柏台1遺跡について




柏台1遺跡は調査を終えましたが、未調査部分は南千歳駅の東に伸びる国道の下に広がっています。
ここでは、専門的な文章ですが、発表要旨を公開することにしました。

細石刃石器群の出現
−柏台1遺跡−

(財)北海道埋蔵文化財センター
福井 淳一
 はじめに
 日本列島における細石刃石器群の出現時期は、従来1万5千年前と言われてきた。しかし、今回柏台1遺跡において、恵庭a降下軽石層(以下En-a)下から初めて明確な細石刃石器群が出土し、その点数は約3500点を超えた。しかも、これまでEn-aの降下年代は12000〜15000y.B.P.とされてきたが、最近では16000〜19000y.B.P.と推定されるようになっている。
 幸い、この石器群を含むほぼ全ての遺物集中域からは、炉跡が良好な状態で検出されたため、14C年代測定(AMS法)により年代測定を行うことができた。その結果19850〜20790y.B.P.という年代値が測定された。いくつかの先行報告では17000〜18000年前と受け取られたが、測定された年代値の中央値から約20500y.B.P.とすることができる。

  遺跡の概要
 柏台1遺跡は、千歳市街地から南東約2kmに位置する後期旧石器時代の遺跡である(第1図)。(財)北海道埋蔵文化財センターは、平成9・10年度にかけて国道337号線新千歳空港関連工事に伴い、A地区400u、B地区5,900uの計6.300uを調査した。この遺跡は、千歳古砂丘を基盤とする北東−南西方向に細長い微高地(現標高約17m)上に立地する。千歳古砂丘は、遺跡周辺では沖積面より一段高い平坦面−火砕流台地−の末端部に分布している(第2図)。遺物総点数は約3万5千点で、全てEn-a下のT〜X層上部で出土している。En-aは、遺跡周辺では約2m堆積しており、厚く包含層を覆っている(第3図)。生活面は、後述する炉跡の層位からW層下部乃至X層上面とみられる。
 遺物集中域(以下「ブロック」という)は、細石刃石器群が7か所、不定形剥片石器群(註1)が8か所認められた(註2)(第5図)。両者はブロックを異にし、遺物量、規模、炉跡の状況、礫群の有無なども異なる。細石刃石器群は、細石刃、細石刃核、石刃、彫器、掻器、台石、琥珀玉などからなり、頁岩を主たる石材とする。一方、不定形剥片石器群は、掻器、削器、細部加工剥片、錐、顔料原材、刻みのある石製品などがあり、黒曜石、安山岩、頁岩、チャート、メノウなど多様な石材が用いられている。黒曜石は、赤井川産が主で、他に白滝産、豊泉産も僅かながら含まれている。

  細石刃石器群
 細石刃核の残核型式は蘭越型である(第11図1〜5)。残核は5点しかないが、細石刃、打面再生剥片、調整剥片からなる接合資料(第13・14図)を含めると、少なくとも13点以上の細石刃核があったものとみられる。
 接合資料からみると、二次素材には打面部、作業面部を設定した平面がD字状のものを用意する。打面形成し、目的剥片を剥離した後は、側面調整・打面調整、打面再生、目的剥片剥離を繰り返す。このため石核は剥離過程の中で相似的に小型化していく。側面調整・打面調整は省かれる場合もあるが、背縁や下縁ではかなり入念になされる。

 剥離過程としては以下の4点の特徴が挙げられる。
 1 目的剥片の大きさが剥離過程の中で石刃から細石刃へと小型化する。
 2 素材の短軸方向に打面を形成し、長軸方向で細石刃剥離を行なう。
 3 背部稜に達する特徴的な打面再生剥片を剥離する。
 4 側面調整を打面や下縁のみならず背縁からも行なう。

 中でも、得られる目的剥片の大きさについては長さで2〜12cm、幅で0.5〜2.5cmの開きがある。細石刃だけで見ても長さで約2〜8cm、幅で約0.5〜1.5cmある(第11図7〜24)。石刃は、幅1.5cm〜2.5cmのものは、長さが12cm程あっても、接合関係により細石刃剥離過程の中で生産されていることが認められる(第12図4〜7)。一方、長さ10cm以上、幅2.5cm以上のものは8点あるが、これらはすべて石質が異なり、石刃剥離に関わる剥片、石核の出土もなく、遺跡外で剥離されたものとみられる(第12図1〜3)。幅と長さの関係をみる限り大形石刃以外の石刃と細石刃の間には大きな断絶は認めらず、接合関係でみられた現象が支持される。
 細石刃、石刃以外に石器は、掻器と彫器がある。掻器には石刃素材のもの(第12図8・9)と、剥片素材のものがある。剥片素材のものは不定形剥片石器群に含まれるものと思われるが細石刃石器群のブロックから出土している。いずれも数は少なく、各ブロックに1〜2点出土したに過ぎない。また、刃部を形成もしくは再生したとみられる剥片の出土も少なかった。
 彫器は、荒屋型で、石刃か縦長剥片を素材にしている(第12図10〜12)。彫刀面は腹面側に偏るか、側縁にほぼ平行し、背面左に斜位かやや横位に作出される。側縁には背面側に急斜度調整がなされ、彫刀面から背面へは、平坦剥離による調整がなされている。彫器削片を除き同一母岩の剥片は存在しないことから、素材は他地点で剥離されたものと考えることが出来る。彫器削片の母岩のバリエーションは多く、数十点の彫器が遺跡内に存在したものとみられるが、彫器はブロック2・3・6・12から各1点出土しただけである。彫器削片の存在からブロック14・15にも存在したことがわかる。
 このほか、ブロック15からは琥珀玉が出土している(第14図5)。大きさは、直径9.8mm、厚さ6.8mm、孔径2.4mm。一部を調査時に破損したので現状ではC字状を呈するものの、破片なども含めて推定すると平面形は円形を呈し、中央に孔が穿たれていたものとみられる。穿孔は素材の中央からやや外れて、両側からなされている。孔壁には横方向の条痕がみられ、穿孔時の工具回転痕と推定される。
 なお第11図6は、蘭越型細石刃核とは別地点で出土した美利河型細石刃核関連の接合資料である。

