一日に一 章ずつ読んでいけば一ヶ月で読むことができる聖書の書簡は箴言が有名です。でも、もう一つあります。このサムエル記第一です。今回これに四字熟語をあては めてみました。必ずしもその章の内容に即したものばかりではありませんが、より印象深くサムエル記を読んでいくことができると思います。
 
加えて青少年には四字熟語の勉強に、中高年には今はやりの脳トレになるのではと期待しています。どうぞイスラエルの王制国家樹立を巡って 繰り広げられる人間模様、それを越えて働かれる神の御手の業をご堪能いただければこんなに嬉しいことはありません。聖書って本当に面白い!これが合い言葉 になればと願っています。


サムエル記第一

1章 心願(しんがん)成就(じょうじゅ)

「それで私もま た、この子をにお渡しします。この子は一生涯、に渡されたものです。」28節前半

 新しい時代の幕開けは一人の女性の祈りから始まり ます。その祈りによって与えられた子どもこそサムエル、イスラエルが王制国家へと移行する激動の時代に指導的な役割を果たしていく人物です。もちろんハン ナはそんなこととは知りませんが、彼女の祈りは私たちの見本です。心にある嘆きを注ぎだした彼女の顔は以前とは違います。神様が最善をしてくださることを 確信したのです。祈りによる解決は状況が劇的に変化することにあるのではなく、神に対する信頼を取り戻すことにあります。
 もちろん神様はみ心に従って祈りを聞い てくださいます。心願成就を果たしたハンナはどうしたでしょう。彼女は神様との約束 を守ります。これは大きな奇跡と呼べるでしょう。子どもの温もりを知った母親がたとえ約束とはいえどうして子どもを差し出すことができるでしょうか。しか しハンナは今で言う学齢期なるまで心を込めてサムエルを育てた後、潔く手離します。そして夫もまたその信仰を支えるのです。このように一人の女性の献身(子を献げることは自分を献げること)から偉大な預言者が生まれました。もちろんそれにま さるものを神様はくださいます。取引ではありません。恵みです。

(心願成就:宿願の達成。心の中で願い続けていた希望・夢が、そのとおりにかなうこ と。)

2章 傍若無人(ぼうじゃくぶじん)

「このように、 子たちの罪は、の前で非常に大きかった。へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。」17節

 ハンナの讃歌はキリストの母マリアの讃歌に匹敵す るものです。へりくだった者に対する神様の恵みを歌います。このように素朴な信仰が人々の中に息づいているかと思えば、神の礼拝に携わる祭司の家系には信 仰のかけらすらも見えません。神に仕えながら彼らはを知らなかったのです。当然彼らの振る舞いにはに対する恐れがありま せん。その傍若無人な態度は決して許されるものではないのです。不道徳な罪まで犯し ていました。
 祭司エリは、息子たちを指導、矯正しよ うとしますが、できませんでした。もう遅すぎたのです。幼少年期における信仰教育の重要性はいくら強調してもしすぎることはないのです。一方サムエルはま るで泥の中から顔をだすスイレンのようにまっすぐに育ちます。神と人とに愛されて。これはキリストの幼年期を表わす言葉でもありました。主の大きな祝福が あったのです。一年に一度しか会えない両親ですが、サムエルはその愛と祈りをいつも感じていました。毎日その上着に袖を通しながら。

(傍若無人:人前もはばからず、まるで近くに人がいないかのよ うに勝手気ままに振る 舞うこと。)

 

3章 出藍(しゅつらん)之誉(のほまれ)

「サムエルは ‘お話ください。しもべは聞いております。’と申し上げた。」10節後半

 いよいよサムエルの預言者としての出発です。主の 宮で神はサムエルに語られます。しかし答える術を彼は知りません。そうを知らなかった−もちろんエリの息子たちのような意味ではなく、ま だ神様と人格的な関係がなかった。だからエリに呼ばれたと思って駆けていきます。しかし、そこは目が衰えていたとはいえ(信仰の目も)さすが長年主に仕えた祭司です。サムエルに教えて主 に答えられるように導きます。これが信仰教育の目標です。
 サムエルは始めて自分の耳で主の声を聞 くのです。信仰の自立にとってとても大切なことです。どんなに宗教的な環境に育っても、このような神との交わりを抜きにして、その人の信仰はありえませ ん。ここで注目したいのはその後のエリの態度です。彼はサムエルに神のことばを語るように促します。サムエルにとっては恩師を裏切るような内容です。口が 避けても言えない。でもそれを言えなければ預言者としては立てないのです。それを優しくまた毅然と導いたのがエリでした。子どもの教育には失敗したエリで したが、彼なしにはサムエルはありえません。出藍之誉に果たした老師の功績です。

(出藍之誉:教えを受けた弟子が先生よりもすぐれた人になるたとえ。青色の染料は藍 という草の葉から取ったものだが、もとの藍の葉よりも美しい色をしていることから。)

 

4章 危急(ききゅう)存亡(そんぼう)

「彼女は‘栄光 がイスラエルから去った。’と言って、その子をイ・カボテと名づけた。」21節前半

 ペリシテとの戦闘が始まりました。初戦は大敗北、 一体どうしたのでしょうか。民は契約の箱を戦場に運びます。契約の箱は神様の臨在の象徴でした。出エジプトと荒野の旅路であらわされた神様のみ業のしるし が納めてありました。この箱さえあれば大勝利と考えたところに、間違いがありました。これは真の神を信じるイスラエルが自分たちの神を偶像のように取り 扱ったということなのです。まるで箱自体に霊力があるかのように錯覚しました。
 神の箱は敵に奪われます。この精神的な 支柱が失われたとき、エリはショックの余り、倒れて死にます。これは民の共通した気持ちであったのでしょう。栄光がイスラエルからさったと叫びます。まさ にイスラエル危急存亡の危機でした。もし、彼らの信じる神が偶像であったならそう だったでしょう。しかし真の神はそうではありません。この方は天地の創造者、力ある神なのです。ここでもう一度考えておきたいのは、私たちもまた真の神を 偶像神にしていないかということです。あなたの祈りはどうでしょう。もし神に命じているのであればそれはその罪を犯していることになります。

(危急存亡:危機が迫っていること。生き残るか亡びるかの瀬戸際のような状態。

 

5章 自立(じりつ)自存(じそん)

「次の日、朝早 く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。」4節前半

 そうです。イスラエルの神は偶像ではありません。 今も生きておられる力ある神、自立自存の神です。ダゴンの神殿での出来事は真の神ご 自身がそれを明らかにされた出来事でした。箱に魔力があるのではなくて、このような事件を通して神の御名が卑しめられることをお許しになられないのです。 その上、神はペリシテの人々を打たれます。彼らはイスラエルの神の祟りだと恐れるのです。神の箱をたらいまわしにした挙句、元に戻せと言い出します。
 これは当時流行した伝染病ペストだろうと言われて いますが、その背後に主のお働きを見ているのです。私たちの信仰は神が私たちの内にあって働かれるのです。私たちが何の力もない偶像を運んで世話をするの ではなく、神が私たちを運び世話をしてくださるのです。なんとももったいないことですが、それが真の信仰でしょう。なぜなら神様のご栄光が現されることが 全ての目標なのですから。神様のために何をするのではなくて、私を通して神様が何をなさろうとしているのかを考えましょう。

(自立自尊:ひとり立ちすること。他人の力をかりず、自分の力だけで生きること。)

 

6章 慇懃無礼(いんぎんぶれい)

「人々はそのよ うにした。彼らは乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、それを車につないだ。」10節前半

神の箱をイスラエルに返すことにしたペリ シテの領主たちですが、彼らは最後までそこに真の神の働きを認めようとはしません。いや、わかっていても認めたくないのです。彼らの方策は罪過のいけにえ を用意して、それもたっぷりと、牛車に引かせて神の箱を戻すと言うものでした。確かに神を敬っているように見えますが、これは慇懃無礼というものです。だって何とかしてこれまでの出来事を偶然として片付けようとする魂胆 が見え見えなのですから。
 子牛から無理やり引き離 された母牛がどうして子牛のいる牛小屋と反対の方向へ進むでしょうか。最初から結果ありきの茶番でした。しかし、神はそれをあざわらうかのように母牛の脚 を進めます。神の箱はまっすぐにイスラエルに向かって行きます。そうです。これらの背後には神のお働きがあったことを誰もが認めえざるおえないのでした。 不信仰によって持ち出された神の箱は神ご自身が引き戻されました。この方は決して侮られることのない方です。霊とまこととをもってお仕えしなければなりま せん。

(慇懃無礼:言葉や物腰が丁寧すぎ て、かえって礼儀にはずれていること。丁寧な態度に反して尊大。)

 

7章 心機(しんき)一転(いってん)

「そうして、そ の所で言った。‘私たちは主に対して罪を犯しました。’」6節中

 この言葉を神様は待っておられたに違いありませ ん。真実に神様に向かおうとするならば、悔い改めが口をついて出てくるからです。そうです。私たちは神様抜きで自分の好きなようにやりたいのです。そし て、失敗して後悔して、神様を求めるのです。そんな愚かな繰り返しをしても神様は決してお見捨てになることはありません。旧約聖書のイスラエルに対する神 の忍耐は私たちの希望です。大事なことはそのご愛を疑わないことです。
 心機一転はここから始まります。この悔い改めによってペリシテの圧力から解放されていきます。 それは戦いによって勝ちとったのではなくて、神ご自身の働きによって与えられたものです。このような経験を心に刻む必要があります。あなたの力が救うので はなくて、主が助けてくださるのです。人々は石を取ってエベン・エゼルと名づけました。あなたの人生にもエベン・エゼルの碑を立ててください。それが信仰 の確信を増してくれます。

(心機一転:あることをきっかけとして、気持ちがすっかり変わること。またそのようにさせること。)

 

8章 朝三(ちょうさん)暮四(ぼし)

