪水のニュースを思い起こす方もおられるだろう。しかしノアの大洪水は地域も規模も期間も想像もつかないものだった。以前ならそんな ばかなことがあるはずないと思ったかもしれないが、昨今の異常気象や巨大災害を思い起こすと、そういうことが過去にあったとしても否定できないと感じるよ うになった。

40日雨が降り続き、150日 の間、水が増え続けた。すべてのものは水の下に沈み、地上に残されたものは箱舟の中のノアの家族と生きものであった。箱舟が唯一の救いの希望だった。箱舟 にノアが最後に入った時、後ろの扉は閉ざされた。そう、神様がその扉を閉じられたのだ。それは神の憐れみの時の終わり、裁きの開始を意味したのだ。

箱 舟は人々に救いのしるしとなっていた。経験したことのない大雨と大洪水、そこから救われる唯一の箱舟、それを多くの人は目にしながらも気にもとめず、神様 のことを考えようともせずに暮らしていた。神の憐れみの目印だったのだ。まるで十字架の立つ教会の前を素通りしていく人々の姿とダブるではないか。十字架 こそ救いの印。

キリストもノアのたとえを引いておられる。「人の子(キリスト)が来るのは、ちょうど、ノアの日のよう だ」と。もちろん神はこの世界を大洪水で滅ぼすことはない。しかし神はこの世界を新しくされると言われるのだ。扉が閉じられる(終わりの時)前に箱舟(キリストの救い)に入るように呼んでおられる。私た ちはそれを見ているのだ。

 

2015 年9月13日    義 人 ノ ア

創世記6章5節〜22節


ノ アの箱舟、これもまた聖書を読んだことの無い人でも知っている話である。数年前には映画にもなった。大洪水によって人類は滅び、ノアの家族と動物が生き 残ったというストーリーだ。先週の大雨による洪水や震災による津波被害を思うと私たちにとっても決して人ごとだとは思われないのである。中心人物はノアそ の人である。

ア ダムの子孫、そしてカインの子孫たちが増え広がり、地上には罪の増大と、悪への傾倒が顕著になるのをご覧になった神は心を痛められたとある。神は私たちに 自由意思をお与えになったが、罪ある人間はそれを神の栄光のために用いることをせずに地上は混乱した。ひるがえって一体神は現代をどのように見ておられる だろうか。

ノ アは主の心にかなっていたとある。時代が堰を切ったように悪へ悪へと向かう時代に、どのようにして彼は一人立ちおおせたのだろう。彼は神と共に歩んだとあ る。信仰によって生きたのだ。信仰によって生きる神の子たちの系譜に名を連ねているのだ。もちろんセツの子孫が皆そうであったわけではない。父は彼を慰め と名付けた。

信 仰とは何だろう。神の存在を信じることか。それ以上のことである。生きておられる神がお語りになることを知り、それを心から信じることである。そうたとえ 信じられないようなことであっても。ノアは神の言葉にしたがって箱舟を作った。大洪水なんて誰も信じない時に丘の上に建てたのである。私たちは何に聞けば 良いのか。


2015年9月6日   エデンの東

                      創世記4章1節〜16節


エ デンの東、この言葉を聞くと、懐かしい映画音楽がよみがえってくる方もあるだろう。この聖書をヒントにした、父親と二人の息子の話だった。エデンの東はカ インが住み着いた場所として聖書に記されている。エデンの園は神の栄光と罪をもたない人間の理想郷だったが、こちらは罪を犯した人間の悲惨を現わす場所と なった。

カ インとアベル、アダムとエバの間にできた最初の兄弟だった。エバはカインが生まれた時、約束された神の救いを期待したようである。しかし、実際に起った事 件は、兄が弟を殺すという、あってはならない出来事となった。神が「それを食べる時あなたは必ず死ぬ」と言われたその意味をこの夫婦は涙ながらに知ること となる。

こ の事件の原因は何だったのだろう。カインの嫉妬が恐ろしい結果を生みだした。神様はアベルの捧げものだけに目を止めて、自分を無視した。不公平だというの だ。しかしその背後にあるものを私たちは知っている。アベルは信仰によって捧げたがカインにはそれが無かった。自分の欠けを反省するよりも弟を恨む方を選 んだ。

罪 を犯したカインは神様の問いかけに白を切る。弟の番人ではない。何とふてぶてしいことか。その両親は人のせいにはしたが、罪は認めたのに。罪の増大と凶暴 化を見る。そしてこれは他人事ではないのである。それでも神は憐れみを持って人を導かれる。カインにしるしを与え、アダムとエバには救いの家系にセツが生 まれる。

 
2015年8月30日  
楽 園追放

創世記3章14節〜24節


アダムとエバが楽園(エ デンの園)から追放される。失楽園とも表現され、古くは17世 紀の詩人ミルトンの作品や映画の題名にもなった。罪をまとうことになった人類はそのいまわしさと恐ろしさに戦慄することになる。神が「それを取って食べる とき、あなたは必ず死ぬ(霊的な死と肉体の死)」 と言われた意味を理解するのだ。

女 に対して神は産みの苦しみと夫の支配を言い渡す。しかしこれは確定的な神の懲罰ではなくて、罪の結果としてそのような状況に置かれることを言っているの だ。出産は神の呪いではなく、男性の支配は神の認可されたものでもない。それらは罪がなかった当時には存在しなかったのだが、罪によって現実となってし まった。

男 には労働の苦しみが言い渡され、肉体的な死の宣言がなされる。これもエデンの園では経験しなかったことがらである。園は潤い、豊かな実りをもたらしたが、 のろわれた土地は実りを困難にしたのだ。そして、いのちの木から遠ざけられた彼らにはやがて死が訪れる。私たちはすべて土に帰る。これも罪の結果なのであ る。

神は罪を犯した私たちをお見捨てになったのだろうか?そうではない。女 の子孫(キリスト)による救いを約束された ばかりか、二人に皮の衣を着せてくださったとある。神は憐れみによって彼らを覆われる。神はすでに救いのご計画をお持ちであった。人の罪を贖い神に帰る道 を用意されたのだ。キリストの贖いこそそれである。

 
2015年8月23日  責任転嫁
 
創世記3章8節〜24節  


善 悪の知識の木の実を食べた人間におとずれた変化、それはまず、神との関係が違ったものとなった。人は自らの罪を自覚し、神を恐れるようになった。そう罪あ る存在、罪の性質を宿すものとなったのだ。その堕落による変化が、アダムとエバの神に対する応答の中に見出される。私たちにもよく行う言い逃れと責任転嫁 である。

ア ダムのセリフは、「あなたがそば置かれたこの女が」まず神に対する非難。そして、「私にくれたので、私は食べた」妻に対する責任転嫁。もちろん食べていな いと言い張ってはいないが、自分の責任をできるだけ少なくしようと、いや自分は悪くないと言わんばかりだ。罪を認めて心底から謝罪することができなくなっ てしまった。

エ バもまた同様であった。「蛇が惑わした」−そう、誘惑した蛇が悪いのです。蛇がいなければ罪を犯さずに済んだのに−多くの場合、私たちの口から出る弁解の 言葉も同様である。罪を自分のものとして認められるかどうかがキリスト教信仰の根幹に関わる問題である。これを認める人がキリストの救いに至る事ができる からだ。

パ ウロはアダムの罪とキリストの救いを対比して次のように語る。「ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為に よってすべての人が義と認められる。」ただアダムの犯した過ちの責任を子孫がとるというのではなく、それぞれの罪の性質によってキリストの救いが必要なの である。


2015年8月16日
    神のみ顔を避けて
創世記3章1節〜13節
 

神、 アダム、エバ、そしてもう一人?の配役。突然、蛇が出てきて、しゃべり出す。エデンの園では動物は自由にしゃべったのか?違う、蛇の背後にいたのは悪魔、 サタンである。あれ、一体サタンはどこから来たのだろう? 天地創造には何も書いていなかった。そう、霊的な存在の創造については何も触れられていなかっ たのだ。

し かし神様はみ使いをも創造された。そしてサタンは神に反逆した天使、堕天使だとされる。人を誘惑するものとして聖書にはたびたび登場するのだ。その誘惑の 仕方はまことにずる賢い。誘惑はこのようにしてやってくる。それはあたかも味方のふりをしてやってきて、知らず知らずの内に正しい道から引きずり下ろして しまう。

「神 は言われました。死ぬといけないからだ」そうではなくて「死ぬ」と言われたのだ。巧妙な言い換えと同時に、神に対する不信感を受け付ける。「それを食べる と神のようになる」ことを恐れたのだと。二人は善悪の知識の木の実を食べた。彼らは倒れたのか?それは毒リンゴではなかった、だがもっと恐ろしいことが起 こったのだ。

彼らは霊的に死んだ。聖書は罪の起源をここに置く。彼らは自らが裸であ ることを知り、神との交わりを失う。そして肉体の死をも後に経験することになる。神との交わりが彼らの喜びであったのに、もう神を正視することができない。神のみ顔をさけて身を隠し、恐れる。 そんな二人を神は呼ばれる。あなたはどこにいるのかと。


2015年8月9日   人類の創造A
創世記2章15節〜25節


エ デンの園はどこにあったのだろう。エデンというのは園の名前ではなく地名である。実際に古代の文献にもその名が見られるそうである。メソポタミヤのある地 域に神は園を置かれて、そこに人を住まわせた。そしてそこを耕し、守ることをお命じになった。これは労働の祝福が与えられたことを教えている。労働は喜び だった。

そして神様との約束が与えられる。神は人間に自由意思をお与えになっ て、神に従うことと逆らうことが出来る可能性を秘めたものとして置かれたのである。神は人間が自ら神に仕えることを願われたのだ。そして、もう一つの祝福 を置かれた。助け手として、人の肋骨(わき腹)を 取り女性を造られた。そう、それは結婚の祝福である。

労 働と結婚、これらは人間の社会の根幹となってきたものである。もちろんその形態は時代と共に変わる。労働の道具は鋤や鎌だったが、今やインターネットや サービス業と多種多様である。結婚についても同性間カップルにも等しい権利を認める方向へ行政も動きつつある。こんな世界を神はどのようにご覧になってい るのだろう。

祝 福としておかれたものが本来の喜びと目的を失ってしまっていると言えないだろうか。資本主義ではお金を稼ぐことが労働だと考えるが、アダムは給料をもらっ ていたわけではない。結婚、それは家庭を築くことを意味するが、それが崩壊しかけているのだ。本来それらは神礼拝とそのご栄光のため備えらえられた物だっ たのだ。


2015年8月2日   
人 類の創造

創世記2章4節〜18節


最初の人類、アダムとエバ(あ るいはイブ)、 その名前を知らぬ人もいまい。遺伝学の世界にも、アニメやゲームの中でも始まりの名として出てくるのである。しかし、このアダムの名前を創世記に探してみ ても中々出てこない。新改訳聖書では3章の後半になって、エバ、そしてアダムの名前がようやく出てくる。どうしてだろう。

神 は土地のちりで「人」を形造り、いのちの息を吹き込まれたとある。この人こそアダムなのだ。アダムとは最初の人間の固有名詞であると同時に、人類そのもの をさす言葉でもある。少しややこしいかもしれないが、これは解釈と翻訳の問題で、文脈や前後関係から人と訳し、アダムと訳す。だからエバとそろってアダム は登場する。

人 類の創造は、人のいのちのはかなさと同時にその価値を教えてくれるようだ。どんなに財産を持った人でも、その肉体自体の価値はほとんどないに等しい。70 パーセントほどの水と有機物とリンや硫黄である。しかし、それは神によっていのちの息が吹き込まれた存在なのである。これは体のいのちと霊のいのちを言っ ている。

神 は人をロボットにはしなかった。意志を持ち、自ら決断することを望まれた。エデンの園に置かれた善悪を知る知識の木の実は私たちが自らの意思で神を愛する ことができる印となった。真の交わりはそこから生まれる。だから神は強制的に人を従わせようとはなさらず、かえって御子によって交わりを回復しようとされ たのだ。

   
2015年7月26日   天地創造
創世記1章3節

光 があれ−天地創造の神の第一声である。どうして最初に光が造られたのだろう。そしてこの光とは何だろう。光と聞いて私たちが思い浮かべるのは太陽光だが、 創造の6日間を読んでみると太陽が登場するのは4日目だ。ならば太陽が造られたと言われているのとは違う。闇を振り払い、世界を神の輝きで満たす光が造ら れたのだ。

聖 書では神を表現する時に光になぞらえることがある。もちろん自然科学の光線のことではなく、神の栄光を指しているのだ。旧約聖書では神は光の中に住み、人 はそれを見ることができない−見ると死ぬと考えられていた。新約聖書でもキリスト誕生を知らせる天使らは主の栄光に輝き、パウロは天からの光に照らされて 回心した。

ヨ ハネ福音書の1章で、キリストがすべての人を照らすまことの光と呼ばれているのも偶然ではなく、光があれという神の言葉が意識されている。神に反逆した人 間の世界、それは闇であり、神のご支配を回復するためにキリストは来られて、すべての人を照らす。福音の光は人間の罪をあらわにし、救いへと導いてくれる のである。

聖 書は神と人間との関わりの書である。天地創造、それは私たちがこの世界に住むために造られたといっても良い。決して人類の思い上がりではなく、神のかたち として神はこの世界を人間に託されたのである。光は闇に輝いて、闇は光に打ち勝たなかったとヨハネは記す。あなたの心の闇(原罪)はキリストによって解決されるのだ。


2015年7月19日  
天  と 地 を
創世記1章1節 


天 と地、私たちの世界はここにある。天地創造とは天と地だけを神様が造られたというのではなくて、この世界のあらゆる物をお造りになったことを宣言してい る。私たちは地に足を踏みしめなければ生きていけないし、天より落ちる雨によって食を得、天に輝く太陽、月、星によって時間を知る。この世界は神によって 造られた。

天、 それは空であり宇宙である。昔の人は地球が大気に覆われていて、その向こうに広大な宇宙が広がっているとは知らなかった。しかし、そこに偉大な創造者の御 手の業を見て、神をほめたたえていた。そしてそこは神の住まう場所だと考えていた。神は天にあって私たちを守り支えておられるのだと。今も神は働いておら れる。

地、 それは人の住む場所として備えられた場所である。あらゆる植物や動物がそこに群がる。その創造の冠として人類が創造されたのだ。この地もマクロからミクロ に至るまで、あらゆるものが調和して存在している。神秘に満ちた、複雑な生態系を構成している。そして残念なことにそれを破壊してきたのは私たち人類なの である。

神 は全てのものをお造りになり、今もそれを保っておられる。人がどんなに高ぶったとしても、神の恵みなしには誰一人、一瞬たりとも生きることはできない。神 は全ての良いものを私たちに備えられた方である。それを間違ったものにしたのは私たち人間の過ち、罪である。御子は天から地に下り、私たちを救ってくだ さったのだ。


2015年7月12日   初めに 神が

創世記1章1節


創 世記の冒頭のことばは主要な5つの単語からなる。順序から言えば「創造した」が2番目だが、日本語の語順に従い「神が」について今日は考えたみたい。聖書 に記される神とは、日本で一般的に使われる神という概念とは大きな隔たりがある。日本では八百万の神々と呼ばれ、キリスト教は一神教である。訳語の問題が 出てくる。

戦国時代に日本にやってきたバテレンは当初、大日という訳語をあてた が、如来との混同が起きたためデウス(天主)と した。明治時代になり鎖国が解け、再びキリスト教の布教が始まったが、中国語聖書の影響もあり、神という用語が使われた。それから150年、唯一の創造者という定義はある程度認知されているのではないだろうか。

ヨハネは福音書の最初を次のように始めた。「初めに、ことば(キリスト)があった。」イエス・キリストは神なりと の宣言である。そしてこの初めにとは、創世記の冒頭のことばに遡るのである。この世界はキリストによって造られたのだと新約聖書は繰り返し述べる。聖書の 神とは目に見えない唯一のお方であり、キリストでもある。

そう、キリスト教の神について語るには三位一体の神を示さねばならな い。父なる神、子なる神、聖霊なる神が3つの位格(ペルソナ)を 持ちながら、お一人の神である。人間の知恵を超えた神の姿が啓示されるのである。人として来られた御子、永遠がこの世界に突入しのだ。聖書とキリスト、そ れが私たちに神を証しするものである。


2015年7月 5日   初めに 神が
創世記1章1節


冒 頭のことばが聖書の書き出しである。様々な文学作品がその出だしによって有名となっているが、聖書はそれ以上である。もう少し踏み込んでいうと、初めに− これが聖書の始まりである。旧約聖書はへブル語で記されているが、創世記はこの「初めに」が元来の書名である。この世界の始まり、人類の始まり、歴史の始 まり。

これを土台として聖書が展開されていくわけだから、この分厚い聖書(120030000)の中でも外すことのできない言葉である。いや、これが解らなければ聖書が解らないといっても過言ではないだ ろう。では「初めに」これは何を意味しているのだろう。時間のことだろうか?現代科学では百数十億年という時間をはじきだす。

私たちは時間をさかのぼって考えることができる。私が生まれたとき、日 本が成立したとき、恐竜が闊歩していたとき、地球が煮えたぎっていたとき。その一番先にこれをみる。聖書は時間も神の創造によると告げているのだ。世界が 出現する前に神はおられたことになる。ではそ の神様はどこから?この問には答えはないのだ。

し かし聖書はこれを肯定して始まる。決して疑うことも、議論することもない。私たちはここで、この世界そして私自身の成りたちについて選択を迫られる。とい うよりも、深い感動と納得が与えられる。それは全てのものは無意味に存在するのではなく、意味があるのだと。あなたの「初め」を創造者である神様におきま せんか。


2015年6月28日   ミナのたとえ

ルカの福音書19章11節〜28節


こ れを読んで、あれどこかで聞いたことがあると思った方は、聖書をよくご存知の方である。マタイの福音書にはタラントのたとえという非常に似た話が出てく る。しかしよく見てみると細部においては異なる。そうお金の単位が違う、一方はタラント、そしてこちらはミナ。他にも預かった金額も区別があるか同一かの 違いがある。

まず単位だが、タラントはユダヤ貨幣の単位で6000デナリ、ミナはギリシャ貨幣の単位で100デ ナリである。デナリは日当にあたり、どちらもそれぞれの最高単位であるから、非常に高額のものを預けられたということである。このたとえで主人はキリス ト、しもべは私たちだから預かっているものは非常に価値のあるものと言える。

一方、それぞれの預けられた金額に差異があるなしはどうだろう。タラン トとはタレント(才能)の語源になった言葉 だから、人それぞれに違いがあって当然であろう。では同額の1ミナが与えられているのは何故か?だれ一人として同じ人間はいないのに、どう理解すればよい のか?私たちが等しく神から与えられたものとは何か。

こ れこそキリストの福音と読むべきである。パウロもまた、福音は自分も受けたものだと言い、それを次世代に委ねた。キリストによってもたらされた神の救い、 このお方を信じるならどんな人でも罪がゆるされ神の子とされる。それは私たちの創意工夫によって実現しない。神の一方的な恵みである。あなたはミナを用い ているか。


2015年6月21日   父の思 い
ヨハネの福音書4章46節、47節


カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は〜イエスのところへ行き、 〜息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。ヨハネ44647節 聖書を見ると、子供の救いのために多く の親がキリストの元を訪れている。不思議なことに親のために子供がやってきたというのは皆無なのである。

儒 教や仏教の説話には親孝行を説いたものが多いというから、対照的である。だからといってキリスト教が親を軽んじているかと言えばそうではなくて、十戒の後 半の冒頭、人に関する戒めの最初は、あなたの父と母を敬え−なのである。結局のところ、私たちの抱える悩みの中で、子に関することは最大なものの一つとい うことか。

王 室の役人−その富と地位があっても子供の病気の前に無力だった。もし救えるものならどんな犠牲も払ったことだろう。万策尽きてキリストの噂を耳にする。そ して自らやってきて息子を救っていただきたいと自宅へ招く。しかしキリストは動こうとしない。すでに癒したから、信じて帰れと言われた。ここが一つの分岐 点となった。

こ の父親はキリストのことばにかけた。信じて帰路を急ぐ。すると家から使いがやってきて息子は治ったという。その時刻こそ、キリストのことばを頂いたその時 だった。父の思い−それはあらゆる犠牲を払って息子のために尽くす。私たちの神は父なる神。神は子供たちである人類を憐れんでキリストによる救いを与えて くださる。


2015年6月14日 パリサイ人の祈り 取税人の祈り
ルカの福音書18章9節〜14節


パ リサイ人というのは正確にはユダヤ人の中のパリサイ派のことで、他民族ではない。当時、パリサイ派とサドカイ派という2つの勢力があったが、サドカイ派が 祭司や王族の支持を得ていたのに対し、パリサイ派は民衆の支持を得ていた。宗教的には律法遵守を掲げ、熱心な国粋主義者であった。宗教的エリートと言って も良い。

人 々から尊敬を集める彼らをイエス・キリストは厳しく非難した。その宗教的な行為に偽善を見出したからだ。このたとえのパリサイ人は本当に立派である。しか し問題は動機にある。神を思うのではなく自らの行為を誇る。自力で神に喜ばれることができると考えた。人はどうすれば義とされるのか?聖書の一大テーマで ある。

一 方の取税人は何一つ誇るところがない。彼のできることは神の憐れみにすがることだった。ここに大きな鍵がある。私たちが義とされて神によろこばれるために は、一つのことだけが求められている。そう自分の罪を認めて、神の憐れみを乞うことである。キリストはその十字架によって私たちを義としてくださるからで ある。

ひ るがえって私たちはどうだろう。私たちの多くはこのパリサイ人的な発想をしている。私たちはどこに幸せを感じるだろう。何に感謝をするだろう。その理由を 思い返してみれば分かる。もし私たちの感謝が神に向けられているのでなければ、この人と何ら変わりないのだ。さて私たちのささげる祈りはどちらの祈りであ ろうか。


2015年6月7日    不正な裁判官のたとえ

ルカ の福音書18章 1節〜8節


不 正な管理人に続いて第二弾、不正な裁判官のたとえである。司法の現場には決して不正があってはならないはずなのに実際にはそうでなかったのかもしれぬ。中 には富や権力に擦り寄る輩もいたのだろう。聴衆はそんな噂のある人物を思い描いたのかもしれない。当然ながら不正な裁判官は手本として挙げられているわけ ではない。

ま してこの裁判官が神様を表しているわけでもない。ここがこれまでのたとえとは違うところ。全く対照的にデフォルメされているのだ。神を恐れず、人を人と思 わない、聖書では最低の人物である。そして裁判をしたのも厄介払いしたかったに過ぎない。全くどうしようもない人でさえこうだから、まして神様はと言って いるのだ。

こ のたとえには明確な目的が記される。失望せずに祈るために教えられたとある。不正な裁判官とは違って、神は私たちの祈りを聞いてくださる。そして神様がお 定めになった最善の時に働いてくださる。やもめは正しい裁きを願った。それは神に従う者の救いである。前章には世の終わりについての教えがなされていたの である。

失 望しないで祈る。これは簡単なことではない。このたとえの締めは、果たして地上に信仰がみられるだろうかという問いかけなのだ。諦めずに祈り続ける人がい るのかと教会は問われている。キリストが来られてから2千年が経過し、再びキリストは私たちを迎えに来られると聖書は言う。このやもめを模範に祈ろうでは ないか。


2015年5月24日    不正な管理人のたとえ
ルカの福音書16章1節〜13節


た とえ話しはキリストが一つの教えを示すために使われた方法で、その内容がすべての行為に当てはめられるわけではない。この管理人にしても彼のやったことは 実際には犯罪で、現代社会でも横領として訴えられる。キリストが不正行為を勧めたわけではないだろう。では何がこのテーマなのか。いつものように背景を見 てみよう。

この話は弟子たちに語られている。15章 のたとえは取税人、罪人と律法学者、パリサイ人という相対立する人々に語られていた。キリストは失われた者に対する神の憐れみを説いた。では弟子たちには 何を語るのか。管理人が主人の財産を乱費しているという非難は、宗教的指導者がキリストに対して抱いた思いと重なるようである。

神 の国の福音は赦しを宣言する、それを神の権威を委ねられた教会、そして弟子たちが行うのだから、このような姿に見えるのではないだろうか。実際には非難さ れるべき管理人が主人に賞賛されるという意外性に、キリストの赦しを明らかにする働きの価値が明らかになっている。不正の富で友を作るとは、救いを伝える ことである。

小 事、不正の富、他人のもの、これらは私たちが実際に手にするこの世のものであり、これを正しく用いることを神は望まれ、最も価値のある大事、誠の富、自分 のもの−すなわちキリストの救いを委ねて下さる。だから結論は不正管理を勧めているのではなくて、逆にそれを戒め、神の救いの業のために働くことを教えて いるのだ。


2015年5月17日    見出された喜びA兄と弟
ルカの福音書15章11節〜32節


放 蕩息子のたとえとして有名だが、実際には二人息子の物語である。弟息子の姿は最初の2つのたとえと軌を一にしており、失われたものが見出された喜びを感動 的に語る。だが、ここで話は終わりではない。その喜びに加わることのできない兄息子こそがこの話の締めなのだ。彼もまた失われたものであることに気づく必 要がある。

