騎 士


●騎士
騎士の武装の中で最も大切なのが馬である。彼らは馬に乗っているから騎士なのである。
それを表すように現代の騎士を表す言葉は、ほぼ「騎乗」を意味する言葉を起源としている。
「騎士」はこれを和訳したものだ。

仏語 Chevalier(シュヴァリエ)
伊語 Cavaliere(キャバリエール)
西語 Caballero(キャバレロ)
独語 Ritter(リッター)
英語 Knight(ナイト)

英語を除いた他の言葉は騎乗を意味する言葉からきている。
knightは中世前期にイングランドを支配したゲルマン系アングロ・サクソン族の「従僕」を意味するcnihtを語源としている。
中世の封建騎士は、ゲルマン人の従土制度から誕生したとされているので、騎士の一面を表す言葉である。

このように騎乗と騎士は深い関わりを持っているのだが、言葉の意味通りに騎乗した戦士の事を言うのかといえばそうではないようだ。
騎兵もまた騎乗した戦士である。現代英語では騎兵の事をCavalier(カヴァリエ)と呼び、Knightとは区別している。
では騎士とはなんであるのか。戦う事で高い地位を得た戦士貴族であろうか。
この定義は概ね正しいが例外もある。
中世ドイツにMinisteriale(ミニステリアーレ)と呼ばれる不自由身分の騎士がいた。彼らの身分は貴族どころか自由市民にも及ばず、階級社会の下層にあった。
ドイツ諸侯は彼らを馬に乗せ、騎士の武装をさせて戦わせたのである。
臣従によって封地を受けている者が騎士かと言うと、封地ではなく金を受け取っていた騎士もいる。
臣従が騎士の条件であるなら、主を持たず浪人している騎士は騎士でない事になる。

おそらく騎士とは、身分の高い王や貴族に騎士としての通過儀礼を受けた者の事を言うと思われる。
彼らは時として主を持たず放浪する者もいたが、概ねがキリスト教の信者であった。つまり、特定の主は持たずとも、神に臣従しているので騎士である。
このように強引に理由をこじつけてないと騎士というものが成り立たないのだ。はっきりとした定義が無い事は日本の武士に似ている所がある。

●騎士道
 騎士道とは、騎士が持つべきモラルの事である。
11世紀頃から登場したとされているが、そこには騎士が目指す理想の騎士像があった。

「忠誠」 「公正」 「勇気」 「武芸」 「慈愛」 「寛容」 「礼節」 「奉仕」

しかし、これらの道徳が騎士社会内部のものである。農民に至るまでこの徳が発揮される事はまず無いと言ってもいい。

●騎士叙任式
騎士修行には資格試験というものは無い。そろそろ良いだろうと家族や主君が思った頃が騎士になる時である。
12世紀頃には14歳がほぼ成人とされていたので、騎士修行をした者は14〜18歳の間に騎士に叙任されるのが一般的である。
当主が病の時や没した時は早められたし、父にとってお家騒動のライバルになりそうな家では遅くされた。20歳を過ぎてやっと騎士になった場合もある。

叙任式の前夜、騎士となる者は沐浴をし、裸のままでベッドに横たわる。それは古い自分への決別で、新しい自分、騎士にとなるための儀式である。
寝ずに神へ祈りを捧げる場合もある。
叙任式では鎧を身に付け、叙任者の前に跪く。叙任者は剣で軽く肩を叩く刀礼を行い、騎士に叙任する事を呟く。
騎士となる者が騎士に恥じない振る舞いを誓うと、新しい剣と金の拍車が与えられて騎士となる。


●封建制度
中世ヨーロッパの封建制度は、軍役を経済的に支える恩貸地を与える事と、軍役の義務を負う臣従の誓いと言うふたつの仕組みによってつくられていった。
恩貸地はしだいに「封地(レーエン)」と呼ばれるようになり、これを与える仕組みを「レーエン制度」と呼ぶ。

恩貸地とは一代限りの借地に過ぎない。そこから上がる収益は騎士のものだが、勝手に売る事は出来なかった。
与えるに値しないとされれば取り上げられるものだったのだ。
しかし、軍事力を保つ事を望む王は、軍事力を保つ為に続けて封地を与える事を望み、家臣もまた子孫に領地を残す事を望んだ。
こうして封地は9世紀末から強制的に与えられるようになり、世襲化されていくことになった。世襲化される事によって、与えられた土地は一家伝来の領地となり、
公然として王に反抗する家臣も現れた。
権力の集中を可能にさせる封建制度は、一方で権力を分散させる諸刃の剣でもあった。

