ミステリ研活動日誌! おためし版
C73冬コミ出展作品
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プロローグ


 気がついたら小人さんになっていた。
 そんな経験はないだろうか?
 ねぇよ、と一笑に付されそうだが、いまここに、まさにそうなってしまった少女が一人。
「これは…ミステリーはミステリーだけど……」
 山吹色の髪を二つに束ね、ほっそりしている割にメリハリのきいたボディを赤いセーラー服に包んだ、ちょっと猫目の女の子。
「でも……ちょー迷惑なんよーっ!」
 不思議な表情の髪留めは、俗世からの解脱か単なる変人か。
 我らがミステリ研会長、笹森花梨その人である。


 時は遡り、一時間前――。
 たしかに学校に存在しているはずなのに、誰もその活動はおろか、部室がどこかも誰も知らない「オカルト研究会」。その謎を求め、あからさまに怪しい割には誰も近づこうとしない、視聴覚室横の「使われていない」部屋に、"やんごとなき手段"で侵入した笹森花梨の姿があった。
 薄暗い部屋の中、目が慣れてくるにつれて、徐々に全容を現すその情景。
『うわー……。雰囲気抜群〜』
 何に使うのか知れない道具や、色とりどりの液体を内包した瓶、見たことのない文字でタイトルの書かれた古い書籍に、忘れ去られたかのようにぽつんと机の上に置かれた三角帽子――。
 壁には磨かれた長剣や、くたびれたローブ、ペイガンイヤーの図面がかけられ、部屋の隅には手を回しきれないほどに大きな釜。
 疑う余地もない、オカルト研究会の部室の風景がそこに広がっていた。
『……ペンタグラム……タロット……ウィッチズアルファベット表……、ルーンストーンに紫水晶もあるし、マジックワンドも本格的〜。いいなぁ、ウチの部室にもほしいなぁ。でも……』
 ふと、胸に沸き起こる疑問。
 これだけの品揃えに、いかにもという装飾の部屋なのに…
 そこには、人の存在感が欠片もなかった。
 部室とは、人の思い出が宿る場所。
 例え無人の状態であったとしても、部活動中のさざめきや笑い声が、柱時計の鐘の音のように残っているはずなのに。
 そこには、何の気配も、生活感も、生命感も、存在してはいなかった。
『やっぱり部活……誰も在籍してないのかなぁ』
 たしかに学校に存在しているはずなのに、
 誰もその活動はおろか、部室がどこかも誰も知らない「オカルト研究会」。
 部員が誰かも、誰も知らない。

 いや、正確には――
 部員数は、0。
 誰一人、存在しない。

『指輪…?』
 しばらくあれこれと物色していた彼女は、机の引き出しの中から、一輪の指輪を見つけ出した。
 それは、古びた指輪。
 エスニックな装飾が施された年代もので、ところどころ錆が浮いているが、かもし出す雰囲気は何やら妖気漂うような、そんなミステリチックな指輪だった。宝石だろうか、六角形にカットされた透明な石があしらわれている。
『ふーん? なんとなく雰囲気あるよねー。でも、こんなの誰が持ってきたんだろう?』
 とりあえず、部員は誰もいないことが少なくとも建前上は保証されている。
『いいや、もらっちゃえ』
 ならば誰のものでもないだろう…と、百パーセント勝手な言い分を指輪にまぶして、壊れてしまった扉の鍵もそのままに、ミステリ研部室に持ち帰ってきたのが三十分前のこと。
 その後、手持ちの文献を適当に漁ってはみたものの、該当するらしい指輪の写真やイラストは発見できず、結局、指輪の正体は特定できなかったのだが――。
『まぁ、いっか。ミステリっぽいアイテム、ゲット〜ってことで。ミステリ研会長がこういうのを嵌めてるってのも、雰囲気あって良いよね』
 持ち前のポジティブさ(人、それを楽観という)を発揮して、深く考えずにその指輪を左手の中指に嵌めた途端、まばゆい閃光が部室を包み――
 再び目を開けたときには、小人さんになっていた。

 再度問おう。気がついたら小人さんになっていた、そんな経験はないだろうか?
 ないですか、そうですか。

 ガチャッ

 と、おろおろする笹森会長の耳に、部室の扉を開ける音、一つ。

「あれ? いないな……。なんだ、笹森さんもう帰っちゃったのか。やっぱちょっと遅かったかな」
 見ると、同じミステリ研の会員・河野貴明が部室の扉を開けて立っていた。
「タカちゃん!」
 泣きたくなるような状況の中に現れた貴明に、一縷の光を見出して、精一杯の声で名を呼ぶ花梨。
「え?」
 身体が小さくなっているせいで声量もその分少なくなっていたが、何とか貴明の耳にその声は届いたようだ。
「おかしいな、笹森さん……の声がしたような……」
 もちろん、貴明にしてみれば、部室の中には誰もいないように見える。
 無理もない。扉を開けたら会長が小人になっていたという状況は、普通ありえない。
「ここ!ここだよタカちゃん! 椅子の上だよぉ! 私の椅子の上!」
 いつも座っているパイプ椅子の上から、必死に声をあげる花梨。
「椅子? なんだ? 笹森さんまた何かヘンなイタズラでも…」
 声に応えて机を回り込み、いつも花梨が座っている椅子の上を確認する貴明。
「……………………」
 絶句。無理もない。
「タカちゃん! もう〜待ってたんよ〜。なんか小さくなっちゃって困ってた……」
「……帰るか」
「おい!」
 いきなり帰ろうとする貴明。
 最近疲れ気味だからなと、幻覚のせいにしようとした彼を誰が責められるだろうか。
 だが、まさにこれが、始まりであったことは改めて言うまでもない。

