立磐神社神武天皇御生誕の謎

−−宮崎紀行−−

斎藤吉久

Saitoh Yoshihisa

御腰掛岩 初代天皇神武天皇の伝説が集中的に伝えられる宮崎県を旅したのは、平成9年の夏のことである。
 耳川の河口にある古い港町、日向(ひゅうが)市の美々津を訪ねた。天皇が御東征のため船出されたのはここから、と伝えられている。立磐(たていわ)神社という小社があった。天皇はここで航海の安全を祈られたという。驚いたことに、天皇が腰を下ろされたという「御腰掛岩」が境内にある。苔むして、注連縄(しめなわ)がはられた岩を眺めながら、遠い過去にさかのぼる物語がいまも生き生きと伝えられていることに、深い感動を覚えずにはいられなかった。

 『古事記』『日本書紀』を読むと、天孫降臨(てんそんこうりん)から神武天皇御生誕までの舞台が、この日向に集中していることが分かる。ただしこの場合、「日向」というのはいまの宮崎県のことではなく、南九州全体を指している。大隅、薩摩両国が分かれるのは8世紀の初頭のことである。

 なぜ南九州に神武天皇御誕生までの神々の物語が、集中して伝えられているのであろうか。
 『古事記』は、天孫ニニギノミコトが「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」に天降られた、と記している。この天孫降臨神話は、古朝鮮の檀君(だんくん)神話にきわめてよく似ていることが指摘される。天神が子神に三種の宝器を持たせ、風師、雨師、雲師という三機能神とともに、山上の檀という木のかたわらに降臨させ、朝鮮を開いた、という神話である。
 民族学者の大林太良氏(東京大学教授)によると、天神が地上の統治者として子や孫を山上に天降らせるという神話は、朝鮮半島ばかりではなく、内陸アジアのモンゴルなどに広く分布するという(『東アジアの王権神話』など)。
 だとすると、天孫降臨神話は日本固有の神話ではないのだろうか。いや、そうではない。

 『日本書紀』は、天孫降臨に際して、アマテラスオオカミが「高天原(たかまがはら)にある斎庭(ゆにわ)の穂をわが子に与えなさい」と命じられた、と記している。「斎庭の稲穂の神勅」とよばれる。天孫降臨は稲作の始まりでもある。ところが、檀君神話には稲は登場しない。同じ朝鮮の高句麗の朱蒙神話は、母が建国の祖に穀物を与えるという点で似ているのだが、その穀物は麦であって稲ではない。
 さらにギリシア神話にも、神子に種子を与えて、天から地上に広めさせた、という物語があるが、やはり麦である。
 大林氏によれば、インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として朝鮮半島を経由し、日本列島に渡来した可能性がある。他方、稲穂を授けるという神話はこれとは別で、東南アジアの稲作文化に連なるという。つまり、天孫降臨神話は内陸アジアに連なる神話と東南アジアに連なる神話とが結合してできあがった、と大林氏は推理するのである。

高千穂・二上山 『古事記』はこのあと、ニニギノミコトがイワナガヒメとコノハナサクヤヒメの姉妹と出会い、醜い姉を嫌って、美人の妹をめとったという物語が続く。「岩のように揺るぎなく、木の花のように繁栄するように」という願いがかなえられず、人間は花のように短命になった、と記している。
 これに似た人間の寿命に関する神話は東南アジアに分布するという。インドネシアのセレベス島の神話では、人間が神に石ではなくバナナを求めたので短命になったとする。
 記紀神話がつぎに描くのは、ウミサチヒコ・ヤマサチヒコの物語である。失った釣り針をめぐって兄弟が争うのだが、これに似た神話はやはりインドネシアや南太平洋のメラネシアに分布するという。

 宮崎県西都(さいと)市にはニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの御陵(ごりょう)がある。男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)と称される。御陵にほど近い都萬(つま)神社はコノハナサクヤヒメをまつる古社である。宮崎市の青島神社はヤマサチヒコつまりヒコホホデミノミコトがまつられる。日南市の鵜戸(うど)神宮はヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメとの間に生誕されたウガヤフキアエズノミコトをまつる。その四子が第一代神武天皇である。男狭穂塚・女狭穂塚
 南九州を舞台とした、天孫降臨から神武天皇御誕生までの日向神話に、内陸アジア系と東南アジア系の神話が融合していることは興味深い。南九州という土地柄が南北両アジアの地理的文化的接点に当たるといえば、それまでだが、なぜ文化の融合が図られなければならなかったのか。