弟息子が迷いでた羊や失われた銀貨と違うところは、自分の意思で父の元 を去ったということである。知らずにした行為ではなく、父に対する背信なのだ。私たちと神との関係をこれ以上見事に描くものはないだろう。父()を離れたとこ ろに自由があると弟()は考えたがそこには罪の悲惨しかなかった。自力救済不能に陥った。

神 によって見出されるということは、私たちにとっては神に帰るということと同義である。心底悔いて帰宅する息子を父は喜んで迎える。それはしつけのできない ダメ親父ではない。死んでいたのが生き返ったからである。神に帰るということは新しいいのちをいただくことである。この父の愛がキリストの贖罪に具現化し ている。

こ の神の愛を理解できない兄息子の問題は何だったのだろう。兄にとって父と共にいることは義務であり、喜びではなかった。共にいても心は父にはない。兄はパ リサイ人、律法学者たち、弟は取税人、罪人たちを指すことは明白であるが、それゆえ神は罪人が悔い改めることを喜ばれ、どんな人にもそれを願っておられる のだ。


2015年5月10日   見出された喜び
ルカの福音書15章11節〜32節


失われたものが見出された喜びを語るこの3連のたとえは、最も有名なも のである。聖書は神が人を探し求めた歴史であると言われるように、迷いでた(あるいは故意に出て行った)私たちを神は 常に探し求めておられる。100匹の羊と10の銀貨のたとえでは、その神の深いご愛が語られている。私たちを呼ぶ神 の声が聞こえるようだ。

こ の話の背景には二種類の人々がいる。取税人、罪人と蔑まれる側の人々とパリサイ人、律法学者と呼ばれる社会的宗教的な指導者たちである。指導者たちの非難 は反社会的な層だと考えられていた人々をキリストが受け入れているということだった。彼らはけがれており、神の祝福に預かることができないと考えられてい たからだ。

それでは失われた羊、なくなった銀貨とは取税人や罪人を指し、悔い改め る必要のない99とはパリサイ人、律法学者を指しているのだろうか。それは違う。すべて の人が失われたものである。だから最後のたとえは放蕩息子のたとえとして有名だが、失われた二人の息子のたとえというべきである。神は全ての人を探してお られる。

見 出された喜び、それは神の喜びであり、神の望みである。では、どのようにして人は神に見出されるのか。ひとりの人が悔い改めるならと言われている。反省し て善人になることを努力すれば良いのか?これも違う。悔い改めとは方向転換、キリストの元に来ることである。そんな私たちをキリストは決して拒まれること はないのだ。


2015年5月3日   あ と 一 年

ルカの福音書13章1節〜9節


ま たまたぶどう園だが、このたとえの趣向はちょっと違う。そこにいちじくの木を植えたがなかなか結実しない。どうしようという話だ。桃栗3年柿8年と言われ るように、実りまでには時間がかかる。ずいぶんとせっかちな主人だと思うが、おそらく通常なら実のなる時期を迎えて、なお3年経っても結実しないのを怒っ たのだろう。

切 り倒してしまえとはずいぶんときびしい言葉だと思うが、通常であれば別の木に植え替えるのは当然のことだろう。さて、ここにはその主人に対していちじくの 木を弁護する農夫が出てくる。あと一年といわばいちじくの命乞いをする。なぜそこまでこの木にこだわるのかは分からないが、施肥してできることをやってみ るという。

い つものようにこのたとえの語られた状況を見てみよう。突然の災難や事故によって命を失った同胞の知らせに、人びとは自業自得と考えたようである。しかしキ リストはその理由には触れずに、悔い改めることをせずにいるなら同様の結末が誰にでも起こることを示唆した。その人たちが罪深い訳ではなく、そこから学べ というのだ。

異 邦人が滅びの民であるだけでなく、神の民イスラエルであっても滅びる。悔い改める、すなわちキリストに来ない者は神の呪いの元におかれることになる。しか し、御子はご自身のいのちを犠牲にして救いの道を備えてくださった。それは「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望む」神の ご愛による。


2015年4月26日   愚かな金持ちのたとえ

ルカの福音書12章13節〜21節


愚 かな金持ちとして知られているたとえであるが、そこまでひどい人には見えないのではないか。あたりまえのことを正しく、賢明に行動しているからだ。豊作を 予想し、そのための貯蔵庫を建て、将来の生活の保証を得ている。だから、この主人公に何の疑問も感じないか、逆に共感を覚えるなら、キリストに聞かなくて はならない。

何 が間違っていたのか?それは最初にキリストが語っていることだ。人のいのちは財産にはない。私たちは一体、何に依存しているのか、いや誰に依存しているの かを忘れてはならないのである。この人は富んでいても、孤独な人である。それは手にしたものは全て自分のものであり、それをともに分ち合う人も、喜ぶ人も いなかった。

だ からこそ、富だけが自分を守ってくれる唯一のものと考えたのかもしれない。小説クリスマスキャロルのスクルージ老人を思わせる。いや著者のチャールズ・ ディケンズの脳裏にはこのたとえがあったのかもしれぬ。しかし私たちを守ってくれるものは、神ご自身である。その愚かさとは、自分の人生に神を認めない愚 かさなのだ。

でも、お金がないと明日からの生活ができないその通り。そ れさえも神の恵みによって与えられると考える。そうすれば、そこに感謝と喜びが生まれ、野のユリはソロモンの栄華に勝ると言われる主の恵みを知ることがで きる。このたとえはその後の教えの導入だ。神の国を求め、天に宝をつむことが、愚かと対極にある姿である。


2015年4月19日   良きサマリや人のたとえ
ルカの福音書10章25節〜37節


キ リストの例え話でも3本の指に入る有名なものだろう。特に、キリスト教福祉を語るときには必ず持ち出される。真の愛の行為とは何かという問いに、このサマ リヤ人に模範を見るからだ。日本においても社会福祉の分野では、キリスト教の果たした役割はとても大きい。しかし、この例えは無償の愛の実践を説いている のだろうか。

こ の例えは、ある律法学者の問いから始まる。永遠のいのちをどうすれば得ることができるのか?だからこの回答として読んでいかなければならないだろう。質問 者は律法遵守によってそれが得られると考えた。隣人を愛せよという神の命令にも十分応えうる自信があった。キリストはその誤りを指摘するために隣人とはと 問いかけた。

結 論から言えば、まず永遠のいのちは律法遵守によっては得られないことが明確にされている。そして、質問者の罪が暴かれている。決して彼は神の要求に耐えう るものではない。隣人とは選り好みすべきものではない。実は祭司、レビ人、サマリヤ人は律法学者にとっては隣人の対象ではなく特にサマリヤ人は忌避すべき ものだった。

そ のような差別的な意識を持っていた彼は問いにもその名を口にすることはない。主の問いかけは、あなたの隣人とは誰かということで、あなたが隣人になれとい うことではない。傷つき倒れる旅人こそ、ほかならぬその人であり、助け救おうとする隣人こそキリストである。つまり同じようにするとはキリストを受け入れ ることなのだ。


2015年4月12日   タラン トのたとえ

マタイによる福音書25章14節〜30節


キリストの例え話には結構お金が出てくる。ここでは多額のお金を預けら れた人が、どのように運用したかが話のテーマとなっている。現在日本でも自分の財産を貯蓄だけではなく、投資信託(ファンド)に預ける人も あり、このたとえはより身近なものとなっているだろう。1タラントは6千デナリ、大体生涯年収に近い額である。

こ の主人はそれぞれの能力を見極めて、異なった金額を委ねていく。一見、不公平のように見えるかもしれないが、多く与えられたものは多く求められるというこ とであれば、公平に与えられたと言えよう。タラントとはタレントの語源となったことばで、日本では芸能人をさしてこう呼ぶが、本来は才能・技量という意味 だそうだ。

こ のたとえで問題とされているのは、利益を出せなかったということではなく、運用をしなかったということである。初めの二人は、同様の賞賛を主人から得てい る。最後の人は運用に失敗したから叱責されているのではない。主人の信託に答えなかったことが問題なのだ。主人が神、しもべが私たちならば一体何が問われ るのか。

私 たちが神から託されたものとはなんだろう?健康、富、時間、才能、それらもそうであるが、私たちが生きるということ自体が神によって信託されたものであ る。このたとえは世の終わりに際してという教えの中で語られている。神によってその清算が求められた時に、私たちは神に対してどう生きたかが問われるので はないか。

 
2015年4月5日   主はよみがえられた

ヨハネの福音書20章1節〜18節

す べての人の宗教性には死の問題があると思う。人は等しく生まれ死んでいく。その中で自分の人生の意味を問うのだ。私たちの経験する最もおおきな悲しみは死 別のそれである。どんなに仲の良い親子でも兄弟、夫婦、友人も、この世でいつまでも共にいることはできない。人間である限りこの喪失感から逃れることはで きないのだ。

「だ れかが私の主を取って行きました」遺体が不明であるということだけではなく、マグダラのマリヤの喪失感を如実に表している言葉だと思う。彼女はイエスの母 や他の女性たちとイエス・キリストの十字架を見守った人物である。主によって7つの悪霊を追い出していただいたとされ、弟子団に加わって、主を支えた一人 である。

人 は一人では生きていけない。私たちは決して自分ひとりで出来上がったわけではない。私たちは多くの部分を他者によっているのだ。私たちの存在は多くの人と の関わりによって成り立っている。重要な存在であればあるほど喪失のショックは大きい。それを乗り越えるための方法はあるだろうか?定めと思うしかないの だろうか。

主 はマリヤの名前を呼ばれた。マリヤはそこで気づいた。主はよみがえられたと。神の御子であるお方だけが、死に対して勝利された。死はすべての終わりではな い。新しい始まりであることを教えてくださったのだ。私たちには希望がある。主にあって死ぬものは幸いだ。なぜなら、私たちも再会の望みを持つことができ るからだ。


2015年3月29日   十字架のことば
マルコの福音書15章22節〜39節

そ れぞれの福音書にキリストの十字架上のことばが記されている。重複したものをまとめると7つのことばになる。その中でもマルコはただ一つのことばを記す。 「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」これは正にキリストの十字架の意味を明確にしている中心的なことばである。マルコはここに焦点 を当てる。

まずこれは神に信頼することばではなく絶望の言葉である。無実の罪を着 せられ、人々から罵られならが極刑に服する人の嘆きである。神の子イエス・キリストという出だしで始まったこの福音書であるが、

イエスは十字架で神に絶望している。神からの助けはない。そうだ、彼は 神に裁かれているのだ。その苦しみにうめいている。

 同じことばが旧約聖書詩篇22篇 にある。十字架の預言の詩篇として有名である。救い主は神に見捨てられなければならないということが明らかにされている。そのお苦しみを通ることが神の御 旨だったのだ。「人の子が来たのも、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」とあるように私たちの身代わりになって苦しまれたのだ。

  屠られる神の子羊、十字架にそれを見ている。私たちの罪が御子の上に置かれ、それが裁かれ、御子の義が私たちの上に置かれる。そのようにして救いの道が開 かれたのだ。「この方はまことに神の子であった」この告白は紛れもなく私たち一人一人のものである。この確かな救いのしるしはどこに?そう、キリストは甦 られたのだ。


2015年3月22日   この御国の福音は

マタイの福音書24章14節


この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、 それから終わりの日が来ます。マタイ24:14 キリストは十字架を目前に神殿でこの世の終わりについて教えられた。 終わりのしるしについて、キリストが再び来られること(再臨)、それを待ち望む信者たちの姿勢(3つのたとえ で)、最後の審判についてである。

世 の終わりとはこの世が滅亡するという扇情的で絶望的な時ではなくて、イエス・キリストによってこの世界が新しくされるという希望にあふれた時のことであ る。この世界には始まりがあり、そして終わりがくるが、それは新しい始まりなのだ。私たちの命に始まりがあり、終わりがあるが、これも新しい始まりである のと同じ。

こ の時について冒頭の言葉は福音宣教が大きく関わっていると言う。終わりの来る前に、福音がすべての人に証しされなければならない。福音宣教の目的は、失わ れた人々の救霊事業であると同時に主の御国実現のための働きだということだ。困難であっても福音宣教を止めることはない。それは教会にとって死を意味する からだ。

10人 のおとめのたとえでは目を覚ましていることが教えられたが、次のタラントのたとえでは、より積極的に主の御旨を行うことが勧められる。自己目的化した才能 の涵養ではなくて、限られた時間の中でいかにキリストの福音を証しするかが問われていることは明白である。この主の御用に召されていることを忘れてはなら ない。



2015年3月15日   十人のおとめ

マタイの福音書25章 1節〜13節


キ リストはご自分からエルサレムに向かい、最後の一週間を迎えるのだが、精力的に行動された。神殿での教えもその一つである。ローマ建築の粋を集めた神殿に 目を見張る弟子たちに、この世の終わりについて教えられたのが、このたとえの背景である。様々な終末に関する話題が時にマスコミを賑わすが、今に始まった ことではない。

世 の終があるのか?その問いには、あるとお答えになる。ではいつか?という問いには、誰にもわからないと言われる。終わりの時にはキリストが再び来られ、世 を裁かれる。キリストの再臨と言う。私たちはキリストの初臨と再臨の間に存在する。それではどのように歩めば良いのか。目を覚ましているようにというのが この譬である。

十 人の娘たちは花嫁の友人たちで、花婿の出迎えをして、披露宴に向かうのがならいだった。花婿はキリストであり、それを迎える娘たちは、教会であり、クリス チャンたちである。10人の娘は非キリスト教徒ではない。とすれば、このたとえは非常に厳粛な意味を持つ。花婿であるキリストがこられた時に、締め出され たなら大変だ。

私 たちはいつキリストが来られても良いように生きる。それは最も地に足をつけた生き方にほかならない。明日で終わるかも知れないといって無責任なことはしな いし、その時は来ないといっていいかげんなこともしない。一日一生と内村鑑三の書にあったが、その通りだと思う。それだから主を証することをためらっては ならないのだ。


2015年3月8日   キリスト を着る

ローマ人への手紙13章14節


先 回、王子の婚宴のたとえから義の衣について話した。婚礼の礼服とはキリストが私たちに着せてくださる義であり、十字架の血潮で罪が洗われた白い衣なのだ。 人間の努力や修行、あるいは功績によっては誰ひとり神の国に入ることはできない。神の憐れみに基づくキリストの救いだけがその資格であり、信仰によって与 えられる。

信 じた人はその時、すでに義の衣が着せられることによって神は罪のない者として受け入れてくださる。神はもう私たちの罪をお認めにならないのである。神と私 たちの関係は全く違ったものとなり、交わりがそこで回復する。立場は劇的に変化したのだ。ただし、私たち自身がいっぺんに完全になるのではなく、ここから が始まり。

 だから改めて聖書は命じる。新しいを着るようにと(エペソ4:24)。あるいは、 主イエス・キリストを着るようにと(ローマ13:14)。こちらの衣は義の衣、救いの衣ではない。クリスチャンのユニフォーム としての新しい生き方のことである。義の衣を着た人だけが、羽織ることのできるイエス・キリストというロゴ入りの上着なのである。

 古い生活からの決別、罪の奴隷から義の奴隷への変身が勧められる。こ れを可能とするのが聖霊の助けである。神は信じる者のうちに聖霊をお与えになる。このお方は私たちと共におられる神ご自身である。聖霊はみ言葉を 通して私たちに語りかけ、正しい道へと導かれる。このお方の声を聞きながら歩もう。その声が聞こえますか?


2015年3月1日    王子の 婚礼・義の衣 

マタイの福音書22書1節〜14節

先 の2つのたとえのまとめの部分である。聴衆はユダヤ人指導者であり、内容も先のものを踏まえつつ、大切なことを付け加えている。招かれる者と選ばれる者の 違いということである。王とは父なる神を、披露宴の招待は、神の国への招きを表す。客とはユダヤ人たちであり、先のたとえでも彼らは神に反逆し、神の国か ら追い出される。

王 の招待を拒む客たちの代わりに招かれた人々は、指導者たちからは罪人と蔑まれた遊女や取税人だったり、神の選びの外にあるとされた異邦人を指している。神 の招きは、その人が善人であろうが悪人であろうが関係ない。全ての人が招かれているのである。本来なら入ることのできない王宮で、彼らは王の食卓に着くこ とができる。

こ の後が独自の部分である。客の中に礼服を着ていない者がいた。それは仕方ないとお思いになるだろう。出先で無理やり連れてこられたのだから。でも、それは 違う。礼服は宴席で貸与されるものだった。この人はそれを着ようとしなかったのだ。その人には自分の服の方がきれいに見えても、それは受け入れられるもの ではなかった。

 こ の礼服はキリストの義の衣と呼ばれる。神の国に全ての人が招かれている。しかし、その席に座るためにただ一つ必要なことがある。それは罪が赦されることな のだ。罪をもったままその宴に連なることはできない。キリストの贖いをその身に帯びた人だけが連なることができる。キリストを救い主として信じ、受け入れ た人だけが。



2015年2月22日   礎 の 石

マタ イの福音書21書23節〜46節


こ のたとえは特定の人々に向けられた話である。それもキリストを迫害するユダヤ人指導者たちに対する答えとなっている。彼らは何の権威によってキリストが教 えておられるかを問題にした。言い換えれば、権力の側に立つ人々は、自分たちを無視し民衆の人気を集め、神の教えを明確に語るキリストに我慢ならなかった のである。

そ の回答として語られた2つのたとえの後半部分がこれである。主人とは父なる神、ぶどう園とは神の民イスラエル、農夫たちとは神のことばを語った預言者たち だ。旧約聖書はこのテーマの記述である。そして最後に派遣された息子こそ、イエス・キリストである。この息子を迫害する者こそ、このたとえの聴衆であった のである。

こ の話が語られたのはキリストの十字架刑が迫るエルサレムであった。神が遣わされたキリストはその敵にではなく、同国民であるユダヤ民族によって殺されたの だった。しかし、実はそのキリストの死にこそ、大きな意味があったことが明らかにされている。そうだ、それが礎の石となった。神の御救いはここに完成する のである。

そ してこのたとえの締めの部分には驚くべきことが書いてある。神の国は異邦人へ与えられるというのである。選民イスラエルとその立場にあぐらをかいていた彼 らは神の国に入ることができない。神の救いは民族によらず、キリストを信じる信仰によってのみ与えられる。このキリストに対する態度こそが、各々の行く末 を決める。


2015年2月15日   ぶどう 園の労務者

マタイの福音書20書1節〜16節


一 日1デナリ、賃金の支払いは私たちにとって、最も関心の深い事柄である。就活生は職種による賃金の多寡が気になるし、よく投書に見る記事では、非正規雇用 の人が、正社員が仕事もしないで自分の倍以上の給料をもらっていると告発する。現政権は時給ではなく出来高でと言い出しているし、この問題はいつの時代で も喧しい。

こ のたとえは雇用契約を無視しているように見える。いやそもそも後から雇われた人たちは明確な契約すらしていない。相当のものとは、働いた時間か、仕事の量 による報酬を期待させる。最後の人に至っては報酬すら約束していないのだ。結果的に全員が1デナリをもらう。後の人たちは契約ではなく雇用者の気前の良さ が鍵となる。

こ のたとえをはさんでいる共通したフレーズがある。先の者が後になり、後の者が先になる。神の救いから最も遠くにあるように見える人が救いにあずかり、最も 近くにいる人が最後になる。これはイエス様の周りに集まってきた罪人と蔑まれる人たちに神の国が与えられ、宗教指導者たちが自ら神の国を塞ぐことを暗示す るようだ。

あ るいは異邦人とユダヤ人と見ることもできるだろうし、無信心な人と信心深い人の比較にもなるかもしれない。神の救いは報酬ではなくて恵みであるというのが このたとえのテーマである。この話は前章の出来事の解答である。神の救いは、そこに御子イエス・キリストの贖罪があってこそ、無代価で与えられる神の恵な のである。


2015年2月8日   赦すこと  赦されること

マタイの福音書18書21節〜35節


私 たちにとって一番難しいこと何だろう。色々な考えがあると思うが、その中の一つは赦すことだろうと思う。特に血なまぐさい昨今のニュースを思うときに、そ の感が強い。憎しみの連鎖、報復に次ぐ報復、それは留まるところを知らない。憎悪は時には人生を破壊し、深い絶望へと突き落とす。私たちの心の闇に巣食う のである。

一 万タラントの借財とは決して償えない金額を表している。当時の王の年収が200タラントほどだったそうだから、その法外さがわかる。愚かにもそのしもべは 自力返済を申し出るのだが、できるはずもない。彼は王の憐れみによって赦される。これは人と神との関係を見事に言い当てている。キリストの贖罪だけが赦し を与える。

赦された者は赦すことができると考えるのだが、どこまでもあさましい人 間の姿が描かれる。100デナリの貸しのある者を見つけ出し、無情にも取り立てようとした。相手の叫びは、先だって王に対して嘆願したことばと瓜二つだと 言うのに 当然、王は怒って彼を獄吏に引き渡した。これは私たちに対する大きな 警告ではないか。

赦 し−それは神から突きつけられた大きなチャレンジである。神の憐れみ、キリストの死をもって私たちを赦してくださった/その愛を知る以外には私たちが変え られることはない。決して他者に赦しを強要することはできない。これは自分自身の問題として取り扱わなければならない。「お前も仲間を憐れんでやるべきで はないか。」


2015年2月1日   神の国の 成長、価値

マタイの福音書13書31節〜50節


か らし種ということばを一躍有名にしたのはこのたとえであろう。日本で言えばケシ粒、小さな種が大きな木となる例証で使われる。このたとえでは、パン種のた とえと合わせて、天の御国の成長が語られている。今から二千年前にキリストによって始められたこの教えは、その通り世界中に広がり、生きる希望を与え続け ている。

あ るいはこのたとえは私たちの信仰の伸長についても教えているのかもしれない。私たちにとって聖書、それが伝えるキリストの福音は、当初小さな種に見える。 自分の生活の一助になればと思う。それが実は罪の縄目から私たちを解放し、キリストの救いに導いてくれることを信じることによって、何にも代え難い重要事 に変わる。

天 の御国の価値について教えるのが畑のたとえと良い真珠のたとえである。畑に隠された宝を内緒にして購入することの是非はともかくとして、それほどの価値が あるということは理解できる。また、商人が一粒の真珠に何よりもの価値を見いだすということも現代の社会でもありえることだ。天の御国は全財産に勝る価値 を持つ。

今、 天の御国の一員とされていることのすごさに気づいているだろうか。神は独り子のいのちという大きな犠牲をはらって、私たちを救われた。ただ信じることに よってこの偉大な救いを手にしたのだ。そしてその恵みは日々、成長し続けている。もう一度、自分に与えられた神の恵みをないがしろにしていないか問いかけ られる。


2015年1月25日   良い麦 と毒麦のたとえ

マタイの福音書13章24節〜30節


天 の御国、天国と表現したほうが分かりやすいかもしれない。しかし、ここで言う天の御国とは死んでから行くパラダイスというよりも、この世にあって神の支配 の及ぶところをさしている。神を言い換えて天と表現する。御国を来たらせたまえという主の祈りは、神のご支配が今の世も、後の世にも実現しますようにとい う願いである。

さ て毒麦のたとえと呼ばれるたとえは、種まきのたとえと同様に解説付きである。種まく人はキリスト、畑とは私たちの世界だという。キリストによって福音がも たらされた。それは世界を変える大きな力をもっていた。罪の縄目から解放されて、神の愛と赦しを経験した。良い麦とは神の子たちだ。なぜこの世界は平和に ならないか。

毒 麦を蒔く、敵がいるという。この世界には良い麦と悪い麦が混在する。気をつけて欲しいのだが、それを識別して分けよとは言われてはいないことだ。私たちは 善悪、白黒をつけたがる。それが正義であると。しかし、このたとえは毒麦を抜くことは控えるようにと言うのだ。もちろん社会秩序を無視して良いということ ではないが。

主 がこの世界を裁かれる。神の審判を私たちは受けるのだ。麦の選別は神のなさること、私たちは福音の種を蒔き続けることが重要なのである。キリストが教えら れた、自ら復讐をしないようにという教えもまたこの神が正しい裁きをなさるという確信に基づいているのだろう。御国の完成について学んだ。次回は御国の性 質について。


2015年1月 18日   主のたとえ話

マタイの福音書13章1節〜9節


福音書の中で特に印象的なのはキリストのたとえ話である。芥川龍之介は 放蕩息子のたとえ(ルカ15)を短編小説の極致と絶賛したと言われる。キリストはたとえ話の名手であ る。それは単なる教えとは違い、聞く人々に大きなインパクトを与え、行動へと駆り立てる。一度聞いたら忘れないのだ。ただし、その解釈は意外と難しい。

種 まきのたとえから入るのが良いだろう。なぜならキリストご自身がその意味を説明してくださっているからだ。たとえ話には2つの目的がある。明らかにするこ とと隠すことである。相反する効果がそれを聴く人の態度によってもたらされる。神の言葉を聴く私たちの姿が4種類の土地で表現されているのが、このたとえ 話である。

種 を蒔く者の期待は豊かな実りである。だから最後に出てくる良い地に落ちた種とその収穫がこの話の中心である。実りを妨げる色々な原因を3つの土地からの警 告として受け取らなければならないのだ。種は神の言葉、福音である。それは人を救い新しくするいのちを有するものだが、私たちの側に実りを妨げる原因があ るという。

