活動記録1



20031025日 第10回研究会
 今回は16名(オオタイシ、ドヒ、サトウ、アベ、カンノ、アオノ、イシヅケ、シマカゲ、シモダ、スズキ、ソエダ、サカイ、フクイ、ヤナセ、ウシロ、オサダ)が参加。とりあえず写真をアップ。研究会の写真ははじめて…。石鏃と洞窟の話し、詳細は長田さんに報告してもらいます。

 第10回研究会は、平成151025日(土)に北海道開拓記念館会議室で2名の発表者により行われました。

 はじめは酒井秀治さんによる「北海道道央部における続縄文直前期の石鏃について‐江別市対雁2遺跡の調査から‐」でした。酒井さんによると、縄文晩期後葉中ごろのV期(鈴木信氏による編年)前後に石鏃の形態が変化することが分かってきており、漸移ではなく急変することが特徴であるとのことでした。また土器の製作技法や他遺跡との関連の分析を一層深めることが今後の課題とも述べていました。

 発表後の討論では、「石鏃の形が漸移することなく変わることについては、代替ではなく、ある画期を境とした形態の変化と考えている」といった持論や、「対雁2遺跡付近での氾濫は時期別には大きく偏らず、ほぼ一定の間隔で繰り返された」とする分析結果などが語られました。

 いずれにしても、対雁2遺跡での新知見や土器編年の詳細な説明も含めて、いつか続編を発表していただければ幸いです。酒井さん、ぜひお願いします。

 2本目は右代啓視さんによる「北海道南西部における洞窟遺跡の性格」でした。右代さんによると、現在のところ道内に分布する洞窟、洞穴、岩陰等とよばれる遺跡は76カ所で、その多くは縄文海進期に形成された海食洞を、続縄文時代に利用するものであるとのことでした。

 近年の調査成果によって、道南西部では恵山期に最も多く利用され、キャンプサイトを主とした性格をもつこと等が次々と判明してきているそうです。今後は内陸部での発見と分布状況の確認が課題であり、組織的な調査が必要であろうと述べていました。

 個人的には地域間の情報の共有という意味で、今後の研究発表・巡検や共同的な取り組みのヒントになるような事例だったのではないかと思います。

 以上、雑駁ではありますが研究会報告とさせていただきます。酒井さん、右代さん、どうもありがとうございました。

(長田佳宏)



200383031日 第5回巡検

 管理人は初日一か所目のモヨロ貝塚のみ参加。当日は大変天気がよく、ウシロ、サトウ、ドヒ、ヒロタ、フクイ、ソエダ、スズキ、オオタイシ、ナオエ、ヤナセ、アオノ、カンノ、ミノシマ、*、*、*、*、アラキの計18名が参加しました。
 
