長崎くんち

キリシタンを祀る

「長崎くんち」の諏訪神社

斎藤吉久

Saito Yoshihisa

 長崎の総鎮守(ちんじゅ)社・諏訪(すわ)神社では毎年10月上旬、「日本三大祭」のひとつとされる「長崎くんち」が行われ、全国から訪れる数十万人の拝観者・観光客の目を楽しませる。祭りの見物(みもの)は奉納踊りで、77ある「踊り町」ごとに伝統の芸能が奉納される。日本風の獅子舞もあれば、中国情緒たっぷりの龍踊(じゃおど)りもある。爆竹も鳴る。オランダ服やオランダ語のかけ声もある−−という具合に、街の歴史そのままに日本と中国とオランダのチャンポンだ。
 しかし、その諏訪神社が「キリシタンを祀(まつ)る神社」といわれていることは、案外、知られていない。

 長崎はいうまでもなく、カトリックにとっては忘れがたい「殉教(じゅんきょう)の地」である。JR長崎駅前の歩道橋に立つと、正面のビルの谷間に隠れるようにして丘の上の「日本二十六聖人殉教記念碑」の巨大レリーフがのぞく。ここ西坂の丘で26人のキリシタンが秀吉の命令で処刑されたのは、400年前の慶長元年(1596)のことである。
 処刑後、長崎のキリスト教信仰の灯は消えたのかと思いきや、郷土史に詳しい諏訪神社の神職、松本亘史氏によると、意外なことに「かえって盛んになった」という。

26聖人殉教記念碑 16世紀後半の長崎開港後に建てられた「岬の教会」は慶長6年には改修されて、「被昇天のサンタマリア教会」と名前を改める。当時、東洋一の規模を誇る教会で、日本宣教の中心であった。キリスト教が隆盛するかげで、諏訪・森崎・住吉の三神社が打ち壊された、と古い文献に記されているという。
 やがて徳川幕府が禁教令を発し、キリシタン弾圧が始まると、今度は長崎の諸教会が破壊され、宣教師は追放になった。他方、キリシタンに破壊された諏訪神社は寛永2年(1625)に再興する。

 「キリシタン合祀説」があるのは、諏訪神社の合殿神(あいどののかみ)の森崎神社である。諏訪神社は同じ社殿にいわば同居するかたちで、森崎神社と住吉神社を祀っているのだが、森崎神社の方は謎の神社で、いま県庁がある森崎の地にかつて独立して鎮まっていた−−ということ以外はよく分からない。
 その森崎神社について、元長崎市立博物館館長で、純心女子短大の越中哲也(えっちゅう・てつや)教授は、森崎の地にあった「被昇天のサンタマリア教会」が破壊され、その跡地に建てられた祠(ほこら)であった、とする注目すべき説を唱えている。
 つまり、@教会の破壊後、祟(たた)りを恐れて神社が創建された、Aかつての教会をしのんで、信徒が神道的な社祠形式に改めて祀った、B諏訪・住吉の2社が勧請された際、すでに教会跡に祀られていた祠を長崎の氏神と解釈して合祀した−−というのだ。

 森崎神社の歴史はキリスト教会の破壊後に始まった、と理解するのが越中氏だが、この点に関してはどうもそうではない。古い記録によれば、森崎神社が開校以前に県庁の場所に鎮まっていたことは、どうやら間違いないからである。
 けれども、「キリシタン合祀説」の方はまた別で、諏訪神社の上杉千郷宮司の体験談は、むしろ「合祀説」を裏付ける証言とも聞こえる。つまり、上杉氏によれば、昭和57年に諏訪神社御鎮座三百六十年の社殿改修で本殿の遷座祭(せんざさい)が行われたとき、御船台におさめられた森崎神社の御霊代(みたましろ=御神体)は、諏訪・住吉両社とは異なって、「宮司一人では持ち上げられないほど大きく、重かった」というのだ。森崎神社とほかの2社とは明らかに違うのである。枯松神社

 キリスト教はヨーロッパ大陸に浸透していく過程で、「邪教の巣窟」である森を破壊し、ゲルマンの聖樹を伐採したあとに教会を建てたといわれるが、森崎神社もまず最初に岬に鎮まる森のなかの神社として存在していて、それがキリシタンによって破壊され、その跡地に教会が建てられたのではないか。そのあと教会が禁教で破壊され、今度はキリシタンが追憶・慰霊などの目的で祠をおき、やがて諏訪神社再興のときに隠れキリシタンの信仰の隠れ蓑としての意味もふくめて、同じ社殿に祀られたのではないか、と考えられる。


 あくまで推測だが、もしこれが事実とすれば、当時、ほとんどキリシタンばかりだったといわれる長崎の住民は、禁教後も、亡き人々の慰霊・鎮魂の思いを神道形式でずっと守り続けてきたことにもなる。

 推測といっても、「キリシタンの神社」は突拍子もないものではない。
 遠藤周作の小説『沈黙』の舞台といわれる長崎県西彼杵郡外海(そとめ)町黒崎の海を臨む山中には、枯松神社がひっそりと鎮まっている。宣教師のジワンを祀る神社とされ、殿内には「サン・ジワン神社」と刻まれた石祠がある。注目したいのは、すぐそばにある「祈りの岩」だ。上杉氏は「磐座(いわくら)ではないか」と推測する。古代の日本人は巨岩をしばしば神の依代(よりしろ)と考えた。キリスト教伝来以前の聖地ということになる。祈りの岩
 神仏混淆(こんこう)どころか、日本の神道はキリスト教とも習合したということなのか。恐るべき日本人の宗教的包容力といえるのではなかろうか。

追伸 この記事は平成11年11月2日づけ「産経新聞」夕刊の宗教欄に掲載された拙文「『長崎くんち』の諏訪神社 キリシタン祀る? 宗教的な包容力示す」に若干の修正を加えたものです。

 ひとこと加えるなら、森崎神社の祭神はイザナギ・イザナミの男女2柱の神です。住吉神社はもちろん表筒之男、中筒之男、底筒之男の3柱の神です。簡単に想像でものをいうべきではないのですが、私には前者は聖母マリアとイエス、後者は父と子と精霊という三位一体の神、というように見えます。なにしろ長崎の住人はほとんどすべてがキリシタンでした。長崎を治める代官でさえ、かつては熱心なキリシタンのひとりだったそうです。もともと強制的にキリスト教に改宗させられた人たちだとしても、禁教後は、神道形式に代えてキリスト教信仰を守る、というような方便が使われたことは容易に想像されます。いかがでしょうか。
 冒頭の写真(諏訪神社提供)は長崎くんちの御輿渡御のもようで、最後尾の御神輿が森崎神社です。

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