本日、上司を交えて上期の成果の査定が行われた。
評価制度が導入されて随分とたつ。もう、お互い慣れちゃったせいか、結構いい加減だ。いい加減なのは、実質的な中身であり、表面的な言葉のやりとりや成果報告の文書は厳格なものである。
どういうことかというと、査定の場が、形骸化してるということ。
査定の場でいくら主張してみたところで、何も評価は変わらないというあきらめと、それを当然と思っている上司の意識とが、お互いに透けて見えるということだ。
査定の場は、淡々と形式的に成果を話すだけ。つまらない。時々、嫌味なことを言われるが、こちとてそんなことを、以前の俺のようにバカ正直に受け止めてはいられない。流す方針としている。
査定結果は「GOOD」。標準以上のようです。別にこれも、一生懸命やった結果というわけでもない。頑張れば頑張るほど空回りしちゃってたけど、力を抜いてみると意外とすんなり物事は回ったりする。評価なんて、分からないものだ。評価する者次第だろう。
じゃあ、仕事は適当でいいかというとそうではない。ただのおべんちゃらづかいや、へつらいはもってのほかだ。見せかけの成果主義は、自分の心を擦り切れさせるだけだから意識の片隅においやっておけばいい。
大事なのは、評価や給与などを超えた、自分の進むべき確固たるポリシーを仕事でも持つことだ。また、そういったポリシーを持てる様になること自体が俺が働く理由だと言ってもいいだろう。世知辛い大人なしがらみには、こちらも大人な対処で適当に流しちまえ。俺は会社のために働いていることになっているんだろうけど、そんなんじゃない。自分の給料のためでもない。自分のために働いているんだ。なんて最近では思っている。