「少年倶楽部」は、少年雑誌の草分け的な存在であり、創刊は大正3年10月まで遡ります。そして、昭和37年12月の終刊まで、実に半世紀に渡り発行され続けました。発行元は、大日本雄弁会講談社です。
あの「のらくろ」の田河水泡を始め、サトウ・ハチロー、江戸川乱歩、加藤武雄、井伏鱒二など、各界の著名人が執筆にあたりました。戦争が始まると時の総理である東条英機が寄稿し(表紙にも登場しました)、また軍人による「戦地からの報告」も、量を増してゆくようになります。良くも悪くも時代の影響を受けた雑誌でありました。
しかし、言論の自由が保証された今の視点から、一方的に批判するのは、いかがなものかと思われます。なぜなら当時は、都合の悪い箇所が伏せ字にされたり、発禁処分などに見られる言論統制があったからです。そして、戦争激化に伴い、紙が統制されるようになると、むしろ時局に協力しないと、発行する紙を確保できないという事情がありました。
「少年倶楽部」は、映画「少年時代」を始め、この時代が背景のドラマや演劇において、何かと登場することが多いようです。ところが、これほど知名度が高いにも関わらず、我々が普段お目にすることは、まずありません。一般の市立図書館・学校図書館などで、貸し出しされているのを聞いたことがありませんし、稀に収集されている所があるかと思えば、それは「本」としてではなく、ガラスケースの中の「展示物」としての扱いです。おそらく子ども向けの雑誌ゆえに、その多くは捨てられてしまい、このようなことになったのでしょう。(なお、大阪府立国際児童文学館では、閲覧が可能のようです。)
ところで、「少年倶楽部」の附録の中には、小冊子や大きな絵(今で言うポスター)以外に、紙製の大型模型という豪華なものがつけられた号もありました。それらは、購買意欲をそそったことでしょう。しかし、少年向け雑誌とは言え、昭和13年のもので50銭の値段は、決して安い買い物ではありませんでした。昭和10年当時、キャラメル1箱が5銭、映画が50銭だったことを考えてみてください。ですから、運よく手に入れた本を、仲間で回し読みするのは、当然でした。
なお、対象年齢ですが、「幼年倶楽部」を小学校低学年までとすると、その後の小学校中学年から高学年まで(小学校3〜6年生)が、その読者層であったと推定されます。もっと上の層(高等小学校や中学生)が読んでもおかしくはありませんが、昭和14年4月号の記事によると「少年倶楽部を卒業したらキング!」「小学校を卒業したらキング!」とあり、出版社の大日本雄弁会講談社としては、読者層を絞っていたことが伺われます。
ちなみに、キングの目的は「皆さんの中には、上の学校へゆく人もありませう。すぐ世の中へ出て働く人もありませう。どちらの人も、これからが本当の勉強時代なのです。将来よくなるのもならぬのも、これからの心がけ一つです。先生や、目上の教をよくまもり、いきた学問をしてゆくことが大事です。キングは、それを心がける人のために出してゐる雑誌です。」(同号)とあり、キングの目的がよく分かります。
一方、幼年倶楽部に掲載されている「少年倶楽部・少女倶楽部」の宣伝記事によると、「どちらにもうつくしいえ(絵)、ゆくわいなまんぐわ、ものしりになるはなし、たのしいはなしなどいろいろあります。大きいにいさんやねえさんにおしらせください。」(幼年倶楽部・昭和14年10月号)とあります。子ども向けの宣伝ということもあって、その説明は、幼年倶楽部の編集方針である「やさしくて、飛上る程面白くて、それでためになるもの・・・(当HP幼年倶楽部のページを参照)」の延長程度に留められています。
また、少年倶楽部の発行部数ですが、講談社2004年2月発行「のどかで懐かしい『少年倶楽部』の笑い話」に、詳細なデーターが掲載されておりました。これによりますと「創刊当時2万部ほどだったものが、大正9年に8万部、昭和2年30万部、昭和3年45万部、昭和4年50万部、以下、昭和6年67万部、8年70万部と驚異的に増えつづけ、11年新年号で75万部の最高記録に達しています。」とあります。まさに、少年倶楽部は、昭和初期におけるの雑誌の大ベストセラーでした。
当資料室では、この貴重な「少年倶楽部」を、大正5年4月号から昭和22年4月号まで、約180冊を所蔵しております。詳しくは、表紙の一覧をご参照ください。ちなみに大正のものは、約10冊の所蔵。昭和に入っても、昭和4年9月号までの本はありません。昭和4年10月号以降のものでも欠けている号がありますので、直接、当資料室にお越しくださる方は、あらかじめご了承ください。 |