というわけで今回は、簑島さんに報告していただきます。

 830日 1330にモヨロ貝塚に集合。天気は快晴。絶好の巡見日和である。
 今回のモヨロの調査では、道東では3例目となる刻文期の住居址が検出されている。オホーツク文化の拡大過程を考えるうえでも貴重な事例となりそう。墓域は、まだ下層まで掘り進んでいなかったが、それでも被甕が累々と並ぶのを確認できた。ざっと見渡すと、刻文から貼付文まで幅広い時期にわたる様子。住居址から出たラッコ?型の石製品や、靺鞨・女真系の青銅製鐸を模した石製品も見せていただく。大陸渡来品の希少さがうかがわれるが、こうした品を模造してまで入手したいと願う、オホーツク社会における大陸製品の位置づけはどのようなものだったのか、興味が沸いた。(なおその後の調査で、クマ型石製品や、ウリチの船に似るという船型土製品などの出土が報じられ、話題となっている)
 続いて、海沿いの道路を二ツ岩の方面へ。まず、美岬6遺跡の発掘を、道立北方民族博物館の角氏の案内で見せていただく。方形の住居址一軒が掘られていた。一角には、カマドかと思われるような構築物もあるという。すぐ近くには、オホーツク文化の集落として著名な二ツ岩遺跡があり、そこではかつて擦文初期の甕や土師器も出土している。そうしたこともあり、「美岬の住居が擦文のものだと面白いのですが」とは鈴木琢也氏の弁。だが、件の構築物はどうもカマドではなさそう。方形の住居は宇津内など続縄文期にも例があり、擦文住居ではないようだとのこと(詳細は後報を待ちたい)。
 右代氏によると、沢を越えた反対側にチャシ址(タンネシラリチャシ)があるが、草が高くて、行くのは苦労するとのこと。それでも有志7人で向かう。先頭を進む大泰司氏が茂みをかき分け、まるでデルス・ウザーラのようにずんずん道を拓いてゆく。その背中を追いながら、一同、2つの沢を登り降りして、どうやらそれらしき場所に到達。掘割が切られているのも確認できる。急峻な沢に挟まれた典型的な丘先式のチャシに見受けられた。
 本隊?と合流して、すぐ近くの二ツ岩遺跡へ向かう。竪穴のくぼみがいくつも残っている。かつて調査に参加された右代氏に解説していただく。対岸にはモヨロのある網走河口や知床方面が一望できる。この集落と、モヨロや知床の集団、また西側の常呂などの社会とはどのような関係にあったのだろうか、しばし思いを馳せる。
 さらに西の常呂町へ。熊木俊郎氏の案内で、東大が継続しているトコロチャシ遺跡の発掘を見せていただく。今年も新たな住居址を発掘している。3回の建て直しの跡が明瞭に確認できる。獣骨が住居の両端に確認されるのを見せていただいた。骨塚を両面に持つ例は根室でも見たことがあると荒木氏から耳にする。引き続き、常呂資料陳列館へ。東大の長年にわたる調査の成果の一端に触れる。
 これで巡見初日のメニューを終え、宿泊地の紋別市内へ向かう。道すがら、サロマ湖に沈む夕日が美しい。紋別で、明日の案内をお願いしている佐藤和利氏と合流。予約していただいていた焼肉屋の薄暗い店内に入る。変わった趣向の店、と思いきや、突然の停電だとのこと。メニューの品はほとんど調理できないばかりか、生ビールも出ない。他の客はどんどん帰っていく。忍耐強い我々は、ありたけの瓶ビールを出してもらい、暗がりの中で乾杯。談笑しながら待つことおよそ30分。電気が復旧したときには一同歓声と拍手。待ちわびた生ビールを片手に、研究談義にも花が咲く。
 翌日はまず紋別市博物館。昨年の改装によって一新された展示を見せていただく。旧石器、縄文、アイヌ社会、近代それぞれのジオラマの精巧さは特筆すべきもの。その反面で、実物資料の多くは収蔵庫に納めざるをえなくなったとのこと。サケ漁の網が宙吊りに展示されている。佐藤氏によると、紋別でのサケ網漁の形態は道内に類例がなく、新潟のものにそっくりだとのこと。近代における漁法の技術伝播という問題も興味深い。
 続いてオムサロ遺跡へ。私事ながら、6年前に地元の武廣亮平氏(道都大)に連れてきていただいて以来の訪問。擦文の復元住居が主体となり、アイヌ文化期のプも復元されている。植生もよく保存されて、さまざまな草木に名札がつけられている。ふと見ると、はじめて目にする韃靼蕎麦の花が咲いている。思わず写真に収めた。
 佐藤氏と別れ、市内のシブノツナイ竪穴群へ。大小あわせて、とても数えることはできない数の窪みが残っている。竪穴の間をつれづれ歩きしながら、道東北における未発掘の竪穴群の規模に改めて圧倒される。こうした大集落が、どのような要因によって突如として道東北に出現するのか、考えさせられる。なお、「六角形に見える」、と言い合う窪みもあったが、定かではなかった。一同、そこで記念撮影をして、1230分頃、解散。岬で解散というのが恒例だそうだが、今回は例外となる。
 余談が多くなり恐縮であるが、好天にも恵まれ、充実した巡見であった。門外漢なりに現地を踏み、自分の目で確かめる貴重な体験とすることができた。当日、案内してくださった方々、企画・段取りに尽力くださった事務局の皆様に改めてお礼申し上げたい。
                                                                            蓑島栄紀



2003年7月1920日 第4回巡検

またまた管理人は不参加。7名の参加があったそうです。そこで石附さんに報告してもらいます。

 2002年秋より北方島文化研究会に参加させていただいている石附です。
考古学に関しては素人の身ですが、右代さんの所へ遊びに行っているうちに会の行事に参加させていただくことになりました。
 今回の巡見は伊達市の青野さん、菅野さん案内による伊達市遺跡巡り。参加者は右代さん、佐藤さん、土肥さん、大泰司さん、鈴木さん、嶋影さん、石附。
 1日目、天気は良好。集合時間にいきなり遅刻。申し訳ありません。まずは伊達市が発掘調査中の有珠善光寺遺跡へ。道路拡幅工事に伴なう発掘という事情や巨大な岩がゴロゴロと転がる現場状況などにいろいろと苦労されているようです。続いて有珠モシリ遺跡を見学。さらに事務所で今年の出土遺物や貴重な収蔵資料の数々を拝見。夜の懇親会についてはほとんど記憶が無いために割愛。菅野さん、右代さん、鈴木さんは所用によりここでお別れ。
 2日目、残念ながら小雨交じりの中、ポンチャシ、ポロチャシ、チャシコツ、館山チャシとチャシ巡り。館山チャシは現在公園になっていますが、壕の跡が残り、崖下に海が広がり眺めが素晴らく、まさに砦という感じの場所でした。そして北黄金貝塚へ。現在は縄文の丘という公園になっており、公園内の北黄金貝塚情報センターでは様々な資料を閲覧できます。昼食後は登別へ。アイヌの伝承で「あの世への入り口(アフンルパル)」と呼ばれている場所があると聞き、近くまで行き探すも残念ながら見つからず。最後は虎杖浜で土産物屋の海産物を見物して解散。

