『おジャ魔女どれみ』11月10日放映ぶんのエピソードを見てイメージしたものを絵にしてみました。50年後ぐらいの、どこかの街というか。左側の女の子は、その時代における「なんの取柄もない(と自分では思っている)普通の女の子」で、まあ、『どれみ』本編にはまったく出てこない、とけねこ先生の勝手なキャラです。特に設定があるわけではありませんが、名前は「チヨ」ちゃん。鉛筆画をスキャナで取り込み着色。フォトショップエレメント使用。 「たくさんの写真。……これ、みんな春風さんのともだち?」
「みられちゃった? わたしの宝物。きっと数じゃ、あなたには負けないわよ」
「これは……」「あなたぐらいの歳のときね、みんなでお店をやっていたのよ。大親友だったわ。こっちの子はバイオリンが上手でね。この子のタコ焼きは絶品。こっちの子はお菓子づくりが上手で、お菓子屋さんをやるときにいろいろ教えてもらったんだけど、わたしはスジが悪かったみたい。こっちの子は有名な……っていっても何十年も前のアイドルなんか、あなたは知らないか」
「この子は?」「わたしの娘」
「え? 春風さん。結婚してたの。こんな若いときに?」「それはナイショ」
「あ。これは」「わたしが魔女になるハメになった張本人よ。その写真のときは、魔女ガエルのままね。わたしドジでね。しょちゅうどなられたものだわ」
「うそ!――この男の人は……」「Jリーグ選手にまでなったんだけど、きっとあなたは知らないわね。……サッカー選手の奥さんになるのも悪くないって思ったこともあったわ」
「この写真の人……春風さんに似てる……」
「わたしに、ガラス工芸を教えてくれた人よ。……ひどいでしょ。写真とるときにくすぐられちゃって。この一枚しかないのに。わたし、こんな顔してて」

――50年後、どこかの街で/ある魔女と魔女見習いの会話

『Y字路の前』
〜『おジャ魔女どれみ ドッカ〜ン!』第40話『どれみと魔女をやめた魔女』に思うこと〜

藤浪智之

 11月10日放映ぶんのエピソードについて、思うことを書いてみたいと思う。
 なお、録画などをしていなかったため(事情は、こちら参照)、記憶と印象に頼っていることはあらかじめお断りしておく。この情報のあふれた時代に、記憶と手製のスケッチだけで、物語を再構築するというのも、滑稽な話だが、逆に(格好つけた言い方だが)とても意味があることかもしれない。

●『おジャ魔女どれみ』という物語について
 知らない人のために、番組全体について、説明しておこう。
『おジャ魔女どれみ』は、たしか1999年に開始された、TVアニメ・シリーズである。前評判は知らなかったが、「お店経営をする魔女の話」ときいて、興味がわき、見はじめた。個人的に「魔法のお店」もの、とでもいうべきジャンルが好きだったのである。確か第3話の途中あたりから見はじめたと記憶している。
「魔法のお店もの」を、子供向けのアニメとしてどうやって表現するのが興味があったのだが、この表現と世界背景が実に見事だった。

「ある魔女“マジョリカ”を(魔女と看破してしまったことにより)魔女カエルにしてしまった主人公どれみ」「元に戻すためには、どれみ自身が魔女になり、それを解くしか方法はない」「そのため、(出来の悪いのをガマンして仕方がなく)どれみを魔女見習いにし、魔女になるべく修行をさせることになるマジョリカ」「ところで、魔女になるのは『試験制度』があり、魔女界で定期的に行なわれる試験に次々と合格しなければならない」「試験にそなえ、魔法を訓練をしないと魔法は上達しない」「魔法を使うには、魔力源である『魔法玉』が必要。これは魔女界の問屋から購入する」「そして『魔法のお店で稼いだお金でしか魔法玉が買えない』というルールが存在する」
 結果、すべての目標にむかって、魔女ガエルになったマジョリカにどなられながら、「試験勉強をしつつ」「お店経営をしなければならない」という状況が発生する。非常によくできた設定で、もう、ゲームのシステムとして美しく機能するぐらいである。

