靖国神社-1「創立130年」靖国神社の苦悩

斎藤吉久

Saito Yoshihisa

 靖国神社とその周辺があわただしい。
 「日本最初の近代博物館」ともいわれる遊就館(ゆうしゅうかん)では4月1日(平成11年)から、神社が主催し、産経新聞社・日本工業新聞社が後援する創立130年記念特別企画展「靖国の祈り−−目で見る明治・大正・昭和・平成」が始まり、最初の2週間で1万5000人が来館した。
 相撲場では4月上旬、第1回全国鎮守の森こども相撲大会(全国氏子青年協議会主催、神社本庁・産経新聞社などが後援、日本相撲協会・日本相撲連盟が特別協賛)が開かれ、ちびっ子力士24チーム、170人の元気な歓声がこだました。

 他方、かつての「在郷軍人会館」(九段会館)に併設するように、神社の避難地であったゆかりの地に、戦中・戦後の国民生活の資料などを収集・展示する厚生省の「昭和館」が紆余曲折の末、3月下旬にオープンした。
 また、今年(平成11年)に出版された若手評論家・坪内祐三氏の『靖国』は、従来の政治論とはひと味違う文化論の新鮮さから、話題となっている。

 靖国神社の歴史は130年前、戊辰(ぼしん)戦争が北海道函館の五稜郭開城で幕を開けてから1カ月後の明治2(1869)年6月、東京招魂社が創建されたことに始まる。

 建設計画が持ち上がったのは同年3月の東京奠都(てんと)の後という。会津征討総督を務めた軍務官知官事・小松宮嘉彰親王は明治天皇の命を受け、副知官事・大村益次郎らに境内地を調査させ、九段坂上の旧幕府歩兵屯所跡地を東京府から受領することが決まる。靖国神社-2

 6月下旬に仮殿が竣工し、29日から7月3日まで鎮祭式が行われた。戊辰戦争の戦没者3588柱の神霊を招き降ろす招魂式は28日の深夜、丑の刻に斎行された。翌29日には弾正大弼・五辻安仲が勅使として参向し、勅幣を神前に奉る。嘉彰親王は祭主を務め、祝詞を読み上げた。
 祝詞は「天皇の大御詔によりて軍務知官事宮嘉彰申さく……」で始まり、官軍の武勇武勲を賞賛し、天皇の治世がとこしえに続くことを祈願する内容となっている。祭神は錦の御旗のもとで戦いたおれた薩長諸藩の官軍兵士で、農民や僧侶も含まれる。

 義人をまつる信仰形態がとくに顕著になるのは近世以降で、非命にたおれた義民が没後、50年、100年を経て、神として各地域で祀られた。戦没者を死の直後にまつり、しかも「天皇の思召し(おぼしめし)」によって国家が神社を創建するようになったのは近代以降の現象といわれる。

 6月30日から7月3日までは相撲、花火などの余興があり、大砲隊、遊軍隊などが祝砲をとどろかせた。

 8月には「御沙汰」によって「永世祭祀料一万石」が下付され、伊勢の神宮につぐ厚遇が与えられる。しかし実際は財政逼迫のため、5000石の返上を軍務官あらため兵部省が願い出て受理される。政府は火の車であった。「永世祭祀料」は名目にすぎず、社費は兵部省から分離独立した陸軍省の経費から支出されていた。このため陸軍省は社費の別途支給を再三、大蔵省に要求したという。

 7年1月には明治天皇が行幸(ぎょうこう)になる。御年21歳の天皇はこう詠まれた。

  我国乃為をつくせる人々の名もむさし野に止むる玉かき

 佐賀の乱、西南戦争後にも、神社となってからは4度、天皇は行幸される。

 招魂社が「靖国神社」と改称され、「別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)」に列格されたのは12年6月である。
 なぜ「神社」となったのか。国学院大学の阪本是丸教授(近代神道史)によると、最大の要因は「神官設置問題」であった。陸軍省によって「社格」などは念頭外で、ただ「神官を置いて神社らしくしたい」と願っただけだという(阪本『国家神道形成過程の研究』)。それ以前は正式な神社ではなかったから、神官も置かれず、財政困難を強いられていたらしい。

 改称列格後は内務・陸・海軍3省が神社を管轄し、祭典は神社祭式に準拠して陸海2省の官員が執り行うことになる。14年5月には古来の武器陳列場として「遊就館」が落成し、翌年2月に開館する。イタリアの古城を模した西欧風建築は工部省お雇い外国人カペレッティの設計による。

 明治以来の歴史に最大の転機が訪れたのは、いうまでもなく第二次世界大戦直後である。

靖国神社-3 昭和20年末の「神道指令」で神社は創設者である国家との関係を絶たれ、翌年の宗教法人令改正でやむなく民間の一宗教法人となり、解散を回避する。GHQは靖国神社を「軍国的神社」とみなし、爆破計画さえあった。破壊を免れたのは、あるカトリック神父の意見具申があったからといわれる。