 案内役をしていただいた青野さん、菅野さんのみならず、今回も皆様にいろいろとお世話になりました。ありがとうございます。今後も会の行事に参加させていただくつもりでいますので、よろしくお願いいたします。                                                    (石附望)



2003年6月28日 第9回研究会&第一回活動報告
 最近忙しい管理人はまたも不参加。島影さんに報告してもらいます。
                          
 第9回研究会は「防御性集落出土の須恵器―古代蝦夷(エミシ)の交流・交易と防御性集落―」というテーマで北海道開拓記念館の鈴木琢也氏によって発表されました。
 内容は東北地方北部の防御性集落と北海道の擦文文化の遺跡から出土した五所川原産の須恵器をとりあげ、五所川原産の須恵器の拡がりから古代蝦夷(エミシ)の交流・交易と防御性集落についての考察を行うというものでした。まとめとしては、五所川原産の須恵器が、南は東北地方北部の北上川流域から北は北海道のほぼ全域に分布していることから、北海道および東北地方北部の蝦夷(エミシ)の活発な交流・交易を示すものであり、この交流・交易が発展していくなかで、蝦夷(エミシ)の集落間に貧富の差が生じ、緊張した社会状況から防御性集落が構築されたのではないかと鈴木氏は述べています。
 質疑は、佐藤剛氏の防御性集落の壕の断面形にどういったものがあり、型式分類はされているのか。箕島栄紀氏により、鈴木氏の防御性集落が構築されたとされる10世紀後半〜11世紀の蝦夷(エミシ)の段階は、文献史学では蝦夷(エゾ)の段階であり、平和な時代であるという指摘など多数上りました。
 文献史学側からの箕島氏の指摘は興味深く、難しい問題ですが、右代啓視氏が文献と物質文化で追っていくしかないと述べたように、この時代を解明するためには考古学と文献史学が協力していく必要があると思いました。

嶋影 壮憲



20021221日 第8回研究会
 管理人は不参加だったので。事務局長が報告します。
  
発表者は、新規の会員で、()北海道埋蔵文化財センターの石井淳平さんでした。題名は「北海道出土の中世陶磁とその意味」ということで、定量的な分析手法により、北海道出土の中世陶磁の特色とその意味、さらに北海道における中世陶磁分布状況の変遷から「アイヌ」、「和人」の成立に関わる歴史的過程を推測しました。
 石井さんは、考古資料を分析する際に「アイヌ」、「和人」のような人間集団を想定することについての疑問、津軽海峡を挟んだ東北地方北部と道南地域の両地域が縄文時代以来密接に関係していたにもかかわらず、中世段階であらためて異文化接触のような状況が生じたというようなイメージ(「アイヌ文化と和人文化の混合の結果」など)への違和感など、率直な意見を述べていました。
今回は、研究会の目的にもある「アイヌ文化」の成立に関して、初めて直接的な議論がなされた発表でした。けっして資料も多くない現状の中、現時点で中世段階の北海道を考古学的にどのように研究を進めていくことが出来るかを示していただいたと思っています。
 都合により、石井さんは懇親会には出席されませんでしたが、その後の新札幌の居酒屋では、「14世紀」だの「陶磁器がどうたら」とか、北海道で考古学をヤっている人間でも、年に数回程度(人によっては年に1回あるかなきか!?)しか聞かないような議論がとうとうと語られていました。



