蓮光寺境内にある胸像英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず
日本とインドの終わらない「戦後」

斎藤吉久
Saito Yoshihisa

 東京・杉並区の日蓮宗・蓮光寺。車数台分のスペースしかない境内が、昨年12月9日、SPで埋まった。公賓として来日したインドのバジパイ首相が、忙しい日程をぬって、参詣したのだ。ガンジー、ネールと並び称される「インド独立の英雄」スバス・チャンドラ・ボースの遺骨が、この寺に安置されているからである。(右上の写真は蓮光寺境内にあるボースの胸像です)


 遺骨は本堂向かって右の特別の祭壇、金色に輝く厨子に納められている。正面扉を開くと、骨壺を納めた木箱がわずかにのぞく。箱を包んだ白布には、「NETAJI SUBHAS CHANDRA BOSE」と墨字で書かれてある。ボースが国家元首を務めた自由インド仮政府のS・A・アイヤー宣伝相が終戦直後、毛筆で書いたそのままだという。望月康史住職が「一日も早いお迎えを」と訴えると、バジパイ首相は「同感だ」と答えた。


 この半世紀、遺骨を祖国インドに返還しようという運動が、寺の住職や旧日本軍関係者によって、熱心に展開されてきた。けれども、いまなお実現されていない。


 第一の理由は、独立後、政権を長らく担当してきた国民会議派、とくにネールにとってボースは「政敵」であり、積極的にはなり得なかったこと。第二は、親族も含めて、インド国内にボースの死を認めたがらない人たちがいること。インド社会の底辺層にとっては「英雄ボースが現れて、自分たちのために闘ってくれる」と信じることが、苦しい生活の支えになっているといわれる。「不死身神話」が社会への不満の反映だとすれば、遺骨返還は「寝た子を起こす」結果になりかねず、為政者は慎重にならざるを得ない。第三は、ボースには「ナチズムや日本軍国主義と手を組んだファシスト」との歴史的評価がつきまとい、日印双方で官民あげての返還運動の気運が生まれにくかったこと。第四は、遺骨に執着する日本人に対して、インド人はそうではないという宗教的センスの違い。そして第五には、せっかちな日本人とガンジスの流れのように悠久の歴史を生きるインド人の時間観念の違いであろうか。期待をもたせるばかりで、一歩も動かないインド人のしたたかさに、日本人は翻弄され続けてきた。


東京・杉並の蓮光寺 幾多の克服すべき困難を抱えながらも、日本人関係者たちが遺骨返還に心血を注いできたのは、「ネタジ(指導者)」と呼ばれるほどに、一度、会えば、心をとらえて離さないボースの人間的な魅力とカリスマ性ゆえである。(左はボースの遺骨が安置される蓮光寺です)

□□独立運動の指導者、台北に死す□□

 若くして独立運動に身を投じたボースは当初、国民会議派に属し、年次大会議長に就任したこともあった。だが、「敵の敵は味方」「対英武装闘争をも辞さず」との固い信念から、「反ファシズム」「非暴力」に固執するガンジー、ネールら主流派とのミゾを次第に深め、やがて会議派を追われた。

 ヨーロッパで第二次大戦が勃発すると、カルカッタで自宅軟禁状態にあったボースは独立の好機と見て、国外脱出を図り、ベルリンに潜入する。しかしヒトラーには人種的偏見があり、反応は鈍かった。失望したボースは日本行きを決意する。おりしも日本は米英に対して宣戦を布告した。

 「私がインドを脱出するとき、日本がイギリスと戦っていたら、迷わず日本行きを決意していただろう。……アジアに赴き、祖国解放のため、日本とともに戦いたい。たとえ一兵卒であったとしても」

 ボースは、大時化のインド洋上で潜水艦を乗り継ぐという離れ技で、念願の来日を果たす。

 「いまこそインド国民にとって、自由の暁のときである。……日本こそは、十九世紀にアジアを襲った侵略の潮流を止めようとした、アジアで最初の強国であった。ロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点である。アジアの復興にとって、強力な日本が必要だ」

 ボースはインド国民軍(INA)の最高司令官となり、シンガポールで自由インド仮政府を樹立して独立を宣言、さらにデリーをめざして日本軍とともにインパール作戦を戦う。けれども、日本の敗色は濃く、戦機を逸していた。

 一九四五(昭和二十)年八月十五日、終戦。日本との提携は潰えたが、ボースに恨みはなかった。むしろポツダム宣言受諾を知って狼狽する日本人通訳を励ましたほどだ。

 「陛下は退位されるかも知れないが、日本は絶対に滅びない。しばらく占領されるかも知れないが、独立を回復できる。しっかりやりなさい」

 その後、ボースはソ連軍に投降して祖国独立の新たな活路を模索しようと、大連へと向かう。だが、その途中、同十八日、台北・松山飛行場で、離陸直後の飛行機墜落事故がもとで、帰らぬ人となる。