 この法則性を軸に、物語は進む。「お店経営」の苦労や楽しさも随所に描かれており、きっとこれを観た子供たちは「お店をやりたいなあ」と、素直に楽しめたのではないだろうか。
 ちなみに、このほかに「現実世界の学校」というドラマがあり、主人公の属する小学校のクラスメートが、全員詳細に設定されていたのも特徴だった。番組は、ときにはクラスメートとのエピソードを描き、ときには魔女界の騒動の顛末を描き、現実と幻想を交互に描くように進んでいく。
 主人公「春風どれみ」のほかに、やはり秘密を知ってしまって同じような魔女見習いになる「藤原はづき」と「妹尾あいこ」の3人のコンビが、クラスメートの悩みに、店の経営に、魔女界の試験に、立ち向かっていくのだ。
 シリーズ初期の「春風どれみ」は、「なんのとりえもなく、両親はケンカばかり、出来のいい妹にはバカにされ」「惚れっぽい性格で、(いわゆるステレオタイプのカッコいい美男子に)片思いしては振られている」少女として設定されている。
「魔法が本当に使えたらなあ……」そんな素朴な願望から、物語ははじまることになる。おまじないの本の力で告白しようとするが、やはりうまくいかず、とぼとぼ歩く彼女の前に「魔法の店」が現れる(魔法の店は「それを必要とする者の前に姿をあらわす」のだ)。あやしげな雰囲気で(ほかの客と同じように)「望みはなんだい?」という魔女マジョリカ。しかし、思わず「あ〜。魔女だ!」と看破してしまうどれみ。……これが物語のはじまりである。

 ふたりの仲間「藤原はづき」と「妹尾あいこ」は、もっとわかりやすい不幸を抱えている。はづきの家は大金持ちで、大きなお屋敷に住むお嬢さんである。しかし、忙しい両親は不在であることが多い。行儀がいい彼女は、そんな状況でも文句はいえない。日々との稽古ごとも本当はさぼって、両親に甘えたいが、それができない。
 もうひとりの「妹尾あいこ」は、外見は明るく振舞う、大阪弁の力強い少女だが、両親は離婚して別居。母親は大阪にいる。やむにやまない事情、というよりは、オトナの事情といくつかのすれ違いによって(これはシリーズ全体を通して少しずつ語られていく)、そんな境遇に置かれた彼女。父親が(これが良く出てきたキャラ造形で、とけねこ先生的には大好きなのだが)憎めないダメな男で、母親を愛するものの「おとうちゃん」も愛しており、しばしばそのジレンマに苦しむ。
 対比してみればわかるが、主人公どれみの「不幸」など、大したものではない。ケンカが絶えないといっても、両親は健在。釣りやアウトドア関係のライターらしき父親は、しばしば釣りにいっては母親に怒鳴れるが(こいつもダメな男だな)、多くの時間を家族と共有し、娘もしばしば野外に連れ出してくれる、むしろ、カッコいい父親だ。
 シリーズ開始早々、はやくも、はづきの家庭と対比することによって、どれみの家庭が決して不幸ではないことは、語られてしまう。

 そして、それゆえに。春風どれみは、不幸であり、孤独であり、等身大の悩みを抱えてた少女であったと思う。

 物語は進む。ライバルの、「悪い魔女見習い」としての「瀬川おんぷ」が登場(これが、シリーズ第1作目に「敵役」として出ていたときは、小悪魔的で、とても輝いているキャラクターであった。どれみの出来のよい妹「ぽっぷ」と仲がよい、という設定も良かった。余談だが、彼女が罪の意識なくかけた魔法によって、どれみに恋してしまった男による騒動を描いた、第39話 『どれみの彼は中学生!?』は、考えてみればヒドイ話であり、とけねこ先生としては、涙なくしては語れないと同時に大好きなエピソードである。現在では、このおんぷ嬢、改心して仲間となり、すっかり性格が丸くなっている。こら(笑))。
 ほかにも、魔女界の女王様に任命されて、特務魔女「ピュアレーヌ」となり、呪われた品物「バッドアイテム」を探したり、前述のおんぷたちに店を乗っ取られたり、いろいろなことはあったが、統一した世界律のもとに、最終回まで物語は進む。くわしくは書かないが、彼女たちは「魔女試験に合格することよりも大切なこと」を選び、シリーズ第1作は終了する。

