古今東西の文明を包み込む京都「祇園祭」

--禁教時代に「聖書物語」を飾った函谷鉾--

斎藤吉久

Saito Yoshihisa

 日本三大祭りのひとつ、京都・八坂神社の祇園祭について書かうと思います。
 昨年(平成13年)9月11日のアメリカでの同時多発テロ事件に端を発するアフガニスタン戦争はすでに最終局面を迎え、今度は他のイスラム諸国を標的とする第二段階に進みそうな気配です。「文明の衝突」という表現を否定する人は多いのですが、そうした側面は否定しても否定し切れないようにも思います。
 テロ事件の容疑者にはアフガン人はひとりもいません。それでもアフガンが戦場となったことに、私は歴史の因縁を感じています。アフガンが位置する中央アジアは、シルクロードの交通の要衝であり、古来から東西の文明がときに激突し、ときには融合する文明の十字路です。ギリシア文明とインドの仏教がこの地で衝撃的に出会い、生まれたのが、ガンダーラの仏像であり、大乗仏教でした。
 起源地の異なる文明の交わりは、シルクロードの終着駅である日本でも起きました。京都・祇園祭の山鉾にそれがうかがえます。

□□旧約聖書「イサクの嫁選び」を□□
■■デザインした「函谷鉾」の前掛■■

 祇園祭は、7月1日の「吉符入」で準備が始まり、31日の疫神社夏越祭まで、じつに1カ月の長きにわたって繰り広げられる壮大な祭礼絵巻です。
 ハイライトはいわずもがな山鉾巡行です。長刀鉾(なぎなたぼこ)を先頭に、30数基の山鉾が各山鉾町から京の町の中心・四条烏丸に集結し、「コンコンチキチン、コンチキチン」と太鼓、鉦、笛からなる祇園囃子もにぎやかに、華麗さを競ひながら、猛暑の都大路をしずしずと進むのです。
 同社の職員20人でまとめられた『八坂神社』によると、祇園祭の成立は9世紀にさかのぼるそうです。清和天皇の時代、貞観11年(869)にすさまじい疫病が流行したので、「宝祚隆永、人民安全、疫病消除鎮護」のため、卜部日良麻呂が勅を奉じて、高さ2丈(6メートル)の「矛」66本を建てて御霊会(ごりょうえ)を執行し、あるいは神輿を神泉苑に送り、祭りました。以後、これが恒例となります。
 そのころ疫病の流行は怨霊(おんりょう)の祟りが原因と考えられ、その消除を祈る鎮魂行事が「祇園御霊会」の始まりでした。そして、このときの「矛」が今日、「動く世界の博物館・美術館」「動く正倉院」と呼ばれる山鉾の「鉾」の原型です。

 私がもっとも注目するのは、「函谷鉾(かんこぼこ)」です。

 山鉾にはそれぞれ中国や日本の故事、説話、能・狂言からモチーフを得た固有のテーマがあるのですが、函谷鉾の場合は古代中国・戦国時代の故事を主題としています。
 斉の宰相孟嘗君(もうしょうくん)が、対立する秦の昭王に使いしました。讒言(ざんげん)する者があり、昭王は殺害をはかります。間一髪のところで、孟嘗君は都・咸陽を脱出します。函谷関まで逃げ延びたものの、いまだ夜、無情にも関は閉じられていました。関は鶏鳴なき夜間は開かれません。追っ手が背後に迫ります。万事休すか。そのとき鶏の鳴き声の真似がうまい従者がいました。「コケコッコー」。はたして関が開かれます。こうして孟嘗君は無事、帰国することができたといいます。
 故事にならって、函谷鉾の鉾頭には山中の闇を表す三日月と山形、真木の上端近くには孟嘗君、その下に雌雄二羽の鶏が祀られています。

 函谷鉾のテーマ設定それ自体が異文明の受容を示しているのですが、もっと興味を引くのは、鉾の正面を飾る前掛の織物タピストリー(毛と絹の綴織の壁掛)です。
 16世紀半ばにいまのベルギー・フランドル地方で製作されたもので、何とそのデザインは旧約聖書の「イサクの嫁選び」です。アブラハムの老僕エリアザルが泉で美しい乙女リベカから水を飲ませてもらい、やがてアブラハムの子イサクはこの娘をめとるという「創世記」の有名な物語が、一枚に織り出してあります。中央にはエリアザルとリベカ。右上にはラクダにまたがったイサクの姿もあります。