「どうか今、ほ かのすべての国民のように、私をさばく王を立ててください。」5節後半

 イスラエルの民は自分たちの窮状の原因は社会体制 に問題があると考えました。ほかの国々のように王がいればうまくいくと言うのです。これではまるで、朝 三暮四の申し出を聞いて喜んだ猿たちと何ら変わりがないではありませんか。問題はかたちではないのです。なぜならイスラエルは神が治めてお られるからです。サムエルの憤りもそこにありました。先の悔い改めはどこにいったのでしょうか。たえず信仰の本質を問い直す必要があります。礼拝に出席す ればいいのではありません。礼拝することが大切です。
 驚くことに神様はここで民の願いを聞き いれ、譲歩されます。王を立てることをお認めになるのです。神様の定めには2つの種類があります。より積極的に主権を表わされる場合と、ときには人間の愚 かささえを用いて許容的にご計画を実現なさる場合です。ここは後者です。イスラエルに王が与えられることもまた神様の救いのご計画と切り離せません。なぜ なら後に来られるキリストは、まことの王としてこの世に示されるからです。

(朝三暮四:目前の利害に捕われて結果が同じになるのを見抜けないこと。ま た、そのような状態に相手を追い込んで巧妙にだますこと。)

 

9章 青天霹靂(せいてん(の)へきれき)

「あすの今ご ろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。」16節前半

 救国の王が待たれます。その人はペリシテの手から 神の民を救うのです。神はエジプトで民の叫びを聞き、今もイスラエルの叫びをお聞きになります。ここに美しい男がいました。キシュの子サウル、イスラエル 最初の王となる人物です。堂々とした体格で絵に描いたような姿をしていました。しかし預言者との出会いは決して劇的ではありません。迷子の家畜を捜してい たのです。まさかそこでイスラエルの王に任命されるとは、正に青天霹靂でした。
 神様のご計画は思いがけないかたちでも たらされます。主の弟子を追跡していた青年はダマスコ途上で主にお会いして回心しました。取税人の親分は「今日あなたの家に泊まる」という言葉を聞いて喜 んで主を迎えます。でも思いがけないと感じるのは私たちであって、神様にとってそれは聖いご計画によってなされた御業なのです。私たちは一体、どうやって 偶然と摂理の境を知るのでしょうか?それは神のみことばが語られることによってです。

(青天霹靂:突発的に起こる大事件。思いがけない変事。)

 

10章 前途(ぜんと)多難(たなん)

「しかし、よこ しまな者たちは、「この者がどうしてわれわれを救えよう。」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持ってこなかった。」27節前半

 イスラエルの王が公示されます。それは有力な部族 から出たわけではありません。逆に最も小さな部族の弱小氏族から選ばれました。そうです、ベニヤミン部族は一度滅びかけた歴史を持つのです。王としての舵 取りが困難なことは誰の目にも明らかでした。案の定、サウルを侮って王位を認めようとしない人々もいました。もちろんサウルにも自信がありません。王とし ての油注ぎは内緒にしていましたし、王が公示される時にも何と隠れている始末、全く前途多難な 船出でした。
 しかし以前と変わったこともありまし た。主の霊がサウルに下ったのです。それは力と愛と慎みの霊でした。彼はイスラエルを救うため立ち上がります。また敵対者に対しても感情的にならず、じっ と気持ちを飲み込んだのでした。確かにサウルはすでに王とされたのですが、人々がそれを認めたのは祖国を救うために立ちあがった時でした。主を信じた人は すでに主の僕ですが、その証しが明らかになって、人々はそう認めてくれます。口先だけでなく行いと真実を持って愛を証しましょう。行いの無い信仰はむなし いからです。

(前途多難:これから行く先に、多くの困難が待ち構えていること。)

 

11章 命令一下(めいれいいっか)

「民はみなギルガルへ行き、ギルガル で、の前に、サウルを王とした。」15節

 イスラエルに王が与えられた意味がここで明らかに なります。神の霊に導かれたサウルの命令一下、12部族は一致団結して敵の手から人 々を守るのです。最初は心もとない王としての出発でしたが、ここにおいてサウルの王権が確立します。もう文句をいう人々はいません。人々はそれを喜びまし た。王は反対派を粛清する代わりに恩赦をあたえることによって民心を得るのです。イスラエルの新しい時代の始まりでした。
 王の務めは民を守ることです。弱く頼る ところの無い私たちにも王が必要です。そしてキリストは王として私たちを治めてくださるのです。私たちの歩みを支えるものは自分自身の熱心や努力というよ りも、この王の働きなしには考えられないのです。今日一日、私たちの王の守りを数えてみましょう。サウルによって命を救われたヤベシュ・ギルアデの人々は 最後までこの恩を忘れませんでした。後に戦死したサウルの遺骸が敵の陣地にさらされたとき、彼らは勇気を出してそれを取り戻し葬ったのでした。

(命令一下:指図が一度下されること。)

 

12章 虚心坦懐(きょしんたんかい)

「あなたは私た ちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」4節

 サムエルは虚心坦懐に民に語ります。最初はイスラエルの王が欲しいと言う声に不愉快になりましたが、ここ では主のみ心を知ってそんなわだかまりも消えました。預言者として語るべきことを語らねばならないのです。預言者の言葉に力を与えたのは表裏のない彼の生 き方、証しでした。誠実に神の前に生きてきた最後の士師(さばきつかさ)でした。深い祈りのうちに子どもたちも更生しまし た。エリ家の悲劇を見ていたからです。
 人々が求められていることは何でしょ う。それはイスラエルが王制国家となったからといって変わるものではないのです。時代や社会、あるいは地域、民族、それらが異なっても一つです。それは真 の神を心から愛し、最後までお従いすることなのです。神様が私たちに求めておられるのもそうでしょう。黙示録のスミルナ教会にたいするメッセージは‘死に 至るまで忠実であれ’でした。これを私たちの目標にしましょう。主が助けてくださいます。

(虚心坦懐:心にわだかまりを持たず、素直でさっぱりし た気持ち。無心で平静な心境。)


13章 戦々恐々(せんせんきょうきょう)

「戦いの日に、 〜だれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた。」22節

 とても勝ち目のない戦いです。人員、兵器、どれを とっても大人と子ども、勝負になりません。国中を大きな恐れが覆いました。家に留まることもできず、人々は戦々恐々として野山に隠れます。ここでサウルは神様の最初のテストに落第します。サムエルを待 ち続けることができなかったのです。不安でした。預言者は中々来ないし、人々は見捨てて行ってしまおうとするのです。とうとう彼は先走っていけにえをささ げてしまいます。そこにサムエル登場、あと少し待てなかったのです。取り返しのつかないこととなりました。
 もう少し我慢していれば、そんな風に思 うことがよくあります。ゴールが見えていれば頑張れるのかもしれません。でもゴールが見えない競争では試されるのです。‘もう一息’を待てるか待てないか で私たちの人生は大きく変わります。ではどうすれば私たちがあきらめないで約束のものを手にすることができるのでしょうか。それは忍耐だと聖書は教えます が、それはやせがまんでの忍耐ではなくて、神様を信頼する忍耐です。

(戦々恐々:恐れおののく様子、おそれてびくびくする様子。)

 

14章 孤軍(こぐん)奮闘(ふんとう) 

「大人数による のであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」6節後半

 イスラエルの危機を救ったのはヨナタンの勇気でし た。戦力を計算すれば決して勝ち目のない戦いでした。イスラエルは素手で戦わなければならないのです。でも、もう一つの大切な武器を忘れていました。何よ りも確かな武器、それは信仰です。聖書は一貫して戦いは主のものであるとします。人の力が勝利をもたらすのではありません。主が戦われ、主のしもべたちに 勝利を与えてくださるのです。それには信仰が必要です。
 ヨナタンは孤軍奮闘、一人、神を信じて立ち上がります。これがイスラエルに勝利をもたらします。それなの にサウルの無分別な誓いは民を苦しめ罪の原因を作ります。その上、ヨナタンの命まで奪おうとします。しかし人々はそれをゆるしませんでした。素手のイスラ エルが勝ったのですから。そういえば、5千人の給食の祝福をもたらしたのも、一少年の信仰でした。私たちの戦いは主の戦いです。そこで求められるものは主 に対する信頼だけです。 

(孤軍奮闘:援軍がなく、周囲から孤立した小数の軍勢でよく戦うこと。)

 

15章 面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)

「見よ。聞き従 うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」22節後半

 ここでサウルは取り返しのつかない失敗を犯します。とうとうレッドカードを出されてしま うのです。でもどうでしょう、サウルのやったことがそれほど大きな過ちに見えますか?王は戦いに勝利しました。また彼はケニ人に憐れみを施しています。敵 の王を捕虜にし、人々への戦果として良質の家畜を持ち帰ります。民もまたサウルを支持するのです。どこに問題があったのでしょうか。そう、彼は優先順位を 間違えました。
 表
面的に は神の命令に従ったように見えます。しかし実は面従腹背、肝心のところでは神の命令 を無視しているのです。何でもないものを与えることはそれほど難しくありません。一方、自分が最も大切に思うものを与えるには信仰が求められるのです。サ ウルは王として神の評価よりも民の評価を大事にしました。これは政治家、為政者の陥りやすい危険性であると同時に私たちにとっても大きな課題です。なぜな ら主はキリストよりも愛するものがあれば神の国にふさわしくないと言われたからです。あなたはどうでしょう。

(面従腹背:面と向かっては服従していながら、腹の中で は背反しているようす。)

 

16章 奇想天外(きそうてんがい)

「人はうわべを見るが、は 心を見る。」7節後半

 神様はどのような新しい王をお与えになるのでしょ う。サウルに勝る人材がこのイスラエルにいるのでしょうか。神の言葉に従いサムエルはエッサイのところへ赴きます。いよいよ新しい王が紹介されようとして います。長兄エリアブを見た時に預言者はこの人こそ王だと思います。サウルに勝るとも劣らぬ立派な体格をしていたからです。しかし、そうです、彼ではあり ません。続いて7人の男子が連れてこられますが、そこにも王はいませ ん。
 もうおりませんと言いかけた時にエッサ イは思い出します。末っ子が羊の番をしていたことを。最後に現われたのは、息をきらして野原からかけてきた牧童でした。サムエルの想像していた王の姿とは かけ離れたものでした。神様のなさることは奇想天外に思えたでしょう。しかし神はこ の少年を選んでおられたのです。彼こそ後にイスラエルの名君となるダビデでした。確かに神様の恵みは私の目の見たことがないもの、耳が聞いたことがないも のなのです。神の備えておられるものはみなそうだと言います。感謝です。

(奇想天外:誰にも思いもよらないような奇抜なこと。また、そのようす。)

 

17章 百発(ひゃっぱつ)百中(ひゃくちゅう)