蓮光寺に安置されている遺骨 「私は最後までインド独立のために闘った。そしていま祖国独立のために死ぬ。祖国の同胞、友人たちよ、独立の闘いを続けよ。インドはまもなく解放される。インド万歳」

 享年四十八歳。独立革命の志半ば、突然の死であった。敗戦で極度に混乱するなか、遺体は荼毘に付され、台北市内の西本願寺に運ばれる。「一国の元首」ながら、一部の軍関係者だけが参列する、寂しい葬儀が営まれた。(右は蓮光寺本堂に安置されているボースの遺骨です)

□□日本に取り残された遺骨□□

 九月五日、ボースの遺灰は台北を出発した。墜落現場一帯に飛散したのを、台北高等女学校の生徒らが密かに拾い集めた貴金属や宝石類、いわゆる「ボースの財宝」もいっしょである。八百万ルピー(六億四千万円=当時)相当の財宝は、独立運動を支援する仏領インドシナ在住のインド人たちからの献納品であった。ボースは名演説家で、三十分の演説で貴金属で身を飾る上流夫人を丸裸にしてしまうといわれた。

 リーマン副官や、やはり事故から生還した南方軍参謀の坂井忠雄中佐、ほかに台湾軍司令部から渋谷中佐と中宮少佐、そして「遺骨を捧持して大本営に引き継ぐべし」との任務を与えられ、胸に遺骨を抱いた同司令部付の情報将校・林田達雄少尉が、日本本土に飛ぶ最後の軍用機に乗り込み、福岡・雁の巣飛行場に向かった。

 坂井と林田は、福岡ですし詰めの列車に乗り換え、東京をめざした。食事もせず、一睡もしないまま、七日夜、市ヶ谷の参謀本部に到着。マッカーサーが厚木から東京に進駐するという歴史的な日の前夜、二人はごった返す参謀本部で、週番司令の木下少佐に遺骨と遺品とを手渡した。

 遺骨と遺品は翌朝、当直参謀の高倉盛雄中佐にひきつがれたあと、インド独立連盟(IIL)日本支部長で自由インド仮政府駐日公使を兼務するラマムルティとサイゴンから飛んできたS・A・アイヤーとに渡された。

 ラマムルティらは進駐軍への敵対行動ととられないよう、控えめな葬儀を計画する。そのため、インド独立運動の先覚者で「中村屋のボース」とよばれたビハリ・ボースの側近サハイ夫人の自宅がある荻窪周辺で寺を探すのだが、イギリス官憲がマークする戦犯容疑者との関わり合いを恐れて、首をタテにふるところは見つからない。

 ようやくたずね当てたのが蓮光寺である。「霊魂に国境はない。死者を回向するのは御仏につかえる僧侶の使命である」と、望月教栄住職(先代)はその場で快諾する。

 九月十八日の夜、サハイ家から蓮光寺まで葬列が組まれ、百人を超えるインドと日本の関係者が参列して、密葬がいとなまれる。新宿中村屋のお菓子や白米、酒など、リンゴ箱五〜六箱分の供物が運び込まれた。葬儀のあと、ラマムルティは「遺骨をあずかっていただきたい」と申し出る。住職は一時的なものと思い、すんなりと応じた。しかし、その後、INAに関係した在日インド人たちは「国家反逆罪」の容疑で本国に送還され、遺骨だけが日本に取り残される。58回忌慰霊法要

□□ボースの死を認めなかった実兄□□

 以来五十年、遺骨返還のエポックは何度か訪れた。最初は昭和三十一年のネタジ死因調査委員会の来日である。(左は58回忌慰霊法要のひとコマです)

 サンフランシスコ講和条約の調印・発効を前にして、蓮光寺周辺では慌ただしい動きがあった。ボースのことがしばしば新聞に取り上げられ、インド代表部や日本外務省の職員が頻繁に来寺するのだ。終戦直後は盗難の心配があり、遺骨を抱いて寝ることも再三だったという望月住職は二十八年に在日インド大使館にラウル大使を訪ねて指示を求め、ネール首相に親書を書き送った。三十年八月にはかつてない盛大な慰霊法要が催され、東條英機元首相未亡人や元タイ派遣軍司令官・中村明人中将、元ビルマ方面軍司令官・河辺正三大将、元第十五軍司令官・牟田口廉也中将、元ビルマ方面軍高級参謀・片倉衷少将などが参列した。