20021056日 第3回巡検・奥尻編
 今回の参加者はウシロ、サトウ、ドヒ、オオタイシ、フクイ、アオノ、アベ、スズキ、シマカゲ、イシズキ、*、*、ヤマシタの計13名で、案内役は藤原、木村両氏にしていただいた。
 5日は、午前700江差港を出発。やや波が高く、船は比較的揺れた。島にはやや遅れて925着。
 奥尻港で、レンタカーを借りて、宮津チャシ跡へと北上。ここは近年オホーツク式土器が採集された遺跡で、はじめて奥尻島でオホーツク式土器が確認された遺跡である。チャシ跡は、日本海を臨む断崖に寄り添うように屹立する小島で、自らも周囲を断崖とする天然の要害をなす。頂きの平坦面には現在宮津弁天宮があり、その裏手で土器小片、頁岩剥片がみられた。
 表採に熱中しつつも、次に稲穂岬の賽の河原へ向かった。海岸に無数の石積みがみられ、寂寞とした雰囲気がただよう。対岸にはかすんだ太田権現が望まれ、霊場の立地が方角や仏教思想に基づいていることが再認識させられた。
 稲穂を過ぎると、道は海岸沿いから山に入り、展望の地、球島山へ向かう。対向車もいない未舗装の山道を登っていると、不意に車内に悪臭が流れ込んできた。その臭いは海産物が腐敗したような臭いで、山奥に投棄された魚でもあるのかと思っていた。すると、先行のウシロ号で白煙があがった。なんと山中の登り坂でクラッチ板が焼けてしまったのだ。ここでは携帯もつながらない…と思いきや辛うじて一台の携帯がつながり、レンタカー会社に連絡を取る。全員でここにいてもということで、見張りを残して後はピストン輸送で球島山へ登ることにした。球島山は、東は鍋釣岩、奥尻港、北は稲穂岬、南は自衛隊レーダーサイトを望む展望台で、頂上には球のような花崗岩がにょきにょきと生えている。しばらく景色を眺めながら、残りのメンバーを待っていると、ウシロ号は青苗で車を換えることになり、青苗砂丘遺跡で合流することになった。
 それではと球島山を降り、勝間山で黒曜石によく似た真珠岩を観察、奥尻港へ戻り昼食をとる。ボリュームいっぱいのとんかつ、カキフライ、ラーメン、うどん、そばなどを思い思いに食べ、今度は奥尻港を南下、鍋釣岩を左手に見ながら青苗へ向かう。
 青苗ではウシロ号の到着が遅れるということで、先に青苗岬、奥尻島津波館を見学することにした。奥尻島といえば9年前に北海道南西沖地震で津波により大きな被害が出たことは記憶に新しい。いま津波館が建つ周辺も地震前には家が建ち並んでいたが、津波により跡形もなく破壊され、徳洋記念碑だけが残ったという。徳洋記念碑は明治年間に青苗の岩礁に座礁した船を島民が協力して海に押し戻したことに感謝して建立されたもので、島民の人情の厚さを今に伝える。多くの人命や生活を奪った津波も、今も変わらぬ人情の厚さは奪えなかったとみえ、その碑は何事もなかったかのように天を指していた。青苗の町並みは今は復興し、小奇麗になったいるが、津波にさらされながらも残ったというぼろぼろの倉庫、漁港から避難する目的で建てられたという二階建ての漁港施設、普通の堤防の3倍はある巨大な防潮堤が、津波への恐怖を語っている。津波館でも津波の被害を伝えているが、あまりに過酷な体験からかその表現は抑えられたものであった。
 津波館では考古遺物も展示され、土器、石器などを見ることができた。やっとここでウシロ号と合流し、映像ホールで3Dメガネをかけて再現された津波の映像を見る。そして、いよいよメインイベント青苗砂丘遺跡の発掘調査現場へと向かう。
 
青苗砂丘遺跡は、砂丘上に立地し、その崩れた面で竪穴住居跡とみられる窪みと「十和田式」とみられるオホーツク式土器、石器、貝、骨が採集されたことにより確認された遺跡で、最も南に位置するオホーツク文化の遺跡の一つであることが確認された。昨年から北海道立埋蔵文化財センターによる重要遺跡確認調査が行われている。今年はその2年目で、昨年確認された墓の調査と人骨の取り上げ、遺跡範囲の確認を目的に調査が行われている。詳細は調査中であることから、今後なされる報告を待ってください。
 遺跡を見たところで、奥尻町郷土資料館で収蔵遺物を見学。各自様々な時期の遺物を見学。日が暮れる前にもう1か所みたいということで、米岡チャシ跡、米岡5遺跡へ。
 放牧されたウマににらまれながら、牧草地から海岸へと降りる。米岡チャシ跡は岬を溝により区画したチャシ。さらに、米岡5遺跡に大きく括られている砂丘上の近世のアワビ貝塚をみる。アワビにはヤス痕が残り、今夜食べるであろうアワビの刺身を思い浮かべる。
 日も暮れて、汗をかいた体が冷えてきたので神威脇温泉に入り、宿へ。宿に向かう途中、暗闇となった山道ではタヌキが駆け抜ける。本州ではまだ珍しくないが、北海道ではこんなにタヌキが見られるところはない。また、その途中奥尻幹線道路完走を祝う拍手も忘れなかった。峠を越え宿への道を下り始めると、海にはイカ漁の漁火がまじかに見え、街の灯りよりまぶしく、さぞイカもあがっているのだろう、明日の朝は美味しい朝イカが食べれるであろう、と話題は弾む。
 宿につくと、早速夕食兼宴会。メニューは、新鮮なタコしゃぶ、ヒラメの姿造り、ワタリガニに似たヒラツメガ二、もちろんアワビの刺身、冷凍だけどウニ最高、ナマコ、ホヤ、巨大カレイの揚げモノなどなど。ビールも、酒も、話も尽きない。しかし、明日は船が早いので1200には就寝。
 朝、食事を楽しみにいくと当然朝イカのイカソーメン、岩のりの味噌汁、最後に巨大アケビ。もう最高でした。奥尻港には900頃到着、お土産を買って945船上のヒトとなる。往きとは打って変わって穏やかな波で、江差まで心地よい航海を楽しみ、1200江差着。解散し、思い思いの場所へ散っていったのであった。