  不定形剥片石器群
 不定形剥片石器群は掻器を主体とする(第15図1〜10)。石材は黒曜石、頁岩、安山岩、メノウ、チャートなどを用いている。素材には縦長剥片、横長剥片があり、刃部は素材端部のほか、打面側、腹面側に形成される例が少なくない。黒曜石製の掻器の刃部を再生したとみられる剥片が多量に出土しており、掻器の長さもリダクションにより2 以下になっているものがある。
 次いで多いのが細部加工剥片で、定型的なものはみられない。一部に台形様石器に近似したものも認められる(第15図13・14)。ほかに削器、錐形石器、楔形石器がある(第15図11・12・15〜17)。
 このほか、刻みのある石製品が出土している(第15図18)。拳大より一回り小さいやや偏平な砂岩礫を磨き、上面から両平坦面にかけて等間隔に刻みを入れたもので、刻みは角が鈍いV字形。正面には明瞭に9本刻まれ、裏面にはやや不明瞭ながら4本刻まれる。刻みの明瞭な面は、全面を丁寧に磨かれているが、刻みの不明瞭な面には磨き残しの自然面の凹みが残る。明瞭な刻みの右から6本目と不明瞭な刻みの左から3本目の刻みは、細い刻みとして上面に延び、互いにつながる。左側面の欠損部は、接合しなかった破片により補われるものとみられるが、廃棄時にすでに欠損部分があったものとみられる。
 また、顔料原材とみられる赤色礫、黒色礫も多量に出土した(第16図)。一部に擦り痕があるもの、全面に擦り痕がみられ多面体になったもの、加工のなされていないものがあり、大きさも卵大から米粒大まである。石材は、赤が針鉄鉱、黒がマンガンである。
 台石は、安山岩を石材とし、石皿様にしたものがある(第16図24・25)。ほとんどの台石の表面には顔料とみられる赤色付着物がみられた。付着物の存在から、台石に顔料原材を擦って粉末を得ていたものとみられる。

  炉跡と礫群
 炉跡が13か所、軽石の礫群が8か所のブロックで確認された(第6・9図)。
 炉跡は、ブロックのほぼ中央で検出された。周囲には炭化木片が集中しており、被熱した黒曜石や頁岩の石片も認められた。細石刃石器群のブロックでは、炭化木片と暗褐色土が認められるだけであった(第7図)が、不定形剥片石器群のブロックでは、更に焼土層、暗褐色土と焼土が混じりあった層が厚く堆積しており、焼けた骨も5か所のブロックの炉跡で確認された(第8図)。この差は、活動期間の長短を示すものと考えている。なお、旧石器時代の焼けた骨の国内における出土例は稀であるが、小片のためその種の特定にまで至るかどうかは不明である。
 礫群は、直径約3〜10 の軽石や凝灰岩の礫がブロックの縁辺もしくは炉跡の周囲にまとまっていたものである。軽石は、非常に脆くなっていることから使用痕や加工痕は観察できなかったが、炉跡に近接したものは被熱したものもみられた。礫群が明確に見られるのは不定形剥片石器群のブロックであるが、細石刃石器群のブロックでも僅かながら存在している。
 このほか、不定形剥片石器群の炉跡周辺半径2mほどには、赤色土が広がっていた(第8図)。その範囲に顔料関連遺物が集中することから、顔料が染み込んだものと判断した(註3)。その他の遺物も赤色土の範囲に集中することから、炉跡を中心とした居住域を示すものと推定している。