 そう、これは一人の少女と、その仲間たちが体験した、不思議な魔法の物語――




第一章 花梨と魔法とソロモンの指輪



 このソロモンの指輪はのちの魔術文献にもたびたび登場するもので、ペンタグラムと四つの石がはめこまれたものだとされる。あるいは、聖四文字と呼ばれる、四字からなるユダヤの唯一神ヤハウエの名だったとも、ユダヤ神秘主義の権威ショーレム博士は推察している。
                ――――「魔導書 ソロモン王の鍵」編著:青狼団


     1


「で、なんでそんなことになってるわけ?」
 相変わらず雑然とした静寂に包まれている体育館片隅の第二用具室。その中央にでんと設置されているテーブルの上に、何か冗談のように小さく縮んでしまったミステリ研会長。現在の身長はおよそ十五センチくらいだろうか。好事家が集める人形ほどのスケールである。
 その小さな会長を前に、とりあえずそうなった原因を質している河野貴明であるが、質されている花梨の側にも、明確な原因について思い当たるフシはないようだった。
「うーん、なんでって言われても…。少なくとも日ごろの行いは良いはずだから、天罰とかじゃないことは確実なんだけどなぁ」
「…………」
「なんで黙るの?」
「いや、ちょっと眩暈が。そうか、天罰ってホントにあるんだなぁって」
 そう言って、こめかみの辺りを押さえてうめく貴明である。
 彼にしてみれば、何となくそれで片付けられそうな説得力を持つ思い出が一杯なのだ。
「だから、天罰じゃないってば! これはそう! 宇宙人の陰謀なんよ!」
「また?」
「またって失礼な! いい?タカちゃん! よーく考えればわかることだよ? まず第一に、私たちはミステリ研究会の会員である」
 そう言って、びっ、と指を立てる花梨。自説を語る時の彼女の癖である。
「それで?」
 現状把握に必要な材料もないことだしと判断したのだろうか、とりあえずは彼も小さな会長の演説に耳を傾ける。
「第二に、私たちはUFO探知機を製作した」
 以前に作成した、目覚まし時計と方位磁石の合成物を思い出して、苦笑する貴明。結局、外を歩いていた同級生に誤作動で一回だけ反応してからこっち、ベルはまったく鳴っていない。
「ああ、まぁ……」
「以上!」
 そしていきなりの終了宣言。
「以上かよ! 二つしか論拠がないって言うか、どっちも論拠ですらないだろ!」
 これで宇宙人陰謀説が成り立つなら、ダ・ヴィンチの謎はさしずめ地底人の予言か何かだろうか。
「なんでよ! この二つで状況証拠はばっちりでしょ! ミステリ研の目的、それは宇宙人の地球侵略を阻止するためだって言うのは前に説明したよね?」
「なんだそれ、初耳だぞ!」
「今も刻々と月の裏側で軍事基地の建設を進めていると推測される、大熊座第四十七番星第三惑星人。その地球侵略計画の一環である地球への調査艇を捕捉するべく、わがミステリ研究会が独自に製作したUFO探知機の探査精度を脅威に捉えた彼らが、敵の戦闘能力を無力化するために、レジスタンスのリーダーであるこの花梨ちゃんをミニマム化したと考えれば、全てのつじつまが合うんよ! その証拠に、私を巧妙に誘導してオカルト研究会の閉ざされた扉を開けさせ、この怪しげな指輪を嵌めさせたの。そして、哀れなミステリ研会長は、こんな変わり果てた姿に……。以上が、私の立てた仮説。ううん、推理よ。これにて、QED」
 Quod Erat Demonstrandum。"証明終わり"の意味を持つラテン語であり、推理作家エラリー・クイーンの著作でおおいに有名になった言葉である。
「いやいやいや! ぜんぜん証明終わってないから。ていうか大熊座って、それるーこの話? あと、いつからウチの研究会はレジスタンスの中枢になったわけ? それと、オカルト研究会の部室って、視聴覚室の隣の部屋の? 鍵が壊れてたって大騒ぎになってたの、笹森さんの仕業かよ! だいたい指輪って何だよ、まさか無断で持ち出したの?」
 推理はおろか、仮説と言うのもおこがましい。さすがの貴明も呆れて詰め寄る。
 しかし、当の花梨はといえば、しれっとした様子で「ちっちっち」と舌を鳴らして貴明を制している。余裕綽々だ。
「そんな、いっぺんに質問されても困るなぁ。若いから先走っちゃうのはわかるけど、焦らずにひとつずつ、ね?」
「……じゃあ、まずひとつ聞く。指輪って?」
「これ」
 そう言って、花梨は自分の指に嵌められた、あの怪しげな指輪を見せる。とはいえ、指輪も身体に合わせて小さくなっているため、少し離れるとよく見えない。
 仕方ないので、ぐぐっとミニチュア会長に顔を寄せる貴明。
「た、タカちゃん……。もう、学校内でちゅーを迫るなんて、だ・い・た・ん♪」
「ちっ、違うっ!」
「でも、ごめんね? こんなに小さくなった花梨ちゃんじゃ、タカちゃんの若い憤りを静めてあげることはできないの…」
「だから、違うって! いいから、指輪見せてよ!」