サ タンの妨害、忍耐力の欠如、世俗的な誘惑、それらがせっかくの実りを失わせる。誰も貴重な実りを得たいと望むはずである。私たちのするべきことは、実りを 実現することではなく、それを妨げるものを除くことである。キリストから始まった種まきと実りは絶えることなく続いている。だから私たちも種まく者でもあ るはずだ。


2015 年1月11日    思い煩いを神に委ねて

ペテロの手紙第一5章1節〜11節


先には燃えさかる火の試練が起こると言い、次には咆哮するライオン(すなわち悪魔)があなたがた を狙っていると言う。ペテロには一体何が見えていたのだろう。預言者には普通の人には見えないものが見える。神が啓示してくださるのだ。それは世界情勢を 俯瞰する知恵やこれから起こるであろう困難な時代と神の救いとであった。

ペ テロはこれから訪れる厳しい時代を見越して、教会そして信徒たちにこの心構えと励ましを与えている。しかし取り立てて特別なことを命じているわけではな い。いや、逆に当たり前のことを当たり前にして、歩むことを強調している。スポーツ選手が力を発揮できる理由はたゆむことのない体力作りと基礎練習による ことに似る。

長老たちに、そして若者に。指導者心得と信徒心得とでも言えば良いだろ うか。長老(牧師)に求められる指導力は支配ではなく模範であるという。信徒を自己実現の 道具とはしてはならない、その信仰の養いのために誠心誠意働くように教えられる。若者(必ずしも年齢のことだけではない)には謙遜にあ るようにと繰り返されている。

苦 しい時は苦しい。そんな時に私たちには逃れの道があるという。神に委ねることができる。私たちより先に神が心配してくださっている。そればかりか、苦難か ら解放して、決して動かされることのないようにしてくださるという。御国に迎え入れてくださるのだ。だから、堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かうようにと 勧められる。


2015年1月4日
   主は私の羊飼い(新年礼拝)

詩篇23篇


聖 書の時代の人々は羊を飼って暮らしていたように思われているが、それは遊牧で暮らしていた創世記の族長たちの時代まで。出エジプト、カナン定着後は農耕に よって生計を立てるようになる。新約の時代、羊飼いは人々から蔑まれていたのだが、民族の記憶、あるいはイメージとして、羊と羊飼い以上に民と神の関係を 表すものはない。

イ エス・キリストは私たちの霊と肉、その心を満たして下さるお方である。羊が安心して暮らすために必要なことは、まず安全と食料である。食料があっても危険 であれば食事どころではない。一方、敵がいなくでも食べるものに事欠けば羊は弱る。私たちの生活も同じであり、霊肉共に安心と滋養が健やかな歩みのための 鍵となる。

こ れをもたらして下さるただお一人の方がイエス・キリストである。実際にキリストの恵みは私たちの生活の中にもたらされる。学校であれ、職場であれ、家庭で あれ、具体的な形でキリストは私たちの生活を保証してくれる。単に精神的、霊的なことがらだけではない。実際の危険から、あるいは必要なものを備えて下さ る方なのだ。

そ して私たちの心と霊を養って下さるのもこの方である。おそらくはこちらの方がより重要である。死陰の谷を行く時も、最大のピンチの時にも主は支えてくださ るからである。私たちは主の羊、この方から決して離れてはならない。私たちの羊飼いはただ一人、キリストだけだ。真の羊飼いは羊のために命を捨ててくださ るからだ。


2014年12月28日   主を待ち望む人々
ルカの福音書2章22節〜40節

ル カの伝えるクリスマスの記事の最後を飾るのはシメオンとアンナの老人たちである。ヨセフとマリヤはベツレヘムに滞在中、エルサレムの神殿に向かう。初子は 神のものであるため、いけにえをささげることになっていた。彼らは鳩のひなをささげている。これは彼らの貧しさを表すもので、バプテスマのヨハネとは対照 的である。

シ メオンとアンナの望みは神の救いの実現を目にすることだった。シメオンはキリストを目撃するまでは死なないと神の声を聞いていた。彼は一体何を思い描くの か。ヒーロー誕生、巨漢ゴリアテを倒した少年ダビデの再来を夢見ていたのではないか?河原の石粒で鎧に守られた戦士を倒した故事はローマからの解放を期待 させるのだ。

し かし聖霊のお告げは貧しい夫婦に抱かれた赤子だった。シメオンはこれから起こることを見ることはできなかったが信じた。これは聖徒たちの信仰に通じる。ま だ見てはいないが信仰によって確信して主を崇めた。その救いが万民、すなわち人類への神からの贈りものであり、キリストが苦難(十字架)を通ることさ えそこで語った。

ア ンナは預言者と記される。長く神への奉仕を続けた彼女の仕上げがキリストの誕生を告げることだったとは何と幸いかと思う。主が来られる、未来形ではなく、 主が来られたと現在形で語ることができた。これは新約聖書が告げていることに他ならない。神の救いは実現した。恵みの時代は始まったと。さあその声を聞こ うではないか。


2014年12月21日   神の訪 れ
マタイの福音書1章18節〜25節


マ タイ福音書ではキリストの誕生を父ヨセフの側から描いていると言われる。確かにマリヤへの受胎告知ではなくて、ヨセフに主の使いが現れたとされる。もちろ ん当初、ヨセフはマリヤの不貞による妊娠だと考えていたので離縁を決意するのだが、御告げによって、それが神による奇蹟であることを彼もまた信仰によって 受け入れた。

イ エスと言う名は旧約聖書のヨシュアであり、主は救いという意味である。ご自分の民をその罪から救うと告げられた。罪からの救い主キリストが明らかにされて いる。罪とは神に対する反抗、不服従であり、その結果としての堕落した状況を表している。政治的な開放者としての救い主ではない。人々の罪の悲惨が第一の 原因なのだ。

神 は私たちの救いのためにどのような計画をお立てになったのか。それはご自身の独り子をこの世にお送りになることであった。この方がインマヌエルと預言され たのは、その誕生はまさに神の御子、神ご自身が人としてお生まれになったことを明らかにするためだった。神の栄光や尊厳をお捨てになって私たちと同じよう になられた。

神 の救いをもたらすために、この方はその生涯を送られた。虐げられた者、悲しみ悩む者の友となり、最後にはご自身を十字架にささげられたのだった。ここにそ の使命は極まるのだった。神と人との交わりの回復は御子のいのちによってもたらされた。神の愛の贈り物であるキリストを心に迎えることこそ、クリスマスの 意味である。


2014年12月14日   救い主 の訪れ

ルカの福音書2章1節〜20節

救 い主の誕生を喜んだ人々は決して多くはなかった。貧しい羊飼いと東方の博士ら、そして敬虔な二人の老人シメオンとアンナである。それに対して故郷ベツレヘ ムでは無関心の故に家畜小屋での出産、ヘロデ王に至っては敵対心を覚え、その命まで無きものにしようとした。これは後にキリストに対するそれぞれの応答を 暗示する。

救 い主の誕生は私たちに一つの問いかけをする。神のお送りになった御子に対してどのような態度を取るのかということである。貧しい馬小屋に生まれた赤ん坊を 救い主と信じよとは突拍子もないメッセーだったかもしれない。だが後にはキリスト教徒は十字架で死なれたお方を救い主と信じたのである。その確証は一体何 だろう。

幼 子イエスに後の時代の人が描くような輝きがあったわけはない。羊飼いたちは、自分たちの見たものが御使いの言った通りだったので神を賛美した。御使いの 語った御言葉は羊飼いを通してマリヤに伝えられ、現在私たちにも届けられている。御言葉の成就が確証である。キリストの贖いは旧約聖書に繰り返し示されて いたのだ。

私 たちに与えられたしるしとは聖書のことばである。ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになったと二千年前に語られたメッセージは、今日の私 たちにたいするものでもある。どうだろう、ベツレヘムの人々のようになるか、あるいは羊飼いのようになるのだろうか。さあ心の中に救い主をお迎えしようで はないか。


2014年12月7日   
幸 せの訪れ
ルカの福音書1章39節〜56節


人 が希求して止まないもの、それは幸せだろう。自ら進んで不幸になりたいと思う人はいない。旧約聖書にもどんなに子だくさんで長生きしても、幸せでないなら 虚しいとある。逆に、争いの絶えない家庭のごちそうよりも、一片の乾いたパンでも平和な食卓が勝るとある。古来より幸福度は所有の多寡ではないことに気づ いていた。

あ る人は幸せとは心の持ちようだというがどうだろう。確かに人と比べることを止め、与えられているものに満足できるなら、多くのストレスは減少するだろう。 しかし、それができないところに悩みや苦しみがあるのではないだろうか。いや、それ以上に私たちが経験する様々な困難の中で、それを幸せと思うのは至難の 業である。

幸 せは探し求めるもの、自らの手で作り出すもの、それぞれの主張に一理はあろうが、幸せは神によって訪れると聖書は教えてくれる。マリヤの賛歌にはその喜び が歌われている。神が、貧しく何の価値もないような私に目を留めて、大きな憐れみをくださったことを感謝している。神の愛顧を知る喜びは決して他には見い だせない。

マ リヤは置かれている状況が劇的に良くなるわけでもなく、いや逆に多くの困難が予想される中で、神との関係に幸せを見いだすことができた。これは決して失わ れることのないものである。キリストが私のために十字架で死んでくださったという神の愛を知る人は、同じように神からの幸せを見出している。神からの贈り 物である。


2014年11月30日   神の時の訪れ
ルカの福音書1章26節〜38節


ど んなに人間が頑張ってもできないことの一つに時を支配することがある。もし時を変える能力のある人がいたなら歴史は大きく変わっただろう。もちろん時流に 乗れば大儲けできたり、有名になったりすることもあるだろうが、それもまた私たちの手の届かぬところにある。時の支配者とは創造主である聖書に啓示された 神にほかならぬ。

神の時を待ち続けた民族が聖書に出てくる。イスラエル民族である。彼ら は預言者たちの言葉(旧約聖書!)の成就を待ち続けた人々である。旧約聖書と新約聖書の間にはおよそ 400年の年月が流れる。人々はキリスト/約束の救い主/を待望した。キリストはベツレヘムでダビデの子孫から処女を通して誕生する。これが聖書の約束 だった。

人 には遅いと見えることがある。いや、余りにも多い。しかし、神は時を備えておられるお方である。決して私たちをお見捨てになっている訳ではない。神の時が ある。私たちの信仰もまた神の時による。神様は私たちの置かれた状況や私たちの心の状態をもご存じである。私たちの神はお語りになるお方、聖書を通して今 語られるのだ。

 マ リヤは神の語りかけに対して信仰を持って応答することができた。これが彼女の素晴らしさである。御使いの言葉を拒絶することなく、また怖れ退くこともな く、受け入れていく。その決断のもたらすものを理解できないほど子供ではなかったが、神の力はそれに勝ることを信じたのだ。さて私たちなら神の呼び声にど う答えるだろうか。

2014年11月23日   いのちの使い道

ペテロの手紙第一4章7節〜10節


ク リスチャン生活の柱が3つ挙げられる。祈りと愛と奉仕である。祈りとは礼拝と言い換えても良いかもしれない。礼拝とは神と私たちとの関係を確認する時であ る。一週間の初めに礼拝を捧げることは神を第一として生きる告白にほかならない。神の御心に従って生活するには、日々御言葉に親しみ祈りを絶やさぬように しよう。

次 に三つの互いにという勧めが見られる。互いに愛し、互いにもてなし、互いに仕えよと。愛は罪を覆うものであるという。キリストの贖いの御業は私たちを覆っ て神に受け入れられるものとして下さるからだ。もてなしとはホテルなど無かった古代において、旅人を歓待することが美徳であった。損得勘定を超えた交わり である。

そ して奉仕の姿勢こそ信者としての理想である。神からの賜物を自発的に他者のために用いることが神の栄光を現すことにつながる。神から頂いたもの、その能力 や時間、健康や経済も含めて、私たちはその管理者であると考える。私のものではなくて、神のものなのだ。それは生とともに受け、死をもって神にお返しする からだ。

キ リストが「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとする」と言われたのは正にそのこ とであろう。今年の大河ドラマで印象に残った言葉は“命の使い道”だった。意味は少し違うかもしれないが、それをキリストへの献身と置き換えてみてはどう だろう。


2014年11月16日   
神 のみこころのために
ペテロの手紙第一3章18節〜4章6節

今 年「ノア 約束の舟」という映画が上映された。ご覧になった方もあると思う。ノアの記事はキリストの救いとシンクロさせて新約聖書では語られることが多 い。箱舟はキリストの救いを意味している。ノアの時代には大洪水によって滅ぼされていくが、唯一の救いは箱舟だった。これに乗ったノアの家族と動物たちが 救われる。

箱 舟は神からの警告であり、救いへの招きであったのに誰一人そこに乗ろうとするものはなかった。キリストの十字架の死と復活は、私たちへの救いへの招きであ る。これを信じれば神の裁きから救われる。この裁きとは大洪水ではなくて、最後の審判のことだ。信じてバプテスマを受けクリスチャンになれば、救いの船に 入るのだ。

バプテスマの形式からそれが水を通ると言われてい
る。水に沈められることはキリストに共に死に、水から出ることはキリストともに新しい者となることを象徴する。儀式自体にその効力があるのではない。その 信仰告白と決意が大切なのだ。バプテストが幼児洗礼を否定したのは自覚的な信仰に基づくバプテスマを主張したからだ。

新 しい出発をしたクリスチャンの生き方がまとめられている。人間の欲望のためではなく、神のみこころのために−と。刹那的、享楽的な生き方は、自分の人生が 死んだら終わりと考える人のものである。この人生で全てが終わりではなく、より素晴らしい場所が備えられていることを知る人は、この世の歩みを正しく大切 にする。


2014年11月9日   義のために苦しむ
ペテロの手紙第一3章8節〜18節

政 府について、雇用主について、夫婦についての教えには一貫した原則があった。それは神の秩序を尊重し、そこで主に仕えるのだということだった。しかし立て られた者が支配するために用いる権威ではないことは繰り返しお伝えした。同様に義のために苦しむという教えも、自発的なものであって、決して強いられるも のではない。

損 得で言えば、損なことが勧められている。誰が一体、自ら面倒なことを背負い込もうとするだろう。また心情的にも非常にストレスの溜まることが勧められてい るのだ。正に右の頬を打つ者には左の頬を向けよというキリストの教えが反復されている。憎しみの応酬が歴史や世界を混乱させていることは間違いがないが解 決できない。

義 のために苦しみを負うときに2つのことが示唆される。一つはどうしてやり返さないのか?と問われた時に正しく説明できるようにということだ。これは誰もが 驚く対応なので、必ず尋ねられる。それを、自分は正しいことをやっているのだからと居直るのではなく、キリスト教信仰から生まれることを慎み深く語らなけ ればならない。

2 つ目はその理由である。もしそのように私たちが応対できるなら、キリストの贖罪に現された神の愛による。そう、それ以外に私たちにそのような行動を取らせ る理由はないのである。善を行って苦しみを受けるとき、キリストは近くにおられ、その重荷を担って下さる方である。義のために苦しむ、今どんな場面で問わ れるのだろう。


2014年11月2日   妻 に 夫 に
ペテロの手紙第一3章1節7節


結 婚式の夫婦の教えはエペソ人への手紙5章が取り上げられることが多いが、このペテロの手紙にも記されている。共通点はどちらも先ず妻に対して教えられてい て、その部分の記述の方が長いことだ。一方、ペテロの場合には、夫が信者でない妻たちも多かったのだろう。特にそのような女性たちに対する教えに重点が置 かれる。

夫 に服従するように−現代において、この言葉には違和感を覚えるだろう。しもべへの勧めでも触れたが、これを強者が弱者に対する横暴を是認する根拠にしては ならない。神からの妻への勧めである。夫婦の関係は支配する側と支配される側の関係ではなく、夫婦を結び合わせた神に対する怖れと従順によって成り立つの である。

し もべと主人、妻と夫、その関係を破壊するものは人間の罪である。神は決して人を支配しようとはなさらなかった。その自由意思によって仕えられることを望ま れたのである。だから信者でない夫を導くためには、言葉ではなくて振る舞いが大切だと言われている。その飾りとするものは−心の中の隠れた人がら−神の賜 物である。

夫には妻を尊敬するように教えられている。支配と被支配からは生まれて こない心情である。いのちの恵みを共に受け継ぐ、それはキリストの贖いに共に預かっていることに基づく。少なくとも家庭においてはその責任は夫婦が等しく 負っているのだ。但し、先回も触れたが、DVに苦しむ人に耐え続けよとは言われてはいないのだ。


2014年10月19日   キリストの模範に従って
ペテロの手紙第一2章11節〜25節


御国を目指して歩む旅人、ペテロはクリスチャン生活をそのように表現し た。ただし天国が私たちの真の住まいであっても、いい加減な生活をするべきではなく、真剣に生きていくように教える。立派な行いの具体的な指針が後に続 く。今日の箇所は王に対して取るべき態度としもべ(奴隷)がどのように主人に仕えるかということである。

王 に対する態度。今日のことばでいえば国家や政府に対してと言い換えられよう。国家の成り立ちの背後には神の権威があることが認められる。だから法を守るこ とは正しいことである。しかし、主のゆえに従うようにとあるように、為政者や法律が主の御心に明確に反する場合にはこの限りではない。私たちの王はキリス トのみである。

し もべとは文字通り奴隷を指している。新約聖書の時代には多くの奴隷が存在した。いや市民よりの奴隷の数の方が多かった。人間が金銭で売り買いされ、主人の 所有とみなされたのだから、主人はいかようにもできた。ペテロの言うように優しい主人もいれば、横暴な主人もいた。一体クリスチャンの奴隷はどうすればい いのだろうか。

キ リストの模範に従うことがその道とペテロは語る。不当な苦しみに耐え、悲しみをこらえるなら神は喜んでくださると。何の解決や慰めのない答えのように感じ られるかもしれない。しかし彼らはその境遇から逃げ出すことさえできなかった。そんな中、キリストは彼らの悲しみを担う唯一の方だった。真の主人はキリス トであるのだ。


2014年10月12日   
神 のことばによって
ペテロの手紙第一1章22節〜2章10節


神のことばがここでは2つの表現で説明されている。一つは朽ちない種、 もう一つは純粋なみことばの乳である。最初にペテロは種まきの例えを思い出していたのかもしれない。種とはみことばだとキリストは解説した。しかしそれは 朽ちない種、人を通し神にペテロの手紙第一1章10節〜21節よって語られ、記されたことば−聖書−の確実性、絶対性が救いの根拠 だ。

加 えて聖書は私たちの信仰の成長と救いの完成のためになくてはならない。この手紙が書かれた時にはまだ新約聖書は完成していなかったが、みことばとは旧約聖 書とそれを解き明かす使徒たちの説教であった。それは教会の中で伝えられ守られたのだ。新約の時代はすでに到来していた。なすべきことは御言葉に没頭する ことだと。

旧 約聖書から3つ引用をする。3種類の石としてキリストが表現される。信者にとっては救いの礎石として、敵対者にしては不要な石として、つまずきの石として 別々の書からの引用である。この土台の石の上に私たちはそれぞれがその一部として築き上げられるように勧められる。キリストの体の一部、その枝として生き るように。

旧 約の時代にはイスラエル民族が神の民であったが、新約の時代にはキリストによって神を信じる人々がそれであると言われる。ここで使われる神の民としての表 現はすべてイスラエル民族に当てはめられていたものだが、それがクリスチャンに向けられている。何と大きな恵みがもたらされたのかを私たちは忘れてはなら ないのだ。


2014年10月5日   アナニヤとバルナバ
使徒の働き9章


ア ナニヤとバルナバ、この二人は使徒パウロの誕生のために神に用いられた人々である。パウロはダマスコ途上で光に照らされキリストの声を聞く。キリスト教徒 を捕らえるために追いかけてきていたのだ。彼は目が見えなくなり3日間飲まず食わずの時を過ごす。そこに遣わされたのがアナニヤだった。彼に導かれてキリ スト者となる。

そ の後、パウロはエルサレムに上る。そして弟子たちの交わりに加わろうとするが、ほとんどの人が彼を恐れて、その回心を信じようとしなかった。しかしバルナ バだけは彼を信用し、使徒たちの元へと導いて交わりに加わることができるように腐心する。このバルナバは後に初の異邦人教会アンテオケにパウロを招聘する ことになる。

大 伝道者パウロの回心においてはアナニヤが、その務めにおいてはバルナバが大きな役割を果たしている。神は人をお用いになってそのご計画を実現されるのだ。 確かに直接、キリストの啓示を受けたパウロだったが、彼一人では決して後の働きを成し遂げることはできなかった。そもそも福音は自分で考え出したものでは ないからだ。

秋 の特別集会を控えて、私たちに求められている働きはアナニヤとバルナバの働きではないかと思う。先行する神のお働きに加わるためにそれぞれが召されている に違いない。アナニヤもババルナバも恐れを覚えたはずである。しかし、主のお導きに自身をゆだねた時に神の良い働きができた。そんな勇気が私たちにも求め られている。


2014年9月28日   キリストの尊い血によって
ペテロの手紙第一1章10節〜21節


将 来、救いをいただくということと、今、たましいの救いを得ているという一見矛盾するような表現をペテロは使う。キリストを信じる信仰によってすでに救いの 内に入れられてはいても、神の救いのすべてをまだ手にしている訳ではない。それが完成するのは御国においてであるということだ。信仰は救いの完成を目指す 旅路である。

その旅路を特徴づけるものは聖(きよ)さ である。清さではなくて聖さと書くのは、それが単に人間の道徳的な特性ではなくて、神の属性としての聖を指しているからだ。その意味は聖め分けられたもの ということで、以前の神を知らなかった生活から、神の子供とされた特別な立場を表している。すでに聖とされている立場にあるのだ。

こ の聖とされるためになされた神の御業がキリストの贖いである。代価を払って買い取られるという意味だから、金銀によって贖われたのではなく、汚れなき子羊 キリストの血によるとペテロは述べている。聖書で血はいのちを表すから、キリストの身代わりの死によって私たちは買い戻され、神のものとなった−聖め分け られている。

そ こで、私たちは神の一方的な恵みによって救われたのだから、どのように歩むべきか、その指針が示される。まず聖なるものとされるようにと言う。神に背を向 けていた以前の生き方ではなく、神に向かって生きる変革が求められている。私たちは死んで終わりなのではなく、そこから本物が始まるからだという。何とい う驚きか。


2014年9月21日   栄えに満ちた喜び
ペテロの手紙第一1章1節〜9節


ペ テロ−言うまでもなく筆頭弟子、使徒の代表である。元々はガリラヤ湖の漁師であったが、キリストの十字架と復活の目撃者となった。パウロほど手紙は残して いないが、2つの手紙が新約聖書には加えられており、マルコ福音書はペテロの説教がまとめられたものだという。彼が晩年ローマで記したと言われるのがこの 手紙である。

宛 先は現在のトルコにあたる地域でローマのいくつかの州の名前が記される。パウロらの働きによってすでに各地に教会が存在していた。教会はユダヤ人クリス チャン及び異邦人クリスチャンが混在していたはずであるが、両者にあてた内容となっている。困難の中にある多くの信者たちを励まし、信仰を全うできるよう 勧めている。

ど のような困難がこの地方の信者たちを襲ったのかは明確ではない。あるいはこれから起ころうとする試練を予見して書いているのかもしれない。どちらにしても 誰でも戦いや悲しみが私たちの生活を襲うということである。そのような時求められることは何か。それはキリストによって与えられた救いの確かさを見失わな いことだ。

キ リストのもたらされた救いは最終的には天の御国で実現する。では今、私たちが得ることのできる救いの印は何であろうか。気落ちした中で信仰の揺らぎがちな 人々にパウロは信仰の喜びを思い起こすように勧める。だれもその喜びを奪うものはないのだ。信仰によってすでに救いの内に入れられていることを忘れてはな らない。


2014年9月14日   
十 字架以外に誇りなし
ガラテヤ人への手紙6章11節〜18節

文 字によるコミュニケーションはメールが主流となりつつある。直筆の手紙を書く機会も以前と比べて減った。実際に手紙を出しても、文字はプリントアウトして あって、署名だけ自筆というケースも多い。パウロの手紙も必ずしも直筆だった訳ではない。口述筆記をして最後にサインをした。しかしこの手紙では彼は最後 に筆を取る。

ど うしても直筆で書かずにはいられなかった。おそらく目を患っていたパウロはそれまでの筆記者の文字に比べて自分の書いた文字が不釣り合いなほどに大きく なっているのに気づいても止めようとはしなかった。ガラテヤの信徒たちへの熱い思いがそうさせた。手紙を読み聞かされた人々の耳にはパウロの肉声が甦った に違いない。

あ なたがたはキリストを信じることによってすでに救われており、神様の子供である。真のイスラエルとはユダヤ人ではなく、キリストを信じる人々なのだ。ユダ ヤ教の習慣や教えを守る必要はない。このままでいい、すでに真の自由を手に入れているのだ。キリストの十字架は全ての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくれ たからだ。

彼 の体にはおそらく多くの傷跡があった。それは福音宣教の代価として彼が負ったものだった。見栄えを良くしたい割礼派の人々に対してこれがイエスの焼印だと いったのだろう。十字架以外に誇りとするものがあってはならないとパウロは述べる。キリストの救いの素晴らしさと価値を知る人は、彼と同じように生きるよ うになる。