 まさに古今東西、異文明・異宗教の共存です。それにしても、神社の祭礼にキリスト教までが関係しているとは珍しい。けれども、驚くのはまだ早いのです。


□□禁教時代に都大路を公然と巡行□□
■■オランダから家光への献上品か■■

 「イサク」が登場するのは、江戸時代になってからのようです。

 天正2年(1574)に織田信長が狩野永徳に描かせ、上杉謙信に贈ったと伝えられる「上杉本洛中洛外図屏風」に、函谷鉾が描かれています。
 鉾の形態は現在とほぼ同じですが、残念ながら裏面の見送しかうかがえません。しかも、大きな虎皮が掛けられています。現在とはだいぶ違うということです。
 ついでに申し添えますと、函谷鉾の見送はつい最近までは、弘法大師真蹟の模写を織りなしたとされる「繻子(しゅす)地金剛界礼懺文(らいさんもん)」でした。そして現在は「エジプト天空図」です。前掛がキリスト教なら、見送は仏教そしてエジプト文明。世界の精神文明が凝縮されているのです。

 「イサク」の前掛が確認できるのは、宝暦7年(1757)に刊行された、当時のベストセラー『祇園御霊会細記』です。木版画で細部は鮮明ではありませんが、「イサク」らしき函谷鉾の前掛が見て取れます。
 読み進むと、「函谷鉾」の説明に「天竺(てんじく)の綴錦を使用。天竺人が酒宴を催し、ジャンケンをしている風情。水瓶や馬、そのほか樹木・山岳などが描かれている」とあります。「天竺」「ジャンケン」というのが気になりますが、図柄からいって「イサク」のようです。
 さらに動かぬ証拠として、タピストリーの裏布に「享保3年(1718)再興」と墨書されています。「宝永の大火」後に函谷鉾が再興されたという意味で、このときから「イサク」が飾られたようです。

 18世紀といえば、祇園御霊会が最大のピークを迎えた時代ですが、同時に鎖国政策、禁教政策がとられた時代でもあります。徳川幕府は社寺の祭礼を厳しく統制したともいわれますが、それならなおのこと、京都最大の祭りに、聖書物語をデザインした舶来の錦が堂々と繰り出していたとは、耳を疑わざるを得ません。そんなことがあり得るのでしょうか。函谷鉾の前掛け

 だいぶ資料を読みあさったのですが、役に立ちそうなものはほとんど見当たりません。五里霧中で困り果てた末に、やっと光が見えてきたのは、祇園祭に関する著書もある山鉾連合会の吉田孝次郎副理事長のお話を聞いてからでした。

 吉田氏によると、函谷鉾の前掛けが「イサクの嫁選び」であることが学問的に確定されたのは、じつは昭和60年代のことだといいます。メトロポリタン美術館の梶谷宣子氏らアメリカの染織品研究者たちの科学的研究によって、数々の新事実が判明したのです。それ以前は聖書物語をデザインしてあるとはほとんど知られていませんでした。

 だとすると、江戸時代の人たちは何も知らなかったということなのでしょうか。どうもそうではありません。

 まず、「イサク」はどこから入手されたものなのか、を考えてみましょう。
 吉田氏は、驚くべきことに、もともとは対日貿易拡大をもくろむオランダ商館長から三代将軍家光に贈られた献上品ではないか、と推理します。
 根拠となる記録はオランダ・ハーグの国立中央文書館に残されています。『平戸オランダ商館の日記』の1633(寛永10)年9月11日のくだりです。新任の商館長クーケバッケルから家光に贈られた献上の品々が列挙され、そのなかに「オランダ産絨毯一枚。リベカ物語の模様入り」とあります。これが函谷鉾の「イサクの嫁選び」らしいのです。梶谷氏らの研究では、リベカ物語のタピストリーが滅多にあるものではないことが分かっているからです。

 もし家光への献上品だとして、どのような経路で函谷鉾町へと渡ったのでしょうか。
 吉田氏は「外交に長けた平戸藩が何らかの働きかけをしたのではないか」と語ります。そもそも家光への献上を仲介したのは平戸藩であり、同藩京屋敷は蟷螂山町と南観音山町のあいだにありました。