「若者よ。あなたはだれの子か。」ダビ デは言った。「私は、あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの子です。」58節後半

ダビデ衝撃のデビューでした。新しいヒーローの誕生 です。河原の5つの石を持った少年が敵の大将をやっつけたのですから。その腕前は百発百中ただの一発でゴリアテを倒してしまいました。これは 功名心からでたことではありません。ダビデは戦うために戦場へ赴いた訳ではないのです。兄たちの安否を問い、届け物をする使いだったのです。しかしそこで 彼が目にしたのは神の名と神の陣営をバカにする大男の姿と、誰一人戦おうとしない自軍の弱腰でした。ダビデは義憤を感じます。
 あなたは最近、怒ったことがあります か?多くの場合には人の怒りは神の栄光を現すことはできません。私たちのプライドから出ていることが多いのです。だからと言って正しい怒りを忘れてはなり ません。主の御名が辱められるなら私たちは怒らねばならないのです。さて、ダビデはどうしてゴリアテを倒すことができたのでしょう。特別な武器を使ったわ けではありません。日ごろ慣れ親しんだものでした。私たちの戦いの武器もまた、みことばと祈りという慣れ親しんだ武器です。これが最も力があるのです。

(百発百中:矢や弾丸が撃つたびに必ず命中すること。予想、計画などがすべて当たり成功すること。)

 

18章 疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)

「サウルは千を打ち、ダビデは万を打っ た。」7節後半

人の人生を暗くするもの、それは疑いです。その原因は外側にあるのではなくて、内側にあ ります。サウルの人生の歯車が狂ったのは、ダビデが原因ではありません。彼が神様との関係をないがしろにした結果なのです。彼が失った物をダビデが持って いるのを見た時に、その妬みは最高潮に達します。単に武勲を妬んだのではなく、神がダビデと共におられる事妬んだのです。疑いは恐れに変わっていきます。 ある意味で彼の心配は当たっていました。神はダビデを王とされたのですから。
 サウルの試みはことごとくうまくいかず、ますます疑心暗鬼になって いきます。ダビデの方はと言えば、彼のやることなすこと全てうまくいきます。一度はサウルの悪意によって娘婿となる道を閉ざされるのですが、結局サウルは ミカルをダビデの妻とせざる負えません。疑心は日増しに強くなり、深い恐れと憎しみへと変わっていきます。哀れなサウル!罪とは的外れな生き方のことだと いわれます。私たちが神との正しい関係を持つことが全ての祝福につながります。

(疑心暗鬼:疑う心の強いあまり、何でもないことにまで 不安を感じたり恐ろしくなったりすること。)

 

19章 不倶(ふぐ)戴天(たいてん)

「サウルは、ダビデを殺すことを、息子 ヨナタンや家来の全部に告げた。」1節前半

 まさにサウルは裸の王様となりました。一時はヨナタンの執り成しによってダビデを再び 召しいれるのですが、ダビデの戦功は再びサウルの妬みに火をつけます。不信仰になって神のお召しに適わなかった者の哀れな末路でした。だれもサウルを支持 しません。息子ばかりでなくダビデの妻となっていた娘のミカルまで夫の逃亡に加担します。そして神様もまたサウルの陰謀を阻止します。サムエルの所にいる とわかっているダビデをどうしても捕まえることができないのです。サウルにとってダビデは不倶戴天の敵と映りました。
 しかし実は彼は神の敵となってしまったことに気づかねばなりませんでした。神を敵にまわしてどんな勝ち目があるでしょうか。敵は滅ぼされてしまうので す。人類の罪がここにあります。しかし神は敵を愛されました。御子イエス・キリストは神と人との和解を与えてくれるのです。キリストを通して私たちは神の 元に帰ることができます。裸の王様のままでいますか。それともそれを恥じて神の元に帰りますか。

(不倶戴天:ともにはてんをいただかず。と読む。深い恨 みや憎しみのため相手をとてもこの世に生かしておけないこと。復讐しないではいられないこと。

 

20章 以心伝心(いしんでんしん)

「矢は、おまえより、もっと向こうでは ないのか」37節

 ヨナタンとダビデとの命をかけた友情物語です。ダ ビデはヨナタンを信じ、ヨナタンもダビデを信じました。本来ならば王位継承の第一位にあるヨナタンは義兄弟の野心を疑ってもよかったのです。またダビデも ヨナタンの裏切りを予想することもできました。しかしダビデは約束どおり野原に潜み続け、ヨナタンは父である王サウルのふるまいに自分が侮辱された以上に 怒るのでした。放たれた矢とそれを追いかけるヨナタンの号令は以心伝心、二人だけの 合図でした。
 しかしこれは単なる美しい友情物語では ありません。この友情の中心に神がおられます。そして神の前における約束が二人の友情を確かなものとしています。その約束をみるとヨナタンはダビデが王と なることを知っていたことがわかります。この潔さは余りにもお人よしにも見えますが、神のお召しを受け止める信仰から出ていたに違いありません。神を中心 とした人間関係は祝福です。夫婦や家族であれ兄弟姉妹であれ、そこにはお互いに信頼があるからです。

(以心伝心:言葉ではなかなか伝えられない深遠なもので も真心があれば相手に伝わってしまうこと。)

 

21章 孤立(こりつ)無援(むえん)

「それでダビデは彼らの前で気が狂った かのように装い、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。」13節

 ヨナタンも父サウルの心を変えることはできません でした。一刻の猶予もゆるされません。ダビデは早く逃げなければならないのです。孤立無援の 逃亡生活が始まります。祭司の元に立ちよりますが、王の命で内密の仕事で来たといいます。これまでたった一人でやってくることなどなかったのです。アヒメ レクは何かを察してダビデをもてなしたのでしょうか。それはわかりません。いずれにしても彼はそこでパンと剣を手にします。生きる糧と命を守る武器さえあ りませんでした。この出来事は、キリストによって安息日について教える際に引用された箇所です。
 国外に逃れたダビデは、ここでもひと芝 居を打ちます。芝居といっても生き残るための必死の演技でした。2つの詩篇にこの時の気持ちが歌われています(34篇、56)。これは彼の信仰の訓練となりました。そう父はダビ デを子としてあつかっておられたのです。信仰の訓練は逆境を通して与えられます。そんな時、私たちはどこへ向かうでしょう。人に助けを求めますか、それと も主に助けを求めるでしょうか。

(孤立無援:ひとりぼっちで助けがないこと。)

 

22章 暴虐(ぼうぎゃく)非道(ひどう)

「その日、彼は85人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。」18節後半

 サウルの狂気は行きつくところまで来ました。彼は ダビデに加担したと決めつけ、主の祭司を皆殺しにしようとします。イスラエルの兵士たちは誰一人、手を下そうとはしません。主を恐れていたのです。エドム 人ドエグだけがその命に従います。彼はイスラエル人ではなかったので主を恐れなかったからです。この暴 虐非道な行為はその残虐さによってサウルは責めを負わなければなりませんが、彼が受けた損害ははるかに大きいものでした。主のみこころをう かがう術を失う。もう御旨を知ることができないのです。
 一方、おたずね者となっ たダビデはどうだったでしょうか。両親をモアブの王に人質として差し出し、逃避行が始まります。彼の支持者は決して立派とは言えない400人の人々でし た。状況は危機的ですが、ここで注目したいのは、主はダビデと共にあるということです。神の口となる預言者、主のみこころをうかがうことのできる祭司はな んとダビデの元にいるのです。一人、命からがら逃げてきたアヒメレクに、ダビデはこの事件は自分のせいだと謝ります。彼の心はダビデに結びついたことで しょう。

(暴虐非道:無慈悲に人をしいたげ、人の道にはずれた残 虐な行為を行なうこと。)

 

23章 危機(きき)一髪(いっぱつ)

「〜サウルはダビデを追うのをやめて帰 り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は「仕切りの岩」と呼ばれた。」28節

 サウルの討伐が始まります。ダビデは身を潜めてい なければなりません。そんな時ペリシテによるケイラ攻略の知らせがもたらされます。彼は判断を主に仰ぎます。そう彼の元には祭司がいました。ケイラの人々 は救われます。しかしダビデの動向が明らかになるとサウルは早速やってきます。ケイラの人々はダビデを支持してくれるでしょうか?いいえ、残念ながら彼ら は裏切るのです。祭司は主のみここを示してくれました。彼らは間髪を入れずに出発し難を逃れます。私たちが主のみこころを知る道具は聖書です。これを手放 してはなりません。
 心休まる日のないダビデ のところにヨナタンがやってきます。どんなに大きな慰めであったでしょう。しかしこれが2人の最後の別れとなりました。サウルの追っ手が近づ いていました。山の片側をサウルが進み、ダビデはもう一方を進みます。このままいけば鉢合わせ、どうなるかは火を見るより明らかでした。しかし危機一髪、主はダビデたちを救われました。ペリシテ軍侵略の知らせにサウルはきびすを取って返 すのです。助けは主からきます。

(危機一髪:非常にあぶない瀬戸際。ほんのわずかな違い で今にも危険なことがおこりそうなこと。)

 

24章 千載(せんざい)一遇(いちぐう)

「あなたが必ず王になり、あなたの手に よってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かにしった。」30節

 ダビデは自分自身が王となることをサウルのことば を通して知らされます。彼の能力や野心がダビデを王としたのではありません。神の選びとダビデの信仰が彼を王に適うものとします。逃避行中の出来事でし た。一行の潜む洞穴に何とサウルが用を足しに入ってきたのです。お付きの者もいません。千載一遇の チャンスがやってきました。人々は神様がこのチャンスを与えてくださったと思ったのです。非はあちらにあり、こちらにはありません。ここで手を下しても正 当防衛、言い訳もたちます。部下たちの気ははやります。しかしダビデはそれを好みませんでした。そればかりか王の上着を切り取ったことに罪悪感まで覚える のです。
 に油そそがれた方に手 を下すことはできない。それは神への恐れでありました。ダビデの姿を見、そのことばを聞いたサウルは一瞬ですが正気に返ります。彼もまたはっきりと神がダ ビデを王とされたことを悟るのです。しかしそれは長くは続きませんでした。ダビデもまたそれを知っていました。

神を恐れる人は過ちから守られます。

(千載一 遇:千年の間に一回しか会えない。めったにめぐり会えないよい機会。)