 インド政府が議会の要求を受けて、シャ・ヌワズ・カーン(運輸鉄道政務次官、元INA連隊長・大佐)、スレス・チャンドラ・ボース(ボースの長兄)、S・N・マイトラ(アンダマン・ニコバル諸島行政官)の三名で構成される「ネタジ死因調査委員会」を来日させたのは三十一年五月のことである。委員会は日本外務省の協力のもと、一カ月にわたり、七十名近い関係者から証言を集める。

 望月住職が委員会に招かれたのは、五月三十日。カーンら三人は聞き取りのあと、すぐさま蓮光寺に向かい、遺骨と対面する。スレスは見るも哀れなほど泣き崩れ、立ち上がることすらできない。住職もともに泣き、手をさしのべ、抱きかかえるようにして帰りの車に乗せたといわれる。

 対インド工作を任務とした光機関員のひとり林正夫元軍曹が私的に催した三人の歓迎会が帰国間際、都内で開かれた。河辺元司令官や、第五十五師団歩兵団長だった桜井徳太郎元少将、磯田三郎元光機関長などを前に、カーンは「ネタジの遺骨は飛行機か巡洋艦で迎えに来たい」と表明し、「史上もっとも悲惨な戦い」といわれるインパール作戦で生死をともにした戦友を喜ばせた。

 ところが、帰国当日、搭乗直前になって、スレスは突然、「ネタジは死んでいない」と言い出し、羽田空港まで見送りにきた光機関の前身「岩畔機関」の機関長・岩畔豪雄元少将、そして林を唖然とさせる。

 三人は、@ボースは飛行機事故がもとで台湾で死亡した。A遺体は台湾で火葬された。蓮光寺の遺骨が本物であることは間違いない--ことにいったんは合意するのだが、その後、兄スレスは弟の死亡を否定し、『報告書』への署名を拒否してしまう。肉親の情なのか、実兄スレスの豹変は、その後の遺骨問題の行方に暗いカゲを落とすことになる。

 ネール首相はインド国会で、「ボースの死が確認された」と公表する。市販された『ネタジ死因調査委員会報告書』の「第七章 勧告」には、「ボースの遺骨を礼儀を尽くして母国に返還し、しかるべき地に記念碑を建立すべきである。インド政府の熟慮を求める」とある。翌三十二年に愛娘インディラとともに蓮光寺に参詣したネールは、「ネタジの遺骨はインド国家のものであり、いずれは祖国に返還されなければならない」と語った。けれども、ネールの生存中、「政敵」の遺骨がインドに返還されることはなかった。西ベンガル州国境の町で

□□遺骨返還に奔走する人々□□

 一九五七(昭和三十二)年、ボースに関係する文化活動を展開する「ボース・アカデミー」がカルカッタに設立された。遺品を展示するネタジ記念館も開館する。翌年には日本で、「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が創立される。初代会長には渋沢敬三元蔵相、副会長には岩畔元少将、最高顧問には河辺元司令官が就任した。アカデミーの最大の目的は遺骨返還で、会の設立とともに返還の動きは本格化した。蓮光寺の望月住職はオブザーバーとして令嬢とともにしばしば会合に出席し、返還運動をともに推進した。(右上は西ベンガル州の国境の町で見かけたボースの銅像です)

 四十年代になると、多数の元光機関員たちがアカデミーに集うようになる。組織が大きくなり、運動にも熱が入ったはずだが、満足のいく成果は得られなかった。歴戦の勇士たちの組織とはいえ、戦争が終われば民間の任意団体に過ぎない。遺骨返還の戦略も情報も予算も十分とはいえなかった。

 返還がいっこうに進展していないのを知って、一人で動き出したのが、遺骨を台北から東京に運んだ林田である。

 三十七年秋、林田の母校・大連二中の恩師である安部龍雄の紹介状を手に、マドラスのボース協会の中心メンバーP・S・モハンが訪ねてきて、「ボースはインドの国民的な英雄として熱烈な支持を得ているが、その死については半信半疑のままだ。死の真相をインド民衆に知らせて欲しい」と語る。同時に「ボースの遺骨はいまも蓮光寺に安置されているが、遺品はもうとっくにインドに還っている」と知って、林田はショックを受ける。「カネになるものだけは片づけて、カネにならない遺骨は十七年間も放置する。そんなバカな」

