超球と超ヒモ (和訳・短縮版)

南堂久史・著

要旨

 超球理論は、ここで提案するもので、超ヒモ理論に似ている新しい理論である。両者は異なる原理にもとづくが、いくらか似た結論をもたらす。超ヒモ理論はヒモというモデルを使うが、超球理論は球というモデルを使う。超球理論は、数理的でなく幾何学的なモデルを扱う理論である。しかし、多くの重要な結論をもたらす。たとえば、無限大の困難や、重力波の存在の問題を解決できる。

《 この翻訳は、ざっと目を通すための、粗い翻訳です。機械翻訳を下訳に利用したものです。
  正式版は英語版です。なるべく英語版をお読み下さい。英語版の方がわかりやすい文章です。 》
 
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概要

最初に超球理論の基本的な点を並べて示す。

玉突きモデル


粒子と波

エーテル



[ 図00 ]
  [超球のイメージ図 ]

序論

超球理論は、ここで提案するもので、超ヒモ理論に似ている新しい理論である。両者は異なる原理にもとづくが、いくらか似た結論をもたらす。たとえば、超球理論はこの宇宙が、三つのマクロ次元と、六つの微小次元と、一つの時間次元から成るような、10次元をもつはずだと結論する。超球理論と超ヒモ理論は、同じような結論をもつが、同時に、異なる原理をもつ。
 

玉突きモデル

超ヒモ理論は超ヒモという概念をもつが、超球理論は超球という概念をもつ。超球理論は、「玉突きモデル」と呼ばれる新しいモデルをとる。それは以下の各項で説明される。

トリックの図

観客(観測者)に誤解または錯覚を与えるような、二つのタイプのトリックがある。以下の(1)(2)だ。
 
  (1)ミッキーのトリック
 
  パリでミッキーが消え、そのあとでミッキーがカリフォルニアで現われた。この現象を知った観客は、ミッキーがパリからカリフォルニアに移ったと信じがちである。(以下の図)
 

 [ 図01 ]
 
  しかし、ミッキーはパリからカリフォルニアに移ったのではなかった。現実には、一つのミッキーがパリで消え、別のミッキーがカリフォルニアで現われたのだ。(以下の図)
 

 [ 図02 ]
 
  一つのミッキーがパリで消え、別のミッキーがカリフォルニアで現れる。この現象を表面的に知った観客は、ミッキーがパリからカリフォルニアに移ったと信じがちである。しかし、これは錯覚である。
 
  (2)球のトリック
 
  魔術師が舞台に登場した。左手に球を取った。彼が一声を上げたとたん、左手にある球は消え、そのあとで球が右手に現われた。この現象を見た観客は、球が左手から右手に移ったと信じた。(以下の図)
 

 [ 図03 ]
 
  しかし、球は左手から右手に移ったのではなかった。現実には、一つの球が左手で消え、別の球が右手に現われたのだ。(以下の図)
 

 [ 図04 ]
 
  一つの球が左手で消え、別の球が右手に現われた。この現象を表面的に知った観客は、球が左手から右手に移ったと信じがちである。しかし、これは錯覚である。

 [ 補足 ]
  上記のこの二つのトリックのそれぞれは「運動のトリック」と呼ばれる。

基本図形

物理学者は量子が空間を移動すると信じる。しかし、これは運動のトリックの錯覚と同じような錯覚である。量子は、ミッキーの場合と同様、運動をしないでいる。量子が空間で動くように見えるとき、一つの量子が一つの場所で消え、別の量子が別の場所に現われる。これは、「基本図形」と呼ばれる、以下の図で表現される。
 

 [ 図05 ]
 
  基本図形は二つの主張を意味する。


 ここで、以下の三つの主張に注意しよう。  この図は、玉突きモデルの原理を示すので重要である。

 [ 補足 ]
  基本図形によって表現されるモデルは「玉突きモデル」と呼ばれる。玉突きモデルは超球理論の核心である。玉突きモデルは、運動のトリックという比喩によって説明することができる。
 

