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雷(いかずち)
みなさん、雷(いかずち)という村をしってますか。昭和44年(1969年)に廃村になった村です。
雷は、一之貝地区の奥、東山連峰と大平山の間に挟まれた山あいにありました。県民いこいの森の下の方の場所と思って下さい。

雷という村を知ったのは、まだ東京にいた頃です。アルバイト先の仲間に出身地を聞かれ、新潟の栃尾市と答えたところ、東京出身の彼は栃尾に行ったことがあると言いました。過疎をテーマにしたゼミのレポートを書くために栃尾の雷という廃村に行った、と教えてくれました。
栃尾出身でありながら、私はその時まで雷を知りませんでした。栃尾に戻ったら一度、行ってみようと思いながら、そのまま忘れてしまいました。最近、あるきっかけから雷のことを思い出し、夏の暑いなか、雷に行ってみました。

まず、雷の歴史を知っていただくために、「栃尾市史 別巻U」に載っている雷村の歴史をを抜粋して掲載させていただきます。

第二項 雷

雷への入植が、明治十年代における一之貝の産業振興策として進められたことは、前述の通りである。
一之貝は耕地が広く、そのうえ山深くまで開発の手が入っている。雷付近に耕地を所有する村民は、村と作場との往復は一日せいぜい3、4回が限度といわれ、収穫物や肥料そのほかの運搬に非常な不便をしいられていた。
こうした実情を打開しようと、明治十五年(1882)年、当時の村長諏佐作太らにより雷への入植が提唱され、村民の賛同を得て企画が進められた。入植はまず、希望者を募ることから始められた。そして剣持興助・渡辺五郎治・今井作右衛門・中野清九朗・五十嵐六郎右衛門の五名が入植を希望し、彼らによる村づくりが行われた。
入植にあたっては、入植者の耕地の代替、入植に伴う損失の補償などがあったものと思われるが、昭和二十五(1950)年の一之貝役場の火災により資料が焼失したことや、既に廃村となって雷所有の部長文書なども散逸しているため確かなことは分からない。
そこで、廃村当時の部長今井政之(長岡市在住)からの聞き取りによって、その後の展開の様子を述べよう。
雷の主産業は米づくりであった。地味が極めて肥沃で良質米を産出し、1戸平均60俵前後を供出した。1戸平均の産出量は、栃尾郷内でも1、2を争うほどであったという。昭和初期には戸数も16戸に増加し、米づくり以外に種蚕の産出も始められた。しかし、種蚕の生産は昭和十二、三(1937、8)年をピークに、蚕価の暴落や労働力不足などの事情により漸時衰退していったという。
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         ・(途中省略)
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昭和初期に16戸あった戸数は、第二次世界大戦の激化、特に長岡市が空襲による被災を受けるようになると、疎開者が流入しはじめた。それによって戸数も22戸まで増加した。疎開者の大多数は雷出身者であったが、一部にはその親戚関係者も混じっていた。疎開者は、近所の農家や親戚にあたる農家の農作業を手伝うかたわら、人手不足の地主の田を借りたり、自らも田畑(主として畑)を開墾したりしたので、多少耕地も拡大したという。
戦争の終結とともに疎開者は再び旧住居に戻り始め、戸数は旧来の16戸に戻った。疎開者の開墾した田畑は、移転するとき地主や縁者に安価な地代で引き取ってもらった。しかし、畑地の多くは引き取り手のないまま放置され、ほとんどは荒地と化したという。

昭和三十(1955)年以降の高度経済成長は、その残った16戸に離村、さらには閉村への道を余儀なくさせた。当時の雷部長今井政之の話によれば、
@.農業による現金収入だけでは生計が支えきれなくなり、男子および若年層の出稼ぎが増加した。
A.一之貝小学校への通学、特に児童数が減少し、3キロメートルほどの通学路は、冬期間の積雪が4メートル以上にもおよび、
それを踏みしめての道つけ作業や、登下校の付添いが関係者の手にゆだねられ、輪番制がとられていたが、それも頻繁となり、男子および若年層の出稼ぎ増加に伴って女子に依存された。
B.医療体制、それも冬期間のそれが確保しにくい。
などが、大きな障害としてクローズアップされて来たのである。

昭和三十五、六(19960、1)年ころから、一家あげての離村がみられるようになり、それらの障害を一層深刻にさせていった。
そして、昭和四十四(1969)年十一月末、最後まで雷に踏みとどまった9戸も、一之貝、荷頃、あるいは長岡市に転出し、雷の歴史を閉じたのである。明治十五(1882)年に入植が企画されてから87年後のことであった。

閉村時、長岡市に転出した家の田畑は、一之貝・荷頃などの親類縁者に売却された。そして、現在では、転出した各戸が、一之貝・荷頃から通勤農業という形態をとって農耕を継続している。解体されず残った家屋は、農作業小屋として利用されている。
.....




雷は一之貝から入ります。荷頃から森立峠に登って行く途中に一之貝という部落があります。
一之貝小学校の入口から約10メートルほど先、急な坂が始まる最初の右カーブの途中を左に入ります。入り口はコンクリートの道路です。

案内板等はありません。私も分からなかったので、近くの雑貨屋さんで教えてもらいました。
途中、クルマがすれ違えないような細い場所がありますが、雷まではクルマで行けます。



私が行った時は、道路工事をしていたので、途中でクルマを停めて、2キロほどを歩きました。
両側に山が迫っている砂利道を歩いていると、この先に村があったことが信じられませんでした。

しばらく行くと山すそに田んぼ広がっています。どこにもあるような田舎の段々田んぼという感じです。
軽トラ(軽トラック)で田んぼに来ている人が何人かいました。1人の方に話を聞いたら、雷出身で今は一之貝に住んでおり、軽トラで田んぼ仕事に通ってきているそうです。



集落があった場所に行くと、何件か家が残っており、屋敷跡という感じの平らな場所もありました。残っている家は、現在、作業小屋として使っているそうです。

思ったほど荒れた感じはしませんでしたが、作業小屋や屋敷跡を見ると、ここに村があったことを実感します。自分が住んでいる村もそうですが、引っ越していった家の跡というのは、何となくもの悲しいですよね。

田んぼに来ている人に、廃村になった当時の話を聞きたかったのですが、忙しそうだったので聞けませんでした。



当時、夏休みのこの時期、雷の子供たちは何をして遊んでいたのでしょうか。
お盆には都会に出た人達が帰省し、村もにぎやかになったのでしょう。

過疎により87年の歴史を閉じた雷村は、ある意味で現在の栃尾市を象徴しているのかも知れません。
雷で聞いたセミの鳴き声と、村を流れていた水の冷たさがとても印象に残りました。

1997年 8月11日 雷村にて...


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