 

25章 才色兼備(さいしょくけんび)

「この女は聡明で美人であったが、夫は 頑迷で行状が悪かった。」3節中頃

 ここでは再び聡明な一人の女性の口を通してダビデ が王として立てられたことが明らかにされます。この才色兼備の女性はアビガエル、ダ ビデの愛した糟糠の妻となります。ナバルの愚かさはどこにあったのでしょうか。その狭量な性格でしょうか、あるいは行状の悪さでしょうか。一番の問題はダ ビデにもたらされていた神の召しを悟ることがなかったところです。彼にとってダビデは主人の元を追われたおたずね者としか映りませんでした。
 この一族を救ったのはア ビガエルの機転でした。彼女は最後まで冷静に対応します。しかしここでも重要なのは彼女がダビデに対する神のみこころを正確に見抜いていたことに他なりま せん。ダビデの王位を彼女は信仰によって確信していました。そうでないとあまりにも冷たい女性に見えてしまうでしょう。そうダビデはの戦 いを戦っていたのでした。ダビデはナバルの死後、礼を尽くして彼女を妻として迎えます。もちろん彼女はへりくだってその申し出を受けます。奴隷女になりま しょうと。あなたは主のしもべですか。

(才色兼備:女性が優れた才能と、そして美しい顔立ちと、両方ともに恵まれていること。)

 

26章 首尾(しゅび)一貫(いっかん)

「どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に 刺し殺させてください。二度することはいりません。」8節後半

 再びチャンスが巡ってきました。先の事件にもかか わらず、しつこくダビデを追い続けるサウルでした。陣営にもたらされた深い眠り、勇士アビシャイには神が与えられたチャンスとしか思えませんでした。しか しダビデの回答は首尾一貫していました。に油そそがれた方に手を下 すことはできないのです。そうです。私たちの生活にもこのような一本線の通った生き方が求められています。日和見主義は結局誰にも信頼されないのです。大 切なことは自分が譲ることのできる部分とそうでない部分を明確にしておくことです。神を恐れる生き方とはそういうものではないでしょうか。
 先回の事件と似通ってい る事件ですが、よくみれば発展がみられます。ここで主導権を握っているのはダビデです。先に敵の一行を発見したのはダビデです。その上、彼はその陣営に忍 び込むことができました。槍と水差しをとった彼は、王に語る代わりに敵の武将の失態を責めます。その上ここで主のみこころを語るのはダビデその人なので す。サウルとはこれが最後の会合となりました。

(首尾一貫:方針や態度などが初めから終わりまで変わり なく同じであること。筋が通っていること。)

 

27章 羊頭(ようとう)狗肉(くにく)

「私はいつか、いまに、サウルの手に よって滅ぼされるだろう。ペリシテの地にのがれるよりほかに道はない。」1節前半

 恐れが私たちの人生を狂わすことがあります。まだそれが起こってもいないのに、そうなる に違いないと思いこむのです。ダビデはあのゴリアテとの戦いの時のように、これまで私を助けてくださった神様はこれからも助けてくださると考えることがで きなくなっていました。荒野の逃亡生活は心身ともに、そして信仰までも疲弊させていたのでしょう。彼は敵国ペリシテへの亡命者となります。一つの危険は去 りました。サウルはもうダビデを追いません。しかしもっと大きな危険を彼は犯すようになります
 ダビデはアキシュの心証を良くするために偽りの生活を始めるのです。そう、嘘を隠すためには次の嘘をつかな ければならないことは創世記の最初に書いてあることです。正に忠誠を見せかけその生活は羊頭狗肉で ありました。後年ダビデが神殿建立を願ったときに彼は多くの血を流したという理由でそれがゆるされませんでした。しかし主は恐れや心配に対して野の花、空 の鳥から神様の恵みを類推するようにと教えています。

(羊頭狗肉:羊の頭を看板に出しておき、その実は、いぬ の肉を売ること。〜看板に偽りあり。)

 

28章 茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)

「それで、サウルはに 伺ったが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった〜」6節

 サウルに神様を捨てた人の悲惨な姿を見ます。彼の 叫びに神様はお応えにならないのです。なぜなら彼は主のみこころを知ることができる祭司を虐殺し、預言者を遠ざけてしまっていたからです。ペリシテの大群 を目にして彼の恐れは極致に達します。即位した時にはサムエルがいて、精神的な支柱となってくれましたがもう誰もいません。最も頼りになる部下(ダビデ)もいないのです。彼は霊媒に頼ろうとします。罪の上 塗りをすることになりました。
 サムエルのことばはサウ ルに対する最後通告となります。それを聞いた時に彼は茫然自失となって立ちあがるこ とができなかったのです。私たちにとって最も恐ろしいことは神様がお応えにならないということです。神様の裁きとはそういうことです。真のいのちから切り 離されてしまっては何の希望があるでしょうか。逆にどんなに大変な経験をしたとしてもこの神様のいのちにつながっている人には望みがあるのです。サウルと ダビデはそんな好対照を示します。

(茫然自失:気が抜けてぼんやりし、どうしてよいかわか らなくなること。)

 

29章 美辞(びじ)麗句(れいく)

「このしもべに何か、あやまちでもあっ たのでしょうか。王さまの敵と戦うために私が出陣できないとは。」8節後半

 ダビデは最初アキシュのことばを聞いたときに ‘困った!’と思いました。これまでの偽りがいよいよばれる時が来たのです。主が油注がれた者に手を下さなかったダビデは、神様が買い取られた民であるイ スラエルに刃を向けることはできないのです。しかし主の助けがありました。ペリシテの首長たちはダビデの出陣に難色を示すのです。次のアキシュのことばを 聞いたときに彼は‘しめた!’と思います。そして心にもない美辞麗句を並べるので す。
 心の伴わないことばはそれがどんなに美 しくても力をもちません。一方、話し方は上手でなくても心のこもった一言は人の心を打つのです。人の心に届くことばは私たちの真実な生き方から生まれま す。偽りからは生まれません。残念ながらこの時のダビデは神様が助けてくださったにもかかわらず、主に感謝することを忘れていました。うまくいった−そん な思いをもって帰路についた一行に大変な事件が待ちうけていたのです。

(美辞麗句:美しく飾った、聞いて心地よい言葉。最近で は内容のない空疎な言葉の羅列を、多少皮肉まじりに軽蔑していう場合が多い。)

 

30章 起死(きし)回生(かいせい)

「しかし、ダビデは彼の神、に よって奮い立った。」6節後半

 ダビデはここで前半生の最大のピンチを迎えます。 ペリシテ陣営参戦をうまく切り抜けたとほっとしたのもつかの間でした。元々は自分の蒔いた種でした。一行の疲労もピークに達し、不満はダビデに向けられる のです。しかし、ここに至ってやっと彼は目を覚まします。ペリシテ亡命には主のみ心を尋ねませんでしたが、ここでは祭司を呼ぶのです。そう信仰によって問 題解決を図ろうとします。これが彼の起死回生の起点になりました。私たちも信仰をし まっていてはなりません。信仰を働かせるときに神様はお応えくださるのです。
 ダビデはアマレクがどこにいるのかも分 からずに出発します。失敗はゆるされません。でも神のお約束がありました。もう迷いません。彼らはは失った物を取り戻したばかりでなく、それに勝る多くの ものを手にしました。主の恵みにあずかったダビデは多くの人にも恵みを施します。夜明け前が最も暗いと言います。そうダビデが王となる時はもうそこまでき ていました。

(起死回生:死に瀕したもの、滅びかかっているものを再 び生き返らせること。もとに戻すこと。)

 

31章 栄枯(えいこ)盛衰(せいすい)

「こうしてその 日、サウルと彼の三人の息子、道具持ち、それにサウルの部下たちはみな、共に死んだ。」6節

 イスラエル最初の王サウルの壮絶な最期が記されま す。どうしてイスラエルに王が登場したのでしょうか? ペリシテ人の圧迫と大敗北がありました。神の箱は奪われ、国は存亡の危機にありました。そんな時に サウルは解放者として国民の期待を一身に背負って登場したでのす。そして、サウルばかりではなく、ヨナタン、ダビデの活躍によってイスラエルは国勢を取り 戻しつつありましたが、2度目の大敗北で振り出しに戻ったかのようです。
 サウルの死は、不信仰の裁きというより も、最期まで王として勇敢にふるまった彼の姿を描いています。圧倒的なペリシテの軍事力の前に彼は逃げ隠れもせず、最後の一人になっても果敢に戦い続けた のです。刀折れ、矢も尽きたとき、敵に命を奪われる不名誉を嫌い、自ら命を断ちます。サウルによって助けられたヤベシュ・ギルアデの人々はその恩に報いま す。栄光盛衰はどの時代にも通じる理なのでしょうか。いいえそれは神様のご計画の光 に照らして見なければなりません。必定なのではなく。神の救いの歴史は人の思いを越えて進められているのです。ダビデの末からメシヤは出ます。

(栄枯盛衰:人や組織の隆盛と衰退は必ず交互にやってくるものだという事実。)



サムエル記第一 四字熟語一 覧

01心願成就 02傍若無人 03出藍之誉 
04危急存亡 05自立自存 06慇懃無礼 
07心機一転 08朝三暮四 09青天霹靂
10前途多難 11命令一下 12虚心坦懐

13戦々恐々 14孤軍奮闘 15面従腹 背
16奇想天外 17百発百中 18疑心暗鬼
19不倶戴天 20以心伝心 21孤立無援
22暴虐非道 23危機一髪 24千載一遇
25才色兼備 26首尾一貫 27羊頭狗肉
28茫然自失 29美辞麗句 30起死回生
31栄枯盛衰




サムエル記第二

1章 急転(きゅうてん)直下(ちょっか)

「ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた。」27節 

 急転直下、時代が大きく動こうとしていました。ダビデにとってサウルの死は福音になるはずです が、彼は厳粛な気持ちでそれを聞き、ヨナタンの死を嘆きます。ほうびをだまし取ろうとしたアマレクの青年は正に自らの墓穴を掘るのでした。当然、サウルの 死はダビデに取って大きな変化をもたらすことになります。彼はもう亡命者ではないのです。いつまでも続くと思われた忍耐の期間は終わって、新しい展開を迎 えます。そうです。神様が事を起こされるときには物事は思いを越えて進んでいきます。
 サウルの死、またとりわけ親友ヨナタン の死はダビデを悲しませました。これまでの思い出が頭の中を書け巡ります。ダビデは人々の記憶からそれが忘れ去れることがないように哀歌を作ります。この 歌が代々と歌い継がれました。ダビデは決してサウル王を敵対者として扱いません。最後まで主に油注がれたものとして敬意を表し続けます。愛を持って憎しみ に接し続けました。私たちにとっての良い見本です。今、油注がれた人とは誰でしょう。それは聖霊を宿す、主にある兄弟姉妹ではありませんか。 