□□鉾町の町衆は「知ってゐた」□□
■■異文明の価値を認める日本人■■

 それにしても、家光の時代といえば、「キリシタン迫害」が過酷さを増した時期です。島原の乱が起こったのは寛永14年、このあと鎖国体制は完成します。

 この禁教・鎖国のプロセスには、プロテスタント国オランダの世界戦略が深く関わっていることが指摘されています。
 当時、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントとの血で血を洗う戦乱が続いていました。三十年戦争です。カトリック国ポルトガル、スペイン両国の「日本侵略」「世界征服」の野望を吹き込み、両国との貿易停止を盛んに幕府に働きかけたのはオランダです。オランダは島原の乱のとき、自分たちがキリシタンではないことを証明するために、人々が籠城する原城をめがけて艦砲射撃を加えています。島原の乱をテコにして、オランダは宿敵ポルトガルを追ひ落とし、そして鎖国体制下で対日貿易をまんまと独占するのです。

 「イサクの嫁選び」がオランダからの舶来品だとして、禁教下の京の町衆はこれをどう認識していたのでしょうか。前出の『祇園会細記』は、「天竺」とあるばかりで、「キリスト教」の認識はうかがえません。
 実際に「イサク」が巡行するのは献上から80年後ですが、その直前にはイタリア人神父シドッチが屋久島に潜入するといふ事件が起きています。新井白石が審問して『西洋紀聞』を書いたのは有名ですが、シドッチ自身は江戸・小石川のキリシタン屋敷で牢死します。けっしてキリスト教信仰に寛容な時代ではありません。

 山鉾巡行に登場する鯉山鶏鉾などには、ギリシャ神話を題材とした、16世紀後半にやはりベルギーのフランドル地方で製作されたタピストリーが用いられていますが、これらの使用は函谷鉾よりはるかに遅れます。
 異彩を放つ西洋の綴織「イサク」がはじめて都大路を巡行したとき、都人がどれほど度肝を抜かれたことかは想像にあまりあります。しかも禁制のキリスト教美術です。まかり間違えば、保管していることだけでも厳しい罪に問われたでしょう。それが京の町に公然と繰り出したのです。

 町衆は知らなかったのでしょうか。吉田氏は「そうではない」と考えます。年に一度の祇園祭に豪華な山鉾を巡行させた山鉾町の豪商たちは、昔も今も、最高の知性と徳を兼ね備えた教養人であり、同時に知っていても知らないフリのできる成熟した市民だった−−と吉田氏はいいます。
 先述の『細記』は「イサク」の入手経緯について、「函谷鉾町の沼津宇右衛門家が繁栄を謳歌していたころ、異国船から買い求め、保管してあった」と説明していますが、「誰にも迷惑のかからない表現をした」というのが吉田氏の見方です。先述したように、『細記』は「イサク」の絵柄を「天竺」「ジャンケン」と説明していますが、吉田氏の説にしたがえば、納得がいきます。

 それにしても、禁制のキリスト教美術品と知っていながら、あえて危険を冒してまで、「イサク」を巡行させた山鉾町の町衆に底知れぬ力を感じるのは、私だけでしょうか。幕府が置かれている江戸に対して天皇の御所を擁する京都の政治・社会的な地位、幕府という政治権力者と対等に取り引きしていたらしい山鉾町の豪商たちの政治力・経済力などなど、に私は思いをめぐらすのですが、どうでしょうか。また逆に、「キリシタン迫害」「弾圧」の悲惨さが強調される傾向にあった近世のキリスト教禁教の実態というものを歴史的に見直すべきなのかも知れませんが、これ以上はいまのところ私の能力を超えています。しかし、少なくともキリスト教禁制の時代にさえ、禁じられた異宗教の価値を認められる日本人がたしかにいたことだけは間違いありません。異文明が激突する「波乱の21世紀」に生きる現代人への鋭いメッセージといえませんか。

追伸 この記事は「神社新報」平成14年1月14日号に掲載された拙文「古今東西の文明を包み込む京都祇園祭」に若干の修正を加えたものです。執筆に当たっては、文中の資料のほかに、参考文献として『祇園祭染織名品集』祇園祭染織研究会編、『祇園祭』祇園祭編纂委員会、祇園祭山鉾連合会、『祇園祭山鉾懸装品調査報告書−−渡来染織品の部』梶谷宣子、吉田孝次郎などを参照しました。また、八坂神社のパンフレットから画像を引用させていただきました。この場をお借りして、お礼を申し上げます。(H14.2.19)

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