 このアニメは、たいへん人気があったらしく、1週とあけず、新作のシリーズ第2作がはじまった。そのこと自体は喜ぶべきことだが、
第2シリーズ『おジャ魔女どれみ#(しゃ〜ぷっ)』は、「なんかちがう話」だった。
おそらく、多くの、このTVシリーズのファンが知り、私よりよっぽど熱心なファンが語りつくしているだろうから、いまさら、とけねこ先生は多くを語らない。
 『#』は、「子育て話」であり、「魔女界の次期女王候補」たる赤ん坊を、ひょんなことから育てることになったことから物語は始まる。どれみは(しばしば「主人公」という役割のキャラクターが、いやおうなく「物語」の要請によって「役目」を負わされるように)「母親」としての役目を負うことになった。
 「物語」に応じて、キャラクターの再配置/再構成が行なわれ、たとえば(「ダメな母親」として、明るく夫婦ケンカをしてた)どれみの母親は「主人公を厳しく導く、先輩としての母親」の役割のキャラクターとして再構築された。過去にピアニストを諦め、それの夢を娘に託しているという、新設定など、「わかりやすい不幸」の設定が加わった。
 その母親が、子育ては厳しいものだと諭すために、どれみに真顔で平手うちをくらわせたり、そのどれみはどれみで、妹のぽっぷに真顔で平手うちを食らわせたりするシーンは、その描いている情景が厳しいというよりも、そんな「役割」を演じている彼女たちの姿が、痛々しかった。
 ひとつだけ付記しておきます。最終回まで観ましたよ。
 ちなみに、ずっと観ていたシリーズなので、嫌いなところばかりではない。愛すべきマヌケな敵役として再構築された「オヤジーデ」は、かなり好きなキャラクターである(前述のおんぷ嬢の大ファンで、彼女のほうには迷惑がられているという設定も大好きである)。

 続く第3シリーズ『もっ〜と、おジャ魔女どれみ』では、『#』であったことが「いろいろなかったことになっている」
 こんどは「お菓子づくり」が主任務となり、そのためパティシエ(菓子作り職人)の能力を持つ新キャラクター「飛鳥ももこ」が、アメリカからやってきて、仲間に加わる。雰囲気は、シリーズ第1作のそれに戻り、ある意味正常な続編、という雰囲気になった。
(余談だが、この第3シリーズは「コミュニケーション」の物語であったと思う。アメリカ育ちの帰国子女「飛鳥ももこ」は、最初、まったく日本語を喋ることができない。魔女見習い姿に変身しているときは魔法の力で普通に会話できるのだが、現実の姿に戻った彼女とは言葉が通じないのだ。「魔女である時間」のときのみに成立する会話。「現実の時間」ではとれないコミュニケーション。そして、彼女は、懸命に日本語をまなび、「現実の時間」のなかでも、しだいに、級友や町の人々、そして「現実の時間のどれみたち」に近づいていく。
 本稿の主旨からは外れるので、深く掘り下げないことにするが、このシリーズは「飛鳥ももこ」の視点からみたドラマとすれば、完成度も高く、心地よい物語だったと思う。ただし、とけねこ先生は、最終回まで見てないので、多少焦点がずれたことをいっているかもしれない)