2002928日 第7回研究会
 今回の参加者はサトウ、オオタイシ、フクイ、アオノ、スズキ、アラキ、ヤマダ、ミノシマ、カンノ、シマカゲ、*の計11名。前回時間の都合で延期された、佐藤剛氏の発表が行われた。会場の開拓記念館では特別展「洞窟遺跡を残した続縄文の人びと」が開催されており、発表に先立ち皆で見学させていただいた。

 今回は、菅野 修広さんに感想を頂きました。

 9月28日土曜日に第7回北方島文化研究会が開拓記念会会議室で行われた。発表者は、前回会場の時間の都合で発表することのできなかった佐藤剛氏で、「土器からみた北方島(続縄文)時代(1)」というテーマで発表された。
 発表内容は、本州島弥生時代後期終末?古墳時代前期に併行する後北C2・D式土器を本州島の土器編年との対比を行うためにも、層位的関係および型式学的手法から、より細分化する必要性を指摘し、検討をしている。
発表後の質疑応答においては、まず「細分化しているが、ある資料に関してはその文様構成の違いがあまり明確に認められないのではないか。もし仮にそれが認められるとしても、時間幅としてはそう長くはないのではないか。」といったコメントがあった。逆に次は佐藤氏から青野友哉氏に、「今回の発表において、北方島(続縄文)時代に恵山式土器を入れなかったことについて」のコメントを求めた。それに対して青野氏は、「佐藤氏の主張する恵山式土器の特異性に関しては、やはり認めることができるだろう。自分は生業から、また佐藤氏は土器からのアプローチであり、その方法によってある程度とらえられる文化規定というものは異なってくるのではないだろうか。そのためどれか1つのアプローチによるのではなく、総合的な研究から文化というものを捉えていかなくてならないだろう」と答えた。佐藤氏本人は最後に、今回の研究会には参加していなかった熊木俊朗氏の道東における後北C2・D式の編年との地域的な違いについてのコメントを受けたかったと言っていた。
 今回の佐藤氏の発表は、北方島土器様式を明確に捉えようとする点から、これまで発表してきた論文の延長線上に求められるものであろう。やはり時間軸を細かく明確に設定していくことは、北方島(続縄文)文化というものを総合的に捉える上での重要な研究過程の一つであると思われる。また質疑にもあったが、これらの細分化される土器編年が相対年代だけではなく、いずれ細かな議論を行うためにも絶対年代のデータが必要となってくるのではないかと思われる。いずれにしてもまだ「土器からみた北方島(続縄文)時代」は検討中であるが、随時提案された編年に対して私自身も積極的に議論できるようがんばらなくてはいけないと感じた。


200281718日 第2回巡検・常呂網走編
 今回の参加者はサトウ、ドヒ、オオタイシ、フクイ、アラキ、アイハラ、クマキ、スミ、タカハシ、ササダ、サトウ、ウラベの計12名で、札幌から4名、根室から1名、地元から7名という構成。夏休みももう終わりとあって2日ともよく晴れ、巡検日和でした。解散は今回も岬。これからも巡検の最後は岬でしめたいものです。

今回は、地元佐呂間町の相原さんより感想をいただきました

 北方島文化研究会 第2回巡検参加感想  (道東北方面20028/1718)

                                                                   網走管内佐呂間町    相原 繁喜

   今回地方の私どもまで、巡検のご案内を当会事務局より頂き、参加出来ましたことに心より感謝している次第です。巡検道中より幾つかの感想を述べたいと思います。
 
 (1)  東京大学常呂実習施設の見学
 当施設のK氏により、当施設に収集され、分析中の遺物資料が紹介された。学術的な立場から多くの遺物について研究されているが、その中で、博物館等に展示されるものはほんの一部であると言うことであった。深遠なる時間の経過を乗り越え、科学と英知を結集した発掘調査・地道な研究が常呂町で行われていることに、一種の驚きと常呂遺跡の学術的な価値について強い興味を持った。また、私にはイベント用に縄文クッキーの材料として団栗の実を水道水(重曹と)で晒し、灰汁抜きを行っているのが印象的であった。(以前、橡の実の灰汁抜きに苦労した経験があったので)次に移動し、展示施設内の遺跡分布ディオラマを見学した。常呂遺跡の数の多さに驚き、その生活の振りや土地条件の良さについて、あらためて思いを馳せるものであった。

   (2)  復元竪穴住居(擦文)の見学 
  
中に入ると、八畳間位の広さがあり、燻煙が上がっていたが、防虫や乾燥のために焚火をしていると言うことであった。中央の炉のほか、入り口の両側に竃が二つ設置されていた。研究施設に展示されていた細長い土器の中に、その壁面が黒く焼け炭と思われるものが付着しているものがあったが、この様な竃に架けられ調理中の炎の炭かとも想像したが、真実は如何であろうか(管理人註.そのとおりです)。また、内部の周辺部には木台が組まれていたが、何のためであろうか。これだけしっかりした住居の造りと安定した土地条件から考慮すると、当時の生活の様子としては、生活経験から得た知恵を受け継ぎ、相当に発達した生活文化を持つ人間集団が存在していたことを肌で伺えた。
   