「もう、照れ屋さんなんだから♪ はい、これだよ」
 精一杯手を伸ばして、指輪がよく見えるように調整する花梨。
 とりあえず、細かい模様までは判別できないものの、左手の中指に透き通った石の入った指輪が嵌められているのが、貴明にも確認できる。
「……何? これ」
「オカルト研の部室にあったのを持ってきたんだけど…」
「やっぱり無断持ち出しかよ!」
「調べてみたんだけど、これがなんなのかちょっとよく判らないんだよね。で、とりあえず嵌めてみたら、いきなりピカーって光って……」
「……で、気がついたら小さくなっていた?」
「そうそう!」
「じゃあ、明らかにそれが原因じゃないか! なんだよ、宇宙人の陰謀って」
 先ほどの不毛なやり取りを思い出し、貴明ががっくりと肩を落とす。
「だーかーらー。この指輪を嵌めさせたということが、宇宙人の陰謀……」
「絶対ない絶対ない、ぜーったい、ない」
「そんなに力いっぱい否定しなくてもいいじゃない!」
「とにかく!」
 露骨に不満そうな花梨を制して、びしっと指輪を指差す。
「嵌めて小さくなったんなら、とりあえず外してみれば元に戻るんじゃないの? ていうか、最初にそれ考えようよ!」
 建設的な意見である。少なくとも、現状それ以外に打開策は考えられないであろう。しかし、小さなミステリ研会長は何か九九の七の段を覚えられない小学生を前にして途方に暮れる教育ママのように「ふぅ」とため息をつくと、「判ってないないぁ、タカちゃんは」とばかりに哀れな会員を見る。
「な、なんだよ……ため息なんかついて」
「そんなことくらい、私だって最初に考えたよ。でもね、重大なことをタカちゃんは忘れてるよ」
「重大なこと?」
「そう。タカちゃん、テレビとか漫画とかで見たことない? 小さくなっちゃった女の子が、元通りに大きくなった瞬間何が起こるか…」
「何が起こるか? えっと…」
 言わんとすることがよく判らなかったので、斜め上を向いて「うーん」と唸る貴明。
 しかし、いろいろと想定される場面を思い浮かべてはみたものの。いまいちこれといったものが見あたらず、結局よく判らなくて「さあ?」と返した。
「元に戻るだけじゃないの?」
「もう、タカちゃん、想像力に乏しすぎ! いい? 女の子の身体が次第に大きくなる、でも、服がそのままだったら?」
「服? そのままだったら……」
 貴明の脳裏に、次第に大きくなっていく花梨のイメージが沸く。元に戻る身体。しかし、服のサイズが変わらなければいずれぱつぱつになり――
「……えっと、まさか」
「そう! そのまさか! どんどん大きくなる身体に耐え切れずに、服は弾け飛んじゃうの! 後には一矢まとわぬ、か弱い女の子の姿が!」
「…………」
 しばし無言になる貴明。頭の中には今言われた情景がもやもやと。言われた情景とは、つまり生まれたままの姿で恥ずかしがっている笹森花梨の姿である。
「……なるほど」
「わかった?」
「う、うん。確かに、それはまずいかも……」
「もう〜。これだけ説明してようやくだなんて、タカちゃん鈍すぎ〜。もうちょっと女の子のあれこれに気を配らないと、この先ぜったい苦労す……はっ!」
「何?」
「ま……まさか、タカちゃん、全部わかってて?」
「へ?」
 ずざざっ、と飛びのく花梨。
「も、もう、タカちゃん! 人が悪いよ? 私を騙して指輪を外させて、びりびりに服が破れて悲鳴を上げる美少女の痴態を鑑賞しようだなんて!」
「なっ……」
「そ、そりゃあ、タカちゃんも男の子だし、私ってばこんなにキュートさんだし、女の子のそういう場面を見たいって言う気持ちも判るけど……。ここは学校で、私たちはクラブ活動中で、それに、まだ早いんよ。私たち、高校二年生なんだよ…?」
 何やら頬を染めてうつむき、両手を腰の前で合わせてくねくねと身体を身悶えさせながら恥ずかしい妄想を口にするミニ花梨。おおかたぴんくの妄想全開なのだろう。
「いやいやいやいや! ちょっと待ってよ!」
「で、でも……。タカちゃんが、どうしてもって言うなら、私……。ああ、でも、やっぱり恥ずかしいよ。全部はダメ。ほんの少しだけ。その……、ちら、って言うくらいなら、いいのかな、いいのかなぁ。ど、どうしよう、私、タカちゃんに襲われちゃうよ」
「だから、違うってば! 見られたくないなら外に出てるし、上着も置いていくから! それか体操服とか持ってくるよ! 笹森さんのヘンな場面とか、ぜんっぜん想像してないから」
「…………」
「な、なに?」
「……タカちゃんのバカ」
「なっ、なんで!?」
 何か突然不機嫌そうに頬を膨らませる花梨に慌てる貴明。彼が女心を読めるようになるまでには、まだ多くの経験値が必要なようだ。
「……まぁ、このまま小さくなっててもお家に帰れないし。とりあえず外してみるよ。悪いけどタカちゃん、体操服持ってきてくれる? 私の教室のロッカーに入ってるから」
「あ、うん、わかった」
 ――と、そう言って貴明が部屋を出ようとした矢先