●階級
中世時代には以下の3種類の人々がいた。

戦う人:王、諸侯、騎士
働く人:農民、商人、職人
祈る人:修道士、聖職者

この内で貴族と呼ばれるのは「戦う人」と「祈る人」である。
つまり貴族とは「働かない人」の事を指すのである。

「戦う人」は領地と領民が生み出す富を税金として徴収する。畑で汗を流す事はしない。だが、剣を持って戦い血を流す。
ただし、全ての「戦う人」が貴族と言うわけではない。下級騎士たちの中には土地や財産もなく主君の家僕と同じような不自由な身分の者もいた。
そういう騎士たちは貴族には入らない。
「祈る人」もまた貴族に入る。修道士たちは働く事を建前としていたが、修道院や教会は大きな領地を持っており、収入は寄進や領地に大きく頼っていた。

 3種類の人々はピラミッド構造の階級社会を形作る。ピラミッドの上に行くほど権威が高く、下に行くほど数が多い。
面倒な事にこのピラミッドはふたつある。
王とローマ法皇をそれぞれ頂点とするふたつのピラミッドである。
 王は世の中の暮らし(俗界)の中で一番上にいる。教皇は心の暮らし(聖界)の中で一番上にいる。
だからどちらも一方の下になろうとはしない。だが、上には立とうとする。そのため争い事が起きる。

王の下には諸侯がいる。「諸侯」とは大領主たちの事を指しており、伯や公といった人たちである。
「城主」は王や諸侯から城を預かり、城の周辺を領地とする人たちの事である。領内の平穏を保ち、外敵と戦う。その象徴が城である。
王や諸侯が戦争する時には、領地から駆けつけて一緒に戦う。
「騎士」は王、諸侯、城主の部下となって戦う。中には大領主でもある修道院や教会の部下になった者もいる。
また、領地ではなく賃金を貰って戦う傭兵のような騎士もいる。
諸侯や城主は高位の騎士である。

●誓い
王や諸侯、城主、騎士たちを結び付けているのは「臣従の誓い」 「臣従の礼」、または「臣従契約」と呼ばれる結びつきである。
片方が主君となり、片方が臣下となって社会の枠組みを作り、階級社会のピラミッドを形作った。
この枠組みは「封」(封地と呼ばれる領地や特権)の授受が伴ったので「封建制度」と呼ばれている。

臣従の誓いは儀式によって行われる。主君となる人物(封主)が両手の平を差し出し、臣下(封臣)となる人物が手をその中に入れると手の平で包み込まれる。
臣下は「誠実」という手を差し出し、主君はこれを認めて「保護」という両の手の平で包むのである。

王と諸侯、王と騎士、諸侯と城主、城主と騎士、といったように、「戦う人」たちは木の枝を作るようにして臣従関係を結んだ。
しかし、この無数の枝には幹というものがない。本来は王がなるべきなのだろうが、王に仕える城主にある騎士が臣従したとしても王に臣従した事にならないのである。
だが、13世紀になると、王は王が最高封主である事を諸侯に認めさせようとする。つまり、王に臣従していない騎士がいたとして、その騎士が王に臣従している諸侯に
臣従しているならば王に臣従しているとしたのである。


●トーナメント
騎士に叙任された若者たちは修行のための旅に出る事がある。「遍歴の旅」と呼ばれるもので、その他の武者修行者と同様に彼らは「遍歴の騎士」と呼ばれた。
旅の最中には、戦いに正規の臣下とは違う立場で加わる事もあるが、多くは各地で開かれる模擬試合(トーナメント)で腕を磨く。その間の生活費は、賞品や父親、
家族の仕送りが頼りである。

トーナメントははじめ、まったくの「野試合」と言ったものだった。目的はどちらが勇ましく、武芸に優れているかを競い比べる単純なものである。
しかし、実戦さながらに戦う。殺し合いが目的ではないがどちらも必死に戦うため、怪我は当たり前、運が悪ければ死ぬ。勝者は相手の武器や鎧を戦利品として獲得できた。