2014年9月7日   
2 種類の重荷
ガラテヤ人への手紙6章1節〜10節

人 の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし−これに始まる家訓は徳川家康のものとして知られている。信長、秀吉を経て、最終的に天下を手にし、幕府を開 いた人物にしては少々地味すぎるようにも思われる。だがこのような堅実な考え方が覇者となった理由でもあろうし、あるいはその長い忍耐によって形作られた ものだろう。

重 荷とは一体何だろう。苦難や試練、いわば自分で好んで選択したものでないもの、負わせられた重荷が一つ。あるいは責任や献身といったように、負わなくても 済むが自発的に負った重荷とがある。先のものは他者に共に担ってもらうことによって軽減する。一方後のものは自分が負わなければならない。自由には責任が 伴うのだ。

ク リスチャンの歩みは御霊に導かれるものだと使徒パウロは述べていた。御霊の実である人格の特性が挙げられたが、具体的な実りは行為となって現れる。愛の特 質は覆うものだということだ。他者の重荷を負ってあげるという思い上がりから、互いに負い合うという相互の関係の中に御霊に導かれた兄弟姉妹の交わりが形 成される。

い つも一方が負い、もう一方は負ってもらうばかりでは自立できない。その人が負うべきものと共に担うべきものを識別する必要がある。この書の中では信仰義認 が繰り返し教えられていたが、それは善行を否定したわけではなかった。それは御霊によってなされる。キリストの律法−神様と人を愛する−は信仰によって実 現するのだ。


2014年8月31日   どんな実 を結びますか

ガラテヤ人への手紙5章16節〜26節


時 として科学は人類に両刃の剣とも呼べるようなものを託す。ノーベル賞で有名なノーベルはダイナマイトの発明で巨万の富を築いた。それは土木工事ではなくて ならないものであるが、兵器ともなった。彼は遺産を平和利用のために用いるように遺言したのである。それ自体には善悪はなくても人がそれを善にも悪にでも できる。

私 たちに与えられた自由も同様である。神はアダムとエバに善悪を知る木の実を食べる自由と食べない自由を与えた。彼らはヘビに欺かれてそれを食べ、神との交 わりを失った。いま私たちはキリストによって罪の支配から解放されて自由を得た。そして再び、その自由をどのように、何のために用いるかが問われていると 言える。

肉 によって歩むか、御霊によって歩むかが分岐点であるという。肉とは私たちの生まれつきの罪を持った性質を指し、霊とは神の御霊を指している。神は信じる者 のうちに御霊をお与えくださっている。私たちは神の御霊に従って生きるなら、自由を正しく用いることができる。成功なのか失敗なのかは結果を見れば明らか である。

15種類の肉の 行いと14種 類の御霊の実が列記されている。良いものは神から出るが、悪いものは罪から生まれる。結実は行為において、対人関係において、あるいはその心において明確 に識別される。だがよく覚えておいて欲しい。私たちは決して肉と御霊の狭間でニュートラルの状態ではなく、すでに罪に死んだ者であることを。


2014年8月24日   愛を持って仕える自由
ガラテヤ人への手紙5章1節〜15節

自 由には責任が伴うはずだが、ややもすれば勝手気ままと勘違いされやすい。よく学校紹介で自由な校風といった表現がされることがある。受験生は校則が厳しく ないと思うだろう。私の通った学校もそうだったが、最初のガイダンスでその意味を教えられた。それは紳士たれという意味だと。自分で責任をもって行動する ようにと。

キ リストを信じる信仰は様々な規定から解放するものである。律法の要求のみならず、因習や迷信、あるいは罪の縄目から、自由にする。それは贖いという意味 が、代価を払って買い取られるということからも明確だ。捕虜あるいは奴隷は身代金を支払って自由にされる。私たちもまたキリストの血潮によって解放された 者たちである。

パ ウロはせっかく自由にされたガラテヤの信徒たちが偽教師によって再び律法の奴隷とされることに怒りと悲しみを覚えた。大切なのは割礼という形式ではなく て、愛によって働く信仰だと言い切るのだ。信仰によって始まったなら、信仰によって完成しなければならない。クリスチャン生活の自由を奪うものは律法主義 といえよう。

キ リストによって与えられた自由、それは自らのものではなくて、神のものである。神のために、人とのために用いる自由を与えられたと考えたい。その原動力は 何だろうか?私たちの力−肉−ではない。それは神の力−御霊−だという。もう一度思い起こしておきたい。父なる神はキリストの救いとともに御霊をくださっ たことを。


2014年8月17日   約束の子 ども

ガラテヤ人への手紙4章21節〜31節


旧 約聖書には現代の倫理観では受け入れられないような出来事が記されている。アブラハムの妻はサラであるが、実は長く子供ができなかった。そのため、サラは 女奴隷であったハガルを夫に与え、生まれた子供がイシュマエルである。しかし、実子であるイサクが与えられるとハガルとその子を追い出してしまう。ひどい 話である。

だ が、この出来事を一つの例としてパウロは律法と信仰を類比する。神の救いの歴史における意味を取り上げているのだ。肉によって生まれたとは、神の約束を待 ちきれなかったアブラハムらが人間的な考えでハガルによって子をもうけたことを指しており、約束によってというのは神のみことばの約束でイサクが生まれた ことを指す。

律 法に基づいて行いによる救いを追い求めるならば、それは私たちを罪の奴隷に引き戻すことになる。人間の知恵や力によって神の救いを獲得することはできな い。一方、信仰によって救いを得るならば、そこには自由があるという。神の一方的な憐れみにより御子による救いが実現するなら、私たちの側の功績は何も求 められない。

惑 わす者たちは様々なユダヤ教の規定を守らせようとした。ガラテヤの信徒たちの喜びは失せ、自由は失われた。パウロは言う。あなた方は自由の女の子どもだ、 キリストを信じる信仰はあなたがたを解放した。決して引き戻されてはならないと。最後に創世記ではハガルに神の憐れみが注がれたことを付け加えておかねば なるまい。


2014年8月10日   あの喜びはどこへ
ガラテヤ人への手紙4章12節〜20節


親 しい交わりほど私たちの心に喜びをもたらすものはない。昔からの友人や親族にあうと、話は尽きない。あっという間に時間は過ぎていくものである。教会の開 拓者であったパウロとガラテヤ諸教会の関係もそうであるはずだった。しかし、その関係が失われてしまった時、パウロは再び産みの苦しみをしていると心情を 吐露する。

し かし問題の本質は人間関係の修復ではなかった。パウロの後からやってきた偽教師たちはパウロだけでなく、その教えを否定したのだった。キリストの福音を否 定し、ユダヤ主義に引き戻そうとする虚言に引き込まれていった教会を本来の姿に回復させることが重要な課題となっていたのである。どこに解決の鍵があるの だろう。

時 折、芸能人が新興宗教に入って洗脳されて、救出劇に連日ワイドショーを賑わすことがある。これは氷山の一角に過ぎないが、マインドコントロールを解く鍵の 一つは、その人が健康で楽しかった時を家族が思い出させることだそうだ。現在の自分の姿を見つめ直すきっかけを与える。ガラテヤ教会にも同様の処方が必要 だった。

パ ウロの最初の伝道旅行でイコニオムやルステラでの様子を思い出して欲しい。ユダヤ人の反対にも関わらず多くの異邦人がキリストを信じて教会が設立された。 信徒たちは命懸けでパウロらを守り、信仰を捨てなかった。文字通り厚い信頼と信仰の喜びに溢れていた。キリストの死が無駄にならないために初めに帰る必要 がある。


2014年8月3日   おとうさん

ガラテヤ人への手紙4章1節〜11節

幼い頃、父親をどのように呼んでいただろう。パパ、お父さん、とうちゃ ん、おとう、おとん、ちゃん、ダディ、色々な呼び方があるが親愛をもって呼びかけるその言葉が「アバ」(アラム語で父)である。これ はキリストが神の呼称として教えられたもので、ユダヤ人はこのように祈りはしなかったが、キリスト教徒はそう呼びかけた。

信 仰によって義と認められる、そしてその人はアブラハムの子孫だというのがパウロの説く福音だった。アブラハムの子孫とは真の神の民ということである。かき 乱す人々はユダヤ教の律法を守る人々こそアブラハムの子孫だと言って、ガラテヤの諸教会を惑わしていた。割礼を強要し、ユダヤの祭儀を守ればより優れたも のとなると。

パ ウロはそれらを初歩の教えと切り捨てた。それはすでに終わったものであるという訳だ。律法はキリストが来られるまでの時限律法であって、主が来られた今は すでに意味を持たない。いや、御子が律法の下の生まれ、贖い出してくださった。律法による罪の呪いから御子はご自身のいのちを犠牲にして解放してくださっ たのである。

信 仰によってキリストを信じる人こそアブラハムの子孫、真の相続人である。これは養子縁組によって私たちが神の子としての立場を与えられていることを表す。 その証拠として、与えられた聖霊によって私たちも神をアバ、父と呼ぶ。私たちが神の子であるからだ。以前私たちは神を知らなかったが今は神が私たちを知っ ておられる。


2014年7月27日   キリストにあって一つ
ガラテヤ人への手紙3章15節〜29節

結論から言えば「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰に よって、神の子ども」となる。キリスト教の草創期、異邦人(外国人)が信仰をもって教会に加えられていく中で、一つの問題が起こる。ユダヤ 教の習慣や生活を異邦人にも求めるかどうかということだった。ユダヤ人がキリストを信じた場合には何の支障もなかったが...

このテーマで激論が交わされたのがエルサレム会議(使徒15)であり、教会 が成長のために通らなければならない大切な一里塚だった。会議でも異邦人にはユダヤ教の慣習を押し付けないことが確認されることになるが、神学的な根拠を 与えたのがパウロであった。真のアブラハムの子とは誰か?その論述がここでされているのである。

信 仰によって義とされることはモーセによって律法が与えられる前にすでに神の約束として与えられていたとする。一人の子孫、キリストによって実現するのだ。 このキリストが世に来られるまでの期間に神がお与えになっていたのが律法であった。ユダヤ人はこの律法が自分たちをアブラハムの子、神の民とすると考えた ていたのだ。

律 法は暫定的なものだった。そんなパウロの主張は許しがたく思えただろう。しかし、それを聖書が教えていることが明らかにされた時、神の素晴らしいご計画に 御名をほめ称えることになった。そう、信仰によってどんな人もアブラハムの子なのである。神の恵みは全ての人に開かれている。イエス・キリストにより一つ にされるのだ。


2014年7月20日   義人は信仰によって生きる
ガラテヤ人への手紙3章1節〜14節

義 人は信仰によって生きる/他にもローマ書やヘブル書にも引用されているキリスト教信仰の中心となることばである。ユダヤ教を母体として生まれたキリスト教 であるが、決定的な違いがここにある。ユダヤ教では義人は律法によって生きると教えていた。だが、キリストはそれが誤りであり、信仰による義こそが神の御 旨とした。

律法による義とは行いによる義であり、肉(生まれながら の性質)による義であって、人間の努力や性質によって神の義が得られるとする。 これは2つの理由によって不可能である。1つ目は律法の要求が余りにも高いこと、2つ目は私たちが罪ある存在だということだ。イスラエルの歴史やパウロ の個人的な体験をしても明らかだった。

そ れ以上に律法による義が虚しいことを明らかにしたのがキリストの十字架である。律法によって義と認められる望みがあるなら主は死ぬことはなかったのであ る。主がそのいのちをお捨てになった理由は、律法の呪いから解放するためだった。私たちの代わりに呪われた者となり贖ってくださった。それを有効にするの が信仰である。

義 人は信仰によって生きる。信仰によって神の救いを自分のものとするのだ。信仰の父アブラハムもそうであった。その祝福はこうしてキリストによって実現して いる。そう、このことはキリストの贖罪と直結しているのだ。もし律法によって義を得ようとするならキリストの死を無駄にする。だから愚かなガラテヤ人と叫 んだのだ。


2014年7月13日   キリスト が生きておられる

ガラテヤ人への手紙2章15節〜21節


キ リスト教信仰の真髄を見事に言い表しているのがこのパウロのことばだろう。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではな く、キリストが私のうちに生きておられる」信仰義認の教理は知的な理解に留まらず、その人の生き方を変え、それを貫き通すものである。それまでとは全く異 質な世界なのだ。

律法によって義と認められようとする信仰は(それを信仰と呼べるかどう かは疑問だが)その人が変えられる必要はない。生まれながらの性質(肉の性質)によって追求できるし、そのようにしていた。あるいは神の選びによって イスラエル民族は律法の民であり神の前に義とされると考えていた。霊の生まれ変わりは必要とされなかった。

キ リストは信仰によって義とされる道をもたらされた。それは神が私たちを新しく生まれ変わらせることによってもたらされる新しい生き方であった。それは旧約 聖書に示唆されてはいたが、ほとんどの人はそれを知らず実現することもなかった。キリストによってもたらされた恵みだったのだ。パウロはそれを知ったとき 全てを捨てた。

信 仰義認、それはただ信じたその一時を指しているだけではなくて、その人の信仰、生き方の原理がひっくり返ったことを意味する。古い自分は死んでキリストの いのちによって生きるようにされたのである。新しいいのちによって生きる−神と共にある歩みである。キリストの贖いがそれを私たちにもたらしたのだ。あな たのいのちは何か?


2014年7月6日   神の子とされる
ヨハネの福音書1章12節


赤毛のアンを知っていますか。NHK朝 の連続ドラマで注目されています。舞台はカナダの田舎町、マシューとマリラという老兄妹は農作業の手伝いにと、男子の養子をもらうことにします。しかし何 の手違いか、やってきたのは赤毛の女子、名前をアンと言いました。この少女の成長と人々との交流が楽しく、そして美しく描かれます。

  自分たちの必要のために養子を所望していた二人ですがアンとの生活の中で変化が訪れます。逆にアンのために何か役に立てるのではないかと考えるようになる のです。3人は一つの家族となっていきます。それを象徴するのがマシューとアンの別れのシーンでした。マシューは言います。一ダースの男子よりお前一人の 方が良かった。

  この関係はまるで私たちと神様との関係のようです。私たち人間は神様の戒めに背き、神様との交わりを失いました。自らを神様の呪いのもとに置いたのです。 しかし神様は私たちを憐れんでキリストをこの世に遣わし、私たちの罪を赦すために十字架におつけになりました。一人ひとりをかけがえのない存在として愛さ れたのでした。

  「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとさ れる特権をお与えになった」ヨハネ112 もしあなたがキリストを信じるなら神の子とされます。神様の子どもと して神の守り、祝福、導きが約束されますが、何よりも幸いなのは神の愛をもう疑うことがないということです。


2014年6月29日   永遠の愛で
ルカの福音書15章6〜10節

結 婚式の指輪交換で聞く言葉は、リングは終わることのない永遠の愛を意味するということです。これは結婚の誓いをした新郎新婦に対する祝福と確認です。そし て二人を結び合わされた神様の愛を思い起こさせていると言えるでしょう。人間の愛は時として限定的で独りよがりであり、永遠という言葉を使えるのは神様だ けだからです。

十 枚のうちの一枚の銀貨を失った女性は血眼になって探します。高価なものですから当然かもしれませんが、その貨幣価値は1デナリと同じで一日分の賃金です。 思ったより安いと思われるかもしれません。しかし物の価値は人によって違います。特に思い出の品はそうです。この人は十枚一組の銀貨にどんな思い入れが あったのでしょう?

た とえ無くなったからといって新しいものを買ってきても、それでは意味がないものは多いのです。神様の愛はそのような愛だと聖書は言います。失われた一枚の 銀貨は私たちです。いいえ、あなた一人です。神様はその一人を探し求めて見つけようとしておられるのです。神を離れ、反逆する姿は神の目には失われた者と 映っています。

私 たちを見つけ出して救うためにキリストはこの世界に来られました。私たちの罪を背負って十字架の上で死なれ、三日目によみがえられたのです。それが失われ た者を見出す神の愛です。「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続け た。』」エレミヤ313


2014年6月22日   かけがえのない存在として
イザヤ書43章4節


か けがえのない存在として受け入れられている場所は家庭であり、家族です。かけがえのないという意味は代わりがないということです。その逆に、その人に何が できる、どんな貢献をしているかということで評価され価値を認められる場所もあります。いや、ほとんどの集団はそうかもしれません。そしてそこに存在意義 を見出します。

ど んなに優れたスポーツ選手であっても、いずれレギュラーを譲ることになります。会社で一番の業績を上げていた人にも定年が訪れ、自分がいなくては回らない と思っていた部署も動き続けます。残念ながら代わりはいるのです。それであれば貢献度の低い人はなおさらでしょう。自分が必要とされなくなるその時、寂し いものです。

冒 頭に述べたように、取り替えることのできない絆で結ばれているのが本来的な家族のあり方でしょう。しかし同時に家庭は最も罪の現れやすい場所でもあって、 そうではない家族が余りにも多いのが現状です。親と子が、夫と妻が、互いに必要とされることを忘れないようにせねばなりません。その先に見えるものが神と の関係です。

神 様は私たち一人ひとりをかけがえのない存在としてご覧になります。あなたの代わりはいないと言ってくださるのです。罪にまみれ、傷ついた私たちをなお愛し てキリストをこの世に送り、私たちの救いのために十字架にお付けになりました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」そ う言われます。


2014年6月15日   信仰義認

がラテヤ人への手紙2章1節〜16節


天 地創造、人類堕落、御子聖誕、代償贖罪、聖霊降臨、福音宣教、信仰義認、新天新地、思いつくままに聖書と関係する四字熟語をあげてみた。ちなみにこの中で 歴史の教科書に出てくるのは信仰義認の熟語である。ルターに始まる宗教改革で必ずふれられることば。ただし日本人の多くの学生には意味が理解できないのが 実情だろう。

  まず義認が分からない。文字通り、義と認められることであるが、その内容は一体何を表しているのか。義と認めてくださるのは神様である。義と認められるの は私たち−ということは、私たちは義ではない状態にあるということだ。神に喜ばれない、いや神のお嫌いになる状態に私たち人間は陥っている。これが人間の 罪の姿である。

  ユダヤ人は神の戒めである律法を守ることによって神様に喜ばれることができると考えた。すなわち義と認められるというのである。その象徴が割礼という儀礼 だった。パウロはこれを異邦人の改宗者にも強要する人々と激しく戦った。単に外面的なことではなくて、信仰の本質を著しく歪めてしまうものであることを見 抜いたからだ。

  信仰義認とは私たち人間の行為によって得られるものではなく、神が用意してくださったキリストの贖罪を信じることによって得られると言う。人間は神との正 しい関係を修復する術を持たない。できるのは信仰によってそれを受け取ることなのだ。これが神の恵み、福音の喜びである。ここはどうしても譲れない命懸け の戦いだった。


2014年6月1日   
使 徒となったパウロ
ガラテヤ人への手紙1章1節〜12節


使徒というのはキリストが12弟 子を任命したときに使った言葉であり、遣わされた者という意味である。限定された呼び名であったが、後にパウロとバルナバがそう呼ばれるようになったの は、異邦人への使徒という観点からだろう。パウロは福音書時代のキリストにはお会いしていない。彼はダマスコ途上で復活の主に直接お会いした。

彼 が使徒と呼ばれ出したのは、ちょうどガラテヤ諸教会を設立した頃である。ガラテヤ教会とは個別の教会ではなく、ガラテヤ地方の諸教会ということで、第一回 伝道旅行で訪れた諸都市の教会を指していると考えられる。これは後に入りこんできた「かき乱す者」がパウロの資格と権威を攻撃したことと関係しているので はないかと思う。

こ の時期にはまだ新約聖書は完成していなかった。この手紙がひょっとしたら最初のものだったかもしれない。異端的な教えに対してそれを識別する物差しが乏し かったのである。その基準は使徒からもたらされたかどうか。なぜなら彼らこそがキリストからの直接の伝達者だったからだ。パウロが使徒職を強調するのはそ の理由である。

 福 音とはキリストが私たちを救うため、私たちの罪のためにご自身をお捨てになったとある。それは神からもたらされる恵み、恩寵である。それを否定する教えが もたらされたガラテヤの教会を建て直すためにパウロは心血を注ぐ。それは自分の功績を失いたくないからではなく、キリストの十字架が無駄にならないため だったのである。

2014年5月25日   
神 のみこころは
ヨナ4章

神 様、あなたのそこが嫌!−ヨナはそう言った。あなたが愛に溢れ、憐れみ豊かなところが、どうしても受け入れならないと言うのである。もう死んだほうがま し。言いたい放題である。これが祈りかと思うが、ヨナは祈ったとあるので、そうに違いない。賛美も感謝もなく、ただ自分の不愉快な感情を大真面目に神様に ぶつけたのだった。

ヨ ナは逆の意味で神様が思い直されるのではと考えたようだ。初めにおっしゃったとおりにニネベを滅ぼされるかもしれない。それを確かめるまでは家に帰れな い、そんな思いだったのだろう。怒りの原因は、預言が外れて面目をつぶされたからではなく、滅ぼされるべきニネベが滅ぼされないのは何故かという誤った正 義感である。

神 様は面白いことをされた。ヨナのために緑陰を与え、ヨナのためにそれを取り払われた。このレッスンはヨナに神のみこころを悟らせるためであった。言ってわ からない人には実際に経験させなければならない。我々も同じである。ヨナは何よりも一本のトウゴマを好んだ。強い日差しを遮り、慰めとなった。そしてそれ を惜しんだ。

神 の愛を誰が知るだろう。パウロが述べるように人知をはるかに超えたものである。ヨナはそれが理解できなかった。おそらく私たちもそれを完全には理解できて いない。神は惜しまれる神である。神を知らずに滅び行く人々を誰よりも愛して探し求めているのは神ご自身なのだ。ニネベとは遠い昔の国ではなく、この世界 のことだ。


2014年5月18日   裁きを思い直された神
ヨナ3章

立っ て、あの大きな町ニネベに行き−神様が再びヨナに命じたことは始めと変わらなかった。神は憐れみをもってニネベの人々をご覧になっていたのである。イスラ エルにとっては敵国アッシリア、神の民にとっては呪われた民であっても。狭量な選民思想がここでは乗り越えられている。しかし果たして彼らは神の言葉を聞 くだろうか。

キ リストはニネベの人々がヨナのしるしを見、説教を聞いて悔い改めたと言った。それは3日3晩、魚の腹の中にいたことは大きな意味を持つことになったことも 不思議である。預言者の不従順がかえってその働きに用いられていった。どのような状況だったのかは不明だが、ニネベの人は魚の腹の中から吐き出された預言 者に目をみはる。

し かしニネベの人々が悔い改めたのはヨナのしるしに驚いただけではなかった。彼の説教を聞いたのだった。神のことばが彼らの心に届き、彼らは自分たちの過ち を自覚したのだった。小国イスラエルの預言者一人の声に街中の人が答えていく、そして最後は王までがへりくだっていく。旧約聖書の中でも他には見られない 出来事だった。

キ リストはヨナのしるしをご自身の十字架と復活に当てはめておられた。新約の時代にはローマ帝国でキリストのしるしとして福音宣教が進められ、小国イスラエ ルで始まった教えは異邦人の救いを実現していった。さて、ニネベにくだされる裁きは思いとどまられた。ヨナはそれを預言者の成果として喜んだのか。そう喜 ばなかった。続


2014年5月11日   悔い改めた預言者
ヨナ書2章


キ リストがヨナのしるしと言われた個所がここである。ヨナは魚の腹の中に3日3晩いて生還する。これを十字架に死なれ、3日目によみがえるご自身と重ね合わ せたのである。しかしキリストは私たちの救いのために地に下られたのだが、ヨナは不信仰のために海に沈んだ。嵐に投げ出され沈みゆく中で、一体何を思い何 を考えたのか。

も し私たちがもう一度取り戻したい時間があるなら、何を望むだろう?ヨナが願ったのは聖なる宮を仰ぎみたいということだった。神との交わりの回復を願ったの だった。このままでは死んでも死にきれない、ヨナは我に返る。命乞いではない、神と繋がっていれば死をも恐れることはない。私たちが願う一番大切なことは これである。

こ の祈りは主と共に十字架につけられた強盗の一人につながる。彼もまた最後に救いをいただいたからである。罪を犯したダビデの願いもそうだった。神との交わ りの回復を願って受け入れられたのだった。神との交わりに生きた人がそれを失ったことを気づけば、何としても取り戻したいと思うのだ。最も輝いている自分 がそこにいる。

 ヨ ナの悔い改めは信仰者の悔い改めである。神を知らない人ではなく神のしもべのそれである。神様は不従順なヨナを海に落とし、悔い改めへと導かれた。ヨナの 霊は砕かれ神の命に喜んで従う者とされる。神のしもべに神が求められることはこれである。従順‐それは嫌々ながらではなく、神との交わりに生きることを喜 ぶ従順である。

2014年5月4日   不従順の罪

ヨナ書1章


ヨ ナ書は旧約聖書の中でも趣の異なった書である。預言書でありながら内容は物語である。また、神の民に対する選びを強調する書が多い中で普遍的な神の愛を明 らかにしている。大魚に飲み込まれたり、日除けにしていた植物が枯れて拗ねてしまったりとユニークな展開をたどる。そして何よりも福音宣教を語る上で重要 な書である。