 そして、現在継続中の(おそらく最終シリーズといわれる)『おジャ魔女どれみ ドッカ〜ン!』では、新キャラ「ハナちゃん」が、加わる。
 前述の『#』で育てていた赤ん坊が、「魔法の力で成長して」新しい仲間となったという設定だ。
 「身体は小学生だが頭は赤ん坊」の彼女が、ある種、とても素直な、体当たり的方法で、あらゆる事象に挑戦していく。そのためときにはハプニングが起こるが、ときには「それまで、多くの『オトナ』が目をつぶってきた/仕方ないと思ってきた」事象のために、本気で泣き、本気で怒り、そのため、氷解していった事件がいくつもある(ちなみに、とけねこ先生が大好きな設定なのだが、このハナちゃん、赤ん坊のころから、前述のオヤジーデが、大好きである(オヤジーデのほうは、ちょっと迷惑そうだったわけだが、微妙に「父親のような」雰囲気になっていく)。
 たとえば、主要キャラクターのひとり、妹尾あいこにまつわる、クライマックスとでもいうべきエピソード、第38話『ついに再婚? あいこの決意』では、あいこの家庭の事情を聞いたハナちゃんは「なんでいっしょに暮らさないの? お父さんもお母さんも大好きなんでしょ。一緒にくらせばいいのに?」と、素朴に言いはなち、そのあと“深い事情を知る”どれみたちに諭される。彼女たち自身、なんども解決してあげたいと思ったがうまくいかない「妹尾家の事情」について、“ろくに知らないくせに勝手なことを言ってはいけないよ”。
 それを聞いたハナちゃんは、どうするかというと、あいこを呼びだし、ぽろぽろ涙を流しながら謝る。事情を知らずに、あんなこと言ってごめんなさい。本当はいちばんつらいのは、あいちゃん自身なのに、勝手なことをいってごめんなさい。本当にごめんなさい……。
 これはひとつの奇跡なのだが、妹尾あいこは、そのハナちゃんの、自分のために流された涙を見て、はじめて「もう一度やってみよう」と決意する。
 ここで、あいこ自身、父親、母親は全員気づくべきなのだが、「やむにやまれぬ事情」と思って諦めており、自分自身たちは、まだ、決意も行動していなかったのだ。ダメな父親もようやく決意し、さまざまなシガラミにとらわれている母親も、そのなかでの折衝点を見出すべく、ようやく第一歩を踏み出す。
 結末からいうと、アクシデンタルなハプニングにより、やはり妹尾家の3人は、今回も一緒になれなかった。しかし「本当にどうしようもない」現実に立ち向かうことと、「本人が行動しない」ことのあいだには、大きな隔たりがある、と私は思う。そんな意味では、ハナちゃんの存在と行動には、大きな意味があったと思うのだ。

 このシリーズは、事実上、ハナちゃんが主人公といえる。ファンのあいだでは揶揄もこめて『おジャ魔女ハナちゃん』などと言われているらしい。
 明るい性格。他人のために、本気で憤怒し、泣き、笑う。体当たりで物事に切りこんでいく。
 私は、ハナちゃんはかなり好きであり、シリーズを通して観ている者としては、しばしば救われた気分にもなる。このハナちゃんを、ここまで育てるという意味があるならば、あの『#』というシリーズも、ムダだったわけではないだろう。

 しかし、ここで、(彼女に一番、感情移入しているゆえに)私は思ってしまうのだ。おそらく多くの人が気づいているだろう。

 主人公「春風どれみ」の存在意義は、いまどこにあるのか。

(前述の第38話を例に出すと、クライマックスで「通天閣の上」(←基本ですね)で禁呪を使おうとしているあいこを救うため、どれみたちが出現する、というシーンがあるのだけど、ラストであいこを抱きしめるどれみが、失礼ながら「とてもわざとらしく見えた」。シリーズ全体の整合性、ということを別にして、あのエピソードを見るならば、その役目は「ハナちゃん」であるほうが、よっぽど素直なような気がする)

 かつて「悪役」として輝きを放っていた「瀬川おんぷ」が、いまや、行儀のよいキャラクターして、シナリオ上の必要な役割を果たし、愛想笑いを浮かべているように。春風どれみは、画面のなかに出てきては、必要な役割は果たすけれども、彼女は、もう、いてもいなくてもよい存在になってしまったのではないだろうか。