玉突きモデルによる説明(一次元)

玉突きモデルの概念を詳しく説明するために、粒子説や波動説など、他のモデルと比較する。
 
  (1)粒子説
 
  粒子説は次の図によって表現され、粒子の運動を主張する。(粒子は


 [ 図06 ]
 
  時間が「T 1T 2T 3 」と進むとき、粒子の位置は「P 1P 2P 3 」と変わる。
 
  (2)波動説
 
  波動説は次の図によって表現され、波の運動を主張する。
 

 [ 図07 ]
 時間が「T 1T 2T 3 」と進むとき、波の位置は「P 1P 2P 3 」と変わる。
 
  (3)ド・ブロイ波説
 
  ド・ブロイ波説は次の図によって表現され、量子の運動を主張する。
 

 [ 図08 ]
 時間が「T 1T 2T 3 」と進むとき、量子の位置は「P 1P 2P 3 」と変わる。量子は、粒子の性質と波の性質の両者をもつ。
 
  (4)玉突きモデル
 
  玉突きモデルは、量子の運動を主張しないが、次の図によって表現されるように、量子のワープを主張する。
 

 [ 図09 ]
 
  四つの列のうち、二番目と三番目を省いて、一番目と四番目を取ると、次の図となる。

 [ 図10 ]
  この図は、先の図(基本図形)と同じである。それぞれの量子が動かないことがわかるだろう。
 

玉突きモデルの説明(二次元)

玉突きの概念を説明するために、モデルを拡張しよう。先の図は一次元に基づいているが、次の図は二次元に基づいている。
 

 [ 図11 ]
 
  この図は、球の振動が平面全体に伝達することができると示す。この図は新しい概念を示す。すなわち、「球の波」という概念だ。われわれが量子と呼ぶものは、ただの波やただの粒子のかわりに、球の波と見なされるべきである。玉突きモデルは次の概念をもつ。
  「真空は多くの球をもつ。その全体は波の媒体である。」
 比喩的に言うと、これは、サッカー場の観客による「ウェーブ」(起立・着席による波)と同様である。「ウェーブ」は大きく動くが、観客はその場で移動しない。何かが移動するように見えるのは、ただの見かけにすぎない。
 

ワープ

量子が長距離を移動するように見えるとき、粒子は動かない。かわりに、一つの粒子が一つの場所で消え、そのあとで、別の粒子が別の場所で現われる。この現象は、粒子の運動のように見えるが、粒子の運動でない。この現象は「運動」と呼ばれるべきではない。そこでこれを「量子のワープ」と呼ぼう。
 量子は位置X から位置Y に移らないで、位置X から位置Y にワープする。玉突きモデルによってこの説明を理解できるだろう。位置X の量子と位置Y の量子は同じでない、ということに注意しよう。両者は、同じ一つの量子でなく、異なる二つの量子である。それらは同じでなく、識別不可能であるだけだ。量子のこの識別不能な性質は、前に述べたような錯覚をもたらす。
 

粒子と波の転換

ワープを理解するためには、次の図を見るとよい。
 

 [ 図12 ]
 
  一つの粒子が始点にあり、別の粒子が終点にある。波は両者の間の空間で、伝達される。この過程は次の図式で書くことができる。
     粒子 → 波 → 粒子
 
 この図式は、粒子が波に変わり、そのあとで波が粒子に変わることを意味する。粒子間に、相互転換がある。この相互転換は、「粒子と波の転換」と呼ばれる。粒子と波の転換には、二つのタイプがある。一つは、波からの粒子への転換であり、もう一つは、粒子からの波への転換である。
   粒子と波の転換について考えるとき、以下の二つの主張に注意するべきである。