 その後、神社を物心ともに支えてきたのは第二次大戦で落命した二百数十万の戦没者の遺族であり、生き残った戦友たちである。しかし戦後50年を経て、未亡人や遺児、戦友は高齢化し、多くは鬼籍の人となった。戦争世代が完全に姿を消す日は目前に迫っており、今後、誰が神社を支えていくかは死活の問題だ。かたや「時代の逆風」も重く響く。愛媛玉串料訴訟の最高裁違憲判決しかり、「靖国神社は軍国主義」と記述する歴史教科書しかりである。

 大転換期に直面して、神社は数年前から将来構想を練り始めた。「創立130年」は崖っぷちで踏ん張りつつ、信仰的かつ経済的基盤を根本的に立て直すラストチャンスなのだろう。

 内部検討の結果、@「崇敬奉賛会」の設立(従来の「靖国講」と「奉賛会」とを統合。会長は元侯爵土佐山内家18代・山内豊秋氏。会員約5万人)、A祭神台帳のコンピュータ化(246万6000余柱のデータをハードディスクで保存管理)、B遊就館の改修と増築(大画面の映像ホールを持つ総ガラス張りの新館の増築)、C祭儀所、参集所の拡充、D内苑・外苑の整備−−を柱とする中長期計画が昨年(平成10年)末に公表された。
 また、同時に今後の広報活動について、学識経験者・文化人に意見を求める「靖国神社を考える会」(委員長=小堀桂一郎明星大教授)の会合も3回ほど重ねられた。

 だが、こうした努力がどこまで有効なのか。
 「考える会」では「イベントがあり、花があり、鳩がいるだけで十分。戦争論や宗教論を出すと人は来ない」という靖国固有の歴史を否定するような意見まで飛び出したらしい。

 「崇敬奉賛会」の新規入会は多いというが、会員の平均年齢はそもそも高い。「目標50億円」の記念事業募金も順調のようだが、小田村四郎(拓殖大学総長。東京帝大在学中に学徒出陣)、阿南惟正(終戦時に自決した阿南惟幾陸将の3男。元新日本製鐵副社長)、山本卓眞(富士通名誉会長。陸軍航空士官学校卒。特攻隊)氏ら崇敬者総代は別として、昭和4年生まれの湯澤貞宮司ほか約100人の職員に戦争経験者がいないという現実のなかで、「英霊の心」を若い世代に伝えるのは至難のことに違いない。

靖国神社-4 時あたかも「周辺有事」が語られ、ガイドライン関連の論議が活発に展開されている。ここ半世紀、日本は世界史にまれなる平和を享受してきたけれども、これが未来永劫に続くはずはない。もし国民が尊い命を国に捧げなければならない新たな事態が生まれたとき、国はどう対応するつもりなのか。政府が管理する千鳥ヶ淵戦没者墓苑も、政府が主催する夏の全国戦没者追悼式も、対象は「支那事変以降」の戦没者であり、明治以来の戦没者を慰霊する全国的な施設は靖国神社以外にはない。

 今年(平成11年)、1000本といわれる境内の桜は天候にも恵まれ、ことのほか見事で、「さくら祭り」期間中、25万人が悲しいほどの美しさに酔った。木戸孝允が亡き志士たちをしのんで泣きながら植えたのが最初といわれる桜だが、まさか「最後の繚乱」ではあるまい。
 秋(同年)には記念の大祭が予定される。

追伸 この記事は総合情報誌「選択」(選択出版)平成11年5月号に掲載された拙文「『創立130年』靖国神社の崖っぷち−−支えるヒトもカネもなし」に若干の修正を加えたものです。

 先日、韓国から来られたある大学の先生の講演会がありました。時節がら「日本の歴史教科書の歪曲」に言及し、「歴史の歪曲」ときびしく批判されるので、「お話になった教科書は検定合格が発表されたばかりで見本本もできていない。また検定中は非公開のはずだが、先生は教科書の原稿をお読みになった上で『歪曲』とおっしゃっているのですか」と質問したところ、「非公開とは知らなかった。原稿も読んでいない」とお答えになりました。抜き差しならぬ外交問題に発展した教科書問題ですが、大学教授という社会的な地位にある方でさえ、客観的、実証的な議論ができないのは日韓両国にとってじつに不幸なことです。
 とかく議論が感情的、政治的に走るのは、とりわけこの靖国神社問題が典型的ですが、この先生は、「見もせず、読みもせずにものを語るべきではない」とお考えになって、忙しい日程をやりくりして、翌日、靖国神社にお詣りされたそうです。そのご報告を聞いて、韓国にも立派な方がおられるな、と私は感銘を覚えたものです。あざなえる縄のごとき靖国神社問題の解決は、まず歴史と現実を冷静に客観的に見据えるところから始まるのではないかと思います。

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