ところで、現在竪穴住居周辺に繁茂する団栗の木等は当時の周辺自然環境を復元したものなのだろうか。とすると落葉広葉樹を中心とする雑木林が在り、一定の生態系が成立していたように思われる。その中にあって、当時の人々はその生態系に多くの負荷をかけず適合して生活することを知っていたのだろうか。踏みしめる腐葉土の柔らかさを感じ乍ら、ふと思いが足下の土質や周辺の自然環境に及んだ。巡検の他、森林浴をするには格好の場所のように思えました。

   (3)  常呂縄文竪穴住居遺跡の見学
  
栄浦から東へ海岸通りを進むと砂丘地に、縄文竪穴住居跡の窪みが落葉広葉樹林に囲まれ残っていた。早期に保護指定されたこともあってか、自然の姿を留めていた。数千年以上の昔の住居跡が、今も原型に近い形で地表近くに遺っていることに、悠久の時を経て此処の環境が維持され続けてきたことにあらためて驚嘆した。一角にミズナラのほぼ腐葉土化した倒木更新の様子が見られた。栄養分の少ない砂丘地に生きる植物が繁茂するためのせめぎ合いと時の流れを伺い知った。しかし、何故数千年間以上も海岸線にあって遺ってきたのだろうか。

   (4)  トコロ貝塚の見学
 
常呂川河口より右岸を国道238線を越えて進むとトコロ貝塚があった。段丘状の縁に、牡蠣の貝殻を中心とした貝塚があった。天然の牡蠣貝の殻で、今の養殖の牡蠣貝の殻より大きいものであった。何故海岸線の砂丘地に見られた竪穴住居跡の近くではなく、こんなに内陸部に入った川岸の縁近くに設けられたのだろうか。牡蠣は河には棲息しないはずなのに?とすると、此処が汽水域から海水域の時代があって、其処に棲息した牡蠣を漁し生活していた人々が居たのだろうか。つまり、遺物からも此処が海の時代から幾多の変遷を経て、現在の川になる過程について明かされる日が来ることを願うものである。

   (5)  能取岬遺跡の見学
  
巡検も最終ラウンドに入り、網走市街から二つ岩を抜け能取岬に結集した。其処は、能取岬灯台の西側で能取湖口の東域海岸の絶壁の縁に位置するところにあった。幾つかの遺物(土器の破片で続縄文期・オホーツク文化期のものと言うことであった)をたちどころに発見した。流石発掘現場のプロ集団!! 敬服の限りであります。崖の下を臨むと海表面下に、海蝕棚が海岸から沖に向けて広がっていた。嘗て、(少なくとも数千年以上前)遺跡のある海蝕崖上縁部と眼下の海蝕棚の先端を結ぶ丘陵地があったことが伺えるものであった。処で、岬に至る海岸通りから海蝕崖上縁部迄は地表面が平坦になっているが、海成段丘のように見えた。此処の遺跡が続縄文期のものだとして、当時の環境を推察すると、この遺跡は相当内陸の丘陵地に在るように考えられるのだが・・・。あらためて、何故此処の土地が現在岬となり、海蝕崖が見られるのか、今も隆起しているのだろうか。新たな興味を持つことになった。
その他、モヨロ貝塚、北方民族博物館、資料館ジャッカ・ドフニなどを参加者の皆さんと共に見学させて戴きました。中でも、北方少数民族の存在、他には猟師マタギの狩りをする際の炯眼なる観察力に基づいた知恵と狩りを可能にする道具の創作についても、興味がそそられました。
      

 さて、今回の巡検に全くの素人である私も参加させて頂き、またとない出会いと情報収集の機会を作って戴いた北海道埋蔵文化センターの関係諸氏並びに、東京大学常呂実習施設のK氏はじめ学生の方々、北方民族博物館学芸員で快く宿をご提供戴いたS氏、そして夜な夜な宵の(酔いの?)語らいを共にし、専門職の方々に対する接し方を手ほどき戴いたA氏に心より感謝を申し上げます。元漁師をされていたと言うA氏の紹介で、口にした八角は美味で巡検に味を添えてくれました。今回の巡検は私にとって忘れ得ぬ大切な財産となっています。皆さんとまた何処かでご一緒させて戴ける日を楽しみにしています。有り難うございました。                                                                                             (nacsdoto3@ezweb.ne.jp)



