ルーズソックスの意味

もう今は見かけなくなったルーズソックスですが、
あれだけ流行するには何らかの意味があるのではないでしょうか。
別な言い方をすれば、何らかの意味をこじつけられるということです。
ルーズソックスの特徴は襞になったたるみです。
そして、現在の車のデザインを思い出してください。たるみというたるみがそぎ落とされて、
滑らかな流線型に近いものになっていると思われます。
問題はどのメーカーの車種も類似性を帯びてしまっているということです。
特にライトのあたりを見てください。ボディーに埋め込まれたデザインでどれもこれもよく似てます。
無駄を省くという選択を突き進めると、
哺乳類の肉体が洗練されいると同時にこれ以上どうにも変化の仕様がない行き詰まり収斂するように、
デザインも限界に突き当たります。
人類の終末論とデザインの終末論は手に手をとって駆けていきます。
ここで、いよいよルーズソックスの啓示です。女子高生は預言者であります。
たとえば、年配の女性が顔のしわを美容整形でとるとき、
外側に引っ張って、余った皮膚を切除するでしょう。
しかし、切除してしまっては終わりです。終末論の高らかなラッパが鳴り響きます。
どこかに蓄えるのです。それはルーズソックスの襞のようにです。
そうすれば、後に何かに変化できるのです。我々が終わりだと思ったときに、
それを使って思いもかけない新しい出来事がおこるに違いないのです。
デザインと芸術

昨今のアートの世界ではデザイン的なものと芸術との融合が進行しているようです。
デザインとはどういうものなのでしょうか。基本的には道具的なものを製作する場合、その形を美しくするということでしょうか。
そして、それが道具的でないものへ、あるいは道具の非道具的表現において現在のデザインの美の様式を応用しているのが
デザインの芸術との融合なのでしょう。
さて、重要なのはデザインと芸術の違いです。違いがなければすべてがデザインで問題がないわけです。
芸術は個人的なものどうしょうもない個人の本質を表現するもの。デザインは公共的なもの、みんなが共有する感性の中で表現するもの。
これをウインドウズのOSとそのOS上で作動するソフトに例えてみましょう。
デザインはウインドウズのOSで動作する役立つソフトに当てはまるでしょう。
そして、芸術はあまりにも個人的な存在であり、あまりにも独自のプログラムなので、決してOSが認識できるものではないのです。
だからといって、OSに合わせるため作り変えてしまえば、その芸術の核心、存在理由たる本質が失はれて、無意味になります。
それでも芸術家は作り続けるのです。
このまま平行線を辿ると言うわけではありません。その芸術が真に価値あるものなら、OSのほうがその芸術を受け入れるため自らのプログラムを変容させるのです。
デザインは社会の現在を心地よくするでしょう。しかし、それを未知なるものに向かって変容させる力はありません。
社会は保守的なものですが、その抜き差しならぬ本質において豊かなものへ変化しようとしています。
芸術家は社会の一員でありながら、その社会の共通の感性からはみ出した他なるものを創り出し、社会の中をうろうろと動き回り、
自らを変えるのでなく、社会のほうのプログラムを変容のほうへ連れて行くのです。それは長い時間を要するものです。
芸術がデザイン的になってきたということは社会が変容の力を失っている兆候です。力あるものは喜んで変化を受け入れるものです。
君子は豹変する。
デザインと芸術の区別のあいまいさは我々の時代の悪しき兆候かもしれません。



デコレーショニズム

近頃は絵を壁に飾る場合、額縁を施さないでそのまま飾ることがよくあります。見ていて特別何か物足りないような感覚もなく、それはそれでいい、あるいは、そのほうが今日的だと思えてくるぐらいです。この感性は芸術に関心がある多くの人々の共通の感性ではないでしょうか。
では、額縁が捨てられる理由、額縁のどのような内容が拒否されているのでしょうか。それは装飾性、デコレーション、具体的に言えば波のような模様、渦、植物、動物、その他飾ろうという形象です。このような装飾を排除する傾向は近代から現代へと流れる形象に関わる全ての分野での一つの太い流れです。絵画で言えば抽象画(ものから装飾を全て剥ぎ取ると抽象的になる)、モダニズム建築、いえいえそれどころではありません。あなたの周りの工業製品の全てからごてごてした装飾が取り去られたのです。まるで紙くずのように捨てられた彼等、デコレーション達は今頃どうしていることでしょうか。不憫でなりません。
 最近、熊が民家の近くに現れて人間に襲いかかるという事件が多発しています。開発が進み、熊たちが住み慣れた山や森を追われたのです。そして、ある日突然、人間が熊に襲われるのです。デコレーションも同じではないでしょうか。住み慣れた建築物や道具類から追われたデコレーションがある日突然、人間を襲うのです。熊に譬えるのは彼らに失礼かもしれません。それではこういうのはどうでしょうか。捨てられた子猫が餌を欲しさにと通りかかった見知らぬ人に身を摺り寄せて慈悲を乞う。どうも私の足元で身を摺り寄せるデコレーションたちがいるような気がするのです。何とかしてやりたいと思います。芸術を志す皆様もどうかデコレーションたちの新しく生きる道を開いてあげて下さいと、切にお願い申し上げます。
 しかし、ここまでくればもう懐かしい昔のように道具と装飾のバランスの取れた蜜月も適わぬゆめでありましょう。デコレーションは道具や建築とすっぱり縁をきり、単独のオブジェとして生きるか、道具や建築にくっつく場合があるならバロックの襞のような過剰な逸脱、あるいは戦国の下克上も眉をひそめる主従逆転の発想でデコレーションの飾りとしての道具、建築というのはどうでしょうか。
長々となりましたがここに装飾を擁護する意味を込めて、「デコレーショニズム」をたからかと宣言したいと思います。

(注  この文章はある夜、一人で寂しい道を歩いていると突然数匹のデコレーション達が現れて、喉元に匕首をつきつけられ、発表することを約束させられたものです。)