ヨ ナは神のことばをいただく神の民であった。その上、預言者として直接、神からの任務を命じられる。モーセも神に召された時に恐れを覚えて尻込みするが、神 の促しに押し出されていった。しかしヨナは逃げ出した。不従順の罪を犯したのである。私たちの神に対する罪とは反逆だけではない。従わないことも大きな罪 なのである。

不 従順というのは知らなかった罪ではない。使徒パウロは以前の過ちを知らないでしたことなので赦されたと述べている。ヨナは知らなかったのではなく、知った 上で従わなかった。異邦人に神のことばを語ることを良しとしなかったのである。その結果はどうであったろう。祝福の基となるべき神の民、預言者が呪いの基 となったのだ。

ヨ ナの不信仰が神様の力と真実を貶めることはなかった。人々はヨナの不従順の結果、嵐が起こったことを知って、主を恐れたのだった。ヤコブはなすべきことを 知っていながら行わないなら罪であると言う。私たちのなすべきこととは何だろう?もう一度、キリストの大命令を思い出し、教会の存在する意味や目的を確認 する必要がある。


2014年4月27日   あなたはわたしを愛するか
ヨハネの福音書21章1節〜25節


3 度キリストを否んだペテロが、今度は3度愛するかと尋ねられる。非常に印象深い場面である。場所は、そう、ガリラヤ湖。使徒としてキリストから召されたそ の場所である。私たちは多くの失敗をするが、中には致命的なものもある。ペテロの場合もそうで、再び使徒として、あるいは指導者として立つことはできぬと 考えたのだろう。

だ から元の職業に戻った。故郷にもどり網を打っていたのだ。しかし収穫はゼロ、そうあの日と全く同じ。そして朝まだきに岸辺に立つキリスト。主の言葉に従っ て網を下ろすと大漁だった。まるで巻き戻したビデオをもう一度見るように繰り返される奇蹟。ペテロは岸辺にいるのがキリストだとわかると湖に飛び込んで駆 けつけた。

人 を立たせるものは何だろう。優しいことば、あるいは叱責、それとも償いの遂行か。静かに語りかけるキリストのことばはペテロの心に刺さる。それは愛するか という問いかけだった。ダイレクトに言えず、主よご存知ですとしか返せないペテロ。そんな彼に命じられたのは指導者として立つことであった。再召命の瞬間 であった。

そ れは決して安泰な道を示してはいなかった。その先にあるのは殉教である。でも迷いはない。ペテロは再び立ち上がる。この福音書が記された時には、彼は恐ら くローマで処刑され20年ほどが経っていたと考えられる。そしてヨハネは最後の生き残りの使徒としてこれを記録した。あなたも愛するか、これは読者への問 でもある。


2014年4月20日   主は甦られた
ヨハネの福音書20章1節〜30節

キリストが十字架で死なれたことは教科書にも載っていて、歴史的な事実 として受け入れられている。しかし、聖書はその意味を問う。人類の救済のためであるとする。ただ、これはキリストの復活があって初 めて意味を持つ。慈悲深い偉人がいて、仮に人類の救済のために私は死ぬと言っても、そこには何の保証もないからである。

キ リストはまずマグダラのマリヤに姿を現された。墓は空であり、キリストの体を巻いていた亜麻布だけがそこにあった。誰かが遺体を盗んだのであれば、わざわ ざ布を外して持っていくことはあるまい。マリヤはただ墓で泣き続けた。キリストにお会いしても分からずに。その目を開いたのは彼女を呼ぶ、懐かしい主のみ 声だった。

ペ テロやヨハネは空の墓を見て信じたとされるが、実際に復活の主にお会いするまでは深い恐れの中にあった。彼らの中に立たれた主のお体にある傷跡を見て、よ うやく喜びの中に入れられたのである。トマスに至っては、ありえないと強く否定したが、キリストに膝まずき礼拝した。見ないで信じる者は幸いであると主は 言われる。

復 活、それは初代教会が作り出した神話でもなく、弟子たちの内なる経験でもない。私たちには説明することも理解することもできなくても、それを事実として受 け入れない限り、道理が合わないのだ。ヨハネはこれを書いた理由をこう述べる。私たちがキリストを信じていのちを得るためであると。あなたは見ずに信じら れるか?


2014年4月13日   完了した
ヨハネの福音書19章17節〜30節


贖 いの子羊が屠られる、正にその時にキリストは十字架で死なれた。イスラエルの人々をエジプトの圧政から救い出した神は、キリストによって私たちを罪と死か ら救い出してくださるのである。その死は自発的な死であった。この方は自ら十字架を負って処刑場であるゴルゴダの丘に向かった。神の救いのご計画の完成の ためである。

十 字架刑という残酷な最後を遂げられたが、この方は王として死なれた。それは嘲りの表現であり、ピラトの仕打ちであったが、神の摂理の中でまことの王、受難 の王としてキリストは磔刑になったのだ。罪状書きがへブル語、ラテン語、ギリシヤ語の3つで記されたのは、この方がすべての人のために死なれたことを意味 している。

こ れはすべて神のご計画の元にあった。この箇所ほどヨハネが旧約聖書を引用する部分はない。預言の成就を見ているのだ。天地創造より始まる人類の創造、そし て堕落、その救済のご計画の成就がここに実現したことを宣言している。完了したというキリストの言葉は、世の罪を取り除く神の子羊としての贖いの完成を告 げたのだ。

ヨ ハネは最後に書いている。「あなたがたにも信じさせるために、真実を話す」−すなわちこの福音書の読者なり、あるいはそれを説き明かされた人がキリストを 信じることが目的だった。招きの言葉はこうだ。あなたを贖うためにキリストは自分から進んで十字架の死を遂げられた。もしこれを信じるなら救われて、永遠 のいのちを得る。


2014年4月6日   さあ この人です
ヨハネの福音書19章1節〜16節


公 に姿を現したキリストの姿は道化師のようだった。まさに強いられた道化、侮蔑の対象としてそこに引き出されたのである。王冠の代わりに茨の冠、紫の衣もま た兵士たちのからかいであった。哀れな姿を衆人環視の元においたのはイエスを十字架につけようとするユダヤ人指導者に対して、総督ピラトは一矢を報いよう としたのだ。

2 度も釈放すると宣言したにも関わらずユダヤ人の声に押し切られるピラト。扇動された群衆は、囚人バラバを釈放しキリストを十字架につけろと叫ぶ。自己保身 のために騒動を起こしたくない彼は好きにしろと言って裁きを投げ出す。しかしピラトはキリストに対して何かしら恐れを抱いていた。単なる扇動者には見えな かったのだ。

こ の十字架のキリストの姿に、神の不思議なご摂理を見ることができる。この方は正しく王であった。しかしそれは力ある王、征服者ではなくて、受難の王、贖い 主としての姿である。嘲りのために扮装させられた姿はまことの王として提示されている。神は武力により世界を変えようとしたのではなく、贖罪によって変え ようとした。

ま た、キリストはバラバに代わって十字架につけられる。罪の無い方が罪人に代わって死なれるのである。バラバとは罪人である私たちだと考えて良い。私たちが 自分の罪のために神の裁きを受けなければならないのにキリストが裁かれた。人類を贖うためには、これ以外の方法がなかったからである。この王の姿は我々の 誇りなのだ。


2014年3月30日   真理の御霊
ヨハネの福音書16章7節〜16節


キ リストはご自身が去ったあとに、もうひとりの助け主が来られると言われた。もちろん目に見えるひとりの人物ではなく、真理の御霊、三位一体の第三の位格で ある聖霊なる神様である。実に私たちの信仰生活はこのお方の働きに依存している。単なる観念的な存在ではなく、目には見えなくても、現に生きて働かれるご 人格なのである。

  この方は3つのことをキリストに代わって私たちに示す。先ず罪について。私たちの神の前における最大の誤りは、犯罪者となることではなく、キリストを信じ ないことだと言う。父なる神が世を愛して遣わされた神の子を受け入れないことが一番の罪であるという。何と極端な言い方と思われるかもしれないが、御霊は これを証する。

  義について、キリストはその基準であり、義そのものであった。この方が去られたあと、それを明らかにされるのは神の御霊なのである。さばきについて、キリ ストは十字架で裁かれたのではなく、世が罪に定められたのである。サタンの力は打ち破られ、死に勝利されたのだ。キリストに代わって、このお方が私たちに 神の真理を証する。

 御霊は語られるお方である。人格(神格)で あるとはそういうことである。知情意をお持ちのお方なのである。どのようにして語られるのであろう。聖書の時代には預言者や使徒の口を通して語られ、今は 聖書を通してお語りになる。説教者を通して私たちの心に語りかける。どれほどこのお方のリアリティを私たちは知っているだろう。


2014年3月23日   実を結ぶ秘訣
ヨハネの福音書15章1節〜16節


植 物がまだ眠っているように見える季節でも本当は春に向かって動き出している。メープルシロップを集めるのは今の季節だそうである。サトウカエデの幹に傷を 付け、樹液を集めて精製する。芽吹きの前に木々はその備えをしているのだ。目に見えないが、栄養が枝先にまで行き渡り、新しい命の季節を迎える。そして秋 の実りとなる。

キ リストはご自身がぶどうの木で私たちはその枝であるといわれた。枝は幹から水や栄養を得て生長し実を結ぶ。当然ながら切り離された枝は薪にしかならない。 では、私たちがキリストに繋がり、そこから得られる滋養とはなんだろう?それはキリストの愛であるという。そしてその愛とは友のためにいのちを捨てる大き なものである。

こ れがキリストの十字架における贖罪を指していることは明白である。キリストはご自身のためにではなく、私たちのためにいのちをお捨てになった。まさに友の ために死なれたお方である。このキリストの愛を知った時に、私たちはぶどうの幹に繋がれるのである。神様の愛が私たちを新しくし、私たちの生きる動機、目 当てとなる。

私 たちが求められていることはキリストにとどまることだ。実を結ぶことではない。それは結果としてもたらされると約束されている。なぜならキリストが私たち を選んでくださったからだ。キリストの救いは神から出たのだ。キリストに繋がる、あるいはとどまるとは、この方を神と信じ日々この方の御旨に従って生きる ことである。


2014年3月16日   神へ至る道
ヨハネの福音書14章1節〜7節


人 生の終わりを前にした時、開かれる箇所だという。私自身もおそらくここを指定するだろう。達観してそのときを迎えられるとは思えない。あれこれ心配し、思 いわずらうことも多いのではないか。キリストの言葉は、いにしえの時代に弟子たちに語ったものとしてではなく、その時、私自身に語りかけることばとして迫 るだろう。

弟 子たちの不安はキリストが自分たちを置いて、どこかに行こうとしていることだった。そしてそこに今はついていけないと言う。こうして弟子たちにあらかじ め、十字架の死は予告されたのだ。これまではどんなに不安でもキリストは動揺することなく、問題は解決されてきた。彼らはそれゆえ信じたのだ。それなのに 今回は違う。

主 は場所を備えに行くと言われた。死は終わりではない。特にキリストの十字架の死は、神様への道を開くためのものである。人類の離反によってもたらされた神 との断絶は、キリストの十字架によって和解が実現する。神と人との架橋をそこに築かれたのだ。だからキリストは先遣隊となり、死に勝利され、我々を迎えて くださる。

父 に至る唯一の道、そうキリストは宣言される。何を信じても最後は一緒とは言わない。父−神に至るには罪が赦されねばならず、罪の赦しはキリストの十字架の 贖いによらねばならず、死に勝利されたキリストだけが私たちに永遠のいのちを与える力をお持ちであるからだ。キリスト教ではキリストを神とする。偉人や教 祖ではない。


2014年3月9日   弟子の足を 洗うイエス

ヨハネの福音書13章1節〜20節

足 を洗うという慣用句は、悪事を止めて正しい生活に戻ることを意味する。ここでは実際の行為のことが言われているが、どちらも足は汚いものとして認識されて いる。現代のように道路が舗装されているわけではなく、裸足かサンダル、体で最も汚れる部分であった。人々が集まって食事をするときに足を洗うのは家令の 仕事だった。

キ リストが弟子たちの足を洗い出したとき、彼らは一体何を感じていたのだろう。書き出しにはイエスが愛を示されたとあるが、恐縮していたに違いない。現にペ テロは一度、断っているのだ。そう、その意味を弟子たちが知ったのは、後になってからだった。私たちも同様の経験をする。特に信仰生活における神の恵みは そうである。

やっ てみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ−山本五十六の格言だそうだが、はるか昔にキリストが実践していたのだ。父の元に帰る時 の近いのを知った故に弟子たちに模範を示し、これからのあり方を見せた。そしてこれが最終的に示唆するのは、全ての人の罪を洗い清める十字架の血潮にほか ならない。

キ リストはユダの足も洗ったのか。洗ったに違いない。キリストの愛に対して、ユダの裏切りが対照的に書かれているのもこの箇所の特徴である。この席上を離れ て、ユダは密告をしに行くのだ。キリストはそれをご存知だった。しかし十字架を神の定めと知り、最後の教えを弟子たちに与えようとされる。そうゴルゴダは 目前に迫る。


2014年3月2日   
一 粒の麦 地に落ちて
ヨハネの福音書12章12節〜26節

ヨ ハネはキリストの都上りに人々が熱狂した理由を、ラザロの奇跡があるとする。イスラエルの王として入城される。もう一つの奇跡、5千人の給食において、同 様に人々の期待が高まったが、その時にはそれを拒絶したために、人々は離れていったのだった。なぜここで主はそれを受け入れたのだろう。それは時が来たか らであった。

民衆の期待はいつの時代にも変わらぬものである。開放者としてのリー ダーを希求する。ローマ帝国からの開放とイスラエル王国の樹立を果たすメシヤ(救世主)を人々は待ち望んだ。しかしキリストは決して政治的なメシヤを受け入れ たわけではなかった。この方は人類の贖罪を成し遂げる受難のメシヤとしてこの時を迎えたのである。

一 粒の麦が地に落ちて死ぬとは、キリストが十字架で御自身の命をお捨てになることを指している。この方は敵を倒し、人々の上に君臨することによって神の栄光 を現すのではなく、人々のために自分の命をささげることによって神の栄光を現される。人類を罪の呪いから贖い出すために、この世に人としてお生まれになっ たのである。

で は、キリストは私たちに何をお望みになるのだろう。それは自分のいのちを憎んで、キリストについていくことだという。憎むというのは強調的な言い方で、自 分ではなくて神の御心に従うということである。その模範的な姿が十字架のキリストにある。信仰を持って教会に連なり、主の働きに自らをささげる人を神は喜 ばれるのだ。


2014年2月23日   
のささげ物
ヨハネの福音書12章1節〜11節


福 音書の中に五感のうちで臭覚に関する記述は少ないが、ここには部屋中に芳しい香りが満ちた様子が描かれている。著者ヨハネもその時の香りをいつまでも忘れ られなかったのだろう。また、それはマリヤの信仰による愛の行為を見事に彩っている。彼女はキリストのためならどんなに高価なものも惜しまずに捧げること ができた。

人 は自分にとって価値あるもののためにお金を費やすものである。趣味のために収入を注ぎ込む人もあれば、貯蓄そのものに生きがいを感じる人もいる。子どもの 養育のために働く親はそれを大切な事と考えるからだ。マリヤはナルド油を大事に使ってきたに違いない。だがそれ以上にこの宝を消費する価値があると考えた のである。

一 方、対照的に描かれているのはユダである。彼の語る言葉は正論である。しかし動機は、自分の儲けにならないと言うとんでもないものだった。彼は貧しい人の ことなど気にもかけていない。正論の影には往々としてこのような悪意が存在する。しかし、ここで大きな慰めは、キリストだけは私たちの思いを知っておられ ることだ。

こ のベタニヤでの会食はキリストがエルサレムに来られたことを、ユダヤ人をはじめ敵意を燃やす指導者たちに周知させることとなった。十字架への一週間の始ま りでる。そしてその目当てが十字架であることを知るのは主だけである。だからこのささげ物を何よりも喜ばれた。果たしてマリヤがそれをどれほど理解してい たのだろうか。


2014年2月16日   
信 じるなら神の栄光を見る
ヨハネの福音書11章38節〜46節


ヨ ハネ福音書には7つの奇蹟が記されているが、その最後で最大のものはこのラザロの復活である。ラザロの病を聞いたときから、キリストはこの奇蹟を行うおつ もりだったのだ。だから弟子たちにはあらかじめラザロの死を明らかにし、ベタニヤに来られてからも、あなたの兄弟は甦るとマルタに語られた。信じるなら栄 光を見ると。

こ の奇蹟を読んでいくときに改めて私たちは信仰を問われているのだなと気付く。マルタとマリヤは兄弟の死という悲しみの中でもキリストを信頼し続けることが できるかというチャレンジを受けた。そして最後には墓を開けるようにという無茶なことをキリストは言われる。ここでそれを開けなければこの奇蹟は行われな かったはずだ。

私 たちは日々の生活の中に起こる様々な出来事の中で、それが必ずしも楽しいことや嬉しいことでなくても、キリストに対する信頼を失うことなく、信じ続けられ るのかと問われる。神の栄光のために召しい出されたのが私たちだ。たとえ神の計画が分からなくても、信じるなら神の栄光を見ると語られていることを忘れて はならない。

ラ ザロよ、出て来なさい。この威厳ある言葉で彼は死から呼び覚まされた。これはすべてのキリスト者の体のよみがえりを保証するものだ。私たちもいつの日か生 涯を終えた後に、この声を聞く。死は終わりではない。さて、この奇蹟がキリストの磔刑の最後の決め手になったとヨハネは記す。いよいよ次章からは最後の一 週間に入る。


2014年2月9日   ここにい てくださったなら

            ヨハネの福音書11 章17節〜37節                         

奇 しくも姉妹の第一声は同じことばだった。ご存じのように性格の全く異なる二人だが、その思いは一つだったのだ。兄弟ラザロの回復を願い、キリストにここに 来て癒してくださることを願ったのだ。それなのに到着したのは死後4日も経っていた。遅すぎた。もっと早く来てくだされば。絶望と悔しさの入り混じる思い が渦巻く。

も ちろん彼女たちのキリストに対する信頼が失せてしまったわけではない。マルタは到着を聞くとすぐに出迎えに行ったし、マリヤが立ち上がれなかったのは悲し みに沈んだためである。どちらもキリストがいてくださったならラザロは死なずにすんだと言って、信仰を表明している。マルタに至っては復活の希望について 告白する。

し かし、そこに不足していたものがあることに私たちは気付く。本当にキリストはそこにいなかったので御業をなさることができなかったのかと。そうではないは ずである。同様に私たちに起こる不都合な出来事は主が共におられなかったから起こったのだろうか。キリストは世の終わりまであなたがたと共にいると約束さ れた方だ。

人 々の悲しみに共に涙され、人を絶望に陥れる死に対して憤りを覚えられた主は決してこの家族を忘れたことはなかった。初めからこの出来事を通して主の偉大な 御業がなされることを話しておられたのだ。そうだ、主は共にいてくださるのだ。そして私たちの思いを共に担ってくださる。死の向こうまで私たちとともにお られるのだ。


2014年2月2日   神の栄光 のために

             ヨハネの福音書 11章1節〜16節                         

こ のまま時間が止まってくれれば−だれもがそのように感じたことがあるのではないか。これは幸せが続いてほしいというのではなく、目前に控えている出来事に 逡巡してのことである。特に病身の家族を抱えていたり、いや自身の病状を知ればなおさらだ。マルタとマリヤにとってキリストに使いを出しての数日は正にそ うだった。

イ エス様ならきっと来てくれる。そしてラザロを助けてくれる。二人の共通の思いだった。しかし、到着間に合わず兄弟ラザロは死んでしまう。彼女たちは裏舞台 を知らなかったが、もし知ったなら失望したに違いない。「来られるのにわざと2日間もぐずぐずしていたなんて!私たちのことを心にかけてはくださらないの だわ」と。

お もしろい事に聖書は2日間の遅延を決してキリストの無関心とはしない。はっきりとこの兄弟を愛しておられたとある。愛する者が病気であるという緊急のメッ セージに愛を持って答えられたということだ。ただし私たち人間には理解できない神のご愛がある。私たちの愛はすぐに駆けつけることだが、神の愛は2日の遅 延だった。

神 の栄光のために−盲人の癒しでは神のわざが現れるためとあったが、ここではもう一歩進んでいる。キリストはラザロの死を知り、それでもなお、そこに神の栄 光が現れると言われる。私たちには最後の望みが消えたように見えても神の望みは消えることはない。私たちの人生はこの神の愛を知る旅路を歩んでいるのかも しれない。


2014年1月26日   神がす べてのことを働かせて

                 ローマ人への手紙8章28節                         

私 たちの生活には思いがけないことが起こる。自分なりの予定や計画を立てていても大きく狂うこともある。そんな時によく引用されるのが、次の聖書の言葉であ る。「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っていま す。」ローマ828

こ れを理解するには少々時間がかかる。なぜなら物事の成り行きを知って初めて分かる神の御業があるからだ。ヨセフがそれを理解したのは兄たちがエジプトに やって来て、ユダが身代わりを申し出たときだったし、モーセが40年の羊飼いの生活の意味を理解したのも、荒野の旅路に着いたときだったろう。最初は中々 理解できない。

な らば突然の出来事に混乱している状況でこの御言葉はどのような力を持つのだろうか。まず神様と私の関係を思い起こさせてくれる。神様のお召しによって神を 愛する者とされているということである。私たちの人生は神のご計画に組み込まれている。そして、それは誤りも狂いもない。今は分からなくても−そんな神信 頼へと導く。

 加 えて、これが神の祝福へとつながることになることを示唆してくれる。害とされるのではなくて益とされる。私たちの思いもよらぬ方法でそれをなさるのは神で ある。この信仰の土台にはキリストの贖罪がある。私たちのためにいのちを棄ててくださった御子の御業が愛の証しなのである。だから神は決して悪しき物を与 えられぬと。

2013年1月19日   父と子 はひとつ

            ヨハネの福音書10 章22節〜39節                         

キリストが人々の反感を買い、石打にされかけたという記述が2度ある。 それはどちらもご自身の神性を主張された時であった。ユダヤ人にとって最大の罪は殺人ではなくて、神を冒涜することであった。先にはご自身がアブラハムの 生まれる前からあると言われたとき、そしてここでは父とひとつであると言われたときである。

キ リスト教と呼ばれるだけあって、この信仰はイエスはキリストであり、神の子、神と等しい方であるとする。三位一体という教理の核心的な部分が明確に主張さ れているのだ。このような主張に対して私たちの取りうる態度は2つしかないのではないか。誇大妄想として退けるか、この方を神の子キリストとして受け入れ るか。

キ リストは次いでご自身が行われた奇跡がその証拠だと主張された。そしてそれは最終的にはキリストの死からのよみがえりへとつながっていく。使徒パウロも言 うようにキリストの復活の歴史性こそ、キリスト教信仰の根幹である。私たちの歴史の中に超越的な神のお働きが現わされ、介入したことを受け入れなければな らない。

こ れを受け入れる人々をキリストはわたしの羊と呼んでおられる。神の選びがあらかじめ定まっているのだろうか。選びの外にある人には救いの希望はないのか? 決してそうではない。責任は私たちの側にある。その声を聞いてついていった者がその羊なのだ。でも神はそれをあらかじめ知っておられたのだろうか。そうで ある。


2013年1月12日   
わ たしは良い牧者
ヨハネの福音書10章

                          

こ の羊飼いのたとえは独立した話ではなく、前章からの続きである。盲人の目を癒したイエス様に対して反感をもつパリサイ人に語られている。彼らは当時の宗教 的な指導者である。それを念頭に置いて考えると、この中で盗人、強盗だとか雇い人の羊飼いとは彼らを指していることが分かる。そしてご自身の唯一性、正当 性を主張する。

確 かに盲人の青年は目が癒されたばかりか、彼はキリストを告白するに至る。迷い出た羊は真の羊飼いを見出して、群れの羊となった。パリサイ人たちは彼を迫害 したのである。羊はその声を聞き分けた。キリストがご自身を羊の門、良い牧者だと主張したのは、当時の指導者たちを否定し、真理はこちらにあると言ってい るのである。

こ こで注目したいのは、その真の羊飼いとしてのしるしをキリストの贖罪においていることである。羊のために命を棄てるのが良い牧者であると十字架を示唆して いる。私たちを罪と死から贖うことのできる方はこの方以外にはおられないのだ。そしてこの方は唯一の羊の門、この方を信じる以外にはその囲いに入ることは できないのだ。

そ の囲いに入れられた羊たち、クリスチャンたちは救いをいただき、豊かないのちを持つと言われる。盲人の青年の姿はその良い例証であった。ここにおいて神の 国はユダヤ民族を越えて、あらゆる人のものとなる。誰でもキリストを信じるならば、救われて、いのちを得る。真の牧者に見出され、その牧場の羊とされた者 は幸いである。


2014年1月5日   シロアムの池で洗いなさい
ヨハネの福音書9章

                          

因 果応報、そのことわざが頭をよぎる始まりである。もともと仏教用語のはずであるが、人間は同じようなことを考えるらしい。何かの現象にはその原因がある と。弟子たちは目の前にいる盲人について質問したのだ。どうしてこの人はそうなった?非常に残酷な言葉だった。それが聞こえているはずの乞食には何の配慮 もなかった。