  埋没林とアースハンモック
 En-a直下では埋没林が検出された(第10図)。木質がそのまま残る状態ではなく、樹木痕としか呼べないような状況であったが、乾燥地の植生の様相を示す数少ない資料である。
 残念なことに、埋没林自体の樹種同定ができないだけでなく、微化石分析でも植生の復元にまで至っていないため、現状では数種の樹木が生えていたとしか言えない。しかし、昨年度まで当センターが調査を行なった千歳市ユカンボシC15遺跡において、同層序から低湿部の埋没林と数点の石器が確認された。そこでの花粉分析結果を参照すると、トウヒ属、カラマツ属を主とし、モミ属、マツ属、落葉広葉樹のハンノキ属、カバノキ属を交えた亜寒帯針葉樹林が存在し、周辺には、イネ科やカヤツリグサ科からなる草原が広がっていたことが明らかにされている。また、埋没林の樹木の大部分がカラマツ属のグイマツであることも判明している。
 よって柏台1遺跡の埋没林も同様にトウヒ属、カラマツ属などからなるものと推定される。さらに、根跡の存在しない部分、即ち微高地の尾根に当たる平坦部及び低位の平坦部では、凹凸の激しい小ドーム状の地形が連続して分布しており、マット状の密な草木か矮性低木に覆われた寒冷地に生じる「ア−スハンモック」であることが確認できた。よって、当遺跡では、斜面に亜寒帯針葉樹林が存在し、平坦面には草地が広がっていたものと考えられる。
 確認された埋没林の時期と旧石器人が生活した時期は層位的に異なるが、遺物分布図と根跡分布図を重ねると、遺物集中域の中央部には株跡が存在しないものの、根跡に囲まれるような状況がみられる。このことから、今回確認された樹木痕の分布と人が生活していた時期の景観とは非常に近似したものではなかったかと想像している。いずれにしても、旧石器時代人と環境との関わりを示す遺跡は、全国的にも宮城県富沢遺跡をはじめ数遺跡を数えるに過ぎない。おぼろげであるが、乾燥地における本来の居住地での人と環境との関わりを想定できる資料が得られたと考えている。

  遺物の年代
 細石刃石器群、不定形剥片石器群の各ブロックの炉跡から採取した22点の炭化物をAMS法による14C年代測定を行なった(第1表)。結果、細石刃石器群は19850〜20790y.B.P.の年代値が得られ、約20,500y.B.P.付近に中央値がある。一方、不定形剥片石器群は20300〜22550y.B.P.の年代値が得られ、約20,500y.B.P.付近と約22,000y.B.P.付近に年代値の集中が分かれた(註4)。不定形剥片石器群については、祝梅下層遺跡三角山地点や丸子山遺跡などの14C年代測定値と大きく掛け離れていないが、細石刃石器群の年代値としては、これまで考えられていた以上に古い年代値となっている。これらの炭化物は炉跡からサンプリングしているものの、凍結擾乱の影響を受けていることから測定値が石器群の年代を正確に反映していない可能性もある。しかし、少なくとも厚さ2mに及ぶEn-a下からの出土であり、同層が堆積した16000〜19000y.B.P.という最近の年代測定値から、これより新しくなるものではない。また、包含層下位からの炭化物の混入はほとんど考えられない。さらに、美利河1遺跡で蘭越型細石刃核を伴う石器群の年代値が19,800±380y.B.P.とでていること(註5)も考えあわせると、今回の測定結果は妥当なものとすることができよう(註6)。

  まとめ
 以上のように柏台1遺跡から出土した細石刃石器群は、これまで不明確だったEn-a下での存在を明らかにし、その14C年代値も2万年を超すということで、少なくとも北海道では最も古く位置付けることができる資料となった。しかも、この段階ですでに細石刃技法が確立されていた様相を示しており、細石刃石器群の出現はさらにさかのぼるものと考えられる。これを契機に既知資料の見直しが必要になり、ひいては編年観の訂正も合わせて行われていくものと思われる。ただし、14C年代についてはこれまで示されているものと単純に比較できるものではなく、同一測定法での検証が待たれる。

  註
(1) これまで祝梅下層遺跡三角山地点や丸子山遺跡などで確認されている石器群とついて仮称する。
(2) ブロック1、2、3、6、12、14、15が細石刃石器群のブロック、ブロック4、5、7、8、9、10、11、13が不定形剥片石器群のブロックにあたる。
(3) 焼土の可能性もあるが、炉跡で確認された焼土と比較すると若干色調が異なる。また、炭化物の包含量もさほど多くない。
(4) 凍結擾乱により上下に包含物が移動していることと、包含層が極めて薄いため上層の炭化物が紛れ込んだと理解すれば、古い値の集中が真の年代値を示すとすることが出来る。
(5) 当時は古すぎるとして保留扱いであった。
(6) ただし、液体シンチレーション法による14C年代値とAMS法による14C年代値との間には、測定値に開きがあるように思われ、測定値の比較は、慎重に行なう必要があるだろう。とはいえ今回の測定値が、2万年前に集中している意義は大きい。