  コン、コン

「え? あ、えっと……」
 不意に響いたノックの音。この状況で来客などまったく想定していなかったため、二人ともどうして良いか判らず、拒絶の返答に躊躇してしまったのが運の尽き。がちゃっと扉を開けて、制服姿の男子学生が部室に入ってきた。
  見ると、貴明の親友にして悪友、向坂雄二である。
「ちーす。ちょっと失礼するぜ」
「ゆ、雄二? あ、ちょ、待……」
 慌てて花梨を隠すように立ち位置を変える貴明。幸いというか、少なくとも見つからずには済んだらしく、戸口に立ったままの雄二は特段何かに気づいた様子もなく、こちらに声をかけてきた。
「よっ」
「な、なに? どうしたんだ、珍しいじゃないか」
「あぁ、ちょっとお前んとこの部長さんに用が……って、どした? ヘンな顔して」
「え? ああ、いや、別に何でも。はは。…で? 用って? 笹森さんならいまいないけど」
「あー、そうみたいだな。まぁ、別に急ぎじゃないから良いんだけどよ」
「あ、ああ、そうなの? はは、じゃあ、外にいって話を聞こうか」
 一刻も早くこの場から離れたいとばかりに、貴明は部室から雄二を連れ出そうとする。
  が、雄二にしてみれば、別に外に行く必要はどこにもないわけで、友人のおかしな行動に途端に怪訝な顔になる。
「あ? いや、別にここで良いんじゃねえの? その内戻ってくるんだろ?」
「いやいや、笹森さん、今日は部活休みだから。俺もそろそろ帰ろうかなって思ってて」
 無論、貴明にしても、ここで引き下がるわけには行かない。背後には人間とは思えないサイズのミニマム・ガールが鎮座ましましているのだ。見つかったら何を言われるか判ったものではない。
「そうなのか? ふーん……。じゃ、まあ今度にするか」
「そうそう! じゃあ行くか」
 何とか成功したか――と、ほっとする貴明。しかし、一瞬の油断が命取りになった。
「まぁ、でも急いで帰る事もねえだろ。ちょっと休ませろや」
 突然きびすを返して、先ほどまで貴明が座っていた椅子に座る雄二。不意を衝かれた格好の貴明がガードする間もなく、彼の視界にテーブルの全貌が入り込んでしまう。
「ああっ!?」
「ちょっち失礼、な」
 しかし、予想していた反応とずいぶん違い、特にテーブル上のミニチュアに驚いた様子はない。ごく普通にパイプ椅子に腰を下ろしたままだった。
「……えっと……?」
「しっかし、相変わらず雑然としてるっつーか、さすがは体育倉庫っつーか……」
「ゆ、雄二?」
「あん?」
「あぁ、いや、えっと…」
 想定外の反応に、逆にうろたえる貴明。
「お、驚かないのか?」
「何が? 部屋が汚えのが?」
「いや、えっと…」
「?」
 雄二の視線が、貴明の視線を追ってテーブルの上へと向く。
 そこには、胸の前で手を組んで、ちょっと内股にポーズを決めて静止した笹森会長。息も最小限に抑えて可能な限りぴたりと静止し、人形のフリをしようとがんばっている花梨の姿があった。何となく可愛らしいポーズなのは、彼女の精一杯の見栄であろうか。
「あ? ああ……。これ? フィギュアか。いまどき珍しくもないだろ」
「へ? フィギュ……あ、ああそうそう! それ! フィギュア!」
「あ、ああ……。フィギュアだな?」
 渡りに船とばかりに"フィギュア"という単語に飛びついた貴明とは裏腹に雄二は怪訝そうな目をする。が、不意に何かひらめいた様子で、今度はにひひと妙な笑いをもらし始めた。
「ははぁ、さては、お前」
「な、なんだよ?」
 ばれたか?と思う貴明だが、悪友の言葉はこれまた予想外のものだった。
「このフィギュアで、ヘンなことしてただろ!」
「なっ!」
 絶句する貴明に近づいて肩を抱き、うんうんと何やらひとり雄二は頷いている。
「いや、なぁ、さすがにその趣味自体はよく判らねぇけどな? でも、あれだな、なんていうか安心しろよ。別に軽蔑したりはしねぇから」
「ち、ちがっ…」
 どうやら彼の脳内では、貴明=フィギュア萌え、の方程式が成立したようだ。抗議の声をきれいさっぱり無視して、卓上のフィギュアに手を伸ばす。
「あ、ちょっと待…」
 制止の声や遅し。雄二は無造作に花梨の身体を掴むと、ひょいっとそれを持ち上げた。瞬間、急激な負荷のかかった花梨の口から『うぐっ☆』と声が漏れる。
「ふんふん、これが貴明の心の恋人ちゃんか。なるほどねぇ〜」
 しげしげと"花梨ちゃんフィギュア"を鑑賞する雄二。くるりと回して背中を見たり、頭をちょいちょいと指先でつついたりして、何やらご満悦そうだ。その度、『きゃ☆』とか『くはっ☆』とかいう呻き声が手の中のフィギュアからもれるのだが、声量が小さくなっているせいか、今のところ気づく様子はない。
