皇居1

女系は「万世一系」を侵す

「神道思想家」葦津珍彦の女帝論

斎藤吉久

Saito Yoshihisa

 10月下旬、皇室の祖神・天照大神(あまてらすおおかみ)をまつる伊勢の神宮で、伊勢の市民が「大祭り」と呼ぶ、一年でもっとも重要な神嘗祭(かんなめさい)が行われた。3日間にわたって、外宮(げくう)、内宮(ないくう)の順に、それぞれ夕刻と深夜の2回、今年、神田でとれた新穀の大御饌(おおみけ)が供えられる。最終日には、天皇が皇居内の水田で育てられた稲の初穂が、両宮の内玉垣に懸税(かけちから)として捧げられ、正午には勅使(ちょくし)が両宮に天皇からの幣帛(へいはく)を奉る。皇居では、この日の午前、神嘉殿(しんかでん)南庇で天皇が神宮の方角に向かって遙拝(ようはい)される。
 『日本書紀』は大神が保食神(うけもちのかみ)から五穀の種子を与えられたと記しているが、神嘗祭の起源はこの神話にあるといわれる。また、第11代垂仁(すいにん)天皇の時代に皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢国を巡幸されたおり、鶴がくわえていた霊稲を大神に捧げたのが神嘗祭の始まり、とも伝えられる。神宮の祭りは天皇の祭りであり、稲の祭りである。

 神嘗祭からほぼ一月後、全国津々浦々にまで稲穂が成熟するころ、今度は宮中神嘉殿で皇室第一の重儀である新嘗祭(にいなめさい)が行われる。11月23日の夕刻から深夜(翌日)にかけて、2回、陛下がお育てになった稲と、各県から献上された米と粟の新穀の御饌と御酒(みけ)が、皇祖神以下天神地祇に捧げられ、御自身も召し上がる。また当日、天皇は伊勢の神宮に勅使を遣わされ、両宮に奉幣(ほうべい)されるほか、全国の神社でやはり新嘗の祭りが行われる。
 『日本書紀』は天孫降臨に際し、大神が「高天原(たかまがはら)にある斎庭(ゆにわ)の穂をわが子に与えなさい」と命じられたと記述する。天孫降臨はわが国の稲作の始まりでもあるが、新嘗祭はの斎庭の稲穂の神勅に基づいた国家と国民の統合を象徴する食儀礼とされる(八束清貫〈やつか・きよつら〉『祭日祝日謹話』、阪本廣太郎『神宮祭祀概説』など)。
 天皇の祭りと神宮を中心とする神社の祭りは深く結びついている。天皇は祭り主であり、祈る王である。亡き昭和天皇は病魔との最後の苦闘のなかで、宮内庁長官を呼んで「今年の稲はどうか」と聞かれ、作柄を心配されたという。最期の最期まで、「国安らかに、民安かれ」と祈り続けるお務めを果たされたということであろうか。

 さて、いまその皇室に、重大な危機が訪れているといわれる。皇太子殿下の次の代の皇位継承者の候補がおられないのである。皇室典範によれば、皇位継承資格者は皇太子以下高円宮親王まで、7人おられるが、その次の代がおられない。皇太子殿下と雅子妃殿下の間にはお子さまがお生まれにならず、秋篠宮、三笠宮寛仁、高円宮各親王家は女子ばかりで、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定める現行の皇室典範からすると、継承者が絶えてしまいかねない。
 この危機を打開するには、法改正によって女子にも継承権を認め、「女帝」を認めるほか道はない、と公然と主張する人もいる。数年前の自民党総裁選では、公開討論で、「女性が天皇になるのは悪くない。皇室典範はいつ改正してもいい。必ずしも男子直系にはこだわらない」との意見が飛び出した。また、今春(平成10年春)、行われた共同通信社とその加盟社による世論調査では、「女子が天皇になってもよい」とする回答者が49.7%(前回の平成4年は32.5%)にのぼり、「男子に限るべきだ」の30.6%(前回は46.8%)を上回り、順位が逆転した。その背景には、「女性の社会進出や男女の雇用機会均等化」という時代の流れが指摘されている。