出典:1999年度考古学協会釧路大会発表要旨

           事例報告2

千歳市柏台1遺跡
石器以外の資料について

()北海道埋蔵文化財センター 福井 淳一
1.遺跡の概要
 新千歳空港の北約3.4km、なだらかな台地上に微高地が点在する。その微高地のひとつから旧石器が確認された。これが、柏台1遺跡である(1)。遺物は、厚さ2mにも及ぶ恵庭岳の火山噴出物(En-a)に厚く覆われた表土下約4.5mから出土した。道内では旧石器の層位的検出例が少ない中で、確実にEnaの下位から、しかもまとまった量で遺物が出土した点で貴重な遺跡であると評価できる(図2・3)。
 この柏台1遺跡は、平成910年度、(財)北海道埋蔵文化財センターによって発掘調査が行われ、三つの石器群−美利河形細石刃核に関連する資料を伴う細石刃石器群、蘭越形細石刃核を伴う細石刃石器群、石刃技法をもたず掻器を主体とする不定形剥片石器群が確認された(45)。各石器群間は有意な接合関係をもたず、おのおの独立した石器群とみられる。各石器群の14C年代(AMS)は、二つの細石刃石器群では19,850〜20,790y.B.P.で、20,500y.B.P.付近に中央値がある。一方、不定形剥片石器群では20,300〜22,550y.B.P.で、20,500y.B.P. 22,000y.B.P.に年代値の集中が分かれた。細石刃石器群については、これまで不明確であったEn-a下での存在が明らかになり、その年代値は2万年を超した事で、これまで考えられていた北海道の細石刃文化の起源が5000年遡るものとなった。また、Enaの降下年代も最近の年代測定では16,00019,000y.B.P.とされており、少なくともこれより新しくなるものではない。
 このほか、各ブロックからは遺構として、炉跡、礫群、赤褐色土範囲が確認された。遺物にも、コハク玉(細石刃石器群)や、刻みのある石製品(不定形剥片石器群)といった特異なものがみられた。しかし、なにより特筆すべきものとして多量に出土した顔料関連遺物、炉跡及びその周辺から出土した焼けた動物骨、En-a直下の埋没林が挙げられる。今回は、石器を主な遺物とする旧石器時代の遺跡が多い中で、ほかでは確認される事が少ない顔料についてやや詳細に述べ、動物骨や埋没林に関わる問題については展望を述べておきたい。

2.顔料について
 旧石器時代の顔料に関わる遺物(以下顔料関連遺物)は、平成9年度帯広市川西C遺跡と、柏台1遺跡で多量に確認される以前も、いくつかの遺跡で確認されていた。その最初の例として、知内町湯の里4遺跡の「墓」から赤色顔料が確認され、顔料の存在とその用途が判明した。以後、顔料の材料とみられるもの(以下顔料原材)は嶋木遺跡で出土し、顔料を製造する道具と見られる赤色顔料が付着した台石が嶋木遺跡、大空遺跡、南町2遺跡で確認された。しかし、数が少なくまだ不明な点が多かった。
 ところが、柏台1遺跡では、総数1,472点、総重量約3,276gとこれまで見つかった量をはるかに凌ぐ出土量で、かつ顔料付着台石もあるなど顔料の製造法などについて検討する事が可能になった(図6)。
1)検出の経緯
 遺物包含層には微細な軽石やスコリア、岩片のほかは、礫などを含まなかった。よって、検出した固形物は基本的に遺物と認識する事ができた。そのような中、平成9年度、B地区の調査を行っている過程で擦り痕のある「赤色礫」が出土した。現場では、明らかに岩片とみられるもの以外は全て位置を計測して取り上げていたため注意しなかったが、洗浄すると明らかに擦られており、形状は磨製石斧の刃先片のような印象を受けた。また、洗浄に用いていた脱脂綿が真っ赤に染まったため、赤色顔料が付着しているものかと考えた。ところが、調査を進めていく中で、同種の遺物が続々と出土し始め、その実態はともかく、これまで見過ごしていた可能性も考えて、岩片と思われるものも全て取り上げ洗浄することとした。
 結果、不用物も多く遺物番号に欠番が続出したが、擦り痕のある「赤色礫」だけでなく、現場では岩片にしかみえない原石や小片も検出する事ができた。また、炉跡などの土壌について微細遺物の採取を目的として水洗選別を行った結果、「赤色礫」の小片も多く検出することができた。
 このように、擦り痕のある「赤色礫」はともかく、その原石や小片、黒色礫は、岩片やスコリア、軽石と現場段階では区別しにくいため、今後調査時に更なる注意が必要と考える。
(2)出土状況
 顔料関連遺物は、細石刃石器群のブロック、不定形剥片石器群のブロックの両者から出土した(図7)。
 細石刃石器群のブロックからはごく僅かな顔料関連遺物が出土したに過ぎない。しかし、ごく僅かであっても顔料関連遺物が存在する事に変わりはない。石器群の従来の編年観や層位別出土量、14C年代値などから当石器群のブロックが不定形剥片石器群のブロックより後に形成されていると考えられるため、細石刃石器群集団が不定形剥片石器群集団の廃墟から拾得したか、混入したとも解釈できるが、小片がそのほとんどを占めることからその可能性は低いとみられる。また、ブロック15では炉跡周辺にピンク色の土壌がみられた。これは顔料が沈着したもので、ブロック内での顔料の生産を示すものと考えられる(図11・13上)。よって、細石刃石器群集団も少量ながら顔料を保持していたとみられる。さらに、色彩も赤と黒があることも見逃せない。この石器群では湯の里4遺跡において確認されている「土坑墓」にともなう「赤色土壌」の存在があり、このことからも蘭越型細石刃核を使用した集団が顔料を用いていた可能性は強い。
 一方、不定形剥片石器群のブロックからはその分布だけでブロックと認定できるほど多量の顔料関連遺物が出土している(9)。ほぼすべてのブロックでは炉跡周辺の半径1.5mほどの範囲が赤色化しており、これを赤褐色土範囲と呼んだ。断面でもその部分は数10cmの厚さで赤色化しており、焼土が広がったというよりは、顔料が沈着したものと考える事が出来る(12)。顔料関連遺物の分布も、この赤褐色土範囲に特に集中する様子が見られる。分布はサンプリングエラー、周氷河現象、斜面での移動などの影響から厳密に言えない状況はあるが、斜面の影響が少ないブロックの顔料関連遺物・剥片・チップ以外の遺物の分布状況を見ても顔料関連遺物の分布と類似した様相が見られ、少なくとも赤褐色土範囲はブロックの本来の範囲を示しているものと解釈する事ができる。
 本遺跡では遺物は石器群を問わず、ほぼ炉跡を中心としたブロックから出土している。ブロック外にはいくつか貧弱な炭化物集中も見られたが、ブロック中央に位置する炉跡とは様相を異にしている。そうすると、ブロックは作業場ないし住居と理解することができる。