ひっ としたらそれは本人が幼い時から自問自答してきたものだったかもしれない。どうして自分だけが目が見えず、他の兄弟は目が見えるのか?もちろん現代であれ ば、医学的にその理由を解明できただろう。しかし、その理由は答えにはならない。どうして、それが他者ではなくて、自分にもたらされたのかの答えにはなら ない。

キ リストは因果応報という考え方を否定しているように見える。あるいは、それ自体が強者の論理に過ぎないと言っておられるのか。その答えは、神のわざが現れ るためという衝撃的な答えだった。奇跡を行われた。盲人の目に泥を塗って、シロアム池で洗うように命じ、彼がその通りにすると目が見えるようになったとい うのだ。

ここから学ぶことができるのは、先ず私たちはすべてのことがらの原因や 理由を知ることはできないということ。次に、キリストは神の業を行い、新しい道を与えてくださるということ。そして、それを得るためには信仰が必要である ということである。シロアム(遣わされた者=キリスト)で洗うとは罪 の赦しを示唆するに違いない。


2013年12月29日   再生 の希望

エゼキエル37章


ま るで長時間にわたる記録フィルムを高速で逆戻ししていているようだ。屍が白骨となっていくのは自然の順序であるが、ここでは正反対である。累々と広がる谷 間の骨に、筋が付き、肉が付き、皮膚が覆い被い人型となり、いのちの息が吹きこまれると立ち上がる。エゼキエルの幻でも特に有名で Dry Bonesという黒人霊歌がある。

こ の谷間の骨はバビロンに捕虜となり祖国滅亡の知らせを聞いたユダヤ民族のことであった。捕囚後もエルサレムには傀儡政権であったが王がいて、神殿があっ た。しかし最終的には神の都も神殿も焼け野原となってしまったのである。彼らの一縷の望みも絶えたかに思えた。多くのユダヤ民族の思いである。全ての望み が消えうせた。

そ れまでは悔い改めのメッセージを語っていた預言者は、その後、慰めと希望のメッセージを取り次ぐようになる。この幻は民族再生の希望を語っているのであ る。死者が生き返るのか−人間にとって不可能に見えることでも神はおできになると言っている。その後の祖国帰還と再建の歴史を見ればそれが真実であること は明らかだ。

 し かしこの幻にはそれ以上の意味がある。祖国再建の幻はキリスト誕生と神の国到来を指示しているのだ。そしてこの再生の希望は罪と死に囚われた人類の解放に つながる。霊的な死人が神の声を聞いて生きたものとなり、死んでもまた復活の望みをいただくことができる。絶望的な状況でもあきらめぬ。これが神の民の特 質である。

2013年12月22日   クリスマスの喜び

ルカの福音書2章1節〜21節


キリストの誕生を言い表す言葉は、貧しさであり、卑しさ(身分の低さ)である。また そこでは疎外された人々の悲しみと、そんな人々に向けられる神の愛顧に対する喜びが描かれている。ヨセフらがベツレヘムへ向かったのは里帰り出産のためで はない。住民登録のためだった。それは徴兵と徴税を確かにしようとする征服者の企てである。

し かし宿にはこの夫婦を受け入れる場所がない。民家が一時的に開放されていたのだろうが、臨月の近いマリヤは厄介な存在でしかない。ふるさとにも居場所がな かった。キリストが誕生したのが家畜小屋とされるのは飼葉おけに寝かされていたからである。これ以上、貧しく卑しい生まれ方はないという仕方でキリストは 誕生したのだ。

この貧しさと卑しさが「しるし」となる。羊飼いたちの聞いた救い主のし るしはこれであった。神の不思議がここにある。人々が忌避したい姿が最も重要な部分となる。こ れは後にキリストが贖罪死を遂げるのと同じである。そして共通点は、それゆえにどんな人でもその恵みにあずかることができる。それより低い人はいないのだ から。

 ク リスマスの喜びは、神は私たちの貧しさと卑しさを知っておられ、ご自身がそこに身を置かれ、私たちに神の救いをお与え下さることだ。羊飼いたちもまたその ような存在だった。その彼らが救い主のもとにやってきた。自分の貧しさと卑しさを知る人でなければ救い主のもとにはやってこないのである。幼子にひれ伏す のは誰だろう。

2013年12月15日   
クリスマスの賛歌
ルカの福音書1章46節〜55節 68節 〜79節


ク リスマスの賛美には明るく華やかで喜びに満ちたものが多い。それもそのはずで、神様の恵みに対して私たちができることは神をほめたたえることしかないから だ。マリヤとザカリヤは最初のクリスマスキャロルを歌った。マリヤは主を「あがめ」と歌だい出し、ザカリヤは「ほめたたえよ」と歌い出した。感謝と喜びが その基調である。

マリヤの賛歌はマグニフィカートと呼ばれる。神の愛顧を受ける何の資格 もない者が、神の恵みに預かることのできる感謝を歌っている。マリヤは自分をはしため(奴隷女)と称し、その置かれた状況を述べる。しかし主が来られるときにすべては 逆転するのである。そう過去形で述べられているが、主とは彼女がみごもるキリストのことだ。

ザ カリヤの賛歌はベネディクトゥスと呼ばれる。そこで歌われているのはわが子誕生の喜びではなくて、キリストによって神の救いが実現する喜びである。ダビデ の契約、アブラハムの契約、そしてイザヤの預言の成就を称えている。圧制者からの解放は単なる民族自立ではなく、罪の赦しによる救いであると福音の本質に ふれられる。

私 たちのささげるクリスマスの賛美はどうであろうか。もしそこに喜びと感謝が見出されないなら、自分がマリヤのように愛される価値すらないものであることを 忘れているからだ。自分が大きく、高くなると賛美は生まれない。小さく低い所から至高の神への歌は響き渡るのだ。その罪の世に主はご自身の栄光を棄てて来 て下さった。


2013年12月8日   新しい時代の始まり
ルカの福音書1章26節〜38節


旧 約と新約をつなぐヨハネの誕生の予告の次に、いよいよ新しい時代の到来をつげるキリスト誕生が告げられる。マリヤの聞いた御使いの言葉は祝福の言葉だっ た。おめでとう、えっ?一体何のこと、マリヤの戸惑いも理解できる。しかしこれは実に喜びに満ちた知らせだったのである。待ちに待ったキリスト誕生の知ら せである。

ま ず、生まれて来る子供の名はイエス、旧約聖書のヨシュアであり、神は救うという意味である。そしてダビデ王国の再興が告げられる。これはイエスが約束のメ シヤとして生まれてくることを意味した。旧約聖書の預言に従って、ユダヤ人たちはダビデ王の再来を夢見ていたのである。それは民族にとって最も輝かしい時 代だった。

しかし、生まれてくる男の子はダビデ王以上のお方だった。聖霊といと高 き方(父なる神)、神の子が一つの節(35)の中に出てく る。三位一体の神のお働きの中でこの御子の誕生がもたらされるのだ。それはユダヤ民族の救いに止まらず、全世界の人々に神が用意された救いのご計画であ り、人類の救い主としての御子の誕生である。

お めでとう、まさにこの喜びの言葉はマリヤだけでなく、福音を聞くすべての人に、いや世界中に響きわたる神の祝福の言葉である。この神のご計画を担うために 選ばれた女性がマリヤだった。彼女は何ももたなかったが、キリストを待望する信仰と神に自らを指しだせる信仰を持っていった。神は多くの事をお求めにはな らない。


2013年12月1日   クリスマスの始まり
ルカの福音書1章5節〜17節

ク リスマスの始まりはバプテスマのヨハネの誕生告知から始まる。いつも不思議に思う。どうしてキリストの誕生を記すのにわざわざヨハネを持ち出すのか?マリ ヤへの受胎告知から始めればいいのにと。新約聖書を初めて読む人も少々ややこしく感じるに違いない。そもそも福音書中でヨハネはそんなに多くは語られるこ とはない。

も し聖書が新約だけならヨハネには触れなくてもよかったかもしれない。しかし、聖書が旧約39巻と新約27巻を合わせて66巻の統一体であるならヨハネの働 きは重要になってくる。彼は旧約と新約を橋渡しする人物、キリストの登場を準備するのである。新約に登場しながら旧約最後の預言者といわれるのはそんな理 由からだ。

祭司ザカリヤに対する御告げの中で、生まれて来る子どもは「エリヤの霊 と力で主の前ぶれをする」ある。これは旧約最後の言葉を知っている人には自明のことが言われているのだ。メシヤ(キリスト)が来る前に預 言者エリヤが来る。これはメシヤ到来を告げるのろし、事前通告なのである。だからその前に預言の成就が告げられる。

待ちに待った神の約束のページが開かれた。旧約と新約の間は約400年、それ 以前の預言を考えれば、それこそエデンの楽園追放以来の神の救いの実現である。今から2千年前にパレスチナで起こったこの出来事と何の関係があるのだろうと思 われるかもしれない。いや、それがおおありなのだ。そこから新しい時代が始まったのである。


2013年11月24日   愛をもって真理を語り
エゼキエル書33,34章


と うとうその時が来た。バビロンにいるユダヤ人のところにエルサレム落城の知らせが届く。事件から数カ月後のことである。祖国ではエレミヤが、捕囚地ではエ ゼキエルが口を酸っぱくして語り続けて来たことだった。人々のエルサレム不可侵との迷信は打ち破られ、先の捕囚よりも悲惨で残忍な破壊がこの都を襲うこと となった。

実 は預言者はすでにこのことを前日には知っていた。神からの啓示がくだったのである。だから彼の語る言葉は人々のうわさを呼んだ。遠く離れた祖国の滅亡を言 い当てた男がいると。それまで預言者に敵対し馬鹿にしていた人々も何も言えなくなった。しかし、悲しいかな、人々は聞いても悟らず、頑ななままで神に従お うとしない。

  このような事態を招いた責任は民の指導者たちにあるという。確かに一国の行く末を左右するのは為政者の姿勢と決断である。最後の王ゼデキヤは正しいことを 知りながら、自己保身のために決断できなかったために亡国の憂き目にあったばかりか、悲惨な最期を迎えた。破壊後のエルサレムに残されたユダヤ人もまた同 様であった。

 こ の後、エゼキエルの語る内容が変わってくる。彼は将来の希望を語るようになる。そのために偽りの希望が失われる必要があったのだろう。驚くなかれ、彼はキ リスト預言を語るのだ。ダビデが再び現れて平和を与えると。そう、それはクリスマスメッセージに凝縮されたものだった。旧約聖書は真の希望をそこに置いて いるのだ。


2013年11月17日   
高ぶりの罪
エゼキエル書28章


エ ゼキエルらが捕囚となっていた当時、新バビロニア帝国はすでにオリエント世界の覇者となっていたが、それをより完全なものとするためにネブカデネザルはパ レスチナからエジプトにかけて遠征をおこなった。地中海沿岸にあって交易で繁栄していたのがツロであった。岬にあるこの街は天然の要害であり、また天然の 良港であった。

あ らゆる各地の名産品がツロに集まった。またツロには多くの技術者がいてソロモンの神殿建設に大きな役割を果たしたとある。しかし、万全にみえる繁栄を誇っ たツロもまたバビロニアに滅ぼされることとなる。その理由を預言者は高ぶりと指摘した。その富と栄華に酔った人々は自らを完全な美、神であるとうそぶいて いたからである。

神はあらゆる罪の中でも高ぶりをお嫌いになる。それは神に対する反逆に つながるからである。サタン(悪魔)はそもそも天使だった。しかし彼は自らの美しさと知恵におぼれ堕落し た。高ぶりとは自らを神よりも高い所におくことである。この姿は遠い昔だけのことではない。現代においてますます顕著となっていると言えるのではないか。

私 たちは自らを美の極みとは言わないであろう。しかし私たちが神を神としないならば、それは高ぶりの罪に陥っていると言っても過言ではないのである。その正 反対の姿は、キリストに見出せる。完全に父なる神に対する従順を貫き、自らの命を犠牲にして救いの道を開かれた御子の姿に。それは私たちの模範であり目標 でもあるのだ。



2013年11月10日  たとえ神の名が出てこなくても


エ ステル記には神という言葉が出てこない。祈りの姿も見えない。それは神の民が捕虜となり被征服民であったことと関係しているのかもしれない。エステルは肝 心の時まで自分の出生について黙っていたし、自ら望んで王妃となった訳でもなかった。モルデカイにしても王妃の養父でありながら、あいかわらず王宮の門番 だった。

ハマンはジェノサイド(計画的大量虐 殺)を 計画する。モルデカイに対する個人的な敵意から帝国内のユダヤ民族を滅ぼそうとした。なすすべもなく恐れ惑う人々に神はどのようにして救いをもたらされる のか。エステルがそのために立ち上がった。そうである。彼女はそのための神の配剤だったのだ。ヨセフがそうであったように。

真 の神を恐れることのない人々の中にあっても神は主権者なのである。眠れぬ夜に王が手にしたのは、以前のモルデカイの功績の記録だった。これらの背後に神の 見えざる手があったのだとこの書の作者は叫んでいるようだ。断食してくださいというエステルの要請はとりもなおさず祈りの要請である。神は働き祈りも捧げ られる。

 自 分の生活 を振り返ってみて欲しい。おそらく職場や学校で、人によっては家庭の中でも、神の名が唱えられることもなく、公に祈ることもできないだろう。しかし、神は そこにもおられ、私たちの祈りは届くのである。あなたが信仰を持って自分の生活を振り返るならば、そのことに気付くに違いない。困難の中に希望が見える。


2013年11月3日   
愛 する者を取り去る
エゼキエル書24章


エゼキエル書を大きく分けると、エルサレム滅亡前の預言と滅亡後の預言 に分けることができる。ここは前半の終りの部分と言えよう。バビロン軍のエルサレム包囲を神はエゼキエルに知らせた。これから2年近くの悲惨 な籠城戦が始まるのだ。城中ではエレミヤが盛んに降伏を勧めていたが、誰もその声に耳をかそうとはしなかった。

エルサレムの住民には2つ の慢心があった。一つは城壁に囲まれたこの街を攻略できる敵はいない。もう一つはそこには神殿があるから決して滅ぼされることはない。これらがことごとく 崩れ去る日が間近に迫っていたのだ。神の声に聞こうとしないこの民の姿は決して他人事ではないのだ。偽りの平安はいつの日にか崩れ去るものだ。

こ の日、預言者を悲劇が襲う。妻が召されのだ。突然死である。朝、聞いた主のことば−愛する者を取り去る、これは妻のことをさしていたのである。過酷な預言 者活動に加えて、家庭内での衝撃、彼は立ち続けることができるのであろうか。何と神は慰めの言葉を下さるのではなくて、悲しみを微塵も表に出してはならぬ と言われた。

この悲しみは後に民の悲しみと重なることになる。エルサレムが滅ぼされ るときには、エゼキエルの悲しみをすべての民が味わうのだ。預言者は身をもって経験することによって、その言葉に真実が宿る。キリストの受肉(神が人となら れた)を思う。私たちの弱さや愚かさを知られるからこそ救い主としての真の資 格をお持ちなのだ。



2013年10月27日   道  し る べ


八千代市の郷土博物館の入口に子どもの背丈ぐらいの石の道標が置いてあ り、そこには「なりたこみち」という文字と進行方向を示す指が浮き彫りになっています。現在の国道296号沿線の萱田から大和田にかけては、江戸と成田を結ぶ宿場町として栄え ていたのです。現代の標識は青地(高速は緑)に白文字で方向と距離が記されます。

  最近はカーナビが普及して道に迷うことが少なくなったかもしれません。でも私の車にはまだありませんので、時々方向を間違えます。すぐに修正できる時もあ りますが、できないときもあります。特に自動車専用道路で間違った時には次の出口までの時間が何と長いことか。その上、通行料金まで払うことになり泣きた くなります。

  このように笑い話で済めばいいのですが、案外私たちは毎日の生活で同様のことを繰り返しているのではないでしょうか?節目節目での決断はその人の人生を大 きく左右します。あるいはちょっとした不注意から大切なものを失ってしまう事もあるのです。私たちの人生にも確かな道しるべがあればと誰もが思うに違いあ りません。

  道しるべの役割には2つあります。一つは行き先を示すことです。どっちに行けばよいのかを教えてくれます。正しい選択と決断ができます。もう一つは目的地 までの距離を教えてくれます。目的地がわかれば忍耐をすることができますし、そこまでの計画をたてることができます。そうです、私たちの人生の道しるべは 聖書です。



2013年10月20日   岩の 上に建てた家

マタイ7章24節〜27節

見 えない部分がいかに大切であるかは、何か問題が起きた時に明らかになる。これは今も昔も変わらないようだ。キリストも岩の上に建てた家と砂の上に建てた家 を比較して、人生の土台をどこに置かなければならないかを教えておられる。東日本大震災の時にも埋立地では液状化現象によって泥が吹き出して多くの家屋が 傾いた。

何の為に生まれて 何をして生きるのか答えられないなんて そんなのは嫌だ!今を生きること で 熱いこころ燃える だから君は行くんだ微笑んで。」 先日亡くなったや なせたかしさんのアンパンマンの主題歌の一節だ。このアニメには作者の絶対平和への込められた願いがあるという。だから決してバイキンマンを抹殺はしな い。

見えない土台とはその人の持っている価値観や、そこから生み出される行 動の指針だろう。「わたし(キリスト)のことばを聞いて行う人は岩の上に建てた人」である。キリストに対する 信仰をその土台とすることが倒れない秘訣なのだ。それは自己愛からの解放であり、人が神によって生かされていることを本当に感謝できるものだ。

「そ うだ おそれないで みんなのために 愛と勇気だけがともだちさ ああアンパンマンやさしい君は いけ!みんなの夢まもるため」主題歌後半の一節だが、自 分の顔を子供たちに分け与える自己犠牲にキリストの贖罪を見たとしても、あながち間違いではなさそうである。確証はないが、やなせさんはキリスト教徒だっ たようだ。



2013年10月13日  人生の 土台
 
ルカの福音書12章13節〜21節

愚 かな金持ちとして知られるこのたとえであるが、この人はそれほど間違ったことをしていないように見える。多くの収入を手にしたときに、それを浪費すること なく賢く行動した。現代風に言えば、正しい資産運用をしているのである。私たちもどれだけの貯蓄と年金が必要なのかを計算して老後の経済設計をするではな いか。

彼 の間違いはその行動にあったのではない。自分自身の安心を富の上に置いたことにあった。あるいは得た富を自分の楽しみのためだけに使おうとしたところにあ る。自分のいのちを自分のものとしたのである。そして、厳しい宣告がなされる。その夜その生涯が終わるというのだ。そう、蓄えたものは何の役にも立たな かった。

日本人は預貯金の好きな国民だと言われてきた。実際に平均額は1000万円を 超えるそうだ。しかしこれは平均であって逆に1/41/3の家計は預貯金ゼロである。だとしたら、このたとえは一部の富裕層にだ けに向けられているのだろうか?そうではない。大切なことは、その人が神の前に富んでいるかどうかということだろう。

 神 の前に富むとは所有代名詞を言い換えることである。「私の」お金、「私の」体、「私の」いのち、これを「神の」と言い換えてみよう。私のものは何も無くな るのか?このたとえの続きを読んでもらいたい。これは信仰による生き方なのだ。キリストによって私たちを愛される神は良いものを備えてくださるという絶対 的な信頼なのだ。


2013年10月6日   だから 悔い改めて生きよ

エゼキエル書14章

父 が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。これは日本のことわざでは、親の因果が子に報い−と言う。親の悪行が子供に不幸をもたらすという意味であ る。同じような言い回しがあるということは洋の東西を問わず日常的に経験していたことなのだろうか?それにしても、子供にとっては非常に辛く悲観的なこと わざである。

生 まれてくる子供は親を選ぶことはできない。最近、家庭の経済格差が教育格差をまねいていることがしばしばニュースになる。貧しいがゆえに十分な教育の機会 が与えられず、貧困のスパイラルから抜け出せないというのだ。これには道徳的な因果関係はないが、スタート時点から負っている子供たちのハンディーと言え るだろう。

エ ゼキエルの時代、捕虜となって強制移住させられたユダヤ人たちは、その原因を先祖たちの神に対する反抗、不従順にあったと考えていたのである。その理解は 間違ってはいなかった。しかし問題はそれ故に自分たちには希望がないと考えたところにあった。負を背負わされた限りそこから抜け出すことはできない−そう ではない。

預 言者は出発がマイナスの時点からであってもプラスへと変えることのできる道を示したのだ。罪を犯した人はその人がその刈り取りをしても、子が呪われること はない。その人自身の生き方が問われるのである。神が望んでおられるのは、人が神に立ち返って真実に歩むことだ。神様は不公平な方ではなく正に公平な方で あるから。



2013年9月29日   
三 義人がいても
エゼキエル書14章

ノ アとダニエルとヨブ、エゼキエルがあげた3人の義人、正しい人である。「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても全き人」、ダニエルは「彼は忠実 で、彼には何の口実も欠点も見出されなかった」、ヨブは「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にいない」とされる旧 約聖書の三義人だ。

彼 らが引き合いに出されたのは、神の裁きの厳しさを表現するためだった。人は偉人の徳を引き合いに出して、それにあやかろうとする。日本では歴史の教科書に でてくるような人は神としてまつられているし、西洋でも聖人崇拝が行われた。彼らの溢れ出た徳は罪人である私たちにも利益を及ぼすと考えるのである。果た してそうか?

それは無理だと聖書は言う。聖書の中でもとびきりの3人であっても、彼 らが救えるのは自分だけだというのだ(本当は自分を救えるというのもすごいことなのだが)。私たちは神 との関わりにおいて、他者がそこに入り込むことはできない。どんな大切な人であっても、その人に代わって神への負債()を返すことは できないのである。

 で は逃れの道はどこにあるのか?キリストは、人は自らの義で救われることはできないと言われた。聖人でもだめ、自分でもだめ、ではどうすればいいのか?ただ 一人の義人によらなければならない。真の神であり人であるキリストこそ、道であると。十字架の贖いの恵みは全ての人を覆う。信仰によってそれに預かること ができる


2013年9月22日   主の栄光と臨在

エゼキエル書10章11章


エ ルサレムの神殿はソロモンによって建立された。聖所に契約の箱が納められた時、そこに雲が満ちたとある。これは主の栄光を雲と言い表したのだ。それ以来、 主の栄光がこの神殿に置かれたと人々は理解した。主の栄光とは何か、それは神がそこにおられるということである。神のおられるところ、そこに主の栄光が満 ちるのだ。

さ て、エゼキエルはここで何を見ているのか?結論から言えば、主の栄光がエルサレム神殿から離れていく様子を描いている。主はもうそこの御臨在を取り除かれ るのだ。主に仕えるケルビムが移動していくのは、神の栄光が神殿より離れ去って行くからである。聖所から、神殿の敷居を通って、最終的には町を出て東の山 に留まる。

エ ルサレムに残された人々は、災いは及ばないと言っていた。堅固な城壁に囲まれており、何よりも神殿がある。主がそこにおられるというのだ。しかし、それは 主を捨て去った人々が自分勝手に主張できない。神はご臨在を取り除くこともできるのである。神がそこに主の栄光を置かれたのは人々の信仰ゆえであり、その 逆もある。

 今、 この栄光はどこに見出すことができるのだろう。ステンドグラスに囲まれた大聖堂ではない。先ず、栄光はキリストに見出された。神はこの方によって啓示され たのだ。そして神は信じる者一人ひとりを住まいとしてくださる。建物ではなく、信じる人々とその集まりである教会である。そう主の栄光は礼拝の内に現され ている。


2013年9月15日   しるし を付けられた者

エゼキエル書8章9章

衛 星放送やネット回線を通じて私たちは地球の裏側で起こっていることをリヤルタイムで見ることができる。いや大気圏外の宇宙ステーションの様子さえ知ること ができる。一昔前までは信じられないことだった。しかし聖書の中でそれが可能だった人物がいた。エゼキエルである。彼はバビロンからエルサレムを見ること ができた。

預言者とし人々からも認められるようになった彼の元にユダヤ人の長老た ちが集まっていた。エゼキエルしるしを付けられた者はそこで幻を見る。彼の霊は神によってエルサレムの神殿へと連れ去られ たというのだ。そこで見たものは王から民のすべて、女たち、そして神に仕える祭司までが、真の神を捨て、偽りの神々に香を炊き祈りを捧げる姿だった。

祖国で、そしてその象徴である神殿で行われる偶像礼拝は、神に対する反 逆行為であり、神の怒りは頂点を迎えるのである。6人の破壊者が現れ、神の裁きが始まる。しかし全ての人が滅ぼされるので はない。次にもう一人の人が登場する。彼は筆を手にし神に誠実な人々の額に印を付けるのだ。それは神の裁きを逃れる救いの印だった。

  神の印、それはあの過ぎ越し子羊を思い出す。子羊の血の塗られた門柱とかもいを見て、神の裁きは過ぎ越して行った。印を付けられた人々は神の裁きから救わ れたのである。黙示録にもこの印が出てくる。子羊(キリスト)の血によって罪が赦された印である。神はその聖さゆえに罪を見過ごすことはない。だが、この 印は別である