 皇位継承の根幹に関わる「女帝容認論」に対して、人一倍、敬神尊皇の念が強いと思われる神道人はどう考えるのか。「神道の社会的防衛者」を自認し、「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)の論に耳を傾けてみたい。
 その前に葦津の略歴を見てみよう。
 葦津は明治42(1909)年、福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家の家系に生まれた。父耕次郎は熱烈な信仰家であったが、神職として一生を送らずに事業家となり、満州軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を説いて鉱山業を興し、あるいは工務店経営者となり、全国数百カ所の社寺を建設した。一方で、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神をまつることに強く抵抗し、韓国併合には猛反対、日華事変(日中戦争)勃発以後は日本軍占領地内の中国難民救済のために奔走した。
 珍彦はその長男で、はじめは左翼的青年であったが、父の姿を見て回心し、戦前は神社建築に携わる一方、俗に「右翼の総帥」といわれる玄洋社の頭山満、当時随一といわれた神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆でのちに自由党総裁となる緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判した。
 敗戦を機に、「皇朝防衛、神社護持」への献身を決意し、神社本庁の設立、剣璽(けんじ)御動座復古、元号法制定などに中心的役割を果たした。昭和天皇が極東裁判に出廷する事態になれば特別弁護を買って出ようと準備していた、といわれる。昭和36年末の「思想の科学」事件の渦中の人でもある。著作は『神道的日本民族論』『神国の民の心』『国家神道とは何だったのか』など50冊を超える。一介の野人を貫いて、平成4年春、82歳でこの世を去った。

 昭和29年暮れに発行された『天皇・神道・憲法』という本がある。葦津が書いた「はしがき」によれぱ、葦津が主筆をつとめる神社新報社の政教研究室で、この年の春から青年たちと憲法問題について自由に討議した私的な報告書とされる。討論の中心にいたのはもちろん葦津である。
 「皇位継承法」についての1章では、次のような批判が展開されている。
 戦後、憲法学者の間でわき起こった女帝容認論に対して、皇室の「万世一系」とは「男系子孫一系」の意味であることは論をまたないとし、女系の子孫(男子であれ、女子であれ)に皇位が継承されるとすれば、それは「万世一系の根本的改革」を意味し、断じて承認しがたい、といいきっている。
 しかも、明治の皇室典範は帝国憲法と相併立し、憲法と対等の権威を有する重い法典であったのに対して、日本国憲法下の皇室典範は国会がいつでも改廃し得る一般の法律と同様のものに過ぎなくなった。国史のなかで重要な位置を占めてきた皇位継承は、厳格に固守されるべきであって、一時的な政党や党派の消長や学説の推移によって軽々に動揺させるべきではない。現行憲法は「皇位の世襲」を規定しているだけで、女系を認めるという根本的改革でさえ国会の多数決で可能になったのは「軽率のそしりを免れぬ」と強く批判している。

皇居3 20数年後の昭和52年、明治神宮は御鎮座60年祭を前にして、「大日本帝国憲法制定史調査会」(会長・伊達巽宮司)を発足させた。帝国憲法は、祭神の明治天皇が治世中に皇祖皇宗の遺訓を体して欽定された、日本で初めての成文憲法であり、明治維新の大業を法的に総括した記念碑と位置づけ、その制定史を編纂発行するために、原案執筆者として調査会が一致して委嘱したのが葦津であった。
 900ページ近い大作『大日本帝国憲法制定史』は主観が抑制された重厚な学術的論文となっている。旧知の憲法学者で、調査会の委員長を務めた京都大学名誉教授・大石義雄が原案すべてに目を通し、脱稿されたと聞く。稲田正次の先駆的な業績『明治憲法制定史』は別にして、小嶋和司の本格的な研究『憲法論集』がまとまって刊行される前に、憲法研究の専門家ではない神道人による帝国憲法制定史が発表されたことは高く評価されていいだろう。
 『制定史』は前半の「大日本帝国憲法制定史」と後半の「皇室典範制定史」の2部構成になっている。以下、女帝問題に関連のある部分を拾っていく。

 明治8年4月、明治天皇元老院を設けて国憲を草することを詔(みことのり)された。憲法典作成とともに、それまで「不文の大法」とされた「皇位継承」の重大事が憲法上の明文をもって示される必要があるという議論が起こる。一般には「皇室典範」の立法が考えられるようになったのは明治14年の岩倉具視の「憲法綱領」以後といわれるが、「皇位継承」の条文作成の準備は元老院の「国憲案」に始まっている、と『制定史』は理解する。
 また、国憲起案の勅語には「海外各国の成法」をも参考にすべきことが示されており、皇位継承についてはオランダ憲法などの法理が参考にされた。最終案で論争となる元老院の「女統女帝」肯定論が準拠したのは、国憲案作成過程でまとめられた日本史の「皇位継承篇」ではなく、イギリス流のオランダ憲法であると推察してほぼ間違いあるまい、と推測している。
 元老院の国憲案は男系男子の継承を原則とし、嫡出優先主義に立ちつつ、「もしやむことを得ざるときは」として女統継承を認めた。しかし、この案は元老院で正式に決議したものではなく、多くの異論があり、とくに女統継承に対して、東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)以下が削除を要求した。仁孝天皇の皇女和宮将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁したように、皇女といえども姓が変わり、王氏、王族ではなくなる。「万世一系の皇統」に抵触する、というのがその理由であった。
 結局、元老院案は立憲を尚早とする岩倉具視らによって葬られる。