2002511日 第6回研究会
 511日、6回目を数える北方島文化研究会が北海道開拓記念館講堂で開催された。今回の研究会の報告は青野友哉氏と佐藤剛氏の予定であったが、会場の利用スケジュール等の都合により、研究会の時間が短縮されたため、青野友哉氏による「恵山文化における弥生文化的要素の評価と文化的位置づけ」という研究報告が行われた。
 その内容は、恵山文化にみられる弥生文化的な要素を再整理し、@弥生文化的な要素が恵山文化に僅かにしかみられないことから、恵山文化の生業や社会のあり方は弥生文化に含まれるものではなく、狩猟・漁労・採集を基盤とする続縄文文化である。A恵山文化は、主たる生業を変えなかったが、弥生文化的な要素との接触により、その影響を徐々に受けはじめた時期の文化であるというものであった。
 その後、青野友哉氏の発表に対する質疑が行われた。恵山文化の土器組成は続縄文文化の土器組成とは異なり、むしろ本州北部の弥生文化の土器組成と類似する。恵山文化と同様に弥生文化的な要素が希薄な本州北部の弥生文化をどのように考えるかなどが主な質疑や議論の内容であった。
 恵山文化が続縄文文化に含まれるのか、弥生文化に含まれるのかという問題は、この研究会でいろいろと議論されていることであり、佐藤剛氏の土器組成や墓制の独自性を根拠にした「続縄文文化は北海道が本州とは異なる独自の道を歩み始めた文化である」とする考えに関わることである。また、本州北部の弥生文化は、西日本の弥生文化と文化内容が異なることから、本州北部の弥生文化と恵山文化の関わりも重要な課題であると考えられる。
 今回の研究会は、予定されていた佐藤剛氏の報告が延期されたため、とても残念である。次回は、続縄文文化についての佐藤剛氏の報告が行われる予定であり、期待がもたれる。

                                                       鈴木 琢也

 



20011219日事務局打ち合わせ
 大麻の焼き鳥屋で来年度に向け事務局打ち合わせを開いた。午後7時に開始し、本題に入ったのは午後10時と前座が長かったが、今後の会のあり方、事務局の活動方針などを話し合った。まだ、発会間もない会であるが来年は会誌発行を目指し編集委員長を大泰司 統さんにお願いした。また、巡検としては網走・トコロ方面を予定。将来的には、東北での研究会開催、サハリンなどの海外巡検を射程に置いた活動などを話し合った。詳細な来年度活動予定は後日本年度の研究会発表記録集とともに会員諸氏にお届けの予定。


2001128日 第5回研究会
 今回も開拓記念館で研究会を開きました。北?常呂町、南は秋田県、東京という14名の参加者でした。石井さんの発表のほかに、佐藤剛事務局長が今夏調査した西島松9遺跡での続縄文時代末〜擦文時代初頭の焼土、柱穴、遺物集中からなる小規模な遺跡の状況が報告されました。

 今回は会員の大泰司 統さんに感想を頂きました。

 
本日は会員が待ち焦がれていた石井 淳氏が登場した。北方島の飲み会があるたびに、「石井さんの話」が聞きたいという言葉が聞かれたものである。
テーマは「後北C2-D式期(3〜4世紀)の竪穴住居がないのは、当時の人が遊動的な生活形態をとっていたからではないか」ということであった。さらに、北海道出土の本州を思わせる遺物として、ガラス玉、竪櫛、鉄器、石製模造品、勾玉、直弧文が刻まれた骨角器、須恵器をあげた。そしてそれらの遺物について、交易活動が活性化していた証拠としたいということだった。
石井さんがこの論を最初に考えてから5年が経過している。現在、御本人が、気がかりなのは、交易品とした遺物の出土状況が儀礼的かつ象徴的な様子を示すことであり、単なる交易品として処理できるのかどうか、また竪櫛や石製模造品は量的には5世紀に動いているものが多いという事実が見えてきたことである。
 発表後は菊池俊彦先生からの質問を皮切りに幾点かの討議がなされた。いくつか羅列すると、ガラス玉の成分分析による産地同定の可能性・有効性・将来性について。続縄文人は骨角器を持っているが、鉄でなければあんな加工はできないだろうから、鉄を求めての交易もあったのではないか。黒潮が弱い時は対馬暖流が強く、本州が寒くても北日本は寒くなりすぎはしないはずであり、たまに言われるようにC2-Dの時期は寒いから南下したのではないはずだ、現に彼らは樺太までが文化の活動圏に入っている。石井さんの私論でいいから交易の形態等について、なにかモデルを示して欲しい。他多数。
 個人の感想としては、後北B式以降の墓には、矢筒がはいっていたのかのように石鏃が横一列に、かつ同じ方向を向いて出土する土壙が目立つので、「この人達はハンターだな。」とぼんやりと、かついいかげんに考えるくらいだったので聞くすべてが勉強でした。私事ですが八雲町栄浜1遺跡の2001年度の調査で、後北B式の墓を検出・調査しました。土器が3個体と黒曜石製石鏃20点余りの出土です。興味のある方の御指導お待ちしております。                                                                                             (財)北海道埋蔵文化財センター 大泰司 統                              