(3)材質と原産地の問題
 顔料関連遺物の材質は、地下資源調査所の分析により、赤色礫は赤鉄鉱(ヘマタイト)化した針鉄鉱(ゲーサイト)、赤磁鉄鉱(マグヘマタイト)、黒色礫は軟マンガン鉱(パイロルーサイト)である事が明らかにされている。
 針鉄鉱の赤鉄鉱化の度合いは試料により異なる。この点について、分析者が鴻之舞鉱山産褐鉄鉱を焼成したところ、300℃以上の温度で赤鉄鉱に変化する事が確認され、焼成後も針鉄鉱と赤鉄鉱が認められた。よって、赤鉄鉱化した針鉄鉱は、褐鉄鉱を焼成した結果の生成物とする事が出来る。
 焼成された褐鉄鉱は1366点あり、最も多い。褐鉄鉱の成因はチタンの有無から、温泉などから沈殿して生成されたものと、各種金属鉱床の酸化帯(いわゆる焼け)で生成されたものがあるとされ、産地は特定できないが、沈殿性褐鉄鉱床や各種金属鉱床は道内でも遺跡から見て西側に多く、また最も近い。よって、石狩低地帯以西の産地で褐鉄鉱を得ていたと考える事ができる。
 磁赤鉄鉱は、55点あった。この鉱物は国内で数例の産出例があるものの、非常に珍しいものである。しかし、褐鉄鉱から比較的還元条件下(たとえば多量の炭の中など)で焼成したとき、生成される可能性もあるという。この点については後述したい。
 軟マンガン鉱は、28点あった。この鉱物は黒松内低地帯以西、今金町ピリカ付近を中心に分布しているピリカ型マンガン鉱床の主要構成鉱物とされる。よってピリカ型マンガン鉱床の分布する渡島半島地域からもたらされたものである事は確実である。
 以上、産地については黒色顔料については黒松内低地帯以西であることが明らかにされ、赤色顔料については石狩低地帯以西に顔料を求めていた可能性が高いと指摘できる。
 ところで、不定形剥片石器群の石器石材のうち重量に対し点数が多い黒曜石は、より多く利用されており、主要な石器である掻器の62%を占める。黒曜石は、原材産地同定を行った結果、95%が赤井川産と同定でき、白滝赤石山産、白滝あじさい滝産、豊泉産が各2%前後であった。また、細石刃石器群の主用石材である頁岩も良質で、渡島半島産の可能性が強い。
 顔料原材の産地と、主たる石器の石材の産地が、同じ地域にある事は、石材入手を効率的に行うという点からは十分納得できる。ここでは顔料原材と主要石器石材が同一地域から入手されていた可能性が高い事を指摘しておく(図8)。

(4)生産工程の問題
 顔料原材には擦り面が残り、何物かに擦る事で粉末化していた事が確認できる。また、不定形剥片石器群に伴う円礫素材の台石の一部には顔料が付着していた。ほかに、磨石がないこと、石杵のようなものがないこと、顔料原材には擦り痕がみられることから、直接台石に擦りつけることで製粉化し、顔料としていたものと考えられる。
 ところで、前節で述べたように褐鉄鉱は被熱している事が明らかになった。分析試料以外にも肉眼で明らかに被熱しているものが比較的多く含まれている事、分析試料も炉跡から出土したものだけではなく、それ以外から出土した資料も全て赤鉄鉱化していることから、加熱する事で顔料原材を生成していたと理解できる。
 加熱に関わるのが各ブロックで検出された炉跡である(1314)。炉跡は細石刃石器群のブロックで見られたものと、不定形剥片石器群のそれとは様相が異なる。細石刃石器群のブロックでは、炭化材が集中する部分の下位に、煤が染み込んだような暗褐色土層がブロック状にみられ、その厚さは薄いもので、焚き火程度の利用が想定される。一方、不定形剥片石器群のブロックでは、最も残りのよかったブロック13では、炭化物の集中の下位に暗褐色土、焼土、黒色土、暗褐色土・焼土などの混在土、黒色土が厚く堆積していた(14)。他のブロックでは凍結擾乱を激しく受けてか、これらがブロック状に分布していた。しかし、細石刃石器群のブロックと比較すると明らかに焚き火として用いられた以上の用途が想定された。ブロック13の炉跡の断面を観察した状況では炭化材−暗褐色土−焼土―黒色土という一回の焼成面の下位に、炭化材・焼土・暗褐色土・灰褐色土・黒色土が混在した赤暗褐色土が厚く堆積し、この中に骨片・被熱遺物・顔料関連遺物も含まれていた。これは火を焚く毎に何度もその内部を掻き回したための結果ではないかと考えた。類似した状況は凍結擾乱を受けて良好な堆積状況ではないブロックでも確認できた。
 また、被熱遺物の分布を見てみたところ(10)、ブロックに含まれる遺物量の多寡や微地形の影響も受けているものの、細石刃石器群のブロックではほぼ炉跡周囲にのみ集中しているのに対し、不定形剥片石器群のブロックでは炉跡周辺に広く分布している様子が見られた。これは不定形剥片石器群のブロックでは炉に混入した被熱遺物が周囲に広く散らばる要因があったものと考えられた。このことは炉跡で観察された状況と一致する。
 興味深い材質の赤磁鉄鉱の成因についても、加熱する事で顔料原材を生成していることからも十分考えられる。また、炉跡には炭が多量にあり、何度も掻き回されて厚く堆積した炉堆積物に顔料関連遺物が残っていれば、還元条件になる可能性がある。そうすると、数も少ない事から、これらは加熱による顔料の生成が繰り返されたためにできた副生成物とみることが出来る。
 