 以来、林田は自分があずかったわけでもないボースの遺骨返還に、すっかりのめり込んでいく。陸軍中野学校の出身で、戦争中もつねに一人きりの情報戦を戦ってきた林田は、ふたたび一人で走り始めた。ボースの最期の状況を知ろうと、死に立ち会った生き証人をさがし求めて各地を行脚する。やがて、悲劇の事故から奇跡的に生還した河野太郎少佐、パキスタンに住むリーマン副官、ボースの死を看取り、死亡診断書を書いた台北陸軍病院南門分院院長・吉見胤義軍医、ボースの最期の言葉を通訳した台湾総督府外事部の中村寿一通訳など、埋もれていた関係者を探し当て、貴重な回顧談を聞くうちに、ボースの人格に魅せられ、「独立の英雄を母国インドの大地に眠らせてやりたい」との思いを募らせる。

 三十九年夏、林田は夫人とともに上京し、蓮光寺に詣でる。望月住職は苦労の歳月を語った。

 「インド大使館や日本政府に遺骨の引き取りを依頼して奔走したが、実現されていない。両政府間に協定のようなものがあるのだろうか。担当者は責任をなすり合う始末。ネール首相やプラサド大統領が善処を約束しても、あとは梨の礫です」

国外脱出時使用のvolkswagen 林田の死の真相究明はボースの伝記執筆に発展し、数年後、『悲劇の英雄--チャンドラ・ボースの生涯』が出版される。インドでも試みられたことのない、無名の著者によるはじめてのボース伝。題字を揮毫したのは林田の母校新京法政大学・柴田健太郎学長の学友である岸信介元首相。序文はボースの甥で、国外脱出のとき運転手をつとめた、ネタジ記念館館長セシル・K・ボース博士が書いた。(左は国外脱出に使用されたフォルクスワーゲンです。カルカッタのネタジ記念館内に展示されています)

□□第二のチャンス、潰える□□

 同じころアカデミーの活動は転機を迎えていた。渋沢会長が亡くなり、江守喜久子が第二代会長に就任した。江守は、戦時中、ボースを慕って来日した四十五人の留学生「東京ボーイズ」を世話した「留学生の母」である。さらに河辺顧問が不帰の客となり、有末精三元中将、片倉元少将が顧問となった。敗戦から二十年がすぎ、ボースを直接知る、歴史の生き証人たちが次々とこの世を去っていった。その危機感が、関係者を返還運動の強化へと駆り立てていく。

 四十二年暮れ、アカデミーは三木外相(佐藤内閣)と面会する。元光機関の政務班長・高岡大輔議員の仲介によるもので、アカデミーが現職閣僚と接触した最初である。翌年には外務省と再三、懇談したが、外務省は「相手国の立場もある。なぜ急ぐのか」とつれなかった。

 四十四年、インディラ・ガンジー首相が国賓として来日し、蓮光寺に参詣した。望月住職と林田は遺骨返還を愁訴した。

 四十五年、林田はセシル・ボースの協力を得て、『Netaji Subhas Chandra Bose; His Great Struggle and Martydom』をボンベイで出版した。序文は大連二中の恩師・安部、推薦文は元朝日新聞論説主幹の嘉治隆一が書いた。ボースの死の真相に迫る著書は爆発的な反響をよんだといわれる。

 四十六年、林田ははじめてインドの土を踏む。カルカッタで開かれるボースの七十四回目の生誕祭に、日本人ではただ一人、しかも主賓として招待されたのだ。

 一月二十三日はボースの誕生日。ボースが生まれた西ベンガル地方では休日になる。カルカッタの街は早朝から、誕生日を祝う数え切れないほどの大群衆で、身動きできないほどにごった返す。国立劇場での祝典では国賓扱いだった。セシル博士の紹介を受け、林田があいさつする。

 「祖国の独立を見ることなく、不慮の死を遂げたネタジの痛恨の情に思いを馳せるとき、断腸の思いを禁じられません。しかし、ネタジの肉体は滅んだとしても、ネタジの精神と霊魂は生きています」。

 万雷の拍手がわき起こった。州知事がにこやかな表情で近づき、林田の両手を握りしめた。ボースの肖像画

 英雄の死の真相を知らせたい一心の林田の行動は、ときに誤解を招き、ボースの死を信じないインド人狂信者から脅迫を受けることすらあったが、ボースの死を頑迷に拒否する時代は終わったのだ。遺骨返還も時間の問題と実感された。帰国後、林田の訪印を伝えた福岡の地元紙は「十年間の苦労にやっとピリオドが打たれたすがすがしさ」と書いた。NHK国際放送は、ボースの生涯と林田の功労をヒンドゥー語とベンガル語で世界に発信した。