「お、おい、雄二!」
「へぇ〜なかなかよくできてんな。なんていうか柔らかいし温かいし、髪の毛もふさふさしてるし、本物みてえだ。今時の人形ってスゲェなぁ」
「あ、ああ。高かったんだよ、それ。はは……最先端技術だから」
「ていうかアレだな。お前んとこの部長にそっくりじゃんか」
「へ?」
「おいおい、なんだおまえ笹森にご執心だったのか! 水くさいぞ、教えろよそう言うことは」
「い、いやいやいや! 違うって、違う違う!」
「いいっていいって、ちゃんと内緒にしといてやるから。しかしまぁ……。好きな女のフィギュアとはなぁ? オーダーメイドもこんだけ徹底すりゃ一芸モンだぜお前」
「だから違うって!」
「あれだろ? 毎晩、こいつを抱いて寝てんだろ? ったく、こんな人形買う金があるんだったら、アクセのひとつでも買ってやれっつの」
「だから……、ああもう! もういいだろ、返せよ!」
「まぁまぁ。まだお約束をしてないしな」
 そう言って、花梨ちゃんフィギュアを左手に持ち替える雄二。再三の負荷に、またも『ひゃあっ☆』という声が上がる。
「……なんかさっきから変な声が聞こえねぇか?」
「い、いや、ぜんぜん! ていうか、何するんだよ!」
 いつバレないかハラハラしっぱなしの貴明の問いに、雄二は何やら下卑た笑い声を上げる。
「へっへっへ、そりゃ、こういう人形を手にして男がやることっつったらひとつだろ」
「ひとつ?」
「スカートめくり〜」
 言うが早いか、雄二は小さなスカートの裾を器用につまむと、ぺろっとめくりあげた。途端に、清潔な下着に包まれた花梨の腰が露になる。
 ――ここで、悲鳴をグッとこらえた花梨に、どうか温かい拍手を送ってあげていただきたい。
「な! おい!」
「おほ〜。白か、良いねぇ」
 要するに、雄二の言う"男がやること"とは、人形の服を剥いで、中身をあらためることらしい。所々に小さな花の刺繍をあしらった純白ぱんつに目を輝かせつつ、今度は裏返してお尻のふくらみ具合を確認している。
「……な、なんつーか、すげーリアルだなこれ」
 絶妙なラインのヒップを前に、さすがに言葉を失う雄二。
 無理もない、スケールは小さくなったがディテールには変化がないのだ。小作りではあるが、それでも女の子の柔らかさをいっぱいに秘めたヒップは、男の理性を粉砕する威力充分。それが"清純"を体現するかのような白いぱんつに包まれている様は、あたかも『た・べ・て♪』と耳元で囁かれているかのような錯覚を催すほど蟲惑的である。
 いかにミニマム化しているとはいえ、破壊力は折り紙つき。うぶな中学生なら、この状態でも暴発しかねないだろう。
「ば、ばか、やめろ! お前自分が何やってるか判ってんのか!?」
 とんでもない行動に出た悪友の肩を掴んで、ぐっと詰め寄る貴明。彼にしてみれば目の前にいるのは紛れもない本物の女の子なのだ。無味乾燥な人形では決してない。スケールが縮小されているから表面上はそう見えないが、実際にはハレンチ行為まっしぐらだ。
「何って、人形のスカートめくってる。……おいおい、このくらいオタク野郎じゃなくっても、人形を前にすればやるだろ? 男なら」
 しかしながら雄二にしてみれば、いかにリアルだとは言え、目の前のそれは"お金で買える人形"という認識である。
「い、いや、そうかもしれないけど、でも……」
「別に壊しゃしねぇって。上着は……、さすがに無理に脱がすと破れそうだな、こりゃ」
 全裸にしてみたかったのか、上着に手をかけようとする雄二。しかし、対象が小さすぎて壊しかねないと判断したのか、どうやら諦めたようだ。
 が、それでも完全に脱衣を諦めたわけではないようで、今度はめくったスカートの中身に指を伸ばしていく。
「じゃ、まあ、ぱんつだけでも脱がしてみっかな」
「なっ! ちょ、ちょっと待てって! ていうか返せ!」
 とんでもないことを言い出す友人に、慌てて掴みかかる貴明。さすがにこれ以上の暴挙は見過ごすわけにはいかず、必死に雄二の手から花梨を奪い返そうとする。
「お、おい、落ち着けって! わ、ちょ……う、わっ!?」
 強引に取り返そうとする貴明と、思わず抵抗する雄二。しばらく揉み合っていた二人であったが、不意に彼らの足が何かにつっかえる。
「あっ!? あぶ……」
 ここが屋外などの広い場所だったら特に問題はなかったのだろう。しかしながらここは体育館第二用具室である。足元には充分ご注意をだ。
 それは、畳んで放置してあった体育マット。突然のことに対応できなかった2人はそのままバランスを崩し――