 明治14年の政変後、国会開設、憲法制定の勅諭が渙発(かんぱつ)され、在野でも憲法試案作成の機運が生じる。皇室典範起草者のなかには女統女帝説に固執するものがあったようだが、井上毅が強く反対する。
 井上の後年の反対意見書には、反政府政党人で、政敵でもある嚶鳴社(おうめいしゃ)の島田三郎の7、8年も前の「女統女帝を否とするの説」が掲げられ、全面的同意を示しているのは注目されるとし、『制定史』は井上意見書「謹具意見」の冒頭部分をそっくり引用している。
 女帝容認論はヨーロッパの女系相続と日本史上の女帝とを混同しているというのが井上の論だが、島田は皇位は男系に限るとしたうえで、予想されるふたつの反対論(女帝容認論)に対して反駁を加えている。皇居4

 第一は、「歴史上に女帝が存在するのにいなさら男統に慣習を破壊することだ」とする反対論で、島田では「この論は古来の女帝即位の実態がまるで今日とは異なることを理解していないといわざるを得ない」と批判する。
 歴史上の女帝は推古天皇から後桜町天皇まで8人、10代だが、このうち独身のまま皇位を継承されたのは孝謙以下4帝だけで、そのほかはいったん結婚されている。しかも大位に就いたのち皇太子を立て、時を待って譲位することを前提としている。天皇というよりは「摂位」に近い。
 独身で帝位に登られたのは元正帝、孝謙帝と続くが、元正天皇の時代には首(おびと)皇子があり、孝謙帝のときは皇太子に道祖(ふなど)王、大炊(おおい)王がおかれた。近世には父後水尾帝の譲位でわずか7歳で皇位を継いだ明正帝がおられるが、皇太子はなかった。これが唯一の例外で、後桜町帝は幼少の英仁(ひでひと)親王が成長するまでの皇位であった。
 第二の女帝容認論は、「男女同権の時代に男女が等しく皇位を継承するようになるのは各国共通で、日本だけ男系に固執するのは時代に反する」というものである。しかし、古来、わが国に存在する女帝と外国の今日の女帝とが同じでないことを見るべきである、と島田は反論する。
 女帝を立て、しかも独身を保たれるのは天理人情に反する。また、皇婿を立てるにしても、海外から皇親を迎えることはできないであろうし、国内に皇婿を求めるとすれば、臣民にして至尊に配することは皇帝の尊厳を害することになる。男女同権といっても、政治は時世や人情に左右されるべきではない。わが国の現状は男尊女卑であり、皇婿を立てれば女帝の上に一の尊位を占める人があるかのような誤解を招く。皇婿が間接的に政治に干渉する弊害も生まれかねない。
 古来、わが国の女帝は登極ののち、独身を守り、至尊の地位を保ったため威徳を損なうことがなかったが、これは道理人情にかなう制度ではなく、今日、採用すべきではない。
 以上が、わが国では、たとえ遠い皇親であっても男統に限って皇位を継承することとし、いたずらに近きにとって女帝を立つべきではないとする理由である−−というのが島田の論である。

 井上意見書はこのあと同じく嚶鳴社の沼間守一(ぬま・もりかず)による女帝反対論が続き、そのうえで井上は、イギリスでは女帝が継承すれば王朝が変わる。ヨーロッパの女系説を採用すれば「姓」が変わることを承認しなければならない。もっとも恐るべきことである。皇位継承は祖宗の大憲がある。けっして女系異姓の即位を認めるような欧州の制度をまねるべきではない。また、欧州においても、サリカ法の国は女子が王位に就くことを認めていない。婦女に選挙権を認めないで最高政権を握ることを許すことは矛盾である−−と反対論を展開しているのだが、『制定史』は議論の重複と考えてか、これらを省略している。
 憲法制定、国会開設の勅諭に従い、明治政府は制憲の準備を急いだ。明治15年には岩倉具視の権限に基づいて大方針の原則が立てられ、憲法と皇室の憲則(のちの皇室典範)が分離して立案されることになる。皇居5