200181112日 第1回巡検・根室編

 今回は地元根室からの参加者も合わせ13名の参加でした。遠くは新潟の石井さん、そして石川の小嶋さんも駆けつけました。
 初日の11日は10名が三波に分かれ札幌を出発。午後、まず穂香竪穴群の調査現場を見学しました。その後、国指定史跡西月ケ岡遺跡、根室市郷土資料保存センターで遺物を見学。夜は金毘羅神社の祭りのにぎやかな中居酒屋で懇親会。
 12日は、弁天島、コタンケシ、ノッカマップ、トーサムポロ、オンネモトと遺跡見学しました。最初の弁天島は、目の前のはずなのに、霧で全く見えませんでした(ただ、個人的に昼前に戻るととってもよく見えました)。次のコタンケシでは遺跡のほかに、湿原を歩く鹿の姿もみることができました。そして、ノッカマップでは部分的に背丈ほども伸びた藪をこぎ、チャシ、竪穴群を見学。ノツカマフチャシの壕は軽く背丈を越える藪でした。さらに、トーサムポロでは橋の上で皆きょろきょろしているため、国道をとおる観光客が、なんか面白いもんでもあんのかいな?という顔で我々を見ていました。オンネモトでは、港からチャシを望んでいると、歯舞から帰る昆布漁船がいっせいに港に帰ってくる所に出会い、圧倒。海中に浮かぶクラゲがギラリギラリと光るたびに感動。最後に納沙布岬で、北方領土について学び、解散しました。
 解散後、FHは昼食に根室名物エスカロップを食し、手にはオランダせんべいを持って、帰途につきました。
 
 今回は札幌からも遠い根室に、最も遠い石川からきた小嶋さんにも感想をいただきました。
    とても楽しい会でした。また、機会があれば参加したいと思っています。
    札幌で飲み疲れていたため、みなさんとゆっくり飲めなかったのが残念です。
    今回は、根室半島から知床半島の重要性を知ることができ、短時間でしたが大きな収穫でした。
    もう一度、ゆっくりと訪問したいと思っていますが、時間とお金をどう工面するか・・・・。
    根室はウラジオストクより遠い!!
     先日、お酒を飲みながらお話ししましたが、竪穴住居跡の埋土が薄い北海道は、屋根に泥がどの程度置かれていたのかを考える上で、重要なフィールドだと思います。
    今回、根室で調査されている竪穴住居跡の土層断面から、この問題を考える材料が得られることを期待しています。
    擦文住居で泥屋根があるのか?これは、大変興味のある問題です。
                                                                           石川県埋文センター      小嶋芳孝  


2001428PM.1:30〜 第4回研究会

 今回も管理人不参加。佐藤剛事務局長が報告します。

 北海道開拓記念館で研究会を行うのは、今回で3回目です。事務局が札幌にあることなどから、しょうがない部分もあるけど…。当日参加出来ない方に向け、文書のみですが、レジュメを公開しているので、ご覧ください。
 発表は熊木さん、蓑島さんが行いました。熊木さんは後北C2・D式土器の地域差などの問題を文様構成等から検討したバリバリの考古学的な発表。蓑島さんは、当研究会初の文献史学的立場からの発表と、かなり充実した3時間でした。
 研究発表後は、恒例の発表者を囲んでの懇親会を新札幌の居酒屋で行いましたが、あいかわらず話題はつきないといった感じでした。
 研究会も第4回を数え、会本来の目的である、色々な分野から北方島文化を研究する趣旨が少しずつ理解され始めたんだなぁと思う。
 次回は常呂、根室方面への巡検を予定しているので、実際の現場や資料を見ての検討を期待してます。 


2001127PM.1:30〜 第3回研究会

 苫小牧駒澤大学にて行う。福井が縄文時代〜オホーツク文化にかけての釣針の変遷と画期について、右代がカムチャッカ半島の調査の状況を報告しました。夜は白老町虎杖浜温泉で情報交換。毛蟹がうまく、露天風呂が気持ちよかった。また、会場が最新設備の中教室で、学生時代を思い出しました。


200099PM.1:30〜 第2回研究会

 管理人不参加により詳細不明。


200063PM.1:30〜 第1回研究会

 管理人不参加により詳細不明。過激?な剛節が響き渡ったのか


2000311PM.6:00〜 会発足

 新札幌の居酒屋「魚民」にて、代表、事務局、世話人で顔合わせ兼、発足会を開く。当初、皆顔見知りと言うわけではないので、緊張感が漂う中、代表右●が、会設立の趣旨や、会則などについて説明。その意見を求めるも、まだ酒を一口も飲んでいないため、乾杯する事となった。酒が入るたびに、はじめの緊張はドコへやら、いろいろの決め事は意見が二分したものの、最後は全員一致した。
 二次会のスナックでは代表右●氏がカウンターに入り、チーママならぬ、チーパパを演じ、水割りを作る。メンバーは、二名ほどしか居ない貴重な店のおネエちゃんにも目をくれず、考古学談義に花を咲かせていた。


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