玉突きモデルの概要


エーテルの存在

玉突きモデルはモデルであるにすぎない。現実の量子とこのモデルの超球が整合するかを調べよう。
 

超球の三つの状態

超球は現実の量子と一致するか? この問題を調べよう。
  まず、超球が現実の量子と一致すると想定しよう。すると、量子を超球と見なすことができる。こう想定した上で、超球が満たすべき条件を追求すると、三つの条件を見出せる。

 これらの条件を、一つずつ考慮しよう。
 

超球の同等性

 玉突きモデルの球が量子である、と見なせるためには、量子は以下の条件を満たさなければならない。
  「同じ種類の量子は、すべて同等であって、たがいに識別不可能である。」
  この条件は、「超球の同等性」と呼ばれる。
  「粒子 → 波 → 粒子」という過程では、最初の粒子と最後の粒子は一般に識別不可能である。これが、超球の同等性である。もちろん、量子の同等性を超球の同等性をみなしてよい。それぞれの電子は識別不可能である。これは現在の物理学で事実であると判明している。
  超球の同等性が正しいのであれば、以下の二つの現象を区別できない。
  「電子が始点から終点に移る」
  「電子が始点から終点にワープする」(すなわち、一つは始点で消え、別のものが終点に現われる)
 

超球の充満

玉突きモデルの球が、量子であると見なせるためには、量子が以下の条件を満たさなければならない。
  「われわれが真空と呼ぶ空間は、空っぽでなくて、超球で充満している。」
  この条件は、「超球の充満」と呼ばれる。
  超球の充満は現実において正しいか? イエス。真空は常に一対の量子(粒子と反粒子)を作成することができる。電子の対生成だ。これが本当なら、真空は空っぽでなくて、同じ数の粒子と反粒子で充満している。これらの粒子と反粒子は、超球と見なされるだろう。
 

 [ 図13 ]
 
  この図では、粒子は白い ◯ として示され、反粒子は黒い ● として示される。粒子と反粒子はたがい違いに続けて並び、左から右に波を伝達するために振動する。
  粒子と反粒子は同じ数だけあり、一対の粒子と反粒子が対生成の反対(すなわち一対の絶滅)をするので、それらの全体は無効となる。観測者はマクロなの観点から、そこに何もないと感じるが、しかし、彼らが見えないとしても、そこに多くの球が存在するのだ。
 

超球の可変性

超球は特定の粒子または特定の反粒子としてあるのでない。超球はあらゆるタイプ(すなわちあらゆる量子)の超球となれる。一対の超球はあらゆる量子の一対の粒子と反粒子となれる。たとえば、

 超球は電子&陽電子、中間子&反中間子、そのどちらにもなれる。超球理論は、超球が特定の形で固定されず、可変的であると主張する。超球は可変的な存在である。この条件は「超球の可変性」と呼ばれる。比喩的に言えば、音は様々な音色を得る。(周波数によって。)
  超球の可変性は、不自然なようであるかもしれないが、不自然ではない。超球の可変性はつまり超球が物質でないことを意味するだけだ。すなわち、真空は物質でないと。これは自然である。

 [ 補足 ]
  超球がそのような変数の変更によって種類を変えることができるのは、超球には或る未知の変数があるからだと、想定できる。
 

真空とエーテル

われわれは今や、上記の三つの条件を理解した。
  「真空は、空っぽでなくて、たがい同等であるような超球で充満している。超球はあらゆる種類の量子に対応する。たとえば、電子&陽電子、中間子&反中間子。」
  超球理論は、真空を、超球で充満している空間とみなす。われわれは「真空」と区別して、「エーテル」という語を使用しよう。真空は「エーテル」とも呼ぶことができる。エーテルとは、超球理論にしたがって、超球で充満している空間である。
  超球理論によるエーテルは、19世紀の物理学によって述べられたエーテルに似ている。しかし後者は物質であるが、前者は物質でないので、たがいに異なっている。19世紀の物理学はエーテルを物体の運動への抵抗を与える物質と見なした。しかるに、超球理論のエーテルは、物質でなくて、真空である。真空には、通常見えなくて、物体の運動への抵抗を与えないような、超球がある。
  超球はなぜ通常見えないか。それは、静的な超球が見えないだけでなく、高速な量子がまた見えないからである。高速な量子は、真空では見えない波の形をもつ。波としての高速な量子が、速度を失うとき、それは波から粒子に形を変える。
 