(急転直下:事態・情勢が急に変わって物事の解決、決着がつく、またはそのよ うな方向へ向かうこと。)  


2章 紆余(うよ)曲 折(きょく せつ)

「いつになった ら、兵士たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」26節後半 

 ダビデはユダの王となります。しかしまだイスラエ ルの王ではありません。12部族の中のたった1部族の王です。簡単には一国の王にはなれないのです。まだ数年の期間が必要でした。組織や制度ができると、 そこには様々な利害関係や権力機構ができあがるものです。イスラエルで実権をにぎったのは将軍アブネルでした。ダビデが国内を統一するにはなお紆余曲折がありました。当然、二つの勢力はつばぜり合いを続けます。昨日まで同僚だった者同士 が戦うはめになります。
 最初は代表戦士を出しての戦いでした。 しかしそれが大きな騒動に発展します。同じ神を信じるイスラエルが互いに殺しあうことになるのです。アサエルの死は、二人の将軍の間に禍根を残すこととな りました。彼らが気づいた時には事態は思ったよりも進んでしまいました。さて、この時ダビデは何をしていたのでしょう。彼は信長のような天才的な戦術家で あり、秀吉のような人心の掌握に長けた政治家でしたが、それ以上に神の時を待ち続ける家康型の人物でした。彼は祈りながら待っていたのです。 

(紆余曲折:経てきた事情などが、ひとことで言えないほど曲がりくねっていて複雑で 厄介なこと。)  


3章 私利(しり)私 欲(しよく)

「サウルの家と ダビデの家との間には、長く戦いが続いた。ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった。」1節 

 ダビデはどのようにしてイスラエル全体の王となる のでしょう。少しずつ外堀を埋めて行き、ついには本丸を陥れるのでしょうか?家康型といっても、決してそうではありません。策略によって王位を手にする訳 ではないのです。それは神様がなさることでした。「鳴かぬなら主が歌わせる不如帰」権力を増し加えたアブネルは王を蔑み、ダビデに王位を渡す段取りを進め ます。彼もまたイシュ・ボシェテとダビデの器量の差を見抜いたのでしょう。ダビデが全イスラエルの王となることを見越して地位固めをするのです。
 一方、ダビデ軍の将軍ヨアブはそれを快 く思いません。すでに権力争いが始まっています。おまけにアブネルは弟の仇です。こんな私利私欲の 渦巻く中、ヨアブはアブネルをだまし討ちします。ダビデはそれを呪いながらも罰することができません。それよりもアブネル殺害について自分の無実を晴らす ことに懸命でした。この時のダビデの涙はオーバーアクションであったと思われます。しかしこれによって人々は満足するのです。人の愚かさが渦巻く中、しか し神のご計画は着々と進んで行きます。 

(私利私欲:自分の利益だけを考えた欲望) 


4章 是々(ぜぜ)非 々(ひひ)

「今、私は彼の血の責任をおまえたちに 問い、この地からおまえたちを除き去らないでおられようか。」11節後半 

 イシュ・ボシェテの最後は以外と早くやってきま す。略奪隊−といってもイスラエル軍の正規軍−の隊長2人に寝首を取られるのです(実際には腹ですが)。悲惨な最期でした。この2人もまた功名をねらった のでした。けれどもダビデの判断は、それが自分に有利に働いても是是非非です。それ 以上に激しい怒りをもって臨みます。彼らは呪われた者として処刑されます。神が事をしてくださると信じたダビデには人々の姑息な動きが我慢ならなかったの かもしれません。
 しかし神は人の罪や愚かささえも用いて 御自身の計画を成し遂げられます。残った王位継承者は体の不自由なメフィボシェテだけでした。もうサウル王家には国を治める力はありません。ダビデがイス ラエルの王となる日はもうすぐそこに来ていました。少年ダビデがサムエルに油を注がれてから十数年の月日が流れていました。神のお約束は必ず成就するので す。私たちも神様のお約束を待ち続けなければなりません。あの賢い乙女たちのように灯火の油を切らしてはならないのです。 

(是是非非:良いことはよいこと、悪いことはわるいことと、公正無私に判断するこ と。道理によって正しく判断する態度をいう。)  


5章 天下(てんか)統一(とういつ)

「ダビデはますます大いなる者となり、 万軍の神、主が彼とともにおられた。」10節 

 ダビデの天下統一です。晴れて全イスラエルの王となりました。新しく王となり都を定めます。そう、神の 都エルサレムの始まりです。この町は天然の要害となっていました。またユダとベニヤミンの領地の境にあり全イスラエルを治めるのに好位置にありました。ど の時代でも、新しい国造りは新しい都から始まります。でもこの町はやはり神がお定めになっていた場所なのでした。アブラハムが独り子イサクを捧げた場所、 そして後に神の独り子キリストが十字架で贖いを成就する場所なのです。神の聖なる都なのです。
 ダビデは王権を確立し、ペリシテとの戦 いに勝利します。彼は優れた戦略家でした。最初は正面突破、次には背後からの奇襲攻撃で勝利します。王国の確立はこの勝利なしにはありませんでした。しか し、この勝利は神がもたらされたとが明らかにされています。ダビデは神様の指示のままに戦ったのでした。戦いの勝利は軍馬の数や力によるのではありませ ん。勝利は神によるのです。そうです。神が祝福された−これがダビデの証しです。そして私たちクリスチャンの証しです。 

(天下統一:その国を平定し治めること)  


6章 画竜点睛(がりょうてんせい)

「ダビデは、の 前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」14節 

 新しいイスラエルの都を定めたダビデでしたが、ま だ画竜点睛を欠いていました。そこに主をお迎えしていなかったのです。もちろん神の 箱そのものが主ではありません。それは神の臨在の象徴、神の民との契約の徴です。でも神の箱がそこになければ神の都エルサレムとは呼べないのでした。ダビ デは深い感謝をもって神の箱を運び上ろうとします。そこで起こったのがウザの事件でした。牛車にひかせた神の箱がひっくり返りそうになったので手で押さえ てしまったのです。その場で彼は打たれます。ダビデは激怒します。
 長年自宅に神の箱を保管していた彼らに は慣れがあったのかもしれません。またそれは祭司が担ぐように定められていたものでした。ダビデは慎重に事を進めます。一旦箱を留めて、祝福を見届けてか らもう一度運び込むのです。彼は民と共に神の箱を都に迎えます。これまでの長い試練や苦難は大きな感謝と喜びに変わりました。私たちの礼拝の姿をここに見 いださなければなりません。ミカルはそんなダビデを理解できません。最後までサウルの娘であってダビデの妻にはなれなかったようです。 

(画竜点睛:わずかなことであるが、それを加えることによって物事が完成、成就するこ とのたとえ)


7章 王道(おうどう)楽 土(らくど)

「あなたの家と あなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」16節 

 平和と繁栄がイスラエルにもたらされた時にダビデ は何を願ったでしょう。神の家を建てる−神殿建立を志します。預言者ナタンもそれを聞いて賛成します。しかしその夜、ナタンに示された神のお告げは違った ものとなりました。がダビデのために家を建てるというのです。神様が遠慮した訳ではありません。ダビデの申し出を喜んでほうびを与えた訳 でもないのです。事実、ダビデは神殿を建立することはゆるされませんでした。それは息子ソロモンの手にゆだねられます。もちろんダビデはそのためにあらゆ る犠牲を払って準備をします。親子二代にわたって建立されたと言っても間違いではないでしょう。
 神様の約束は、王道楽土−王が正しい法によって治める理想の社会−そんな時代を想像させます。しかしそうで す。確かにイスラエルの歴史の中では輝かしい時代を迎えるわけですが、必ずしも良いことばかりではありません。ただその後の苦難の歴史をイスラエルは歩ん だので、後の時代の人々もそのように考え、ダビデの王国の再来を願ったのでした。そうです、ダビデの家が永遠に続くというお約束はイエス・キリストに向け て語られているのです。 

(王道楽土:王道によって治められる、楽しく平和な国 土。) 


7章 救済(きゅうさい)計画(けいかく)

「あなたの家と あなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」16節 

 このダビデ契約はアブラハム契約とならんでキリス ト来臨を預言するものとなっています。新約聖書マタイの福音書の書き出しを思い出してください。あの無意味に思える長い系図はこの神様のお約束の成就を示 そうとしているのです。神様は人類を罪と死から救い出すために永遠の救済計画をお持 ちでした。これが聖書全巻を貫く糸です。メシヤ(救世主)はダビデの子なのです。そしてその王国とはキリスト によってもたらされた神の国にほかなりません。
 ダビデの感謝の祈りに学びましょう。神 の家を建てたいと願ったダビデに神様は逆にあなたの家を建てようと言われたのです。そうです、私たちは神様のご栄光の不足分を満たすことなどできません。 できると言うなら、それは冒涜です。この方は天地の創造者なのですから。ただ神の恵みに圧倒されて感謝の祈りを捧げるダビデ。それは私たち信仰者の姿にほ かなりません。私たちはただ恵みによって救われたのです。それも尊い御子の血潮、いのちによって。 

(救済計画:神が人類を救うためにお考えになったキリス トによる救い。)  


8章 連戦(れんせん)連 勝(れん しょう)