2013年9月8日  偽りの希望

エゼキエル書4章5章


エゼキエルの素行を考えると奇人変人とみなされても仕方がないと思う。 一枚の粘土板(日干しレンガ)を取りレリーフを掘る。それはエルサレムの模型である。その周囲に様々 な小道具を配置し、いわば包囲された都のジオラマを作成した。そしてその境に鉄板を置いて、その日から一年以上に渡ってそこに横たわり続けたのだ。

粗 末な材料のパンを一日一枚食べ、最小限の水を飲み、彼は伏し続ける。健康であったのかもしれないし、実際に何らかの疾患のために体調不良に陥っていたのか もしれない。震える手でそれを摂取した。しかも、最後には伸び放題の髪とヒゲを切り取ると、燃やしたりばらまいたりしたのだ。捕囚の人々の噂となったに違 いない。

し かし、そのメッセージは明確だった。神は必ずその罪ゆえにイスラエルを裁かれ、エルサレムは滅ぼされるということだった。捕囚となった人々の中で安易な希 望がささやかれていた。神はすぐにでもバビロンを罰して、自分たちは解放される。なぜなら神の都は不可侵であるからだと。最悪の状態を迎えることは決して ないと。

捕 虜となり苦しむ人々に祖国滅亡を告げるのは辛い務めであった。しかし神の民の再生のためには必要だったのである。偽りの希望、それは嘘も方便といったとし ても、決して実りをもたらさない。だれもあなたは善良だからキリストは必要ないとは言えない。あなたの罪はキリストの十字架によらなければ赦されないと言 うのだ。



2013年9月1日  警告を与え よ

エゼキエル書3章


預 言者として召されたエゼキエルが最初に聞いたことばは、神様が彼をイスラエルの見張り人にするということだった。その職務は人々に警告を与えるということ である。誤った道を歩む人々に、その先には死があると言わなければならないのだ。そして、理不尽にも思えるのは、もし警告を発しなければその責を問われる ことである。

3種 類のケースがあると思う。一つは気づかずに道を誤った場合、これは何も言わないのは不親切である。次に最初はちゃんとやっていたが途中から間違った場合、 これも同情の余地があろう。最後は、初めから聞く耳を持たず、神に逆らう人々。しかし彼らに対しても言わなければならない。もう知らぬ、勝手にしろとは言 えないのだ。

捕 囚のイスラエル人たちは神様から反逆の家と呼ばれている。これは知らないのではなく、知っていながら従おうとしないからである。これが私たち人間の罪の姿 である。私たちは傷つき倒れたかわいそうな被害者ではない。本当に神の子なら十字架から降りてきて救ってみろと毒づく敵対者なのである。それを相手にしろ と言われる。

言うことを聞かない人々は勝手にさせておけば良いではないか、自業自得 だ。でも神の愛はそれを超えていく。パウロは言う「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んだ」「敵であった私たちが、御子の死によって神と和 解させられた」ロマ5610 警告を与える務めとは、実は神の愛の表れであり、福音宣教の言葉であ る。



2013年8月25日  聞いても 聞かなくても

エゼキエル書2章


神様はエゼキエルに人々が聞いても聞かなくても語れと命じられた。これ は他の預言者にも共通することである。しばしば思う。これほど残酷なことはないのではないかと。最初から聞く耳を持たないと言われている相手に向かって神 の言葉を伝えなければならない。CDプレーヤーならまだしも、預言者もまた生身の人間なのである。

エ ゼキエルが対するのは捕囚となった同胞のユダヤ人たちであった。彼らは捕虜となり遠くメソポタミヤでの生活を強いられていた。そこでは入り混じった思いが あった。楽観的には、神様はすぐにでも自分たちを解放して祖国へ返してくれるというもの。悲観的には、自分たちはもう神様に見捨てられてしまったという思 いである。

エ ゼキエルらが捕虜になった頃、まだエルサレムは無事だった。ネブカデネザルによってゼデキヤがユダの王とされ、神殿もまだ存在していた。これがまた捕囚民 の迷いの理由でもあった。いっそ全てが灰塵に帰していれば思いは吹っ切れたのだ。しかし、片や祖国で暮らす人があり、一方自分たちは捕虜となり苦渋の生活 を送る。

だ から彼の働きはその両面へと向かう。まず、甘い考えを捨てること。祖国、そして神の神殿は滅びることが必定であり、それは自分たちの神に対する反逆が原因 である。しかし、また神は捕囚の民をお見捨てになったわけではなく、彼らの中からもう一度新しい神の民を創出されることである。こうして彼は神の働きに乗 り出す。


2013年8月18日  エゼキエルの見た幻
エゼキエル書1章


旧 約聖書の大預言書はイザヤ、エレミヤ、エゼキエルだが、このエゼキエルは比較的取り上げられることが少ない書である。それはエゼキエルの見た幻の難解さ や、置かれている状況が分かりにくいためだろうと思う。しかし丁寧に歴史的な背景を紐解いていけば、その預言の意味や幻の示すものが鮮やかに浮かび上がっ てくるものだ。

エ ゼキエルは捕囚の預言者である。エホヤキン王や政府の役人たちと一緒に最初の捕囚でバビロンに連れてこられた人々の中の一人である。その時、まだエルサレ ム、そして神殿は存在していた。エルサレムではエレミヤが神の口となり、呼応するように彼はバビロニアで神の口となった。捕囚の民の中で彼は神を指し示し 続けたのだ。

  彼は元来、祭司の家系だった。祭司とはエルサレム神殿で神礼拝のために仕える人々である。バビロニアにおいて祭司はその務めを失ったのである。しかし神は 異国、異教の地でエゼキエルを預言者として召された。イザヤは神の神殿で主の臨在にふれる。神殿よりもはるか高く主を仰ぎ見、賛美する御使いセラフィムが 見えたと記す。

  一方、エゼキエルは遠くバビロンの地で主の臨在にふれた。彼の見たものはケルビムだった。神の栄光、至高を同様に見たのである。ここに一つの発見がある。 神はどこにでもおられ、神の働きを邪魔するものはない。捕虜となり苦渋の生活を強いられた神の民であったが、主の力は決して変わることはない。これは励ま しの書である。


2013年8月11日 神様が喜ばれること 


「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分 の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」ルカ1813 神様は私たちに何をお望みになり、私たちのどのような姿をお喜びにな るのか。そんな問に鮮やかに答えてくれるのが、このパリサイ人と取税人のたとえではないだろうか。

  パリサイ人とは当時の宗教的な指導者だった。彼らには自負があった。自分たちこそ神の喜ばれる真のイスラエルだと。確かに社会的にも人格的にも立派な人物 が多かった。一方、取税人とはローマ帝国の徴税を請け負う人々で、必要以上に取り立て私腹を肥やす人もいて、軽蔑の対象となりイスラエルの一員とはみなさ れなかった。

  この二人の祈りをよく見て欲しい。パリサイ人の行いは立派だったが、その祈りは自慢話で終わってしまう。彼の目は神に向かず、自分の功績に向く。一方、取 税人はどうだろうか。彼は自らを恥じて言う、こんな罪人を憐れんでくださいと。彼の目はしっかりと神へと注がれ、赦しを懇願している。神は後者を喜ばれる と主は言われる。

  神様が喜ばれることは何か。それは私たちが罪を悔いて神の赦しを願うことである。自分の功績に頼まず、キリストの十字架の贖いにより頼む人を主は喜ばれる のだ。神が求められるもの、それは悔いた砕かれた思いなのである。そして続けて主は教えられる。子どものように神の国を受け入れる者こそ、そこに入ること ができると。


2013年8月4日 神が私たちに望んでおられること


「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受 け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」Uコリント521 神様は一 体私たちに何を望んでおられるのだろう。戦争のない世界、平等な社会、それとも幸せ?

  神様がまず私たちに望んでおられることは、私たちが神の元に帰り、神との親しい交わりに生きることである。交わりの回復である。身近なことで考えてみよ う。もし人間関係がうまくいかなくなったとしよう。その結果どうなるのか。会っても目を合わさなくなり、会話をしなくなる。見えないところでは互いに批判 し合うのだ。

  神と人との関係は、アダムとエバの記事に象徴されるように、人類の神に対する反抗、離反によって神との交わりが閉ざされた。神との断絶を招いたのは人間の 罪であって、神のいのちから遠く離れた人間にはもう解決の道はなかった。しかし、神はそんな私たちをお見捨てしようとはされなかった。和解の道を備えられ たのだ。

  神は私たちを愛し、憐れまれた。神の側でその道を用意してくださったのだ。そればかりか、御子イエス・キリストを遣わされた。御子は「失われた人を探して 救うために来た」と言われるのである。帰れ、それこそ神が私たちに望んでおられることである。神の偽りの希望和解とは仲直りではない。神が一方的に差し出された恵み のことだ。


2013年7月28日 神のいのちに生きる

 

「だれも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら神の種がその人 のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」Tヨハネ39 

次の2つが重要だ。まず、キリストが私たちの罪のために死なれたこと(贖罪)。次にキリス トが私たちの内に生きておられる(内住)ことである。

  贖罪とはキリストが私たちの一切の罪のために身代わりの死を遂げてくださったことである。これには過去だけでなく現在、未来のことも含まれている。えっ! ということはキリスト信じたら何をやっても赦されるのかという質問が来そうだ。答えは、その通り。しかし救われた人は決してそんなことはしないし、できな いのだ。

  私たちはキリストを信じるときに新しく生まれるからである。神のいのちが私たちに与えられることによって、私たちは変えられるのである。これが新生の恵み なのだ。あなたは自分の罪を意識しているだろうか、その力から逃れたいと思っているだろうか。それを可能にしてくださるのは、新しく生まれることを通して である。

  救われると見るものが変わる、読むものが変わる。行くところが変わり、お金の使い道が変わる。交友関係も変わる。それはあなたが変わるからだ。人間の大き な嘆きは他者に対するつぶやきである。自分では自分を変えることはできないし、変えようともしない。キリストが私たちの内におられることによって変えられ るのだ。



2013年7月21日 主イエスに対す る信仰 


「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエ スに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」使徒2021 

使徒パウロはキリスト教の信仰を2つの言葉で要約した。神に対する悔い 改めと主イエスに対する信仰である。先回、悔い改めとは方向転換であると書いた。今回は、主イエスに対する信仰について。

  ピリピの街で神の言葉を伝えるパウロたちに一つの事件が起こる。占い女を回心へと導いたために、その主人らに恨まれて訴えられてしまう。無実の罪を負わさ れた挙句、鞭打たれ投獄されてしまうのだ。足には逃げ出さないように足輪がはめられた。だがこの事件が福音を拡大するきっかけになろうとはその時には誰も 知らなかった。

  この牢屋の看守とその家族がキリストを信じていくのだ。てんまつはこうである。夜中大地震が起こって、牢の扉が全部空いてしまう。当然、囚人が逃げてし まったと思い込んだ看守は死のうとした。そう、囚人の逃亡は看守にとっては死を意味した。震える手で剣を抜いたその時にパウロの声がする。死んではならな い。皆ここにいる。

 看守は改めてパウロを見つめた。夜中、背中の傷の痛みに耐えながら歌 う賛美を思い出した。パウロの持っているものは一体何だろう。自分にはない。私も救ってください。それは主イエスに対する信仰だった。私たちの罪のため十 字架に死なれ3日目に復活された神の御子を信じる信仰である。その祝福はこの看守の家 族にも及ぶのだ。


2013年 7月14日 方向転換

                      

「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それ でも、信じてないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」テモテへの手紙第一 113 パウロほど見事な方向転換を遂げた例を知らない。最悪の迫害者が最大 の宣教者へと転身したのである。一体、彼の中で何が起こったのだろうか?

  パウロは熱心なユダヤ教徒であった。あるときステパノの殉教に遭遇する。彼はステパノの石打ちに賛成する。そしてその一派とみなされる人々を取り締まり始 めた。神を冒涜する危険分子、そのようにパウロの目には写っていた。十字架で死んだイエスが甦り、主とされたと崇めているのである。彼はどこまでも追って いった。

  ダマスコ途上で彼はキリストにお会いした。回りの人々には大きな音がしただけだったが、パウロにははっきりとその声が聞こえた。彼は目が見えなくなって、 三日間何も喉を通らなかった。ステパノの最期が脳裏によみがえる。苦悩の中で彼を導いたのが神から遣わされたアナニヤだった。そう目からうろこ、信じて救 われた。

 彼 は神を信じていた。しかし神が遣わされたキリストを信じようとしなかったことによって、神をけがす者だった。キリストに対する態度が神と私たちの関係を規 定する。パウロは直ちにキリストを宣べ伝え始めた。悔い改めるということは方向転換を意味する。ただ後悔するのではなくて、キリストに向かって歩きだした のだ


2013年7月7日 あなたもぶどう園に行き なさい


 このたとえ話は同じキーワードではさまれている。それは先の者があとに なり、あとの者が先になるという言葉だ。19章の最後と このたとえの最後に出てくる。そもそもこのたとえは裕福な青年の質問とペテロの質問に対する答となっている。青年は問う、永遠のいのちはどのようにして得 られるか。ペテロは問う、誰が救われるかと。

  この青年はまじめな人で最初に天の御国に入る人だと人々から考えられていただろう。また、弟子たちやペテロはすべてを捨ててキリストに従った人だから、最 初に救われて大きな名誉が与えられると考えても不思議ではなかった。しかし神のなさることやその基準は違うというのである。それがこのぶどう園の労務者の たとえである。

  この中できちんとした賃金が約束されているのは最初に雇われた人だけである。後の人は相当のものをあげるとしか言われておらず、最後にいたっては何の報酬 も約束されていないのである。それがほとんど働くこともなかった人から順番に同じ報酬1デナリを得るのである。これは救いとは神の憐れみにより無代価で与 えられると言う。

 こ れに納得いかないのは先の人たちである。けれどもキリストの救いはそうなのだ。私たちが善行を行い、徳を積み上げて得られるような安っぽいものではない。 キリストの贖いだけがそれを実現する手だてである。では、その救いはどのようにして得られるのか。ぶどう園に行きなさいというその御声に従うことにより得 られるのだ。


   2013年6月30日 救いの源泉                          

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、 今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離す ことはできません」ローマ83839 キリストによる救いの動機、その源泉は神の愛にあると言う。

 愛という言葉は時にロマンチックな響きをもつが、神の愛はアガペーと いうギリシャ語である。これはエロス(性愛)やフィリア(隣人愛)とは区別して使われる。アガペーとは与える愛、自己犠牲の愛と言われ る。それは単なる感情ではなくて、強い動機と意思をもつ愛である。滅びの中にある人間を救おうとする神の憐れみの発露である。

  しかも、この神の愛の驚くべきところは、その対象に決してならないはずの者に対する愛であることだ。自分に好意を持つ人を愛するのは当然であり、肉親への 愛情も誰しもが持つ。しかし、自分に対して悪意を向ける者、罵る者、陰で悪口をいう人を愛することはできない。しかし神はご自身を裏切り、敵となった人類 を愛されるのだ。

 誰 一人、私たちは神様の愛に値しないのだ。誰もその資格を持つ人もいない。私たちの神に対する不従順と反逆を償うことはできない。救いの道は一つである。神 の方から助けの御手をさし伸ばしていただくことだ。キリストの十字架の犠牲によって私たちの罪を神は赦される。これを感謝していただく以外に道はない。そ の動機は愛。


2013年6月23日 救いの完成


「すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たち は、この望みによって救われているのです。」ローマ82324 

キリストを信じる者は救われる−これが福音のメッセージである。罪と死 の力から解放され、新しく神のいのちに生きる者とされる。では、それで目的は達せられたのか?いや救いが始まったのである。

  私たちの最終ゴールはどこか?それをパウロは「からだの贖われること」と述べている。贖う−あがなうと読むが、あまり聞きなれない言葉だろう。買い戻すと 言えば少しはわかるかもしれない。本来の所有者に代金を払って所有権が戻されることである。キリストを信じる人は神の民とされる。人が本来あるべき状態に 戻るのである。

  しかし、それだけではない。からだが贖われるというのは、実際に私たちが永遠において神とともに生きることを指している。私たちが死んでも−たとえこの肉 体が無くなっても−神は私たちに新しい体を用意しておられる。だから天国とは概念の世界ではなく、新しい生の始まり、栄光の世界での神と共にある生活を表 しているのだ。

 死 は終わりではない。聖書の警告である。私たちは神の前でどのように生きたかが問われる時が来る。その時に拠り所となるのはただ一つ、キリストの贖いであ る。そう、買い戻されるにはその代価が必要である。その代価とは十字架で捧げられたキリストのいのちだった。からだの贖い、これは決しておとぎ話ではなく て希望なのだ。


2013年6月16日 罪の力からの解放

           ローマ人への手紙8章2節                        

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊(みたま)の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」ローマ82 

キリストの救いを理解するためには2つの視点が必要になる。一つは神の 視点と、私たちの視点。神の視点とは、私たちが神にとって以前とは異なった立場にあること。神の子だということである。

  一方、私たちの視点とは、救いを通して私たちが解放されたということである。キリストの救いは私たちの生活や内面に大きな変化をもたらす。そう、私たちを 動かす原理が新しくなったからである。キリストを信じる人を動かす原理は以前のものではなくなる。神が与えてくださる新しいいのちが私たちを動かし生かす ようになる。

あ なたは自分の内に罪が宿っていることに気づいているだろうか?良心の声に耳を傾けたことがあるだろうか?物事の原因をいつも他人や外側に向けていないだろ うか?それを認めることは勇気のいることだが、解放へのスタートである。病気を治すには正しい診断が必要なのと同じである。その惨めさから目をそらしては ならない。

 こ の言葉を記した使徒パウロはこの惨めさを極限まで見つめた人物だった。そして、とうとう降参する。ここに神の恵みが与えたれた。キリストの十字架の死と復 活が、そんな自分を解放してくれることを知ったのである。神は信じる者に神の御霊を与えて、新しくされる。誰でもキリストを信じて神に立ち返るなら解放さ れるのだ。


     2013年6月8日 死からいのちへ                         ローマ人への 手紙6章23節                      

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物(たまもの)は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ623 

「救い」とは、単に心が軽くなったとか、困っていた問題が解決したとい うことではない。それは神なき生活から、神が共にある毎日へと移されることであり、死からいのちへと変えられることである。

  この短い言葉にキリスト教の大切な真理がまとめられている。前半部分は何を教えているのだろう。これは創世記の人類の創造の箇所を思い出して欲しい。そこ には罪と死の起源も記されている。神に反逆した人間は罪を持つものとなり、その結果、死を迎えるものとなった。人が死を恐れるのは、神のいのちから遠く離 れた結果である。

  救いとはそんな私たちにもう一度いのちが与えられることを意味する。死んでもいないのに、もう一度いのちが?それはこういうことなのだ。つまり2つの死が ある。一つは肉体の死、もう一つは霊的な死である。霊的な死というのは、神に対する不従順と反抗によってもたらされた神のいのちを失っている私たちの霊の 状態のことだ。

 死 は罪の報酬であるが、いのちは神の賜物である。肉のいのちもそう、霊のいのちもそう。賜物とは人間の努力や熱意によってもたらされるのではなくて、神の愛 によってもたらされるという意味である。キリストが私たちの罪を負って十字架で死なれたことにより、神は信じる者に永遠のいのちを下さる。それは天国の保 証でもある


2013年6月2日 御 子(キリスト)のご支配に

             コロサイ人の手紙1章13節14節                          

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中 に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」コロサイ11314 

キリスト教の礼拝で必ず耳にする言葉は「救い」であろう。賛美の中に も、祈りの中にも、聖書の説教の中にも出てくる。

  救い−もちろん普段から使う言葉である。窮地に陥った時に助かったというくらいの意味である。だがキリスト教ではこの用語に特別の意味を持たせている。キ リスト教の根幹に関わる言葉として使用するのだ。この救いという言葉は色々な側面を持つのだが、今日は暗やみの圧制からキリストの支配に移されたことを考 える。

  暗やみの圧政とは一体何だろう。どこかの独裁国家を思い浮かべるだろうか?これは創造者である神から離れた人間の姿を指している。自分たちは自由だと言い ながら、実は欲望と罪に捕らわれていることに気づかない哀れな姿である。確かに科学技術は進歩したが、人間は何千年も前から変わらず、暗やみから抜け出せ ない。

 それは神がなさることだからである。神に背を向けて反逆の限りを尽く す私たちでさえ、神は憐れんでもう一度ご自身の元へと招かれる。御子(キリスト)の支配へと置こうとされる。神なき生活から神と共にある生活へ、これが 救いである。神は御子の十字架の死によって私たちの罪を赦し、ご自身の元へと招いておられるのだ。


2013年5月26日 罪のない者が最初に投げよ ヨハネの福音書8章1節 〜11節


キ リストが御言葉を語っておられる時に中断した出来事が福音書に2つ出てくる。1つはカペナウムで中風の人が天井から吊り下ろされた事件とこの神殿での出来 事である。先のものは人々の善意と信仰から出ていたが、後のものは悪意と不信仰が根底にあった。聖書にあるように、キリストを訴え、陥れるための罠だった のである。

カ ペナウムでは病の病人を思い行動した友人たちの信仰が癒しをもたらした。しかし、ここでは罪を犯した女性を訴える人々の眼中にはこの女性は無かった。律法 遵守や社会秩序の維持といった題目を掲げることはできても、それはどうでも良かったはずだ。そもそも罪を犯したはずのもう一方の男性の姿はここにはないで はないか。

こ れを取り囲む人々は好奇と断罪の目でこれを眺めていたに違いない。自分と関係ない痴話話に心を寄せるのは今も昔も変わらない。しかし、ここで寸鉄の言葉が キリストから発せられる。罪のない者が最初に石を投げよと。この短い言葉はそこにいた全ての人を傍聴席から被告席へと移した。自分の罪について迫られたの であった。

驚 くことに全ての人がその場から立ち去った。石を投げることのできる人は誰もなかった。そして一人、私たちを裁くことのできる方が 「罪に定めない」と赦
し を宣告された。それは罪を許容したのではない。ご自身の贖いゆえに罪を赦される。キリストだけがこの女性のことを考えておられた。だからこれからの歩みを 指示されたのだ。


2013年5月19日 今日はペンテコステ

ヨハネの福音書7章37節〜39節

今日は教会の暦でいうとペンテコステ(5旬節)にあたる。キ リスト教の行事は、キリストの誕生を祝うクリスマス、復活を祝うイースターが有名だが、この日は聖霊降臨の日として祝われる。エルサレムで祈っていた弟子 たちに約束の聖霊がくだり、力を受けた彼らによって世界中に福音が伝えられたことを記念する日なのである。

キ リスト教の最重要教理に三位一体がある。父なる神、子なる神、聖霊なる神が3つでありながら一人であるという。これは人間の理性では理解できない神の啓示 である。聖霊なる神は私たちと共におられ、私たちの心の中に住んでおられるお方である。この方は私たちに働いて回心へと導き私たちを日々新たなものとして くださる。

ヨ ハネは、しばしば聖霊を水でたとえている。ここでもそうである。渇いている者とは、罪を自覚し、神の救いを希求している人のことである。律法は人を罪から 解放することはできない。かえって罪の意識を増すのであって、救われるためにはキリストのもとに来なければならないである。聖霊は深い罪の自覚を私たちに もたらす。

 聖 霊は私たちの心の中に聖い悲しみを与えて、キリストの救いへと導かれる。信じる者の内に住まわれる聖霊は、その人の生きる力、その源泉となって、喜びと感 謝をもたらしてくださる。今、多くのクリスチャンが、そして教会が存在するのはこの方がおられる証拠である。聖霊は御言葉と共に働いて、神の御旨を示して くださる


2013年5月12日 今日は母の日

                  箴言1 章8節 23章25節

母の日が近づくと花屋には 赤いカーネーションがあふれる。それが妙である。その店では、やけに白いカーネーションが目立つのだ。白は母親のいない子供が飾ると聞いていたのにそこで流れて いたデモテープを見てわかった。どうもこれは白いカーネーションを持って墓参りに行きましょうという線香店のキャンペーンだった。

商業主義と高齢化の波がこ こまで来たかと恐れ入る。それも教会で生まれた習慣を先祖崇拝と結びつけるとは、商魂たくましいというか正に日本的というか、空いた口がふさがらない。母 の日は100年以上前にアメリカのメソジスト教会で始まったとされる。長年子供たち に聖書を教え続けた母をしのんで娘のアンナが花を飾ったのだ。

母への感謝は万国共通であ る。それは子にたいする愛情が普遍的であるからだろう。しかし聖書ではそれに加えて、母の神に対する信仰に感謝の理由をおいている。「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない」箴 言18 母の胎を通してこの世に生を受け、母の信仰を通して生きる道標を得る のだ。

 だから信仰者である母 は、信仰に生きることを今一度心せねばなるまい。また子らはまずそのことを感謝しよう。多くの聖徒は母の祈りによって神に立ち帰り、偉大な神の業をなし遂 げた。「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ」箴言23章25節 今 日は母の日、一体何が母の喜びか?信仰に生きる−これが母の日の始め。


2013年5月5日 この方は一体

                              ヨハネの福音書7章1節7節〜24節

も し2千年前のパレスチナに行ってキリストを見たら信じられるのにと考えたことはないだろうか?でも、今信じられないのなら、キリストを見ても信じられない と思う。聖書もそう繰り返しているようだ。実際にキリストと共に生きた多くの人々は信じなかったとある。肉親もしかり、多くのユダヤ人‐特に指導者たち‐ もそうだった。