振動と回転

超球理論は超球が振動すると主張する。では、振動は何であるか。超球はいかに振動するか。エーテルはいかに波を伝達するか。この問題を考慮しよう。
 

回転と振動

超球は振動する。それは玉突きモデルが説明する通りでる。では、振動とは何であるか。
  通常の振動は、正弦関数によって示される。正弦関数はeix のように示せる。そこで、以下のように言える。
  「実数の世界の振動は正弦関数によって表される。複素数の世界の回転はeix のような複素数の関数によって表される。両者は同等である。」
  以下のようにも言える。
  「超球は、複素数の球である。超球が回転するとき、その実数部分は正弦関数となる。」
  この主張は次の図によって示すことができる。
 

 [ 図14 ]
 
  この図の左の部分を見よう。  という垂直線は、側面から見られた円を意味する。この円は縦に立ち、紙に垂直な方向に虚数の次元をもつ。この円が回転するとき、円弧のそれぞれの点の位置は縦の方向で動く。この縦の運動は、距離と時間の二次元をもつ平面に正弦曲線を引くことができる。この縦の運動は振動である。
  この図には円がある。円のかわりに球があれば、超球理論は同じように説明する。球が回転するとき、球の表面のそれぞれの点の位置は縦の方向で振動する。
  図の意味を理解したら、超球の実数部分と超ヒモとみなしてもよい。なぜか? 超球のそれぞれの点が複素数の世界で回転するとき、超ヒモのそれぞれの点は実数の世界で振動する。それが理由である。

 [ 補足 ]
  超ヒモ理論と超球理論が異なる理論であることには、二つの理由がある。第一に、超ヒモ理論は真空を空っぽな空間だとみなすが、超球理論は真空を超球で充満しているエーテルだとみなす。この相違は、別の相違としての、玉突きモデルを取るかどうかということから来る。第二に、超ヒモ理論は、真空を実数の空間とみなすが、超球理論は真空を複素数の空間とみなす。
   後者の理由は重要である。超球理論は、この宇宙がまさしく複素数から成るのだと主張する。複素数は単に計算のための便宜のものでなくて、この宇宙の基礎となるのだ。この宇宙が複素数を失えば、この宇宙はエーテルを失わなければならないので、崩壊してしまう。この話題は後でまた述べる(複素エーテルの話題。)