●第40話『どれみと魔女をやめた魔女』について

 第40話について語る。繰り返すが、ビデオなどに録画しているわけではないため、場面の紹介やセリフの引用は、必ずしも正確ではないことは、あらかじめお断りしておく。

 印象的な「Y字路」の前から物語ははじまる。「春風どれみ」「藤原はづき」「妹尾あいこ」が、下校しているところだ。仲良く会話を交わしながら「今日は、どうする?」と聞くどれみ。すると、ふたりは別々の理由(「ヴァイオリンのお稽古」と「おとうちゃんの夕食の準備」)で、申し訳なさそうにあやまって、別の道にいってしまう(Y字路の前にはさらに3本の道があり「五叉路」となっている。彼女たちは「どれみとは別の道」をいく)。
 とりのこされたどれみは「ヒマなのは私だけか」と、自嘲的に言い、「ひとりで『MAHO堂』にいって、マジョリカに怒鳴れるのも気が重い」ために、Y字路の「いつもとは違う道」を選んで、遠回りすることを選ぶ。
 街のさまざまな風景のなかを歩くどれみが印象的に描かれ、(シリーズ中、しばしばあった演出なのだが)彼女のイメージソングがバックにかかる。担当声優の千葉千恵巳さんが歌う、春風どれみの歌は数種類存在するが、たしかこのときかかっていたのは『きっとちゃんと女のコ』(作詞:大森祥子、作曲・編曲:奥慶一)だったと思う。ふつうの女の子が、いつかめかしこんでデートをすることを夢見る歌で「元気だけが自慢じゃない。やっぱり(自分は)女の子」であることを語る歌である。

 ガコン、という異質な音が聞こえ、BGMの歌が途切れる。「なんの音だろう?」
 覗きこんだ家は、工房ふうの場所だった。うしろから声をかけられる。「興味あるの? かわいい魔女さん」
 かわいいと言われて照れたあと、戦慄するどれみ。「魔女は魔女と看破されると魔女ガエルになる」というルールがあるのだ。……しかし、彼女は魔女ガエルにはならない。「だって、私も魔女だから。……ずいぶん前に、魔法を使うことはやめたけど」

 こうして、どれみは、「すてきな人」である、佐倉未来(みらい)と出会う。
 この未来さんは、キャラクターデザインからして、すらりとしており、服の着こなしも格好いい。
 どれみは、彼女から、ガラス細工をならい、挑戦するが、うまくいかない。
 彼女のガラス工芸品を見て、どれみは言う。「まるで魔法みたい」「魔法じゃないのよ」「でもやっぱり魔法みたい」

 彼女の工房に通い続けるどれみ。
 あるとき、未来さんの鏡台を開けると、そこにはびっしりと写真がある。世界各地のあらゆる街で、さまざまな人々と撮ったらしき写真。
「見つかっちゃった? 私の宝物。きっと数ではあなたには負けないわよ」と、いう未来。
 「これは最初にケンカした相手」「これは、最初に飲み明かした相手」と、ひとりひとり紹介する。
 「これがガラス細工を教えてくれた人」車椅子の老人もいる。
 恋人のように見える、異国の若者との写真もある。「ちょっと好きになりかけた人。でも別れちゃった」

 どれみは工房に通いながら、仲間に「すてきな人」のことを語り、一緒に会いに行くことを誘うが、結果として「誰ひとり会えない」。
 ここで重要なのだが、どれみは彼女のことを隠すわけでもないし、ほかの仲間も、いやがったり、不審に思うわけではなく「(できれば/ヒマがあるなら)会いたいな」などというのだけど(ハナちゃんなどは、「ハナちゃんも、いくいく〜」とハリキリまくるぐらいである)、「ほかの(日常の彼女たちにもっと重要な)できごと」を優先させるために、誰も会えないのである。
 ちなみに、あとで気がついたのだが、このエピソードでは、飛鳥ももこ、瀬川おんぷなど、すべての仲間が、全員、このわずかなシーンのために登場する。
(とけねこ先生は、アニメ業界にはくわしくないのだが、「声優のギャラは、時間ではなく出演回数で計算される」と聞いたことがある。つまり、30分喋りどおしでも、ひとことしか喋らなくても出演料が同じなわけで、「わざわざ出てきて少ししか喋らない」というのは、素人目に見ても、効率が悪いはずである。
 しかし、それでも、このエピソードには、どれみの仲間は、こういった形で「全員出てこなければならなかった」のだろう)
 前述の、はづき、あいこと同じように、ほかのキャラクターも、「どれみに付き合えない理由」を口にする。「お母さんが、私のお菓子を写真にとってくれる約束なの」「アイドルとしてのお仕事があるから」。
 みんな「いかなくていい理由」があるのだ。