「このようには、ダビ デの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」14節後半 

 ダビデは連戦連勝、周囲のあらゆる敵に勝利し領土を広げます。イスラエルはダビデ、ソロモンの時代に最 も広い領土を手にします。北はダマスコ、南はモアブやエドム、西はペリシテ、東はアラムやアモンです。これはモーセが預言し、ヨシュアによって攻め取るよ うにと神様から言われた約束の地を網羅していました。また国内の体制も整います。王は司法、行政を担います。そして軍隊の総司令官はヨアブです。また今で 言う内閣官房長官はヨシャパテです。しかし立法は違いました。王でも犯すことのできない律法が厳然として存在するのです。祭司としてツァドクとアヒメレ ク、そうイスラエルは神政政治を行ないます。主への信仰が国の支えでした。
 一昔前には存亡の危機にあったイスラエ ルはこうしてパレスチナの盟主となります。王国は安泰です。イスラエルの黄金時代を迎えたのです。後に弟子たちはキリストに尋ねます。今こそ、イスラエル のために国を再興してくださるのですかと。違うのです。神が私たちにもたらされる神の国は政治的なものではありません。私たちの心の中に、また私たちの社 会に、そして世界中に福音によってもたらされる神のご支配を言うのです。力と富による支配ではなくて、神の愛による支配です。 

(連戦連勝:何度も戦ってそのたびに勝つこと)


9章 誠心(せいしん)誠意(せいい)

「このしもべが何者だというので、あな たは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」8節後半 

 ダビデはヨナタンとの約束を忘れませんでした。ダ ビデが最も辛かった時、わが身の危険を顧みず助けてくれたのがヨナタンでした。その時、二人は互いに約束をしました。というよりも当時は下位者であるダビ デに向かって、ヨナタンはダビデが王となったときに自分の子孫に恵んでくれるようにと願ったのでした。まるで将来(この時)を見てきたかのようでした。ヨナタンの息子はメフィ ボシェテ、足の不自由な人でした。戦乱の世にこの障害は致命的でした。武将として戦うことができなかったのです。逆にこのことが彼を守ったのかもしれませ ん。それまでサウルの家系だからといって問題にされることはなかったのです。
 ダビデの命で王宮に呼ばれた彼は恐れま す。何と言ってもサウルの直系だったのですから。しかしダビデは優しく語りかけ、財産を戻し王宮で暮らすことをゆるします。誠心誠意ヨナタンとの約束を果たしたのでした。でもどうでしょう。前王の血筋を近くに置くこと は余りにも危険ではないでしょうか。平氏が滅びたのは憐れみをかけてやった源氏の嫡子によりました。メフィボシェテには子供もいたのです。でもダビデは神 様の約束をいただきました。尽きることのない神の憐れみがほめたたえられています。 

(誠心誠意:まごころのこと。誠をもって相手に接する正 直な心) 


10章 宣戦(せんせん)布 告(ふこく)

「そこでハヌンはダビデの家来たちを捕 え、彼らのひげを半分そり落とし、その衣を半分に切って尻のあたりまでにし、彼らを送り返した。」4節 

ダビデとアモン人との間には友好関係がありました。 サウル王家とは敵対関係にあった民族ですから、ダビデは荒野の放浪時代に何らかの援助を得ていたか、和平協定を結んでいたのかもしれません。彼はお悔やみ を言うために遣いを送ります。しかし新王は愚かにも家臣の虚言を受け入れるのです。ここでダビデの家臣に加えられた侮辱は、挑発行為というよりも、和平協 定を捨て去り、宣戦布告したとみなされます。ダビデは家臣たちが恥じることのないよ うに、しばらくエリコに留め置くことを命じます。
 アモン人は多くのアラムの傭兵を雇い入 れます。イスラエルは大群に挟み撃ちをされる格好となります。ヨアブは精鋭を引きつれアラム陣営に切り込みます。アラムの傭兵たちの士気は高くありませ ん、一目散に逃げ出すのです。それをみてアモン人も退散しますが、ヨアブは深追いをしません。兵力は圧倒的に不利でしたから。次にアラムが団結して攻め寄 せてきますが、もうダビデの敵ではありませんでした。しかし続く勝利の中で、ダビデは大変な過ちを犯すことになります。 


11章 極悪(ごくあく)非 道(ひどう)

「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残 してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」15節後半 

ダビデが極悪非道と呼ばれようとは誰が想像したでしょうか。あるいは、君子豹変と言えるでしょう。ダビ デはここで十戒の後半の罪を全て犯したことになります。殺人、姦淫、盗み、偽証、貪欲です。もちろん最初からそうではありませんでした。行水中のバテ・ シェバを見て、情欲にかられたのでした。部下の妻だと分かっても彼は分別を失ってしまいました。貪欲に始まり、姦淫、盗み、偽証、殺人と坂を転げ落ちるよ うに罪に染まっていきました。私たちの内に巣食う罪の性質を侮ってはなりません。
  油断がありました。戦闘が小休止し一 人、都に戻った時の出来事だったのです。ダビデの悪に対してウリヤの高潔さは際立っています。彼は王と、上官ヨアブや同僚たちに忠誠を尽くします。外国人 だったことも彼を懸命にさせたのでしょうか。とすれば一層悲哀がつのります。それ故に、彼に託された手紙に本人の殺害が命じられていたとは決して許される ものではありませんでした。彼はそれを胸に抱いて戦地へ持ち帰ったのです。しかし、この章最後の言葉は私たちの襟を正します。「ダビデの行なったことは主 のみこころをそこなった。」 

(極悪非道:この上なく悪く、人の道にはずれている・こと(さま)。) 


12章 自縄(じじょう)自 縛(じばく)

は生きておられる。そんなことをした男 は死刑だ」5節後半 

 ダビデは一体誰に向かってそう言ったのでしょう か。羊をだまし取った男に対する刑罰は羊を四倍にして償うことです。極刑にはあたらないのです。そうです、無意識の内にダビデは自分自身にその刃を向けて いたのでした。自縄自縛、彼の良心もまた自分の犯した罪を赦すことはできなかったの です。ナタンはそれを明らかにします。「あなたがその男です。」神の言葉は私たちの真実の姿を示します。どんなに自己弁護をし、自分をごまかそうとしても だめです。自分の罪を認めるまで聖霊と御言葉は追いかけてきます。
 ダビデは王でしたからどのようにふるま うこともできました。家来に命じてナタンを打てと言うこともできたのです。しかしそうはしませんでした。一国の王が預言者の前に跪いたのでした。人間に とって何よりも難しいことは自分の罪、過ちを認めることです。ダビデは本当に恐ろしい罪を犯しましたが、彼の偉大なところはここで心底悔い改めたことで す。「私はに対して罪を犯した」罪とは神のみ心に対する反逆なのです。ところであなたにはナタンのような友がいます か?その人こそ本当に大切な人です。 

(自縄自縛:自分の縄で自分を縛ること。自分自身の心がけや行動によって、動きがとれなくなり、苦しむことのたと え。)


12章 信仰(しんこう)義 認(ぎにん)

「ダビデはナタンに言った。‘私は主に 対して罪を犯した。」13節前半 

 ダビデは赦されました。神はダビデの罪を赦したの です。謝ればどんなことでも赦されるのか!そんな非難の声が聞こえてきそうです。いいえ謝罪が赦しの理由ではありません。神の憐れみがそれなのです。現に ダビデは辛い罪の刈り取りをしなければなりませんでした。赦されたダビデは再び神との交わりを取り戻します。それまで彼は苦しかったのです。罪は神との間 の仕切りとなって彼は神の恵みから遠く離れてしまっていたからです。偽りの生活は何の満足も平安をも与えてはくれません。
 子供を助けてくださいという祈りは聞き 入れられませんでした。しかし、神様はバテ・シェバ(ダビデの妻とある)に男子を与えられます。神の憐れみがここにもありま す。約束の子の誕生でした。以前は罪を責めるためにやってきたナタンは次には神の恵みを伝えるためにやってきます。私たちもまたこの神の憐れみによって罪 が赦されて永遠のいのちをいただくことができます。信仰によって義と認められるのです。偉大な信仰 義認の教理です。自分の罪を認め、キリストの救いのみ業を信じるなら救われます。赦されない罪はありません。どんな罪でも赦されます。ただ 救いを拒むことを除いては。 

(信仰義認:キリストを信じる信仰によって義とされること。キリストの義が転 嫁されることによって神の子とされること。)


13章 ()薪嘗 胆(しん しょうたん)

「アブシャロムは、アムノンにこのこと が良いとも悪いとも何も言わなかった。」22節前半 

 ダビデの隠れて行なった姦淫と殺人が、人々の目の前で、それもダビデの子供たちの中に 引き起こされます。母違いの妹に恋した王子アムノンはタマルを辱めて、こともあろうに家から追い出します。その行動はまるで幼児のようでした。妹の悲しむ 姿をみて兄のアブシャロムはじっと黙って仕返しの機会をうかがいます。こちらの王子は策略家でした。2年間何のそぶりも見せずに臥薪嘗胆、その時が巡ってきました。刈り入れの祝に王を招いておいて、アムノンを代理としてよ こすように言うのです。アムノンは殺され、人々は大声で泣き悲しみました。
 この事件にはダビデの放任にも大きな責 任があります。アムノンに対してきちんとした対応をとりませんでした。彼が第一王子だったからでしょうか。あるいは自分の過ち故に、負い目をかんじたから でしょうか。これが結果的には悲惨を招きます。ダビデは自分の家庭を治めることができませんでした。王としてというよりも父として接することができなかっ たのです。また、このような家庭内紛は王位継承を巡った争いと見ることもできます。野望と策略の渦巻く中で神様はどのように約束の王をお与えになるので しょうか。 

(臥薪嘗胆:復 讐のためにあらゆる苦労や悲しみに耐え忍ぶこと。成功を期待して苦労に耐えること。)


14章 疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)   

「王は言った。‘これは全部、ヨアブの指図によるのであろう。’」19節前 半 

 アブシャロムがエルサレムに戻る事になった顛末が 記されます。その橋渡しをしたのは将軍ヨアブでした。アムノンが死んだ今、王位継承はアブシャロムにと考えたのかもしれません。ひとりの女性の口を通して 王を説得しようとします。そのアプローチはナタンの場合と似ています。けれども王の対応は全く違います。ナタンは王のために命をかけて神の言葉を取り次ぎ ました。ここではその背後にヨアブの策略があったのです。疑心暗鬼になりそうです。 しかし、とうとうアブシャロムの帰還を許可します。
 なのに王は王子を赦そうとはしませんで した。謹慎を言い渡したまま、ほったらかしにします。長兄をしつけようとしなかった王は、今度は三男を見殺しにしようとします。ヨアブはその後、積極的に 働きかけようとはしませんでした。王の意向を重んじたのでしょうか。それよりもアブシャロムに不信を抱いたのかもしれません。家柄、外見、いずれも問題は ありませんでしたが、何か決定的なものが欠けていたのかもしれません。ごり押しで自由を手に入れたアブシャロムはいよいよ謀反を起こすのです。 