回転と存在

超球は、実数の球と異なって、複素数の球である。それらの相違は本質的には何であるか? 
  エーテルは粒子と反粒子とみなせる超球で充満している、と前に述べた。その意味は、真空が粒子と反粒子で充満していることと、超球が常に粒子か反粒子に形を変えることだ。この概念ゆえに、以下の主張をもてる。
  「超球は回転しながら位相を変える。超球の位相がトップの位置を取るとき、この超球は粒子への形に変わる。超球の位相がボトムの位置を取るとき、この超球は反粒子への形に変わる。」
  超球が回転するならば、eix が +1 と -1 の間で変わるように、位相が変わる。値 +1は粒子に対応し、値 -1は反粒子に対応する。
  そして、+1と-1の間の中間値については、以下のように言える。
  「超球の位相が中間のとき、超球は実数世界と虚数世界の間で、出たり入ったりする。」
  これは以下のことを意味する。
  「超球は回転するとき、実数世界と虚数世界の間で、出たり入ったりする。」
  これはこの宇宙に二つの部分があることを意味する。すなわち、実数世界と虚数世界である。粒子は回転するとき、両方の部分の間で出たり入ったりする。具体的には以下のように考えることができる。
  「真空中で波が伝達されるとき、粒子と反粒子は真空中で振動する。振動は、超球の回転の実数部分を意味する。波は長い距離を伝達されるが、粒子は長い距離を移動することはない。波は、それぞれの超球が複素エーテルのなかで、おのれの位置で回転すると起こる。複素数世界の超球の回転は、実数世界の粒子と反粒子の間での違いの変更を意味する。超球は位相がトップまたはボトム(+1または-1)であるときだけ、粒子または反粒子になる。超球の位相がトップとボトムの間の中間であるとき、粒子と反粒子間の中間的な存在である。この中間的な存在は、実数世界の物質でなくて、複素数世界の何かである。」
  この発想は、現在の物理学とは対照的である。通常の物理学は、量子をこの実数宇宙に属する何かであるとみなす。量子が常に、この実数宇宙にある点としての粒子なら、中間的な存在であることはできず、広い空間にある波であることもできない。しかしこの結論は、実験と矛盾する。たとえば、二重スリット実験を思い浮かべよう。たいていの物理学者は量子を、狭い点にある何かと考える。量子は二重スリット実験のスリットとしての狭い空間を通るべきであると考えるので、一つの量子が二つのスリットを同時に通過したと考える。しかし、周知のように、この概念は実験と矛盾する。粒子が一つの存在であると同時に二つの存在であることになるからだ。この解釈は数を数えることができない愚人と同様に、数の概念を否定するので、無効である。これらの問題のすべては錯覚から来る。量子は常に狭い点にある実数の粒子でなければならないという錯覚から。
 

回転と停止

われわれは上記のことから、今、以下の主張を取ることができる。
  「物質は位相がトップの超球と見なされるべきである。反物質は位相がボトムの超球と見なされるべきである。反物質は反粒子から成っている。物質か反物質は、固定された位相の超球と見なされるべきである。物質または反物質は、粒子または反粒子から成っている。超球は、量子が波の形をもつときだけ回転し、量子が物質または反物質の形をとり、超球が回転しなくなると停止する。
  上記の主張は次の図によって表すことができる。
 

 [ 図15 ]
 
  かくて、超球の回転は現実の世界の回転を意味しない、とわかる。それはスポーツ・ボールの回転のような空間的な回転でない。この回転は目に見える運動ではなく、抽象的なものである。
 

空孔理論との比較

超球理論はエーテルが超球で充満している主張する。この概念はディラックの「空孔」理論と異なっている。これらを比較しよう。
  ディラックの概念は、粒子説に基づいて、真空が一種の粒子で充満している主張する。超球理論は、真空が超球で満たされたエーテルであると主張する。粒子は常に物質であるが、超球は常に物質であることはない。
  超球が物質であることは何で定まるか。それは超球の位相である。超球は、位相がトップであるときに物質となる。位相だけがそれを定める。もし物質としての超球が空っぽの空間に存在することもあると考えるなら、それは誤解だ。エーテルは超球で充満している。超球は常に空間に存在する。粒子が存在するかどうか決めるのは、超球の位相だけであり、超球の存在ではない。
  では、反粒子とは何か? 特定の位相の超球である。すなわち、ボトムの。というわけで反粒子はエーテルの空孔でない。
 

波長と広さ

同じ単語を使うとしても、粒子の回転と超球の回転は、異なるものだ。たとえば、現実の世界の電子は、三次元のユークリッド空間で回転するが、超球は複素エーテルで回転する。
  超球の回転は、三次元のユークリッド空間の粒子の回転と区別されるために、「エーテル回転」と呼ぶことができる。しかし、必要なときだけ「エーテル回転」と呼べばよく、通常は「回転」と呼んでいい。
  超球の回転は、粒子の回転に対応しないで、量子の振動に対応する。では、量子の振動とは何であるか。
  波は波長と振幅をもつが、量子の振動によりエーテルの波を引き起こす。では、波長と振幅とは何であるか。
  波長の意味を考慮しよう。たとえば、電磁波は1メートルの波長をもつ。この波長は、以下のことを意味する。
  「電磁波の超球が1周期の回転をする間に、電磁波の伝わる距離」
  一方、超球の振幅は、超球の回転の幅であろう。つまり、超球が回転することができる範囲である。それはエーテルのサイズである。……このことは確実でない。問題となる。
  この問題は解決しやすくない。この問題を扱う前に、エーテルの性質をもっともっと理解しなければならない。
 