  ガンッ!

「がっ……」

 見事、二人仲良く壁に取り付けられた棚板に頭を打ち付け、これまた見事に二人揃ってマットに倒れこみ、そのまま動かなくなった。気を失ったのだ。

 そして雄二の手からは、先ほどまで確かに握られていたはずの花梨の姿が、忽然と姿を消していた。


     2


 所は移って窓の外。こちらは花梨の様子である。
「いったぁああ…………」
 ひどい目にあった――というのがまず最初の感想である。
 服をめくられあちこち触られ、挙げ句の果てに放り投げられて。
 百歩譲って最初の二つは、相手の人選はともかくあり得る話にせよ、この歳まで生きてきて、まさかボールかなにかのようにブン投げられるとは夢にも思わなかった。怪我こそどうやらないようだったが、踏んだり蹴ったりなのは間違いない。
「ここ、どこぉ……?」
 ともあれ、何をおいても現状把握が第一優先。まだ頭がぐるぐるとしているが、ぶんぶんと振って無理矢理意識を引き戻す。
 そして周囲を確認してみると、何やら見慣れない景色が広がっていた。
「……何これ?」
 まず一面の緑。
 とにかく眼前いっぱい周囲いっぱいに、なにやら緑の物体に覆い尽くされていた。
 よくよく確認してみれば、どうやら花梨はそのいっぱいの緑の何かの上に身体をのせているのだった。触るとくねくねと堅めの弾力があり、どうやらこれがマットのような役割をしたらしい。だから怪我をしなかったのだろう。
「これ……もしかして」
 花梨は自分を守ったそれをもう少し観察してみる。自分の手の平より少し大きいくらいの幅を持ち、縦方向に沿って筋のようなものがびっしりと揃っている。厚さは薄い布団くらいのものだが、長さは彼女の背丈を越えて遥かに高いらしく、ずっと頭上の方まで続いていた。
 そして何よりも、辺り一面に漂う青っぽい匂いは、それなりによく知っている香りである。
「草だ……」
 そう、それは部室の窓外に、むしる者もなく生え放題になっていた雑草だった。どうやら、向坂雄二の手から放り出された後、窓外の草むらに落ちたらしい。自分の身体が小さくなっているものだから、相対的なサイズが普段とまったく違うため、最初は判らなかった。
「うわぁ……。なんかすごい」
 ほとんど熱帯雨林の巨大植物のような感じに見える、いつもは小さな植物たち。観察する目線が違えば、こうも印象が変わって見えるものなのかと、置かれた状況も忘れて感心してしまう。
「そういえば、前にそんな映画を見たことがあったなぁ……」
 昔見た身体が数センチになってしまった少年たちのドタバタを描いた映画をふと思い出す。花梨のサイズはあれより少し大きいが、彼らもきっと似たような感覚を抱いたことだろう。
 ともあれ、ここでじっとしていても始まらない。花梨は滑り落ちないように慎重に草のベッドから降りると、なんとか部室に帰れないかと辺りを見渡した。なんとか貴明に助けてもらわなくてはどうしようもない。
「窓まで上るのはどう見ても無理だし、やっぱり体育館の入り口まで回らないとダメか……。遠いけどしょうがない。行こう……」
 いつもなら数分でたどり着ける距離だが、今のサイズだとはたしてどのくらいかかるのか。少しゲンナリするが文句を言っていても始まらない。仕方なしに、彼女は体育館の入り口を目指して、とぼとぼと歩き出した。
 と――

  カサカサッ

「ん?」
 何か奇妙な音がした。せわしないような、乾いた音だった。
「なんだろ?」
 彼女は何気なく音のした方向を見る。
「………?」
 最初は何だか判らなかった。自分の記憶にある限り、そのような"モノ"は知識としてなかった。
 より正確に言えば、単なる形としてはよく知っていても、そのスケールがあまりにも違っていて、にわかには受け入れがたかった。特撮のように思えた。
「ば……」
 しかし、やがてその見慣れた形が脳を刺激する。ああ、この形なら知っている。知っているが、冗談じゃないぞ、うっそーってな感じで。
「バッタだ……」
 そう。それはバッタだった。
 だが、そのサイズは、中型の犬くらいの大きさだ。
 見たこともないような巨大なショウリョウバッタが、じっと花梨の方を見ながら、時折カサカサと何かがこすれる音を立てている。しかも、花梨の前方さして離れていないところで。
「ひ……」
 虫はそんなに嫌いではない。好事家のように"好き"とかではないが、いても別に気にはならない。ゴキブリですら、周囲が言うように嫌悪感は感じない。いれば不潔だなくらいには思うが、躍起になって殺すようなこともなく、せいぜい箒で掃いて追い出すくらいだった。
「あ……あ…………」
 しかし、さすがにこのサイズはあり得ない。身の危険すら感じる。生理的な嫌悪と言うより、本能的な恐怖ビンビンで、思わず額から汗がたらりと流れる。
 そして、バッタがもう一度身じろぎして、花梨の方へと歩み寄ろうとしたらしいその瞬間――
「ひやああああああああああああああああ!」
 きびすを返して、脱兎の如く逃げ出す花梨。
「なに? なになになに? なによこれえ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 草をかき分け、平地を突っ切り、とにかく足を前に出して猛烈な勢いで走る走る。生まれてこの方、こんなに走ることだけに集中したことはないってばちょっとどういうことなのよ!ってなくらい、もんの凄く走る走る。
 無理もない。いくら虫が平気だとは言っても、この大きさは例外すぎる。襲いかかられたら、花梨のような女の子などひとたまりもないだろう。男の子だって応戦できるかどうか。
 とにかく一刻も早くこの場を離れるのが最優先。安全圏までひたすら走れ。
 が――

  たんっ

 と、いきなり眼前にさっきのバッタが出現。
「うぉあっ!」
 思わず前のめりにつんのめりながら急ブレーキ。
 どうやらここまでジャンプしてきたらしい。すぐにバッタはこちらを向いて、黒い複眼をぎょろりと花梨へ。
「いやああああああああ!」
 もちろん黙ってじっとしているわけにもいかず、きびすを返して逆方向へ全力疾走。
 息が切れて視界が狭くなってくるが、泣き言は言っていられない。リアルに命に関わる。バッタに襲われて死んじゃったなんて、そんな情けない最期など、みじめすぎて死んでも死にきれない。
 しかし――

