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【子供の頃のベートーヴェン】 1770年12月16日頃、ドイツのボンという小さな田舎町で生まれました。 お父さんも音楽家(歌手)でしたが、かなりアル中だったようです。 ベートーヴェンは小さな頃からこのお父さんにピアノのスパルタ教育を受けました。 当時はモーツアルトの神童ぶりが評判になっており、これに目をつけたお父さんは、 自分の息子にもモーツアルトのように貴族の前で演奏させることで、一儲けしようと考えたのです。 そのため息子の年齢を1才若く宣伝していました。 ベートーヴェンは成人してからも自分の年を1才間違えて覚えていたそうです。 このスパルタ教育のおかげでベートーヴェンは着実に力をつけ、 12才頃までにはボンでNo1の音楽家になっており、 13才の時にはボン宮廷のオルガニストを勤めていました。 16才で初めて音楽の都ウィーンに行ったベートーヴェンはモーツァルトの前でピアノの即興演奏を行い、 モーツァルトに「諸君この少年を記憶しておきたまえ」と言わしめたそうです。 一方お母さんは大変良くできた人で、ベートーヴェンのことを随分と可愛がったようです。 ベートーヴェンも自ら「母は僕のためには本当によい母、愛すべき母、僕の最良の友であった」 と言っています。父親に暴力を振るわれても、きっとお母さんのおかげで救われたのでしょう。 その母親はベートーヴェンが17才の時に肺結核で亡くなってしまいました。 【ベートーヴェンの外見】 当時はピアノの即興演奏が貴族の楽しみの一つであり、 ベートーヴェンはウィーンでも一流の即興演奏家だったはずです。 テレビもラジオもない時代ですから、この即興演奏ができる演奏家は女性にモテモテでした。 ヴァイオリンの名手パガニーニなどは、追っかけ女性を振り切るのに手を焼いたという話も残っていますが、 なぜかベートーヴェンがモテたという話は、あまりありません・・・ ベートーヴェンの容姿は、背が低くて、頭が大きく髪はバサバサ、 色が黒くて鼻が低いという、美男とは言いがたい容姿だったという記録が残っています。 モテるためには才能だけではダメだと言うことを、ベートーヴェン程の人が証明してくれたら、 説得力がありますねぇ〜!! 【耳の病とハイリゲンシュタットの遺書】 22才で再びウィーンを訪れたベートーヴェンは、ハイドンやサリエリと言った、 当時ウィーンでは超一流と言われた作曲家について勉強をしました(既にモーツアルトは他界)。 頑張って勉強し、社交界や演奏会でも大活躍していたことと思いますが、 20代後半に大きな不幸が訪れます。 それが有名な耳の病です。ベートーヴェンの耳が不自由だったというのは有名な話ですが、 いつごろから耳が聞こえなくなったのか、皆さんご存知でしょうか? 交響曲で言うと第2番以降、ピアノソナタで言うと第14番「月光」以降は全て、 この耳の病が発病してから作曲されたのです。つまりベートーヴェンの有名な曲の殆どは、 満足な聴力を失ってからの作品なのです。いろいろな逸話を残しているベートーヴェンですが、 この事実だけで彼の尋常ではない精神力と生き抜く力を語るには十分でしょう。 ベートーヴェンの他に耳の不自由な作曲家としては『モルダウ』で有名なスメタナがいますが、 ベートーヴェンと比べると小粒な感じがするのは否めません。 さてここでベートーヴェンは遺書を書くに至ります。 32才の時に書かれた、有名な『ハイリゲンシュタットの遺書』です。 遺書の一文はこんな感じで書かれています ● 誰かが私のそばに立っていて、その人は遠くからの笛の音を聞いているのに、私には 何も聞こえない時、あるいは誰かに羊飼いの歌っているのが聞こえるのに、私にはやはり 何も聞こえない時、これはなんという屈辱であろう。そういうことが何回かあって、私は ほとんど自暴自棄となり、すんでのところで自ら生命を絶つところであった 音楽家にとって耳が聞こえないと言うのは、何にもまして致命的なはずです。 自ら命を絶とうと思っても不思議ではありません。しかしこの遺書は死ぬために書いたのではなく、 自分の気持ちを整理するため、死のうとまで思ったことを文章に残しておくために書かれたというのが、 一般的な見方になっているようです。ただしこの時期から全く耳が聞こえなくなったのではなく、 少しずつ聞こえなくなり始めたというのが事実のようであり、 死ぬまで全く聞こえなくなることはなかったという説もあります。 