 明治18年の歳末にはじめて内閣制度が成立し、翌年正月から憲政準備が進む。指導に当たったのは伊藤博文首相兼宮内大臣である。井上毅が明治19年から帝国憲法の起案を始めたことは知られているが、相前後して皇室典範の試案も作成された。
 「皇室典範」の最初の試案と目される「皇室制規」は皇位継承を主たる内容とし、元老院の国憲案と同じく、男統男子の皇位継承者なきときは皇女に伝え、皇女なきときは皇族中のほかの女系に伝える、という明文がある。
 日本の皇統史に例のない法であり、日本人の皇統に対する君臣の意識を根底から混乱させるものがあるにもかかわらず、しかも元老院国憲案のときから反対のあった女帝説が根強く残っていたのはなぜか、と『制定史』の著者は問いかけ、女統継承論者も男統の優先順位は認めるが、法理を抽象的に考えて、男統がまったく絶えたとき、女統が存在するとすれば女統でも存在した方がいいではないか、と考えている。この論を強めたのには外国法の影響が見逃し得ない−−と指摘する。
 「皇室制規」は女帝を容認する一方、「皇族庶出の子」を排除している。しかも、「親王、諸王の二男以下」の臣籍降下を急ぐかのような思想が垣間見える。これでは、男統の断絶も架空の論とすることはできない。これは容易ならざる大事である。女統継承論を掲げ、伝統的な日本人の君臣の意識を動揺させるよりも、まず男統の絶えない制度を優先的に慎重に考えるべきではないか−−と『制定史』は主張する。

 伊藤博文、井上毅など多数の強力な反対があって、女統女帝の皇位継承肯定説はこの「皇室制規」を最後にまったく消え去ったかに見える。「帝室法則綱要修正案」では、皇位継承は男統男子に限る、と明記され、明治19年後半から始まる柳原前光(やなぎわら・さきみつ)による本格的な起案では、女統論はまったく顧みられなくなる。大宝令以来の古法古制が詳細に検討・採用され、伊藤宮相に提出された柳原案の最終稿「皇室典範再稿」は、第二条で「皇位は男系の男子これを継承す」と定めている。
 柳原案がさらに修正削除推敲された「皇室典範諮詢(しじゅん)案」では、第一章「皇位継承」第一条で、「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す」となっている。諮詢案は明治21年5月から枢密院会議で、明治天皇の御前で審議されたが、第一章「皇位継承」に関しては、議論らしい議論はなかった。明治22年2月11日、純白の雪に清められた皇居で、明治天皇は皇祖皇宗の神前で皇室典範ならびに帝国憲法制定のよしを奉告され、全国の神宮神社で国家の大事が奉告された−−と『制定史』は書いている。

 『制定史』から10年後、晩年の葦津が草案をまとめた昭和62年発行の皇室法研究会編『共同研究現行皇室法の批判的研究』では、「女帝の認否」についてこう言い切っている。「われわれは、女帝は国史に前例があっても、これを認める必要がないと確信している」。その理由については、「明治神宮編『大日本帝国憲法制定史』中の論と重複するので略す」とあるだけで、ほかにはいっさい言及されていない。明治の制憲過程において議論は十分に尽くされているということか。あるいは、議論の余地のない神武以来の「祖宗の遺範」だということだろうか。
 葦津の論でもっとも重要なことは、天皇は万世一系の祭り主であるという一点に尽きるだろう。女帝は認められないとする結論は、そこから必然的に導かれている。ただ、万策尽きた場合に、それでも皇統の連続性を保つための女帝をも、葦津が頑迷固陋(がんめいころう)に否定し去っていたのかどうか。

皇居6 しかしながら、ここまでは法制度論である。法制度をいくら議論したところで目前の「危機」は消えない。危機とは何か。それは、皇位を継承する資格者がおられない、という「危機」ではない、と葦津ならば論じるのではないか。ほんとうの危機とは、「女性の社会進出」というような表層的ともいうべき時代状況に幻惑され、あるいは外国の例を引き、悠久なる皇室の神聖と固有の伝統が侵されることの「危機」なのだろう。
 葦津はくりかえし強調する。天皇は世界に類(たぐい)まれなる公正無私を第一義とする祭り主である。祭りこそが天皇第一のお務めであり、祭りをなさることが同時に国の統治者であることを意味している。
 明治時代に廃れてしまったが、それまで千年にわたって続いた「さば」とよばれる宮中行事がある。天皇は毎食ごとに食膳でかたわらの皿に一品ずつ料理をお分かちになり、そのあとはじめて召し上がった。皇祖の神意を重んじて、「わが知ろしめす国に飢えた民が一人あっても申し訳ない」と祈る思いで、名もない民草のためにこの行事を淡々と続けられた。ここに祭り主たる天皇の本質がうかがえる。
 平成7年の阪神大震災のとき、ワシントン・ポスト紙は、今上天皇が被災者を見舞われたことを大きく取り上げ、村山首相が震災2日後に被災地を訪れたときに「あざけりと不平に迎えられた」のとは対照的に、「あたたかい気持ちが芽生えた」と書いた。天皇には「民の声を聞き」「民の心を知る」王者の伝統がある、と葦津はいう。悲しみや憂いを共有され、「民安かれ」と祈られるのが天皇であり、今上天皇は万世一系の伝統に従って、祭り主の大任を果たしておられるということか。