 以上の結果から、以下のような生産工程を想定する事が出来る。
 1:産地から顔料原石を採取する。(原石)
 2:採取した顔料原石を炉跡で加熱する。(炉跡)
 3:良質な原材であればそのまま台石で擦って粉を得る。(顔料・顔料付着台石)
 4:加熱面がなくなり、良い色彩が得られなくなった場合、分割する。(原材A、小片)
 5:炉跡でさらに加熱する。(炉跡)
 6:加熱により良好な状態になれば、台石で擦って粉を得る。この後4〜6を繰り返す。 
   (顔料・顔料付着台石)
 7:小形になってしまうか、良質でない面が現れた場合、遺棄・廃棄する。(原材B)

 このような生産工程はどの程度普遍的なのであろうか。道内の顔料関連遺物を見る限り、ほぼどの遺跡においても擦り痕のある顔料原材、原石、小片、顔料の付着した台石がみられるだけである。加熱したかは不明だが、原材が脆弱であり、色彩が十分得られればその必要はないであろう。また、粉末にして持ち運ぶよりは、適当な台石があればいつでも製造できる事を考えると、原材や原石のまま持ち運ぶ方が都合は良かったであろうから、先の生産工程が後期旧石器時代において全道的に行われていた可能性が強いとする事ができる。
 一方、旧石器時代の顔料に関連する遺物は、道外では新潟県下田村荒沢遺跡から出土している。顔料原材と見られる赤色鉄石英礫片には擦痕は認められなかった。ほかに15点の磨石類があり、内4点以上に赤色の付着物が見られる。磨石類は敲石、敲打痕や磨耗痕を残す円礫、敲打痕を持つ台石などがあり、これらで赤色鉄石英礫片を粉砕し、赤色顔料として用いられたものと報告されている。荒沢遺跡の顔料生産の在り方は、北海道における旧石器時代の顔料の生産工程とは異なるもので、縄文時代以降に連なる原石を叩き潰し、更に粉末化する方法が旧石器時代から存在した事を示している。
 このような生産方法で得られた色彩は赤と黒があったと思われた。しかし、実際の色彩を分類するには、表面を見ただけでは非常にわかりにくい。これは遺物表面に埋没の過程で付着物が覆うだけでなく、赤色礫でよく擦られたものは表面が暗赤褐色を呈するからである。そこで、顔料関連遺物の一端を僅かに磁器の肌に擦り、その際に見られた色彩で分類を行った。
 結果、黒色礫についてはいずれもやや灰色がかる黒色であるものの、赤色礫では赤色や朱色のほかいくつか色彩にバリエーションがあるように見うけられた。
 そこで、赤色礫について各色彩の分類毎の出現数を比較したところ、赤色は原材に多く見られるのに対して、朱色は小片に多く見られるという傾向を示した。また、赤磁鉄鉱の原材Aでは、擦り面では朱色を呈するものの、分割面では褐色を呈するのが確認できた。さらに、ほかの赤磁鉄鉱では朱色のものと、黄土色のものとがあり、黄土色は赤磁鉄鉱にのみ見られる色彩であった。このほか黄色、褐色、茶褐色もあった。
 参考に原石標本で同じ方法を試みたところ、新潟県新発田市赤谷鉱山の赤鉄鉱では暗い朱色、長野県茅野市諏訪鉄山の褐鉄鉱では黄色みの強い黄土色、栃木県都賀町大柿鉱山のマンガン鉱ではやや灰色がかる黒色であった。
 赤磁鉄鉱は褐鉄鉱を還元状態で焼成すれば生成されることは分析の結果わかっている。また、小片は炉中からも多く出土しており、長く加熱されている可能性が強い。この事実と原石標本に見られた色彩を合わせて解釈すると、黄土色もしくは褐色の原石を加熱する事によって色彩は赤色に変化し、それがさらに加熱されると朱色、さらに黄土色へと変化したことが考えられる。ただ、黄色については少なからずみられ、小片で赤色と黄色両方が別々に見られるものもある事から、意識的に黄色を作り出していた可能性も指摘できる。このほか、擦痕は見られなかったものの凝灰質泥岩がいくつかのブロックから出土している。これは非常に軟質で、内面は白色である事から、あるいは白の顔料として用いられたものと考えてよいのかもしれない。
 なお、参考に試みた原石標本は、いずれも硬質であった。遺跡出土の顔料関連遺物の中にも硬質なものは、マンガンの原石と原材、赤色や黄色の褐鉄鉱に含まれていたが、原石標本ほど硬質ではなかった。また、朱色の褐鉄鉱では直接紙に色を塗れるほど軟質のものが多かった。さらにマンガンでは硬質な原石と、やや軟質な原材とでは色彩に変化は見られなかった。これらのことを考え合わせると、加熱は色彩を変化させるだけでなく、原料を軟質化させる働きも持っていた事が想定できる。