エーテルの次元

エーテルは次元をもつ。そして、どんな次元であるか。
  結論を最初に告げるなら、エーテルは複素数の6つの微小次元をもつべきである。これは、この宇宙が10の次元をもつことを意味する。つまり、一つの時間次元と、ユークリッド空間の三つのマクロ次元と、エーテルの六つの微小次元だ。
 超球理論はこの結論を与える。理由は以下のそれぞれの項で説明される。
 

複素エーテル

前に述べたように、超球は複素数の球である。したがって超球のエーテルは複素数の次元をもつべきである。すなわち、エーテルは実数の次元と虚数の次元をもつべきである。
  これを強調するためには、われわれはエーテルを「複素エーテル」と呼ぶことができる。単に「エーテル」と呼んでもいい。両者はともに同じ意味をもつ。
  複素エーテルはこの宇宙にあるか? または、エーテルは計算の便宜のための、架空のモデルであるか? また、この宇宙は三次元のユークリッド空間としてあるか、多くの次元をもつ複素数の空間としてあるか? この問題に答えるためには、われわれはシュレーディンガー方程式の意味を考慮するべきである。
  物理学の通常の概念に従えば、この宇宙は実数の三次元をもつ空間である。複素数の関数は、計算の便宜のために使用されるだけだ。波動関数の意味は、以下のように見なされる。
  「波動関数の絶対値の二乗が粒子の存在の確率を与える。」
  この説明は、波動関数の絶対値だけが重要である主張する。ここでは、波動関数の絶対値としての実数しか重大さがない。したがってわれわれは、複素数の波動関数そのものを考慮する必要がない。一方、波動関数の絶対値しか考慮しなければ、波動関数の干渉のある二重スリット実験のような現象をよく説明できない。
 超球理論の発想にしたがえば、この宇宙には、複素数の10の次元を本質的にもつ空間である。そのうちマクロな三次元は一部であるにすぎず、エーテルの次元としての6次元の方がいっそう重要である。超球の波を伝達するエーテルは、この宇宙で複素数をもつ何かである。したがって波動関数には複素数があるのが自然である。
 上記からわかるように、波動関数は、実数空間における存在の確率というよりも、複素エーテルにおけるエネルギーの密度を意味する。エネルギーの密度が高ければ高いほど、(波から粒子への)転換の確率も高くなる。この確率が、粒子の存在の確率のように見える。
 

複素エーテルの次元

では、複素エーテルはどんな次元をもつか。これは問題である。まずは以下のことを、確信できないまま想定しよう。
  「エーテル虚数の三次元をもつ。それは、この宇宙のユークリッド空間の三次元に垂直な次元である。」
  この場合、エーテルは、三つの実数次元と三つの虚数次元から成っていて、6次元をもつことになる。それらは実数次元の x,y,z ix,iy,iz という虚数次元のものとして書くことができる。これらの次元は、以下のような空間を与える。
  「6次元のユークリッド空間」
  しかし、この空間のモデルは適切でない。その理由は、以下の項目で説明される。
 