  たんったんっ

 またぞろバッタの足音が聞こえる。前方に現れたわけではないから、背後に迫ってきているのだろうか。総毛立つような悪寒を覚えて、しびれそうな脚にさらにムチを入れる。
 しかし、バッタは背後に迫ってきているわけではなかった。
 ふと横を見た瞬間、信じられないモノが視界に飛び込んできた。
「はぁ!はぁ!はぁ! ――――って、うえええええええ!」
 なんとバッタが自分の横を走っている。走っているというか、正確にはジャンプしながらなのだが、とにかく併走している。
 こっちが走る速度に合わせて、バッタバッタとジャンプしながら、やっぱり黒い複眼でこちらをぎょろり。一瞬で全身の血の気が引いた。
「いやいやいやいやいやああああああああ! 助けてえええ! タカちゃあん! タカちゃん助けてえええええええええ!」
 あまりの恐怖に、我を忘れて叫ぶ叫ぶ。十七年生きてきて、まさかバッタに併走される日が来ようとは思わなかった。身の危険もここに極まれりだ。ここで止まったらもう一巻の終わり。
 だが、全力疾走なんて、そんなに長い間続くはずがない。やがて脚はがくがくと震えだし、疲労は蓄積されてピークを迎える。
 そして、震える脚がだんだんい言うことを聞かなくなってきた頃、ついに花梨は地面の小さなくぼみに足を取られて転んでしまった。
「あうっ!」
 ころころと地面に転がって、痛みに顔をしかめる。慌てて起き上がろうとすると、今度は右足に鋭い痛み。見ると膝がすりむけて、血がたらたらと流れていた。
「うぅ……」
 ズキズキと鳴る膝の傷に、思わずうめく。膝だけではなく、転がった際に打った全身が息苦しい。
 そして、そんな花梨をじっと見ているバッタが一匹。もう花梨のすぐ前にいて、今すぐにでもこちらに飛びかかろうとしているようだった。
「あぅ……」
 もうダメか。ここで死んでしまうのだろうかと、絶望的な状況に視界が暗くなる。
 脚が痛くて起き上がれないし、ましてやこんな巨大バッタに対抗する手段など持ち合わせていない。
 だが、恐怖に目を閉じたその瞬間、思いがけないことが起こった。

  ずだんっ!

 それはまるで、地響きのような太い音。
「ひゃうっ!」
 まるで質量を伴うような大きな音が響いたのと同時に、一瞬身体が浮き上がるような感覚があった。地面から直接衝撃が来たらしい。
「え……?」
 見ると、花梨とバッタの間に、なにか巨大な柱のようなものがそびえ立っていた。
「な、なに……?」
 ほんの目と鼻の先にいきなり出現したそれに、一瞬とまどう。一抱え以上もありそうな太さのそれは、一面何か毛のようなものに覆われており、地面に接している部分にはそれとは別種の硬質なものが飛び出ているようだ。
 その硬質なものが、いわゆる"爪"であるのだと気づくのに少しかかった。
「これ……は……」
 おそるおそる上を見上げる。
 銀色の毛に覆われたそれ。長い口のようなものが見えた。少し開いた口から、赤い舌がちょろっと出ている。
 それは一匹の大きな犬だった。
「い……犬さん……?」
「わんっ!」
 呼びかけた瞬間、大きな咆吼一つ。見ている方向からして花梨に対してではなくバッタに。
「わんっ!」
 もう一度大きくほえる。その声に驚いたのか、犬の足の向こうに、バッタが逃げていくのが見えた。
「あ……」
 助かった――?
 思わず安堵のため息が漏れる。
 が、バッタが行ってしまうのを確認した犬が、今度は花梨の方を見た。すでに目の前にいるものだから、頭上いっぱいに大きな犬の顔が広がる。
「ひっ!」
 特徴的な銀色の体毛に、ピンと立った耳。顔を彩る白と銀の模様がいかにも精悍で、筋肉質の体躯と相まってとても強そうな犬。
 犬はそんなに詳しいわけではなかったが、それがシベリアン・ハスキーと呼ばれる犬種であることは花梨にだって判った。
 そして、まともに戦ったらバッタの比ではなく強いことも。例え自分が普段のサイズだったとしても、もし怒らせた日にはイチコロで噛み殺されてしまうだろう。
「に、にげ、にげ……」
 恐怖にすくむ身体を動かして、花梨は必死でその場から離れようとした。とても脚で敵う相手ではないが、そうせずにはいられなかった。よろよろと起き上がり、痛む脚を引きずりながら歩き出す。
 しかし、その努力も虚しく――

  だんっ

「きゃっ!」
 逃げようとする花梨の眼前に、もう一度銀色の柱。ハスキーの脚が立ちふさがった。
「う……」
 万事休す。もう助かりっこない。
 観念したわけではなかったが、逃げる気力も根こそぎ奪い取られて、花梨はその場にぺたんと尻餅をついた。どう考えたって、こんな大きな犬から逃げられるわけがない。
 死んじゃうんだ――、ぼうっとした頭で、そんなことを思う。
 そうして、ゆっくりと近づいてくる犬の顔。どうやら、これで最期らしかった。花梨はゆっくりと目を閉じて、自分の命が消える瞬間に備える。
 ――が

