山歩会関東支部最後の日


95年卒業 UNI


2001年1月、山歩会関東支部は正式に原連合の傘下に入った。 新名称は原連合関東支部。これを受け、米格付け会社ムーディーズインベスターズサービスがAAaに再評価することを発表。また、スタンダードアンドプアーズも追随し、AAAに格付け。原連合は世界が認める巨大組織となった。 山歩会関東支部は1999年2月26日に設立され、活発な活動を繰り広げていたが、わずか2年でその歴史に幕を閉じた。

歴史の転換点というのはそのときには気づかないものである。ベルリンの壁が崩れたときもその歴史的意味に気づいた人は少なかった。人はあとから振り返って、その出来事が重大な転換点であったことに気づき、その時代を生きたことに誇りをおぼえるのだ。
このときもそうだった。1999年6月26日、原連合が世界的巨大組織に変貌を遂げる、その歴史的な転換点だったのだ。

私はその日、いつもと変わらぬ朝を迎えた。 いつもと同じようにコンチネンタルの朝食をとり、外国の新聞もあわせて7紙に目を通した。また気になったニュースは最新型コンピュータを用いて、インターネットで検索した。メールは30通ほど来ていたが、それらに目を通し、スケジュールを確認した。最新情報によれば原連合が千葉に来るらしい・・・私は最新型衛星携帯電話で原連合の潜伏先であると思われる浦安に問い合わせてみた。 また、山歩会関東支部の重鎮、長沢氏にも連絡をしてみた。それらの情報を総合すると原連合は浦安を出発し、猛スピードで千葉への侵攻を開始したらしい。私も急いで対抗措置をとることにした。まずは今井氏に連絡をして国際都市千葉で待ち合わせをすることにした。こうして千葉に山歩会関東支部のそうそうたるメンバーが集うことになった。

私は10時半に千葉駅に着いた。 しかし待てど暮らせど原連合はあらわれない。 長沢氏に問い合わせると原連合は相変わらずの猛進撃ぶりらしい。浦安から2時間だからその速度には目をみはるものがある。さすがは原連合。今回は原康二氏とその一番弟子、山岡氏、そして原連合会員の久保氏である。浦安組も一緒である。 直進すれば小一時間程度であろう距離を今井氏よりゆっくりきたのはやはり関東支部のメンバーに動揺を与え、作戦を有利に進めようという古典的「宮本武蔵戦法」だったに違いない。

さて、ここで原氏のことを知らない人のために紹介をしておこう。 原 康二氏、廿日市市出身。1975年2月19日生まれ。原連合の総帥である。趣味特技の欄には自転車、バイクなどと書いているがとんでもない。そんな生やさしいものではない。 彼は走り屋である。スピードよりも距離、時間に重きをおいた走り屋である。彼に連れ去られ、どこそこまで行ったという話は枚挙にいとまがない。 彼は国道よりも県道を好み、県道よりも林道を選ぶ。 彼の中では日本列島は狭い。1日は短い。同行者の体力や気力は計算外。乗り物に1日20時間以上乗れない人はおつきあいできない人である・・・

しかし、長沢氏も負けてはいない。ここで意表をつく行動に出た。インスタントカメラを衝動買いしたのである。電気屋に入っていったなあと思っているうちに女子高生受けしそうな低価格インスタントカメラを買ってしまったのだ。このあたりからすでに両勢力は火花を散らしていたのである。

関東支部の運命と名誉をかけて、長沢氏が先導することになった。進路を南に取った。むろん、関東支部発足の地、天下一品袖ヶ浦店に向かうためである。これには原連合のブーイングを受けたが、意に介する関東支部ではない。 袖ヶ浦店ではなぜか辛子みそが無かった。長沢氏はこれにおおいに憤慨し、二度と来るものかと捨てぜりふをはいていた。彼ほどの天一ファンが見捨てる店はそう長くは持たないであろう。(未確認情報によればこのあと閉店したらしい。) 袖ヶ浦での安らかなひとときを過ごしたあと、我々は一路、房総半島南端をめざした。途中、道沿いには椰子の木が並び南国を演出していた。どれもこれも葉っぱの半分は枯れている。たいした南国である。やがて一行は海岸で休息をとった。

海岸沿いには背の低い松が生えており、ハイマツ帯を彷彿させた。しかもどこからか聞こえてくるエンジン音が山小屋の発電機の音に聞こえ、山奥の感じがした。やはり山歩会は山に行かなきゃだめだ。しかし、千葉には山がないのである。
ここは長居するような場所でもないので南端を目指すことにした。 と、ここで原氏がトイレに行く。出発間際にトイレに行くのは原連合のしきたりらしい。

房総半島の南端には巨石文明があった。 つやつやに磨かれた巨石が何の意味もなくおかれていた。我々は浜辺の岩に立ち太平洋を眺めた。皆、山登りを志す者、高いところが大好きだ。煙となんとかは高いところが好きである。すると、そこからなにか柱のようなものが見えた。海に突き出した岩場になにか柱が立っている・・・あれこそ真の最南端に違いない。そう思った私たちは濡れて滑りがちな岩場をものともせず、柱に迫った。
しかし、その柱のようなものは何でもないただの柱であった。特に何が書いてあるわけでもなかった。大いに失望したが、とある浦安市民はイソギンチャクをつつくと縮む習性にいたく感動し、無心につついていた。ここから太平洋の荒波を眺めた原氏は大海原の向こうに何を見たのだろう。

帰りには県道81号を走った。 県道81号は山道で、素堀のトンネルもあるすばらしい山道だった。たまに0.8車線くらいになって原氏を喜ばせた。大きな国道大嫌い、狭い県道大好きという原氏である。至福の時であったに違いない。山には雲がかかり、山歩会関東支部にふさわしい風景だった。千葉に住む私でさえ、千葉にこんな美しい山があるなんて思いもしなかった。
この間、原氏はいつものにこにこ笑顔で運転していた。このときらしい。彼がこの自然の恵み豊かなすばらしい千葉を勢力下におさめ、原連合の東方拡大の第一歩とすることに決めたのは・・・

こうして原連合の勢力拡大の第一歩は踏み出された。それは歴史における大きな転換点であった。後の歴史家たちはその場に居合わせた私たちを羨望の眼差しで見ることだろう。





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