 家に帰れば、妹に、ピアノを熱心に教えている母親の後姿が目に入る。孤独感を味わうどれみ。

 失敗を繰り返しながら、ようやく(多少出来が悪いが)どれみ自身によるガラスのコップが完成する。喜ぶどれみ。
「冷やすのに、一日かかるから。……明日取りに来て」未来は言う。
「必ず明日来て。あさってじゃダメ。明日には私、いなくなってしまうから」
 未来は「古い知り合いから、本格的にガラス細工の技術を学ばないか誘われている」ことを明かす。それは前述の写真の車椅子の老人であり、同時に「ちょっと好きになりかけた」若者であった。ここではじめて、どれみは、彼女が自分とは違う「人間とは異なる時間に生きる存在」であることを知る。
 彼女は、「相手がもう老い先短い」ことを暗示し、その残された時間を彼とすごそうと考えたと語る。「彼は、私のことを『昔好きになった女性の娘か孫』だと思っているの。だから、私もそれを演じるの」
 彼女の生き方や行動に、まず驚き、動揺するどれみ。そんな彼女に、未来は言う。
「……いっしょに、ベネツィアにくる?」

 彼女は、さんざん悩む。電気をつけない自分の部屋で、窓からの明かりに照らされたガラス玉をみながら床に寝そべって、悩む。

 翌日。Y字路の前にいる、どれみがいる。
(この場面は、同じ構図で3回描かれる。一度目は、はづき、あいこと共に、二度目は、おんぷ、ももこと共に。そして最後は、どれみ一人で)

 決意を固めた彼女は、「未来が待つ道」を選び、必死の形相で、懸命に走る。「未来さん。わたし来たよ!」

 しかし、彼女は、すでに引っ越したあとだった。どれみのつくった、みてくれは悪いが完成させたコップと、彼女との記念写真(おそらく、彼女の鏡台のなかに新しく加わるであろう1枚)、そして置手紙がある。
「また、どこかで会いましょう」

最後は、どれみは笑顔をうかべる。
「また、どこかで、あえるかな」

………。

………。

 11月10日の夜。この話を、ささき先生にしてみた。

 ささき先生の一言。

「それ。どれみちゃんの『最終回』ですよ。よかったですねー。最終回がちゃんと見れて」

 ささき先生がいうには、このエピソードは、「春風どれみというキャラクターに決着をつけた話」であり、
 きっと番組の終わりには、「もっとわかりやすい」「番組のための」最終回が用意されるかもしれないが、それとは別に「春風どれみ」のために、用意された最終エピソードではないか、という解釈だった。

 言われて、とけねこ先生も気がつく。このエピソードこそが、
 春風どれみが、「主人公」や「母親」という「物語上の役割」を、取り払われて、彼女のために描かれた話であり、
 シリーズ第1作の第1話のころのどれみと、むしろ自然につながっているように思える。

 そうやって考えると、このエピソードでは、
「仲間みんなが魔女にはならず(もっと大切ななにかを選び)、どれみだけが魔女になる」ことが、それこそ随所に暗示されている。

 ここでいう「魔女」とは、孤独な、しかし誇り高き存在である。
 佐倉未来という、「魔女をやめた魔女」というのは、作品世界全体からすれば、えらく特殊設定である、と思った人もいるだろう。
 しかし、この特殊な設定は、彼女を(そして、春風どれみが進むべき未来の姿を)「魔女界という諸設定から切り離した存在」として描くためではないだろうか。『どれみ』世界の「魔女」は、さまざまな「この物語のための特殊な設定」が与えられている。
 それらをいっさい切り離した彼女は、ある意味ニュートラルな意味での「魔女」という言葉がしっくりする存在かもしれない。彼女は、魔女界の恩恵を受けることはないが、「先代の魔女界の女王の呪いが云々」的な、諸設定に煩わされることもないのだろう。
 でも彼女は、誰に頼らない「まるで魔法みたい」な、自分自身の業を持つ。異なる時間を生きる、孤独な、しかし誇り高き「すてきな人」。