  る……

「ひゃっ……?」
 異質な感触が右膝に走った。妙にしめった感触だった。
「な、何……?」
 思いがけない感触に、花梨はもう一度目を開ける。
 視界にはやはりハスキーの巨大な顔。だが、大口を開けて花梨を飲み込もうとしているわけではないようだった。
 その犬は、赤い舌を少し伸ばして、花梨の膝をぺろぺろと舐めていたのだ。
「あ、え……?」
 先ほどすりむいた膝から流れた血が、大きな舌で舐め取られていく。獣臭い唾液の匂いはキツかったし、舌の感触も布団で撫でられているようで少し痛かったが、それでも犬にとっては精一杯優しく舐めているらしい。舌の勢いで傷口が広がることもなく、しばらくそのままにしていると、やがて綺麗に血が舐め取られてしまった。
「あ……ありがとう……」
 何が何だか判らないが、とにかく助けてもらえたらしい状況に、花梨は素直にお礼を口にする。
 すると、その言葉が判るのか、その犬は「クゥン」と一声小さく鳴くと、その場にぺたりと座り込んだ。頭を花梨の目の高さまで下げ、じっとこちらを見つめながら。
 それは、まるで犬が花梨に従うような光景だった。
「あ、あは……。良い子なんだね。ありがとう」
 どうやら花梨にとって危険な存在ではないらしい。バッタから助けてくれたし、傷も舐めてくれた。さすがにサイズは大きすぎて少し怖かったが、襲われることはなさそうである。先ほどは怖いと感じた瞳も、よく見れば優しげで可愛らしい。
「助けてもらっちゃったね。ちくわとかあれば良かったんだけどな」
「いえ。このくらい当然です。お気になさらず」
「そう? でもなぁ、やっぱりお礼とかしたいし。ちゃんと元に戻ったら、コンビニで何か買ってあげるね。…………って、ちょっと待って?」
 違和感。
 凄まじい違和感。
 いま返事をしたのはいったい誰?
「どうかしましたか?」
「いや、なんて言うか……」
 もし、自分の見ているものが正しいなら。
「あの……。何か私、犬が喋っているように……見えるんだけど?」
「犬でも喋れますよ。滅多に通じませんが。あ、申し遅れました、私この辺りの家で飼われております、クッキーと申します」
「は、はぁ。えっと、私は笹森花梨って名前で……………………………………って」
 目をごしごし、耳をはたはた。
 そしてもう一度、目の前の犬をじいっと凝視。
 夢でも幻でもないようだった。
「ウソおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 そう、花梨が見ているものが正しければ、その声は明らかに犬から発せされている。
 犬の口がもごもごと動く度、人の言葉がそこから流れてきている。しかも名前まで名乗って。
「なななななななななな! なんで? なんでなんで?」
「なんでとおっしゃられましても私にも答えようがありません。が、こうして通じている以上は、コミュニケーションに支障は一切ございません。以降、何なりとお申し付けください、ご主人様」
「ご、ご主人様ぁ?」
 何だかもの凄く慇懃な態度でそんなことを言われて面くらう。お金持ちのお嬢様ならともかく、生粋の平民の自分がなぜご主人様なのか判らない。いや、そもそも、言葉を喋る犬(しかもよその家の犬)にご主人様と呼ばれるシチュエーションというのは、平均的に考えてどうなのか。
 が、クッキーと名乗ったハスキーはというと、とりあえず自分は指示待ちだというように頭を垂れて、『命令してくださいオーラ』をこれでもかとばかりに発散しているばかり。どうやら冗談でもドッキリでもないらしい。
「きょ……今日はいったい何なのよぉ……」
 途方に暮れて花梨がうめく。
 いかにミステリ好きだと言っても限度がある。急に身体が小さくなり、男の子に撫で回されて窓外に放り投げられ、バッタに追いかけられて犬に助けられてご主人様と呼ばれる。こんな状況なんて、もういいかげん思考が追いつかない。
 と、その時――
「あ……?」
 ふと、花梨は自分の手元が光っていることに気づいた。正確には、手の指に光っているもの。
「指輪――?」
 それは、この騒動の元凶になった、あの指輪だった。
 花梨の指に嵌められた指輪の飾り石。六角形に刻まれた透明な石が、淡い光を放っている。
「もしかして、この指輪の……?」
 そうだ。そうとしか考えられない。今日起こった全ての騒動は、この指輪から始まっている。
 ならばクッキーが従うのも、指輪の力だと考えるのが自然。この指輪が、クッキーを花梨の支配下に置いたのだろう。
「犬を、支配下に――?」
 ふと、思い当たることがあった。ずっと前に読んだ古い本に書いてあったことだ。
「まさか……」
 ダビデ王の息子。旧約聖書にて偉大な賢者として描かれ、今なお最高の魔法使いの呼び声高いイスラエルの王。
 彼は、神の秘された名が記された不思議な指輪を持っていた。その指輪は強大な力を持ち、悪魔や動物と意思の疎通を可能にし、ことごとく使役できたという。
 その王の名は――ソロモン。

「これ……ソロモンの指輪だ!」

 幾千年の時を越えて――
 かつて栄華を極めた大魔法使いが持っていた指輪が、花梨の手の中で静かに輝いていた。



――――――ここから先は、「ミステリ研活動日誌!」本誌にてどうぞ

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