(5)用途の問題
 国内の例では、湯の里4遺跡の墓にまかれたのが唯一である。海外の事例をみると、墓にまく、壁画を描くために用いられることが多く、ほかに装身具や石器に色を塗ったり、楽器とされるマンモス骨に幾何学的な模様を描いたりにも使われている。
 柏台1遺跡においては、細石刃石器群と不定形剥片石器群の原材、原石を含めた顔料保有量はかなり違う。しかし、その用途を考えた場合、不定形剥片石器群の保有量が異常であり、むしろ細石刃石器群で見られた保有量が普遍的なのではないだろうか。その事がこれまで他の遺跡において検出を困難にしていた要因なのではないかと思われる。顔料が多量に検出されている柏台1遺跡や川西C遺跡、嶋木遺跡は掻器を多量に保有している。恐らく革なめしを集中的に行っていたのであろう。よって、多量の顔料は革の着色やなめしに用いたであろうと想像される。この事については報告でも述べたが、同時期に顔料について述べた寺崎も同様の見解を述べている。
 柏台1、川西Cの両遺跡の調査以降、数遺跡で顔料関連遺物が確認されている。また、筆者が実見したところでは立川遺跡第V地点の砂岩製台皿の窪みのある面には僅かだが、点状に赤色顔料が付着していた。さらに剥片について見なおしたところ、第U地点で表面が風化し赤色土壌化したチャート剥片1点と、三角柱状でその角の部分に擦り痕のみられる褐鉄鉱製顔料原材が出土している事がわかった。顔料原材は一見すると剥片に見えるため取り上げられたものと思われ、現場では礫としかみえないほかのものは取り上げられなかったのではないかと考えられる。今後は、このような既調査資料の見直しも含め、更なる顔料関連遺物や痕跡を念頭に置いた調査が必要になろう。

3.動物遺存体について
 この時期の動物遺存体は出土する事自体極めて稀である。僅かながら遺物と共に動物化石が出土した例は、有名なところでは長野県野尻湖立が鼻遺跡、岩手県花泉遺跡、宮城県ひょうたん穴洞穴がある。このうち花泉遺跡では、ナウマンゾウ、ヤベオオツノシカ、ヘラジカ、ナツメジカ、ハナイズミモリウシ、原牛、ノウサギが産出しており、骨片の14C年代測定で21,430±1260y.B.P.18,470±660y.B.P.の年代値が得られている。
 また、14C年代測定で19,00023,000y.B.P.の年代値の得られた宮城県富沢遺跡では糞の化石が検出された。分析の結果、ニホンジカかシカ属の一種が、冬季または早春に針葉樹林内で越冬し、食物条件の厳しい中で針葉樹などの木本植物を採食して樹木の根本などに排泄したもの、とされた。
 ところで、今回柏台1遺跡で出土した骨片は不定形剥片石器群のブロックからのみ出土した。出土時は白い泥のようにしか見えなかったが、よく見ると骨特有の海綿状の構造がみられ、骨だと認めることが出来た。残った要因はおそらく焼けたためで、出土場所も炉跡とその周辺であった。同様な焼骨は北海道の旧石器時代遺跡からは、上川町日東遺跡、北見市広郷遺跡、白滝村白滝Loc.33、遠軽町タチカルシュナイ遺跡からも出土しているが、日東遺跡のものがシカと推定された以外種類までは明かにされなかった。柏台1遺跡の骨も形態だけでは種の同定はほぼ不可能であったので、骨の組織構造から種類を特定する事にした。現在も分析中であるが、中間報告では一部が偶蹄目(ウシやシカの仲間)であることが分かった(1518)。しかも、日本列島では絶滅した野牛やオオツノシカより、エゾシカに近い様である。
 いまのところ分析が途中である事から今後、更に詳細な種や、他の種が確認される可能性がある。北海道においてはこの時期の動物化石の産出は本州以南に比べ非常に少なく、動物相の復元は困難な状況である。ただ、当時の動物相については最近八雲で14C年代測定(AMS、コラーゲン抽出)で17,900y.B.P.の野牛の角が見つかり、年代的に遡るものの既に知られているナウマンゾウやマンモス、ヤベオオツノシカとともに、花泉遺跡と類似する動物相がみられたことが推定できる。また、尻屋崎で見つかったほぼ同じ頃の動物化石の例を参考にすると、ヒグマ、エゾシカ、エゾオオカミ、キタキツネ、エゾタヌキ、クロテン、カワウソ、ナキウサギ、ノウサギ、エゾリス、シマリス、モモンガなど現在の動物相の構成種も存在した可能性がある。
 当時の狩猟の問題については、今回検出した骨の分析が更に進めば不定形剥片石器群を残した集団の狩猟対象獣の一端を明かに出来る可能性がある。また、次節で述べるようなミクロな植生分布と動物の生態復元を絡めて狩猟の問題により具体的にアプローチできる可能性を秘めている。今後は骨片であっても種が同定できる可能性が広がった。旧石器遺跡調査においても動物遺存体が出土しないという幻想を脱し、更なる資料の追加を願う。