 同年三月、インド政府は第二次ネタジ死因調査委員会を来日させた。一カ月の調査の後、コスラ委員長は「ネタジ生存説は、ボースが生きていて欲しいという願望から出た幻想であり、捏造である」と言明したと伝えられる。

 けれども、遺骨返還への条件は整わなかった。ときあたかも東パキスタン独立戦争が勃発し、インド世界は巨大な混乱の渦に巻き込まれていった。八百万人以上ともいわれる史上最大の難民が発生し、十二月には第三次印パ戦争が火を噴き、「バングラデシュ」は独立を獲得するが、インド亜大陸はまたもや分裂することになった。その後の経済危機、「非常事態宣言」が出されるまでの政情不安、混乱をきわめる情勢下では、遺骨返還が進展するはずもなかった。(右上はボースの肖像画です。ネタジ記念館所蔵)

□□日本政府の要請も実らず□□

 五十一年八月、命日にあわせてボースの記念碑が蓮光寺境内に竣成した。三十三回忌を翌年にひかえ、死期を悟っていたらしい江守第二代会長の強い願いが込められていた。江守は五十三年に亡くなる。翌年には望月住職が遷化、相前後してボースの副官リーマンもこの世を去った。

 五十八年夏、光機関戦友会の世話役で、アカデミーの事務長・林正夫が単身、幾度目かの訪印を果たし、元INAの連隊長で、第一次ネタジ死因調査委員会委員長のシャ・ヌワズ・カーンと旧交を温めあう。

 数年前まで経済企画庁長官の要職にあったカーンは遺骨問題について、「目下、大統領と交渉中だ。こんどは実現できると思う。日本の友人たちにそう伝えてほしい」と語る。

 生死を共有した戦友の確信に、アカデミー関係者は喜んだ。しかしそれも束の間、同年暮れ、カーンは死去する。

 平成二(一九九〇)年春、アカデミーの運動は最高潮に達した。日本政府がアカデミーの陳情を受け入れ、海部首相のインド訪問時にインド政府に対して遺骨返還を要請したのである。没後四十五年目にして初めて日本政府が動いたのだ。首相の帰国後、インド政府から「インド国内でボースの死亡を確認する訴訟が係争中なので、結審後、前向きに検討する」との電報が届いた。しかし、その後の情報はない。

Netaji Museum 六年八月十八日、蓮光寺でボースの五十回忌慰霊法要が行われた。アカデミー主催による最後の法要で、例年になく多数の参列者が集まった。翌年からは個人個人が集う慰霊祭になり、それでも毎年五十人が集うのだが、櫛の歯が欠けるように、一人、また一人と、関係者は鬼籍の人となる。(左はカルカッタのネタジ記念館。ボースが国外脱出するまで自宅軟禁されていた実兄の邸宅です)

 「ボース生誕百年」の一九九七年はちょうど「インド独立五十年」と重なり、インドでは祝賀行事がピークに達した。

 カルカッタの国際空港は「ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース空港」に、国立スタジアムは「ネタジ・スタジアム」と改称された。誕生日は「国の祝日」となった。独立から半世紀、政敵ネールの「王朝」は幕を下ろし、「ファシスト」のレッテルを貼られ、歴史から抹殺されてきたボースの評価は「愛国者」「民族主義者」に変わりつつある。国会議事堂の奥まった中庭にはボースの全身像が、以前からあるガンジー、ネールの像の横に、新たに建てられた。

 昨年末、バジパイ首相が蓮光寺を参詣したとき、首相は第三次死因調査委員会の来日を約束したとも伝えられ、「四月にも」との情報もあったが、具体的な動きはない。日印のすれ違いはまだ続いている。

 今春には、遺骨を日本に運び、後半生を遺骨返還に捧げて孤軍奮闘した林田が、静かにこの世を去った。関係者は皆一様に最晩年の時を迎えている。けれども、遺骨返還はいまだその兆しすら見えない。(敬称略。参考文献=『ネタジ死因調査委員会報告書』『悲劇の英雄』『ネタジと日本人』など)

追伸 この記事は「論座」2002年8月号(朝日新聞社発行)に掲載された拙文「英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず」に若干の修正を加えたものです。

 十数年前、私はチャンドラ・ボースのことをほとんど何も知りませんでした。たまたま蓮光寺の近くに住んでいたご縁で、この記事に登場する多くの人たちにお世話になりながら、少しずつ勉強したのですが、そのなかでもっとも思い出深いのが博多にお住まいの林田さんでした。終戦直後、ボースの遺骨を台北から東京まで運び、戦後は遺骨返還のために孤軍奮闘された方です。悲しいことに今年三月に亡くなられました。心からご冥福をお祈りしたいと思います。(平成14年8月25日)

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