 オフィシャルの「最終回」がどんな結末をむかえるかはわからない。どれみが魔女にならないことが、シリアスに、あるいはコミカルに描かれるかもしれない。しかし、どんな結末を迎えたとしても、第40話から、その暗示を読み取った者は、春風どれみが、いつか未来のような魔女になることを「知っている」。

 そして、おそらく、これが『正解』というやつなのだろう。

 とらえようによっては、とても悲しい話である。
 友達や家族、自分を知る人が、年老いて、あるいは寿命をまっとうし、自分と異なる時間の世界へ離れていくなか、自分自身の手と足で、孤独な時間を歩んでいかなければならない。
 それが幸か不幸かなのかは、その時間を体験した本人でしかわからないだろう。

 しかし、私は、これを決して悲劇だとは思わない。

 たとえば、あらゆるファンタジーが、そうであるのと同じように、これはひとつの寓話だと解釈することもできる。
 ここでいう「魔女」とは、「自分の技術をたよりに、自分の時間を生きる」存在(イラストレイターや作家、それともアニメーター? あるいはそれこそガラス工芸の職人のような)であり、物語のうえで、“安直な魔法をつかう”ような「魔女界の魔女」にはならなかった、春風どれみが、そういう道を選ぶ……というメッセージを読み取ることもできる。自分の道を誇り高く歩むならば、もはや妹にコンプレックスを持ったり、友人の境遇をうらやんだりしなくていいということに、やがて彼女は気づくだろう。もちろん、その道はその道で険しく、未来さんみたいなカッコいい女性になるまでは、きっと大変なのだろうけどね。
 第1話の「不幸な」少女が、「魔法のお店」というファンタジーに出会い、最後はそんなふうに成長した。そんな物語だったのだ……そういう解釈もできる。

 とけねこ先生は、ゲーム屋さんであり、「世界には唯一無比の『正解』などない」という考えの持ち主なので、ここは、もう一歩進んで、いわば身勝手な解釈をしてみよう。春風どれみが「ほかの皆とちがって、ひとりだけ魔女になる」というのが、新たに与えられた「正解」なのではなく、もうひとつの提示された「可能性」であると考えてみたい。
 わかりやすいゲーム的表現をするならば、「納得のいかない一本道ストーリー」ではなく、そこに誠実なもうひとつの「選択肢」が用意されたというわけだ。

 ともあれ、このエピソードをもって、春風どれみには、ひとつの幸せな結末(あるいはその可能性)が与えられたように思う。物語のなかでの、とってつけたようなハッピーエンドや、役割としての結末ではなく、犠牲や苦労と引き換えに、かっこよく、誇り高く、「すてきな人」として生きる未来が。

 彼女は、人間の時間や普通の生活という犠牲と引き換えに「魔女としての道」を選ぶだろうか。
 それとも、佐倉未来の生き方を「ガラス玉のむこうの風景」ととらえ、より幸せな日常を見出していくことを選ぶだろうか。

 とけねこ先生は、ここでとても心やすらかになる。
 もちろん、どちらの未来を選ぶかは、わからないが、それはもう彼女が決めることなのだ。
(とけねこ先生は、ゲーム的発想至上主義者というか「選択肢があって、本人が選ぶなら、どんな結果になろうが本人の責任」という考えなのだ。「選択肢のない」状態には、同情し、心配もするが、「選択肢」があるのなら、もう本人が決めることなのである。「道」があることそのものに、大きな意味があるのだ)


 春風どれみは、人生上のY字路の前に立ったとき、どちらの道を選ぶだろうか。


 願わくば、彼女にとって、それが良き「未来」でありますように。

(2002.11.16)

(2002.11.19加筆)