例えばピアノ協奏曲第4番の初演では自分でピアノを弾いたようですし、 有名な話では第九の初演の指揮を自ら行ったという事実があります。 どちらも全く耳が聞こえない人にできることではなく、少しは聞こえていたのではないかと思います。 第九の初演では演奏後の大喝采が聞こえずに、 ソロの歌手がベートーヴェンをそっと客席に向かせたという逸話が残っていますが、 いくら作曲家とは言え、あの70分にも及ぶ長大な曲を、全く聴かずに指揮できるとは思えません。 特に当時のオーケストラの演奏力から言っても、作られた逸話だと思います。 いずれにしても、ベートーヴェンが絶望の淵に立たされたのは事実でしょう。 彼を形容する言葉として、「不屈の精神力」とか「闘志」とかいった言葉が使われるのは、 ここからの復活が凄まじいからです! このあたりから作曲された約50曲にのぼる全ジャンルの曲は、 後に『傑作の森』とまで言われるほど、名曲揃いとなっています。 英雄・運命・田園・皇帝・ヴァイオリン協奏曲・熱情・クロイツェル・フィデリオなど、 ベートーヴェンを代表する曲は殆どこの『傑作の森』に属しています。 ちなみにこの耳の病の原因ですが、小さい頃に父親に殴られ過ぎたからだとか、 梅毒だとか、いろいろと言われていますが、最近の研究では、 ワイン好きが原因ではないかという説があります。ベートーヴェンはワインが大好物でしたが、 当時のワインには鉛を含んだ甘味料が加えられており、 鉛中毒が原因で難聴になったのではないかと考えられています。 【晩年】 ベートーヴェンの晩年はあまり語られることが無いように思います。 耳の病が随分と進行していたためか、特に面白いエピソードも無いようです。 唯一あるとすれば、甥カールの養育問題でしょう。弟の遺言でカールを預ることになったのですが、 ベートーヴェンには家族がありませんでしたので、本気でカールを育てようとしたようです。 しかしカールと容易に打ち解け合えなかったことや、母親との親権をめぐる裁判が始まったことで、 必要ない苦労を随分とするはめになってしまいました。 挙げ句の果てにカールは自殺未遂まで起こしてしまう始末でしたので、 ベートーヴェンの苦労も尋常ではなかったと思われます。 【ベートーヴェンの最後】 1827年、ベートーヴェンは肝硬変が原因で56才の生涯を遂げました。 どこまで本当か分かりませんが、臨終間際に「諸君、喝采したまえ。喜劇は終わったのだよ」 と言ったそうです。そして激しい雷雨の中、稲妻が光った瞬間に天に向かって拳を突き上げ、 その拳を握ったまま世を去ったと言われています。 人の値打ちは死んだ時に分かると言いますが、ベートーヴェンの葬儀には約3万人の人々が駆けつけ、 異例の規模となったそうです。棺の周りで松明を掲げてあるいた38人のなかには、 シューベルトも参列していました。借金に追われ、アルコールに依存し、いつどのようにして亡くなり、 どのような葬儀が行われたのかもよく分からないモーツアルトとは大違いです。 【創作期】 最後に、ベートーヴェンの創作期は大きく3つの時期に分けられますので、 それを紹介しておきます。 前期:1803年頃まで(ハイリゲンシュタットの遺書を書くまで) ハイドンやモーツァルトといった古典派の作曲家の影響を強く受けています。聴き こむとベートーヴェンらしさを感じることができますが、例えば私が交響曲第1番な どを初めて聴いたときは、モーツアルトとの違いがよく分からなかったのを覚えて います。 中期:1803〜25年頃(第九完成の頃まで) 「英雄」に始まる中期の作品は、これぞベートーヴェンという曲のオンパレードです。 英雄の初演では、その曲の長大さが観客に受け入れられず非難轟々だったそうで すが、ベートーヴェンは「ついて来れるものだけがついて来ればいい」と言って我が 道を驀進し、傑作の森を築き上げていきます。ベートーヴェン以降のロマン派の作 曲家達は、全てこの時期の延長線上に位置づけられると言ってもいいでしょう。 後期:1825〜27年 第九以降のベートーヴェンの作品は、それ以前とはまるで違った作風を見せていま す。私は学問的音楽は全くの素人ですので、専門的な表現はできませんが、「神が かっている」というか「精神的」というか、とにかくベートーヴェンのイメージである 「苦悩を経て歓喜に至る」的な音楽ではありません。分かりやすく言うと「分かり難い 音楽」です。今は私の好きな弦楽四重奏曲第15番などは、初めて聴いた時は、とて もロマン派に属する音楽とは思えず、もっと近代に近いような印象を受けました。 |