トーナメントが行われるようになったのは11世紀頃の事で、フランスが発祥の地とされている。
「馬上槍試合」とも和訳されるが、実際には徒歩で戦う競技もある。

1対1の馬上槍試合の事をジョストと言う。
これは80mほどの距離をとったふたりの馬上騎士がランスを構えて互いに突撃していくものである。馬のすれ違いざまに相手をランスで突き落とし、落とされた方が負けになる。
当初はさらに下馬して戦い、相手が戦闘不能になるか敗北を認めるまで戦った。
何度も馬上でランスを交わしても互いに落馬しない時には下馬しての剣による戦いで勝敗を決める。
馬が互いに向けて疾走する為、馬同士が接触する事がある。それを防ぐために、間に長い障壁を設ける事があった。時代が進むとこの障壁を置くのが通例となった。

映画「ロック・ユー!」での馬上槍試合は三度打ち合い、得点の高い方を勝者とした。このルールが当時あったかどうかはわからないが、槍が砕ければ1ポイント、
兜に当たれば2ポイント、落馬させれば3ポイントで相手の馬を貰える。
主人公ウィリアムは技術はなかったがガッツがあった。槍先が兜のひさしを破る事があり、衝突の瞬間は顔を背けるものだが彼はそうしなかった。
ぶつかり合いという事で、技術もさることながら、結局は相手に突進していく勇気が勝利の要因だったのだろう。


●騎士たちの生活

食事
テーブルの上に特別食器と言うものはない。小さな板やパンが皿代わりになる。それすらない場合があるし、何人かで共用する場合もある。
フォークと言うものもない。客たちは自前の小刀か、共用のナイフで肉を小さく切り取り、手掴みのまま口に放り入れる。
汁物は木の深皿と木のスプーンで食べるか、パンに浸して口に入れた。

主食となったのは肉とパン。肉は主に豚で、牛、羊、食用に飼われていた鳩、森で狩った猪、鹿、キジ、ヒバリ、鴨といったものである。
赤身ではなく、白身のある油肉が好まれた。
川で採れる鮭やマス、パイクなどの魚も食べる。肉を食べてはならない四旬節には、信心深い者は塩漬けのニシンなどを食べた。
冬の間は塩漬けにされて保存された豚肉が主食である。他の動物性たんぱく質としてはチーズ、卵、ミルクと言ったものがある。
パンは固くぱさぱさしていたので、汁に浸けたり、酒で喉に流し込む。
酒は葡萄酒、ビール、果実酒。
パンと肉の次に食べられたのが空豆や豌豆などの豆類。その他の野菜にはキャベツ、玉ねぎ、カブ、セロリなどである。ジャガイモは新大陸が発見されてから欧州に
入って来た野菜なので、この頃は食べられていない。
果実は無花果、マルメロの実、林檎、栗、胡桃などがある。場所によってはメロンなども手に入った。

調理法や味付けは褒められたものではない。キャベツや玉ねぎはどろどろになるまで煮込まれてポタージュのようになっていた。肉もただ煮る、焼くといった調理法で、
塩やショウガ、ニンニクと言った香辛料で味を付けた。と、言うより、香辛料そのものの味にされた。使う量が半端じゃなかったのである。
美味しく食べると言うよりは、長い間保存されて異臭を放つ肉の臭いを消すのに香辛料を使ったのである。あるいは素材を駄目にしたのを香辛料で誤魔化したか。
そう言った意味で香辛料は食卓には欠かせなかった。金持ちは東方から運ばれてくる胡椒などを大量に買い込んだ。葡萄酒にまで入れていたと言う。
ほぼワンパターンの調理法と味覚だったが、美味しく食べるための努力をしなかったわけではない。香辛料の種類は豊富であったし、いろいろと工夫したソースも作られた。
パイもあったし、盛り付けも工夫されていた。
だが、西洋の食文化が栄えたのは中世以降のようである。そう考えると東洋の食文化は西洋のそれを歴史的貫禄で大きく凌いでいるのである。

これが領主や騎士たちのおおよその食事である。
農民は大麦で作られた黒パンや、家畜の餌としてつくられる燕麦などの穀物をミルクで煮込んで粥にして食べていた。
農民がパンを食べるようになったのは農業生産力が向上してからである。

領主たちがこういった宴会を開くのはよくあることだった。小さな宴会なら毎日のようにある。
彼らはたいへんな浪費家で、領地から上がってくる収入を惜しげもなく使った。
また、宴会を開くだけでなく、遠い国の珍しい品や装飾品を買い漁った。買った物は次々と部下に与えた。貴族とは物にとらわれないものだと考えたからである。
気前の良さは美徳であるとさえ考えられていた。
実際的な理由もあった。物を惜しむような者には人気が集まらない。騎士たちの心を繋ぎ止めておくには心の大きさを見せねばならなかったのだ。

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