 天皇統治の神話的起源は天照大神に求められるが、大神は全知全能の無謬なる神ではない。神話では唯一絶対神にはほど遠く、むしろ弱々しくさえ見える大神を、至高至貴なる皇祖神として信奉されるところに、天皇の高雅の清風が生じる、と葦津はいう。
 天皇統治は「知らす」(民意を知って統合を図ること)であって、「うしはく」(権力支配)ではないという。帝国憲法が規定する「天皇統治」は「知らす」の意味であった。唯一絶対神に支配の根拠をおくヨーロッパの王制との違いは明らかだが、現代人には分かりづらいものとなっている。

 天皇が祈る王なら、国民もまた皇室の弥栄(いやさか)と国家の繁栄とを祈らねばなるまい。新しい生命が生まれる根底には神霊の働きがあり、皇嗣の誕生は皇祖神の神意に導かれる。危機は「一君万民」の祈りによって克服される。葦津ならば、そう論じたのではないか。
 しかし、葦津亡き後、皇室の神聖と高貴なる伝統の保持のために、一日も早い皇嗣の誕生を願って、国民的な真摯な祈りを呼びかけるような精神的指導者はいるのか、いないのか。(文中敬称略)


追伸 この記事は朝日新聞発行「論座」1998年12月号(特集「女性天皇への道」)に掲載された拙文に多少、修正を加えています。

 ひと頃はおさまっていた女性天皇論議が、新宮様御誕生後、ふたたび息を吹き返しました。けれども、天皇・皇室問題の専門家と思われる方々の女性天皇容認論を聞いていて、理解に苦しむのは、ひとつは女性天皇を立てたのち、その後をどうするのか、ということです。

 たしかに歴史的に複数の女性天皇は存在します。しかし、女性天皇からその子孫へ、皇位が継承された歴史はありません。元正天皇の母君は元明天皇で、元明帝の譲位ののち元正帝は即位されたのですが、母君が天皇だからではなく、天武天皇の皇孫ゆえに皇位を継承されたのです。皇位を継承されたのち、元正天皇は生涯、独身を貫かれました。女性天皇からその子孫へと皇位継承の道を開こうとする容認論は、天皇史に本質的な変革をもたらすことになります。けれども、容認論者にはその意識がほとんどまったく見受けられないのはどうしてなのでしょうか。

 もうひとつ、「女性にも能力がある」として女性天皇の即位を認めようとする議論も理解に苦しみます。本文中で取り上げた葦津珍彦氏はある論考で、女性に能力があることを認めているからこそ、能力を必要とする摂政に女性もなれる。しかし皇位は「能力の有無」とは無関係なのだ、といっています。同感です。

 イギリスに範を求めようとする議論も奇妙です。最初の女帝・推古天皇が即位されたのは6世紀末ですが、イギリスではじめて女性が王位についたのは16世紀です。巷間流布されている男女同権論からすれば、日本の方がむしろ「進んでいる」のです。しかも、ここが重要なのですが、イギリスでは女性が王位を継承すると、王朝が代わる、のです。「万世一系」とよばれる歴史の永遠性を希求する日本との決定的違いがここにあります。

 問題は「皇位とは何か」です。この本質的議論なしに、皇位継承を論議することは無意味です。皇太子殿下の次の代の皇位継承資格者がおられないことをもって、女性天皇を容認しようとする議論は、本末転倒なのではありませんか。まして法律や制度をいじくりまわして、皇位を存続させようとする論は、軽率といわねばなりません。日本民族の歴史そのものと深く関わる皇位継承が、そんなに軽いものだとは、とうてい思えないからです。

 軽々に語るべきことではありませんが、天皇史をふり返れば、「空位」もあります。皇位が皇子に直ちに継承された例は史上わずかに20数例。驚くほど、少ないのです。皇位継承はつねに「綱渡り」でした。だからこそ、神をも動かすほどの「真摯な祈り」が求められているのではありませんか。私が申し上げていることは、けっして神頼みではないつもりです。天皇とは「祈り」そのものだからです。私はそう考えます。(平成13年12月)


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