(疑心暗鬼:疑う心の強いあまり、何でもないことにまで不安を感じたり恐ろしくなっ たりすること。)  


15章 用意周到(よういしゅうとう)

「こうしてアブシャロムはイスラエル人 の心を盗んだ。」6節 

 アブシャロムという人は用意周到な人でした。アムノン殺害を胸に秘め、じっと待っていたように、ここでも4年間この時 に備えるのです。国民の不満を敏感に察知し、人々の支持を得ます。そう、門前に立った王子はイスラエルの人々の心を盗むのです。人心の掌握にも長けていた 人でした。それを正しい動機と目的のために使えば良かったのですが、残念ながらそうではありませんでした。アヒトフェルという参謀を据えるとダビデ王は最 大のピンチを迎えます。単に暗殺によって王位奪取をねらったのではなくて、ほころびの見えた国政の隙に乗じたところにこの反乱の根深さがありました。
 この政変は成功するのでしょうか?神は アブシャロムの側におられるのでしょうか?神はダビデをお見捨てになったのでしょうか。そうではありません。アブシャロムは真に神を恐れ敬う気持ちを持た なかったのです。ヘブロンでの武装蜂起に際して王に言った言葉の中にそれが見えます。を礼拝しに行くといって欺くのです。彼にとって信仰 とはそれだけのものでした。神様を自分の利益のためにだしにするような人に神様の祝福はありません。自戒すべき事がらです。 

(用意周到:何事にも用意がすみずみまで行き届き、手抜かりのないこと。  


15章 油断(ゆだん)大敵(たいてき)

「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、 はだしで登った。」30節前半 


 ヘブロンでの武装蜂起はダビデにとって まさに寝耳に水でした。油断大敵、敵は本能寺にありです。しかし、ぐずぐずしている 訳にはいきません。状況は思ったよりも悪かったのです。泣きながら都落ちするダビデ、踊りながら神様を賛美して都上りした姿がうそのようです。このときに ダビデと行動を共にした人々こそ、ダビデの腹心の部下と言えましょう。ガテ人イタイ、亡命者だったこの人は命運を共にします。祭司ツァドクとエブヤタルは 契約の箱をもってはせ参じますが、ダビデはそれを戻させます。信仰による判断を見失いませんでした。主がお心に留めてくだされば帰ってくる−これがアブ シャロムとの違いです。
 アヒトフェルの裏切りはダビデを不安に させます。もっとも信頼していた人物であると同時に、敵にすると一番恐ろしい人物だったのです。そこでエルサレムに先ほどの2名の祭司とその息子たち、フシャイをエルサレムに残 します。彼らの工作はうまくいくでしょか?ダビデはどんなピンチにも祈ることができました。それが長年の信仰の証しでした。 

(油断大敵:油断すれば必ず失敗の元になるから、油断を非常に警戒しなくてはならな い。)  


16章 主客(しゅかく)転倒(てんとう)

「シムイは、山の中腹をダビデと平行して歩きながら、のろったり、石を投げ たり、ちりをかけたりしていた。」13節後半 

 都落ちするダビデ/運命を共にする人もあれば、打 算をもって近づく人、あるいはこの時とばかり誹謗中傷を繰り返す人もいます。平時には隠されていた本心があらわになります。ツィバは主人メフィボシェテを 出し抜いてやってきます。先を見越して手を打ったのでした。あわよくば主人の財産を乗っ取るつもりです。中々のやり手だったようでメフィボシェテの元で使 えることに不満を抱いていたのかも知れません。ただその賢さと行動力だけは見習っても良いでしょう。食料の差し入れはダビデたちには何よりの助けでした。
 一方、シムイはしつこくダビデ一行に付 きまといながら、のろいのことばを吐き続けます。石を投げ、砂を投げつけながら侮辱するのです。王位がダビデへもたらされたため没落したサウル家の恨みを ぶつけるのです。これまでとは主客転倒しています。しかし敗軍の将は語らず、ダビデ は一切口答えしません。その上、家臣に手を出すなと命じるのです。そう彼は自分の蒔いた種を刈りとっていることを知っていました。そして神様の憐れみにす がっているのです。このような沈黙を知る人は幸いです。  

(主客転倒:主人と客が入れ替わったように、本来の立場・順序・軽重などが逆転する こと。)


16章 絶体絶命(ぜったいぜつめい)

「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることば のようであった。」23節前半 

 案の定、アヒトフェルは恐ろしいまでにこの反乱を 強固なものにしていきます。アブシャロムにダビデのハーレムを乗っ取らせることによって、もう後戻りのできない既成事実を作り上げるのです。もう和平の道 はありません。どちらかが殺されなければこの戦いは終わらないのです。すべての人々は中立ではありえません。どちらかに着かなければ生きていく道はないの です。冷徹にダビデを追い詰めていく恐ろしい姿を見ます。まるでスナイパー(狙撃者)のようにダビデだけに標準を当てているのです。彼が 立身出世と言う野望をもっていたなら違った言動が生まれたかもしれません。彼が欲しものは権力でも財産でもなく、ダビデの命でした。絶体絶命のピンチ!
 敵も味方もこのアヒトフェルの仕業をまるで神のようだと思いました。このような人間の知恵に対してどのように神は勝利されるのでしょうか。ダビデはどの ようにしてこの窮状から救われることができるのでしょうか。それは歴史を支配しておられるお方は誰かと言う問いと答えにかかっています。人間でしょうか、 あるいは神様でしょうか。
 

(絶体絶命:逃れようのない、非常に困難な場面・立場に追い詰められること。進退極 まった状態。)


17章 一世(いっせ)一代(いちだい)

「もし彼がさらにどこかの町にはいるな ら、全イスラエルでその町に綱をかけ、その川まで引きずっていって、」13節前半 

 フシャイ一世一代の大芝居です。彼もまたアヒトフェルの計画が誤りのないものであることを知っていま す。そうなると確実にダビデは討たれてしまいます。なんとかそれを思いとどまらせなければなりません。すぐに追討の手を差し向けさせなために大演説をぶつ のです。これはアブシャロムの気まぐれ、思い着きによって与えられた機会でした。これがなければクーデターは成功したでしょう。
 元々、表現力豊かな人で、人々の気持ち をつかむ術を心得ていたようです。ダビデ一行を「子を奪われた雌熊」にたとえます。自軍をライオンのような心があると持ちあげながら、「海辺の砂のよう な」国民を集めて攻撃すべきだというのです。そうすれば「露が地面に降りるように」ダビデ軍をせん滅できると言ったとき、人々はそれが実現のものと錯覚し ます。そうです。これは幻影でしたがそれを本物のように見せることに成功しました。人々はこの提案を受け入れます。大言壮語といえばそうでしょう。しか し、これらの背後には神様のお働きがあるのです。先回の問いの答えは明らかです。歴史を支配されるのは主です。  

(一世一代:人の一生のうちで、たった一度の意。特に、役者などが一生涯にただ一度きりという得意の 芸を演ずること。)

17章 博覧(はくらん)強 記(きょう き)

「アヒトフェルは、〜ろばに鞍を置き、 自分の家に帰って行き、家を整理して,首をくくって死に,彼の父の墓に葬られた。」23節 

 賢い人は先をよみます。ビジネスの世界でも5年後10年後をよんだ人が多くの収益をあげます。アヒトフェ ルの目には結果は明らかでした。余りにも博覧強記だったのです。フシャイの案が入れ られたとき、自分の終わりを知り、自ら死を選びます。そう彼は神様に負けたのです。神様と争って誰が勝つことができるでしょうか。逆に神様に降参するとき に私たちの新しい歩みが始まります。堅い自我が打ち砕かれるのです。
 案の定、アブシャロム軍がぐずぐずして いるうちに、ダビデ一行はヨルダン川を越え自軍の建て直しをはかることができました。しかし、一方は愚かさによって自滅し、一方が知恵によって勝利した訳 ではないのです。ふたりの伝令を助けたのは名もない一女性でした。ここにも神様の摂理がありました。彼らが捕まればダビデ一行はヨルダン川の手前で宿営し たのです。その後、支援者たちもそくぞくと駆けつけ、食料の補給もなされます。ダビデはよほど嬉しかったのでしょう。後々までもそれを忘れず、遺言の中で バルジライに恵みをほどこすように命じています。戦いは仕切りなおしです。  

(博覧強記:広く書物を読み、それらを非常によく記憶していること。知識が豊富なこ と。)


18章 五里霧中(ごりむちゅう)

「ああ、私がお まえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」33節後半 

 ダビデは一体何を願っていたのでしょうか?反逆児 アブシャロムを生け捕りにしたとしてもその後どうするつもりだったのでしょう。この親子の間にはもう誰も修復することのできない淵があるのです。それを承 知しながらも息子の延命を願うダビデの親心でありました。戦いはダビデ軍に軍配があがりました。数がいくら多くでも精鋭軍の敵ではありませんでした。退却 中、なんと自慢の髪を木の枝に引っ掛けてアブシャロムは宙吊りになります。私たちはどこで失敗するのでしょうか。苦手なことでしょうか。いいえ得意なこと で失敗するのです。サタンの誘惑はそうです。そんな失敗をしないために、み言葉を蓄えていなければなりません。
 ヨアブは間髪を入れずアブシャロムを討 ちます。これで戦いは止むのです。しかしそれは王の命を無視することになりました。彼のいつものやり方です。戦況の知らせを待つダビデ、一体何を吉兆と呼 ぶのでしょうか。それは勝利の知らせではありませんか。親子の内紛のために人々は命がけで戦ったのです。確かにこのダビデの嘆きのことばはそんな多くの人 々の心を踏みにじるものでした。五里霧中、一体事態はどのようになっていくのでしょ う。 

(五里霧中:霧が深くて方角がわからないように、物事の手がかりがつかめず困惑して いる状態のたとえ。)


19章 生殺(せいさつ)与 奪(よだつ)