パ ンの奇蹟から半年後の仮庵の祭りの時である。再びキリストはエルサレムに向かわれた。仮庵祭はユダヤの三大祭の一つで、秋に行われた。荒野の40年の終了 を記念する収穫祭にあたる。親族が一団となって上京するのが習わしだった。しかしそれを断って後に個人的に出かけられた。兄弟や親族の無理解がその大きな 理由である。

祭 りがクライマックスを迎えるころキリストは突然姿を現して教え始めた。この方は一体、どのような方なのか?人々はそれを問われる。キリストの教えは彼らに とって聞いたことのないものではなかった。いや彼らが学び信じてきたことを鮮やかに説き明かす内容だったはずである。聖書は神により、この方も神から遣わ されたからだ。

キ リストの奇蹟を見て、その教えの正当性を認めながら、信じようとしない理由は何であったのか?それは自分たちの間違いを認めなければならないからだった。 それ以上にこの方を主としなければならないからだ。信じるために必要なのは見ることではない。へりくだることなのだ。罪を認めて、この方の救いをいただく ことである。


2013年4月28日 キリストには代えられ ません

       ヨハネの福 音書6章52節〜71節

5 つのパンと2匹の魚の奇蹟はうわべだけの信仰と真の信仰を区別する試金石となったとヨハネは言う。これを境に民衆の熱狂は冷め、離れていく者も多かったか らである。その理由は、民衆は解放者としての王を期待したのにキリストはそれを拒絶されたからだ。自分たちにとって利益がないと分かるとさっさといなく なってしまった。

う わべだけの信仰とは、キリストを信じることが自分にとって損か得かで考えることを指している。キリストが世を変えてくれるならそれに乗っかった方が得だと 人々は思った。信じれば病気が治る、商売がもうかる、仕事が見つかる、自分の願いを実現してくれる限りは喜んで信じようというのだ。条件付きの信心、ご利 益宗教という。

一 方、真の信仰とはキリストに対する服従が求められる。自分中心から神中心への思いの変革、生活の変革が伴うのだ。例え自分にとって不利益なことのように見 えても喜んでお従いしていくことをキリストは求められたし、今も求められている。もちろん、不利益といったが、それは決して損ではなくて、最善を主は用意 してくださる。

キ リストは十字架の死をもって私たちを買い戻してくださった。罪を赦し、神の子としてくださったのだ。キリストがくださる永遠のいのちを何よりもの賜物と信 じるならば、ペテロのように言うに違いない。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう」と。私たちは危機的な状況下において、そのように告白できるか どうか試される。


2013/4/14 
5つのパンと2匹の魚

 ヨハネの福音書6章1節〜15節 

ヨ ハネは福音書の中で意識して他の3福音書に出てこない記事を書いているようだ。同時に同じものは書ヨ ハネの福音書7章1節7節〜24節かない。最後に記された福音書だからである。一方それで も、重複する出来事がわずかにある。この5つのパンと2匹の魚の奇蹟がその一つである。何故か?この奇蹟の重要性とそれに続く主の教えの発展性ゆえであろ うと思う。

こ の奇蹟の重要性については、この奇蹟が一度に最も大勢の人に対してなされたものだったという点があげられよう。別名、5千人の給食、そう体験者の人数であ る。それまでの奇蹟は個人的に行われたもので、目撃者は多くても数十人だった。そう言う意味では最大の奇蹟と呼んでも良い。群衆の期待が最高潮になった瞬 間だった。

発 展性については詳しくは次回となるが、この奇蹟の意味するところが明らかになる。これがヨハネの独自性である。キリストがいのちのパンであることが明らか にされたとする。そしてそのパンを食べる者、すなわち信じる者が永遠のいのちを持つことの例証のためにこの奇蹟があるとする。現象以上にその意味が重要な のである。

 こ の奇蹟はユダヤ人に衝撃を与え、期待はおのずと解放者としてのキリストへと向かう。だが主がそれを拒絶されることによって民心は離れる。その転換点にある のがこの奇蹟だった。私たちは恵んでくださる神様は大好きである。しかし、わたしのために働きなさいと言う神様はどうだろうか?真の弟子にはそれが求めら れている。


2013/4/7 見ずに信じる者は幸 い

            ヨハネの福音書20 章19節〜31節

弟 子たちは一様にキリストの復活を信じることができなかった。最もそれをはっきりと口にしたのがトマスだった。彼は仲間の言うことを決して認めようとはしな かった。私たちが同じ状況に置かれたなら疑いながらも耳をかそうとするのではないかと思う。しかし彼は見なければ決して信じないと言い切る。あなたならど うだろう。

こ のトマスの姿勢は現代人にとって大変なじみ深いものである。自分たちが認識でき、しかもそれが普遍性をもって初めて事実あるいは真理として受け止められる からである。人間の理性が基準なのである。しかし、それだけでは割り切れないものをもっているのも事実である。なぜなら信じないと言った彼は弟子の交わり に戻っていた。

彼 もまた心の内で甦りの主を待望していたのだと思う。最初の日曜日から次の日曜日まで、トマスは仲間たちの証言を聞きながら、反発しながらも考える、もし本 当なら自分も会いたかった。この自問自答は今も私たちの求道生活を振り返れば繰り返されたものである。私もこの目でキリストにお会いすればすぐにでも信じ るのにと。

キ リストはトマスにご自身をお示しになった。トマスは、我が主、我が神と主を礼拝した。ではキリストは私には現れてくださらないのだろうか。確かにこの目で 見ることはないだろう。しかし、この方が私たちを招き選び入れてくださることを見出すことができる。そして、不信仰はトマスの経験で十分だと聖書は言って いるようだ。



2013/3/31 なぜ泣いているのですか

               ヨハネの福音書20章1節〜18節

復 活の主に最初にお会いする栄誉にあずかったのはマグダラのマリヤだった。しかし、信仰の見本者としてそこにいるのではなくて、心鈍い私たちの代表者として そこに立っている。主が復活されることをはなからありえないこととしていたのである。確かに彼女はキリストの十字架の目撃者だった。その死を確認していた のである。

だ から墓をふさぐ石が(当時の墓は横穴だった)取り除けてあるのを見たとき、遺体が盗まれたと考えた。知らせを伝え聞いた2人の使徒は主が復活されたことを 知ったが、彼女は墓前で泣き続けるばかりだった。御使いが、そして復活の主がそのマリヤに問う。「なぜ泣いているのですか」ここに信仰へのいざないを見る 思いがする。

私 たちもあるいは聖書を読みながら、同じようなことをしているのではないだろうか。キリストの復活とは信仰上の解釈であって、文字通りの意味ではないと。し かし復活の主は私たちにも「だれを捜すのか」と問い続ける。十字架の死だけではキリストの贖罪は完成しないのだ。主は心鈍い私たちをその名で呼び続けるお 方である。

一 体そこで何が起こったのか?復活のお体はどのようなものなのか?私たちには分からない。しかし、確かなことは主が甦られて今も生きておられるということで ある。パウロは、主は初穂となられたと言う。死別の悲しみや死の恐れは、主の復活によって葬り去られたのだ。もう泣かなくても良い。主が涙を拭き取ってく ださる。



2013/3/24 過ぎ越しの子羊キリスト

                           ヨハネの福音書19章17節〜30節

過 ぎ越しの時、キリストは十字架に磔刑となった。この祭りは出エジプトを記念して毎年行われるユダヤの伝統行事である。神の裁きがエジプトに下ったとき、神 の民は主が教えてくださった通りに子羊を屠り、その血を家の門柱とかもいに塗って難を逃れた。その肉はその夜、種入れぬパンと苦菜とともに食されて記念と なった。

絵画で言えばこれが背景と なり、音楽で言えば伴奏となって、キリストの十字架は読まれ聞かれるものである。イザヤ書53章で描かれる屠られる子羊も受難のキリストの姿と意味をあらかじめ示し たものである。特にヨハネはこのキリストの受 難が、過ぎ越しの子羊が正に屠られようとするその時に行われたかのように描いている。

公 に姿を現したキリストは嘲笑の対象となった。道化のような格好をさせられ、ローマ総督ピラトはユダヤ人に対する憎しみと皮肉を込めて「ユダヤ人の王」と罪 状書きを十字架に打ち付けた。キリストの口には非難や抗議は一切聞かれなかった。母に対するサポートを弟子に願い、最後には完了したとの言葉で息を引き取 られる。

こ れは逃れることのできない定めに対する恭順というよりも、自らそれを負って永遠の贖いを成し遂げられたことを表している。この方は屠られる子羊であると同 時に、自らが私たちを救うためご自身を神に捧げてくださったのである。なぜ罪人のために主は死なれたのか?そこに神が自身の愛を明らかにされたのだと聖書 は言う。


  2013/3/17 ひとり子の神が説き明かされた

                             ヨハネの福音書5章19節〜29節

ベ テスダの池での奇蹟が安息日に行われたために、ユダヤ人の非難がキリストに向けられた。父が働いておられる限り自分も働き続けると主は語られ、それがまた 物議をかもすこととなる。人々にはそれが神への冒涜だと考えられたからである。誤解ではなかった。確かに主はご自身の神性を明言されたからだ。父と子は同 等である。

福 音書の初めに「ひとり子の神が説き明かされた」とあるが、父の御心はキリストにあり、父の御業をキリストが行われる。目に見えない神はキリストにおいて見 えるものとなった。「いのち」と「さばき」の全権はキリストに委任されている。特に私たち一人一人の救いおいて、キリストだけが、それを実現する方だと言 われているのだ。

い のちを与える。ここでは霊的ないのちのことを指しているようだ。死人とは既に死んでしまった人のことではなく、神を知らず神に敵対して生きている、霊的に 死んだ状態となっている人間のことである。キリストは神のいのち−永遠のいのち−をくださるお方である。この方の招きに答えるなら私たちは真の意味で生き るものなる。

こ の方はまた私たちの永遠の行き先を決める方でもある。いや、この方に対する態度が決めるのである。子なる神への不従順は父なる神への反逆である。キリスト に反対して神に賛成するということはありえないのである。キリストに対する絶対的な帰依が救いの根拠である。最高の善とは聖書ではそのことを指しているよ うに思える。


   2013/3/10 憐れみの家 裁きの家

ヨハネの福音書5章1節 〜18節

ベテスダとは神の憐れみの 家という意味である。5つの回廊というのは、2つの池を「日」の形に廊下が囲んでいた。それぞれ、男女の巡礼者の沐浴に使われて いたと考えられている。それがいつしか不思議な癒しの場所と信じられるようになっていた。池の水が動いた時に最初に飛び込んだ人は、どんな病気でも治ると いうのである。

同 類相憐れむということわざがあるが、一旦水のさざめきが起こると誰も彼もが一番に飛び込もうとして修羅の世界と成り果てる。病室でも回復して退院する人を 皆が祝福する訳ではないのと同じである。38年間そこに伏せっていたその人はとうに回復の望みを失っていた。大体、最初に飛び込むことができる人は一番軽 度の人である。

そ の人に投げかけられたキリストの言葉をどのように聞くだろうか。良くなりたいと思っているに決まっているじゃないか。だが、この人はそうは言わなかった。 治る訳はないと思っていたようである。それも他力本願で。まるで罪という病の中で開き直って、つぶやく人間の姿を見るようだ。その解放はキリストによって もたらされる。

こ の癒しの奇蹟はその後、安息日論争へと発展していく。ヨハネが繰り返す「律法と恵み」という比較でいえば、この病者は律法の元に閉じ込められた私たちとい うことになろう。そこには望みはなかった。最後にキリストの言葉を聞こう。もう罪を犯してはならない。健康の回復よりも、たましいの回復こそが主が望まれ ることだから。


2013/3/3 信じて、帰った

ヨハネの福音書4章43節〜54

親 を思う子の思い、子を思う親の思い、どちらが大きいかと問われれば、親の思いではないだろうか。聖書でもほとんどの場合、子供の悩みを抱えた父や母がキリ ストの元を訪ねてくる。母をおぶってキリストを訪ねた話はない。昔の人は「孝行したい時には親はなし」と言った。親を思う子の思いは、自分が親になって強 くなるのだろう。

王室の役人とあるのでヘロデの家臣である。これもまたちょっと特殊な立場である。ヨ ハネの最初に出てくる三人は意外性に富んでいる。ヘロデ家はイドマヤ(エドム)人の家系にあり、ローマからガリラヤを分封されていた。その役人だから一般のユダヤ人はあまり良い感情を もっていなかっただろう。しかし親の思いは立場には関係ない。

人 がうらやむような社会的な地位や経済力は幸せの指標にはならない。人生に悩みがなくなることはない。誰にも直せぬ息子の病気、どんな高い薬も高名な医者も その進行を食い止めることはできなかった。わらをもすがる思いでキリストの元にやってくる。しかヨハネの福音書7章1節7節〜24節し、その言葉はそっけない。しかしここで彼は信仰の岐路に 立っているのだ。

そ の選択肢は旧約のナアマン将軍のように怒って帰るか、無理やりキリストを引っ張ってくるか、その言葉を信じて帰るかである。彼は最後を選択した。そして驚 くことに息子の治癒は彼が信じたその時だった。パリサイ派の指導者、サマリヤ人、ヘロデ家の役人がキリストのガリラヤ伝道に先立って信じた。あらゆる人が 招かれている。

 

2013/2/24 蒔く者と刈る者の喜び

ヨハネの福音書41638

い のちの水を求めた女性にキリストは語る。それは彼女の罪の生活をあぶり出した。そのために評判を落とし、人目を避けて陽の一番高い時に水を汲みに来なけれ ばならなかったのだろう。キリストの救いはその人に罪を自覚させ、新しい歩みを始めさせるものである。彼女の関心は物質的なものから霊的なものへと変化し ていった。
 それはキリストに対する呼称の変化によって明らかである。最初、ユダヤ人と呼んだが、すぐに先生と呼び、次には預言者と考 え、最終的にはメシヤ(キリスト)としたの である。その間、主は大切なことを彼女に教えておられる。私たちの信仰にとって最も大切なことは形式ではなくて、私たちの心のあり方なのだということであ る。
  彼女は自分と話していた方が約束のメシヤであると知ると水がめを置いたまま、すぐに町へ引き返す。そして証しを始めるのだった。その喜びは自分の羞恥心を 超えていたのだ。多くの同胞がキリストに導かれる先達となった。ニコデモが信仰の表明をするのは後になるが、サマリヤの女の方はすぐに人々に語ったという のは興味深い。
 最初、サマリヤを通って行かなければならなかった−という思いが けない行程は主のご計画のうちにあった。群れをなしてサマリヤの人々がやって来た。弟子たちの驚きは大きなものだった。蒔かなかった畑に大収穫、下ろさな かった網に魚が飛び込んできた。私たちは神の働きに携わっていることを決して忘れてはならないのだ。

 

2013/2/17 永遠のいのち

ヨハネの福音書4115

水 は私たちが生きていくために必要な第一のものである。そう、普段は意識しなくても誰でもが認めるだろう。場合によっては高級車や金塊よりもコップ一杯の水 の方に価値がある。危機的な状況で生存のためには、水、食料、体温が重要だそうである。私たちは蛇口をひねればすむが、今でも水汲みから1日が始まる人々 もいるのだ。
 私たちが生きていくためにどうしても必要なものがある。私たちを生 かす魂の水、いのちの水があるとキリストは教えられた。相手はサマリヤ人の女、ユダヤ人とは犬猿の仲だった。人目を避けて井戸に水をくみに来たこの女性に キリストは水を求めた。これが会話の始まりだったが、その出会いは偶然ではなく意図されたものだった。
 ヤコブの井戸は雨水をためた貯水井戸だった。パレスチナの気候は降水量が年間400mmぐ らいで夏の乾季には雨は降らない。冬に降った雨を貯めて生活用水とした。本来、生ける水とは貯水ではなく、湧水を意味した。それは汲めども尽きない水であ る。キリストはそれを例えにしながら、魂の渇きをいやす−いのちの水を教えられた。
  その水とは信仰によってもたらされるキリストの恵みを指している。世のどのようなものも私たちの魂の渇きを満たすことはできない。私たちが神から出たから である。キリストによる罪の赦しは、私たちに平安をもたらし、感謝と喜びを心の中に与えてくれる。それは一時で失われてしまうものではない。永遠のいのち の水が流れ出る。

2013/2/10 小聖書

ヨハネの福音書3921

ニコデモはキリストが説かれた救いの道が理解できなかった。それは人の働きによって 得られるのではなくて、神によってもたらされるということだった。そして次に例を挙げたのがモーセの故事だった。荒野 で不信仰に陥った民は蛇に噛まれ死んだ。その時モーセが青銅の蛇を作ってそれを掲げると、仰ぎ見た者は救われたのだった。
  これとキリストの十字架をシンクロさせている。罪ある人間は自分の力で、神との関係を取り戻すことも、自分自身を神に喜ばれるようにすることもできない。 自力救済の可能性はゼロなのである。そこでただ一つ救いの道が開かれた。それは十字架のイエスを仰ぐという道である。キリストの贖罪によって救われること ができるのだ。
 整理しておこう。まず、救いの道はキリストが人類の罪を負って身 代わりの死を遂げてくださったことによって実現した。神の前になだめの供え物となってくださったのだ。しかし、それは自動的に全ての人に実現するのではな い。それを仰ぎ見た人、すなわち信仰をもって受け入れた人に実現するのだ。そう信ずる者はみな救われる。
 その神の動機は何か、愛だという。神の愛、アガペーの愛が救いの道を備えたのだ。316節はご存知のように、金の聖句、あるいは小聖書と呼ばれる箇所である。聖書のエッセンスがここに見出され るからだ。神の本質を愛であるとキリストは解き明かされ、身をもって証明された。この福音書はキリストの贖罪を元に書き進められる。

2013/2/3 新しく生まれる

ヨハネの福音書318

い のち−これはヨハネ福音書のキーワードのひとつである。冒頭でこの方にいのちがあったと述べられ、信者は神によって生まれたと言われていた。この福音書で 使われるいのちという言葉は、肉体の生命を意味していない。多くの場合には神によってもたらされる霊的な新しいいのちを指す。それが付与されるのが新生の 恵みなのだ。
 ニコデモはユダヤ人指導者であった。伝統的なユダヤ教の信仰を教 えてきた人物である。彼をしてもキリストによってもたらされる神の恵みを理解することはできなかった。律法の遵守によって神の救いが得られるとしていたの がパリサイ派の教えだった。しかし、神は私たちを全く新しくすることによって救いを実現されようとした。
  あの使徒パウロの悩みを思い出して欲しい。彼は神の律法を守ろうとすればするほど、それに反抗する自らの罪の性質を見出した。善を願いながら、その心と手 と足は逆の方へ向くのだ。人の意思や鍛錬、矯正によっては聖くありえない、それを知ったときに、神の一方的な恵みによって自分が新しく創り変えられること を悟ったのだ。

新 しく生まれる、それは御霊によって生まれると言い直されている。神の聖霊によって私たちの内に神のいのちが与えられる。それは人を全く新しい人へと作り変 える。人の心を新しくすることができるのはキリストだけである。信じた人はその変化に気づくだろう。神の眼差しを避けていた私が、喜んでかけていくことが できることを。

 

2013/1/27 キリストの神殿

ヨハネの福音書21222

  キリストの宮清めは、共観福音書ではエルサレム入城後に記されているが、ヨハネでは最初の過ぎ越しの祭りの出来事として記されている。公生涯の最初と最後 に同様のことがあったと考えることができる。ここでは神殿について2つのことが教えられている。一つはそれが父の家であり、もう一つはキリストの神殿につ いてである。
 キリストが神を父と呼ぶ場合、それは私たちが天の父よと呼びかける のとは意味が違う。神の子としての自覚と主張がそこにはある。神の名を借りた金儲けや不正行為が行われるのを許すことはできなかった。神殿は神のいます場 所であり、祈りがささげられる場所であった。天と地、あるいは神と人とをつなぐ聖なるところなのだ。
  しかし、その神殿でさえ完全ではないと言う。キリストは3日で新しい神殿を建てると言われた。ご存知のようにこの言葉は後にキリストが訴えられるときに持 ち出される。そう、目に見える神殿を言っているのではない。キリストによってもたらされる目に見えない神殿、完全な罪の赦しと神との交わりの回復を指し示 したのだ。
 律法は目に見える神殿を必要とするが、恵とまことには必要ない。キリ ストの贖いの御業が3日で建てられた神殿である。3日目に主は甦られた。その働きの始めからその目標地点を目指してキリストは進まれた。弟子たちがそれを 理解したのは随分後になってからだった。その時に全部分からなくても時がくれば悟らせてくれる。

2013/1/20 喜びのおとずれ

ヨハネの福音書2111

喜 び、それは福音によって与えられる神様からのプレゼントである。ヨハネが福音書の中で最初に描く奇跡、カナの婚礼でもテーマは福音のもたらす喜びである。 喜びはクリスチャンを生かす原動力である。決して他の人や物、どんな出来事もそれを与えることはできない。なぜならこの喜びは、色あせたり無くなることは ないからだ。
 この奇跡では、福音の喜びを当時の硬直化したユダヤ教律法主義に勝るものだと暗示している。そこに置いてあった6つの石がめ はユダヤ人のきよめのしきたりのためだったとある。これは衛生上の注意では なく、宗教上の注意であった。彼らは死体やけがれた物にふれた場合に、水で洗って清められなければならなかったのである。
  婚礼でぶどう酒が底を尽きかけたとき、キリストはこのみずがめの水をぶどう酒に変えられた。ぶどう酒とは喜びと力を与えるものとして描かれている。同じ宗 教的な装いをしていても、律法主義と福音は似て非なるものなのである。私たちはいやいや神のご意思に従うのではない。それが喜びとなり、そうせざるを得な くなるのだ。
 福音のもたらす喜びは、罪の赦しと神との親密な交わりによる。神と の関係を破壊した私たちの罪をキリストはご自身の十字架によって処罰され、私たちは赦された者として神との交わりに入れられるのである。愛と信頼に結ばれ た神との関係は、喜びを私たちの生活にもたらしてくれる。喜びに生きる−神はそんな生活に招かれる。

2013/1/13 私たちはキリストに会った     

ヨハネの福音書13551

キ リストにお会いした―そのように語ることができる人がクリスチャンであり、教会はそのような人々の集まりである。ここでは5人の弟子たちとイエスの出会い が記されている。最初の2人はアンデレとおそらくヨハネで、彼らはバプテスマのヨハネの弟子であった。次にアンデレの兄ペテロ、そしてピリポ、ナタナエル である。
 ここには伝道の基本が示されている。それは人から人へということである。最初の二人はバプテスマのヨハネの証言でキリストの 元に行った。ヨハネが送ったのである。ペテロはアンデレの証言でキリストを 知った。ピリポは直接、キリストから声をかけられた。しかし最初の3人とは幼馴染だった。ナタナエルはピリポに導かれた。
  証をすることを難しく考えてはならない。なぜなら私たちの担う部分は一部だからである。キリストの御霊がその人に語りかける。バプテスマのヨハネのやった ことは指し示すことであり、アンデレもピリポも同様である。その中でこの方の称号が次々と明らかにされている。神の子羊、メシヤ(キリスト)、神の子、イ スラエルの王。
 キリストは辺境ガリラヤのベツサイダという漁村の無学な数名の青 年を弟子とされた。あまりにも無力に見えるこの試みが世界を変えた。それはインターネットで瞬時に何万人に送信されたわけでもなく、人から人へという極め て普通の地味な方法だった。しかし、これ以上に強力な方法はないことを私たちは思い起こすべきである。

2013/1/6 世の罪を取り除く神の子羊    

ヨハネの福音書11936

キ リストの公生涯の始まりはどの福音書でもバプテスマのヨハネによる。クリスマスの訪れがザカリヤとエリサベツから始まり、父が生まれ来る子の務めを、主に 先立ち、道を備えると言った通りである。彼は主役ではなかった。キリストを引き立てるために生まれ死んでいった。脇役の人生に、誰が満足し喜ぶことができ るだろうか。
 私たちは自分が人生の主役だと思っている。それは一面真理である。 私の人生を良くするのも悪くするのも自分、そう考えて真剣に生きていくことは大切なことであろう。しかし、自己実現だけが自分の目標だとすれば大切な物を 失う気がする。また単なる自己満足や失望に終わる可能性がある。信仰者としてどう考えれば良いのだろう。
  ヨハネの生涯は良い模範である。もちろんあまりにも崇高な模範だが、忘れてはならない生き方である。彼の人生の主役は文字通り「主」に他ならなかった。彼 は自分を荒野に叫ぶ声と評した。姿は人々に認められなくても良い、主の来臨を告げるために自分の生涯はあると考えていた。脇役でも誰の脇役であるかが重要 なのではないか。
 ヨハネはキリストを世の罪を取り除く神の子羊と呼んだ。これは キリストの救いの御業について誰よりも正確な理解を持っていたと言える。子羊はいけにえの捧げ物だったのである。ヨハネの先にはキリストが見える。己を虚 しくし仕える者の姿をとって、ご自身を贖いの代価とされたお方が。私たちの人生劇場の主役は一体誰だろう。

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