 もう一度、記紀神話を読み返してみよう。天孫ニニギノミコトが結婚されたのはオオヤマツミノカミの娘コノハナサクヤヒメである。ヤマサチヒコがめとられたのは海神(わたつみ)トヨタマヒコの娘トヨタマヒメで、ウガヤフキアエズノミコトは母の妹タマヨリヒメと結婚される。
 つまり神武天皇はいわゆる天孫族の直系子孫としてお生まれになったのではない。天孫ニニギノミコトの子孫が中つ国の神々の娘たちと婚姻を重ねたのち、第一代天皇は生誕される。これはいったい何を意味しているのであろうか。

 記紀神話は神話体系としてまるごと伝えられてきたのではなく、新たに編纂されたものである。個々の伝承がまとめられ、壮大な物語が成立したのだ。中国や朝鮮にはこのような神話を体系化した古典はないという。
 記紀神話がどのような意図でまとめられ、どのような目的から前述したような神武天皇御出生の物語が描かれたのかを解明する必要がある。それはとりもなおさず、天皇とは何か、を解くカギであり、日本民族の成り立ちと日本国家の成立の謎に迫ることにほかならない。

 日本民族はどこからやってきたのであろうか。
 人類学者の埴原和郎氏によると、縄文人は東南アジアに源流をたどれる。アイヌや琉球人はその直接の子孫らしい。他方、北九州や山口地方から出土する弥生人は朝鮮半島からの渡来人で、原郷は北東アジアにあるという。そして面白いことに、縄文人と渡来系弥生人とが混血同化して「本土日本人」が成立し、いまもなお同化は進行中だという(埴原『日本人と日本文化の形成』など)。

 埴原氏はこの渡来系弥生人が日本列島に水田稲作をもたらしたというのだが、植物遺伝学者の佐藤洋一郎氏(静岡大学助教授)は、稲の起源に関してじつに興味深い学説を打ち出している。すなわち、日本の稲には遺伝的に2系統がある。ひとつは中国・長江流域に起源する温帯ジャポニカ、もうひとつは東南アジア島嶼地域から伝わったとされる熱帯ジャポニカである。前者は水稲で、後者は陸稲的な稲だ、というのである。
 この「南北二元説」が画期的とされるのは、両者が日本列島で自然交雑して早生(わせ)が発生したため、稲作は北部日本にまで短期間に伝播することができたと説明していることだ。両系統の稲とも本来は晩生(おくて)で、そのままでは秋冷の早い東北地方などでは実を結ばない。ところが、両者が交雑すると不思議なことに早生が生まれる。
橿原神宮 佐藤氏は、この交雑は西南暖地、つまり九州地方で起こった、と推理するのだが、この早生の誕生によって、神武東征さながらに、稲作はまたたく間に東へ、そして北へと進んだというのである(佐藤『稲のきた道』)。

 記紀神話にはふたつの稲作起源神話が描かれている。ひとつは、アマテラスオオカミが食をつかさどるウケモチノカミから五穀の種子を得たとする神話、もうひとつは斎庭の稲穂の神勅で、前者は東南アジア地域に原郷を持つ焼畑農耕文化に属し、後者は前述したように内陸アジア系と東南アジア系の文化の融合といわれる。

 どうやら日本の稲作文化や民族、国家そして天皇は南方アジアと北方アジアを融合する汎アジア的性格をもって成立しているらしい。
 記紀神話は大化改新、百済滅亡、白村江(はくすきのえ)の戦い、大津遷都、壬申の乱と続く、東アジアの激動の時代に編纂される。先住民と渡来民、畑作民と稲作民など、それぞれの祖神や氏神の物語は多神教的宇宙のなかに体系化され、それぞれの神は国家の神々として新たに秩序づけられ、記紀が成立する。「国家の祭り主」としての天皇を中心とする多神教的原理によって、多元的な古代国家の宗教的かつ政治的統合が図られたということであろうか。

追伸 この記事は橿原神宮(奈良県橿原市)の社報「かしから」124号(平成11年3月)に掲載された拙文「神武天皇御生誕の謎」に若干の修正を加えたものです。執筆に当たっては、上述した文献のほかに、哲学者・上山春平氏の研究を参考にしています。
 

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