「バフリムの出 のベニヤミン人、ゲラの子シムイは、ダビデ王を迎えようと、急いでユダの人々といっしょに下って来た」16節 

 確かにダビデが嘆き続けたなら、人心は離れ、大変 なことになったでしょう。ヨアブの言うことは的を得ていました。我に返ったダビデは人々の前に姿を現します。そしてすぐに自分の王位を守る工作に出ます。 「ユダの人々を、あたかもひとりの人の心のように自分になびかせた」まずユダ部族の支持を取り付けます。そしてイスラエルに対してはヨアブを罷免して、将 軍アマサを自軍の大将に迎えると言うのです。王位回復の手はずは整いました。神様はダビデを憐れんでエルサレムに帰してくださるのです。
 王として帰還するダビデ、再び生殺与奪の権を持のです。さあ、困った人もいます。公に罪は問わないとしたダビデですが、シム イの場合は違います。ただで済まされる訳にはいかないのです。どうすれば良いのでしょう。彼は一族郎党を引き連れてダビデを迎えにきます。そしてひれ伏し て憐れみを請うのです。それ以外に彼が救われる道はありません。ダビデは殺さないと約束します。さて、私たちの人間は神の前に同じような立場にいます。私 たちは反逆軍に寝返った裏切り者なのです。王が帰ってこられることを知ったとき、どういう態度を取るべきでしょう。一目散に王を迎えに出ねばなりません。 これが悔い改めというものです。 

(生殺与奪:生かすも殺すも、与えるも奪うも思いのままであること。他のものを自由 自在に支配することのたとえ。)


19章 因果(いんが)応報(おうほう) 

「しかしここ に、あなたのしもべキムハムがおります。彼が、王さまといっしょに渡ってまいります。」37節中頃 

さて、シムイ以外にもダビデを迎えにやってくる人々 がいます。メフィボシュテ、ツィバに出し抜かれた彼は自己弁明を繰り返しませんでした。おそらくダビデも自分の早まった決定の間違いに気づいたのでしょ う。しかし今は一人でも多くの支援が必要です。灰色の判定をくだします。しかしメフィボシェテはつぶやきません。彼は王の憐れみによって生かされていたの です。私たちもここから主に対する徹底的な献身を学びます。
バルジライ、この人はダビデを支えた人で す。エルサレムに上れば身分は保証されたでしょう。王もそれを望みました。しかし高齢を理由にそれを辞退します。いや、それよりも息子の将来を王に託した のです。因果応報という 言葉があります。聖書には前世の因縁と言う思想はありませんが、神様がそれぞれの行いに応じて報いてくださいます。良い物であれ、悪い物であれ、蒔いたも のを刈りとるのです。ダビデは遺言の中でソロモンにバルジライの子供たちに引き続き食卓に連ならせるよう命じます。彼らが王を亡命中に養ったからです。そ うです。この小さい者の一人にしたのはわたしにしたとキリストは言われるのです。 

(因果応報:よい行いをした人には良い報い、悪い行いをした人には悪い報いがあ る。) 


20章 付和雷同(ふわらいどう)

「そのため、す べてのイスラエル人は、ダビデから離れて、ビクリの子シェバに従って行った。」2節前半 

 エルサレムに帰ったダビデにはもう一つの試練が待 ちうけていました。シェバが付和雷同の10部族を扇動してダビデから離れさせて行っ たのです。敵軍の将を自軍の最高司令官に迎えると言う離れ業も効を奏しませんでした。その上、アマサは人々の信望も無く、能力も足らずユダの人々を招集で きませんでした。そこで出てきたのがまたヨアブでした。アマサをだまし討ちにするとシェバを追いますが人々は中々、加勢しようとはしません。
 この争いは元々、王家の内輪もめが原因 です。人々が外敵に襲われて防衛のために戦ったわけではないのです。ですから、シェバでさえ人々が熱狂的に迎えたわけではなかったのです。人々は同じ国民 の争いに辟易としていたのです。シェバは逃げてアベルにろう城します。ユダの大群に囲まれたこの町の運命はまさに風前の灯火でした。この危機を救い出す者 は誰でしょう。
一人の名も無い女性がヨアブを訪ねます。 そして約束するのです。シェバの首を投げ落とすと。これによって多くの血が流されずに済みました。またもダビデを救ったのは偶然に見える一女性の知恵でし た。そして人々が望むもの−それは平和です。 

(付和雷同:自分の主義主張を持たず、人の言動につられて行動すること。深く考え ず、他人の意見に簡単に同調すること。)



21章 四苦(しく)八 苦(はっく)

「アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、そ れを岩の上に敷いてすわり、〜」10節前半 

 非常にせつない母心をここに見ます。子供たちのな きがらを葬ることもできず、それでもそこを離れようともせず、ハゲタカやジャッカルが近づかないように見張り続けているのです。人の持つ苦しみを仏教では 生老病死の4つと、愛苦離別の4つをあわせて四苦八苦と言い表したそうです。この母 親以上の悲しみ、苦しみ、口惜しさは無かったのではないでしょうか。この事件は全国の飢饉の原因探しに端を発しています。サウルの罪がこれを招いたという のです。言いがかり、あるいはぬれぎぬでしょうか。
 そこには私たちには分からない神様のご 理由があるのでしょう。あるいはその子供たちもサウルの罪に加担したのかもしれません。いずれにしても彼らを人身御供として捧げよと主は言われるのです。 ダビデはヨナタンとの約束を思い出し、その子を守ります。しかしサウルの血を引く5人の人は処刑され、さらし者にされます。飢饉はそれ で終わったのでしょうか。違うようです。このリツパの行為がダビデの心を動かし、王はサウルとヨナタン、処刑された子どもたちの遺骨を丁重に葬りました。 人々は罪を嘆き恐れ、心を合わせて主に祈りました。これが神に届いたのでした。自分たちの罪を恥じてへりくだる祈りが。 

(四苦八苦:非常な苦しみ。さんざん悩み、苦労すること。)


22章 永遠(えいえん)不 変(ふへん)

「神、その道は完全。の みことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾」31節 

ダビデは多くの詩篇を作ったことで知られています。 彼の内側からは神への賛美と感謝、喜びガわき出てきたのです。まさに彼の生涯は神の恩寵なしには語ることができません。貧しい牧童がイスラエルの王となっ たのです。サウルにはつけ回され、息子には裏切られ、敵との戦いでもいのちを失いそうになったこともありました。自分の愚かさによって神の裁きと大きな災 いを身に負うことになったのです。もし神様が憐れんで下さらなければ、今立っていることはできなかったのです。
 これが彼の神を歌う原点でありました。 自分の才能を誇り、あるいは美しい詩を残そうとしているのでもありません。彼はただこんなに大きなめぐみをくださった永遠不変のお方を賛美しているのです。ただ王になったことを喜んでいるのではないのです。神は 救い主の来臨を約束してくださっているのです。救い主はダビデの子孫から生まれます。そうです。その後、約1千年後に若い貧しい夫婦がダビデの町に訪れた際に、 一人の男の子が生まれました。彼は人の住む家には場所が無く、家畜小屋で生まれるのです。 

(永遠不変:いつまでも変わらないこと)


23章 一騎(いっき)当 千(とうせ ん)

よ。私がこれを飲む など、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」17節前半 

 ダビデの勇士たちの名簿です。ダビデは優れた武将 でしたが、彼一人の力で勝利を重ねたのではありません。彼は非常に優れた部下を持っていました。まず3勇士の名が記されます。まさに彼らは一騎当千の勇士でした。多くの手柄を立てたのです。しかしこの3人が他の部下たちに勝っている 点は、それ以上にダビデのためにいつでも命をかけることができた点でした。ダビデの独り言を耳にした彼らは敵陣を突破し、王の故郷ベツレヘムの泉水を取っ てきます。ダビデは感激のあまりそれに口をつけることができませんでした。
 このような信仰の勇士が今も求められま す。キリストのために自分の命を献げても惜しいとは思わない人を。福音の宣教はそのような人々に担われてきました。しかし忘れてはならないのは、まず神様 が独り子イエス・キリストを私たちのために与えてくださったことです。神の愛と恵みが先行するのです。さて勇士たちの名簿にはこんな人々の名もあります。 ギロ人アヒトフェルの子エリアム、ヘテ人ウリヤ。バテシェバはエリヤムの娘(Uサムエル113)とあります。ダビデの過ちの大きさやアヒトフェルの 裏切りの理由が分かるのではないでしょうか。 

(一騎当千:一人で千人の敵に対抗することができること。人並みはずれた技術や経験のあるこ と。)


24章 優柔不断(ゆうじゅうふだん)

「それは私には非常につらいことです。 主の手に陥ることにしましょう。」14節前半 

ダビデは人口調査を命じます。おそらく国力を誇る思 いがあったのだろうと言われます。人は神の恵みを自分の功績や力だと勘違いするときに失敗をします。預言者を通してダビデは3つの裁きの選択を迫られます。3年間(並行箇所では7年が3年になっている)の飢饉か、3ヶ月のクーデターか、3日間の伝染病です。いずれも国力を疲弊させ、国家を 揺るがす大事となります。ダビデは決断ができません。はじめて見せる優柔不断な姿で す。
 それもそうでしょう。良い物を選べと言 われれば喜んでそうしますが、嫌なものは選びたくはありません。結果的に伝染病が蔓延します。国民の苦しむ姿を見てダビデは叫びます。私と私の家族に災い を下してください。アブシャロムの政変が余りにも苦い思い出となって、これを選ぶことができなかったのでしょうか。主は民の祈りと王の願いを聞いてこれ以 上の災いを思い直されます。ダビデはアラウナの打ち場を買い取って礼拝をします。何とこの場所はその後、神殿建立の場所となるのでした。私たちの失敗を神 は礼拝へと変えられます。思い出したくない経験や苦しみを賛美に変えてくださるのです。 

(優柔不断:ぐずぐずしていて決断の遅いこ と。決断力に乏しいこと。)


Uサムエル

01急転直下 02紆余曲折 03私利私欲

04是々非々 05天下統一 06画竜点睛

07-1王道楽土07-2救済計画 08連戦連勝

09誠心誠意 10宣戦布告 11極悪非道

12-1自縄自縛12-2信仰義認 13臥薪嘗胆

14疑心暗鬼 15-1用意周到15-2油断大敵 

16主客転倒 16-1絶体絶命17-1一世一代

17-2博覧強記 18五里霧中19-1生殺与奪

19-2因果応報20付和雷同 21四苦八苦 

22永久不変 23一騎当千 24優柔不断