4.埋没林について
 埋没林は各地で見つかっているが、そのほとんどが湿地で、人間の生活域にはあたらない。有名なところでは、宮城県富沢遺跡をあげられる。ここでは約2万年前の埋没林が、僅かな石器、シカの糞などとともに確認されている。同様な遺跡は平成910年に調査された千歳市ユカンボシC15遺跡から確認されており、柏台1遺跡とほぼ同層序で埋没林と共に3点の石器が出土した。埋没林が湿地で見つかる場合は、細かな植物相や環境を明らかにすることが出来る。しかし、人間の生活域の環境とは異なるため、そのままでは生活域の植物相や環境を復元する事は出来ない。
 今回、柏台1遺跡から見つかった埋没林は今まで多数見つかっているような湿地のものではなく、これまでみつかったことのない人間の生活域のものであった(1920)。その残った原因としては地下水があったこと、厚い火山灰に覆われていた事が挙げられる。しかし、木の組織までもが残っていたのではなく、実際には組織が変化してしまい、痕跡が残っているに過ぎなかった。また、花粉もほとんど残っておらず、プラントオパールや珪藻も僅かに検出された程度であった。そのため、人間の生活域では斜面にまばらながら所々にややかたまって木がはえており、その木も根の張り方や倒木の様子から針葉樹が多かったことが分かったに過ぎない(212223)。また、平坦部には木がはえず、アースハンモックが発達しており、イネ科のプラントオパールがやや多いこと、陸生珪藻がみつかった事からから、やや湿った草地であったことも想定する事が出来た(図24)。
 そこで、実際に当時の柏台1遺跡の植物相を復元するにはユカンボシC15遺跡の状況や、似た植物相がみられる地域の現状から推測する方法を取らざるを得ない。ユカンボシC15遺跡での分析の結果をみると、グイマツの純林が形成され、林床は湿原であったとされる。また、周辺には草地やトウヒ属などの針葉樹と僅かな広葉樹がひろがる亜寒帯針葉樹林が広がっていた事も判明している。このような植物相が見られる地域は、今のサハリン北部にあたる。そこでの、植物の分布を見ると、湿地やその周辺にはグイマツの純林が広がり、台地にはエゾマツが増え、さらに風の強いところにはハイマツや、ミヤハマンノキ、ヒメカンバといった広葉樹が見られるという。この2つの事実から考えると、柏台1遺跡ではグイマツよりトウヒ属のエゾマツのほうが多く、もともと砂丘である事から風も強いと思われるのでハイマツや広葉樹もみられる疎林ないしパークランド状の植生が存在したと推定できる。
 この推測は、炉跡に残っていた炭化材がエゾマツに代表されるトウヒ属のものであり、焚き木は家のもっとも近くで調達したであろうから矛盾しない。
 ただ、遺跡を残した人々と埋没林の時期が、まったく同じものではないことが調査途中で判明し、この推測も単純に遺跡の植物相を復元する材料にはならない可能性が出てきた。しかし、ユカンボシC15遺跡では埋没林と共に不定形剥片石器群とほぼ同時期とみられる石器が出土しており、その時期とそれ以降の時期の植物相が大きくは変化していない事から、先の推測はほぼそのまま遺跡の植物相と考える事が出来た。
 今後は、周辺も含めた石狩低地帯のミクロな植生分布を明らかにして行くことで、当時の植生環境のみならず、植物利用や生業形態など多方面の検討が可能になるものと考えている。

.最後に
 今回は報告を終え、今最も関心を持っている顔料に関わる遺物とその製造法について主に述べてきた。動物骨と、埋没林に関わる問題については再検討途上であるため展望を述べたに過ぎないが、今後さらに考えを深めていこうと考えている。この柏台1遺跡は、細石刃石器群の年代が古くなるという点で最も注目されたが、遺跡の遺存条件が良好な事から動物骨や埋没林だけでなく、遺構と遺物の関係、遺物の位置論、遺物が受けたさまざまな変異など議論する点の多い遺跡と思われる。今後、一つ一つの問題について検討を加えていきたいと考えているが、さまざまな視点からのご指摘、ご批判をいただければ幸いである。

*図の出典

15791013141924()北海道埋蔵文化財センター(1999)『千歳市 柏台1遺跡』1999236は福井淳一(1999)「細石刃石器群の出現―柏台1遺跡」『シンポジウム海峡と北の考古学―文化の接点を探る』日本考古学協会1999年度釧路大会資料集。1518は奈良貴史・澤田純明・百々幸雄(1999)「柏台1遺跡出土骨片の骨組織構造の検討(予察)」『千歳市 柏台1遺跡』()北海道埋蔵文化財センター。4・1112()北海道埋蔵文化財センター(1999)『千歳市 柏台1遺跡』1999の図を一部加筆。8は原図。

出典:北海道考古学会2000年度研究大会「北海道旧石器考古学の諸問題」要旨集
 

 
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