PS.
 ようやく、自分の言葉が言語としてまとまってきたので、結論部を推敲してみました。
 
 「可能性」とか「選択肢」という言葉を多用していますが、物語になにかの「可能性」が提示された場合、それを見た人が、そこから感じ取り、なにかを語り、それが次々と「可能性」を生み出していく、という現象があると思います。
(難しい言いまわしをしてしまいましたが、ようはアニメでもなんでもいいのですが、それにふれたとき、設定やある場面を見て、絵を描いたり、別のショートストーリーが書かれ、それを見た人がさらに……という現象のことです。とけねこ先生は、パロディとか二次創作とかいうものは、本来そういうものだったように思います)
 11月10日の夜に、私が描いた絵(それからふたりの交わす会話)は、ひとつの「可能性」なのでしょう。これを読んでくれた人が、またなにか、ひとつの感想を持ち、あるいはひとつの情景を思い浮かべてくれることが、また別の彼女の「未来」であるかもしれません。
 ……とまあ、難しい言い回しをしてしまいましたが、ようは「これまでのお話とは違い、またいろいろ想像(妄想?)を広げさせてくれることになった40話は、いいエピソード」だったと思うのです。

 春風どれみというひとりの少女のことを真摯に描いた、この番組のスタッフに敬意をはらうを同時に、(個人的に、四年間、彼女をヤキモキしながら見守っていた者のひとりとして)感謝します。

⇒※加筆修正するまえのテキストはこちら

付記(2002.11.16):この文章の最初のセリフは、とけねこ先生のデッチアゲなのですが、妹の「ぽっぷ」に対する記述がないことに、首をかしげるファンのかたもいると思う。
 どうやら予告編から推測するに、明日放映予定の第41話は『春風ぽっぷに決着をつける話』と考えられる。とけねこ先生は、第41話の前に、と思い、本日、この感想文を書き上げた。41話を、うまく観ることができたら、加筆するかもしれません。

付記(2002.11.19):上記にそう書きましたが、あれから3日間。妹の「ぽっぷ」に関する記述は付け加えられませんでした。第41話を見た人ならわかると思いますが、「魔女を選ぶかどうか結論が書かれていない」からです。いや。わかっています。40話を解釈の中心と据えるなら、「魔女にならない」という正解が導かれるわけなのですが。
 気がついたことがひとつ。41話は、ふつうにいい話でした。ちゃんとドラマがあり、30分のなかに伏線と盛り上がりがあり、キャラはみんな出てきて、見せ場を持ちながらいい演技をしており、作画や美術が、ふつうの意味でとてもいい。エビフライはおいしそう(……上の感想文を読んだあと、こんなことを書くと、なにかイヤミに見えるかもしれませんが、そんなことはありません。私は、そういった、ちゃんとしたドラマづくりをし続けている、という意味でも、この番組は非常に好きなのです。あるいはこのアニメが人気を誇っている本当の理由でしょう。ものの創り手として学ぶことも多いですし)。
 予告編をみると、来週は「藤原はづき」さんに「決着をつける話」だと思われます。41話(ぽっぷの話)を見たあとだと、さらに思うのですが、「決着をつける話」などといっていますが、これはもっと素直に「最終回にむけて」「登場人物ひとりひとりにもう一度スポットライトをあてていく」というエピソードなのかもしれません。そしてこれらは「伏線」であり、とてもちゃんとした最終回エピソードが用意されているのかもしれません。
 そうやって、考えると、やはり40話の「春風どれみにスポットライトをあてた話」というのは、全体からみて、むしろ異質な話だったような気がします。だから、「子供むけのアニメ番組」で、ああいった異質なエピソードを挿入したことを、私はいまでは、手放しに褒めることはしません(と、同時に「子供むけではない」という単純な発想もしないようにようにしたいものです。自分が子供のころのことを思い出すとやはりわかるのですが、子供はオトナが思っているより、いろいろ見ているし、また考えているものです。「本気」でつくったものは、たとえ理解はできなくても、感じることがあると思うのです)。
 でも、さて。じゃあ、まっとうな意味での「春風どれみにスポットライトをあてた話」というのはどういうものだろう、といろいろ私も頭をひねってみるのですが、やはり思いつきません。細部は創り手によって変わることがあったとしても、やはり「ああいうエピソード」が良かったような気がします。

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