次元のサイズ

前に述べたように、超球は複素エーテルにおいて回転する。それで十分である。超球は複素エーテルにおいて移動する必要がない。今、少しだけの次元の空間を想定しよう。たとえば、 u iu 。超球は u iu という複素数の平面で回転する。超球が回転するとき、 u iu の次元では、微小振動しかなされない。
  このことが意味するのは、エーテルの次元が、超球の(実数部分または想像部分)の振動のサイズしか必要としない、ということだ。このサイズはほぼプランク定数程度である。
  「エーテルの次元は、ほぼプランク定数程度のサイズだけを必要とする。」
  この条件は、エーテルの性質の一つである。この条件を得ると、6次元のユークリッド空間のモデルは余りに大きい虚数次元をもつので不適切だ、とわかる。
  さらに、三つの虚数次元が微小サイズをもてば、実数次元と虚数次元ごとに、別のサイズをもつことになる。それは不自然だ。したがって、次元は、両者とも同じサイズをもつべきである。たとえば、 u iu は同じ次元サイズをもつべきである。
 

直交座標としての次元

上記のことから、以下の結論を与える。
  「複素エーテルの次元は、ユークリッド空間の三つの実数次元( x,y,z )でもありえず、虚数次元( ix,iy,iz )でもありえない。」
  エーテルの一次元を u と書こう。この u x,y,z とは完全に別の次元であり、したがって u x,y,z に直交する。
  超球は、複素数の球である。超球に実数次元 u があれば、虚数次元 iu をもつべきである。 u iu の両者は x,y,z に当然直交する。
  したがって、エーテルの次元がユークリッド空間の三つの実数次元に直交するという結論を得ることができる。今、エーテルの次元を「微小次元」と呼ぼう。一方、区別して、ユークリッド空間の三つの実数次元の「マクロ次元」と呼ぶ。
 

次元の数

複素エーテルの次元は iu iu のような方法で表現される。しかし、この二次元は(微小次元としては)すべてであるわけではない。では、複素エーテルには何次元があるか。超球のモデルは、現実の世界の現象をいくらか定めることができるが、この数を定めることができない。したがって、われわれは以下のような推定を取ることができる。
  「超球の波には、三つのタイプがある。すなわち、電磁波、弱い相互作用の波、強い相互作用の波。この三つのタイプの波は、それぞれ、実数の次元をもつべきである。」
  この場合、エーテルは、三つのタイプの波のための三つの実数次元をもつべきである。さらに、エーテルは、実数次元に対応する虚数次元をもつべきである。したがってエーテルは、実数の三次元があり、虚数の三次元をもつべきである。すなわちエーテルは、「実数次元と虚数次元」の対を三対もつべきである。
  したがって,エーテルはサイズがプランク定数程度である六つの次元をもつべきである。それらを u,v,w,iu,iv,iw のように書くことができる。一方、この宇宙は三つのマクロ次元と時間の一次元をもつ。それらはいわば、通常の次元である。このすべてを総計すると、この宇宙は10の次元をもつべきである。すなわち、四つの通常の次元と、六つの微小次元。すなわち, x,y,z ,t,u,v,w,iu,iv,iw  である。

 [ 補足 ]
  微小サイズの複素数の次元という概念は、超球の概念から来る。超球は対称の形のものであり、複素数の次元に同じサイズをもつものである、球である。
  超球が球でなくて、非対称的な形なら、超球は異なるサイズの異なるサイズをもつことができる。もし非対称的なモデルを取ったら、別の理論を造ることになるが、それは現実には不十分か、否定されるだろう。私個人は、自然の性質は美しくて対称的であることを信じるので、非対称的なモデルを取らない。
 

現在の理論との関係

われわれに量子のための適切なモデルを与える理論として超球理論は、十分にほとんど説明された。それから現在の物理学の概念とこの理論の概念を比較しよう。われわれが物理学の歴史に見るとき、われわれは異なる形をもつ興味深い概念を見つけることができる。すなわち、方程式、原理またはモデルのような様々な形。
 

マックスウェルのモデル

物理学の歴史に見ると、超球のモデルに似ているモデルを見つけることができる。このモデルはマックスウェルによって想定された。彼は電磁波のために、このモデルの上で考え、それを電磁気の方程式にした。
  マックスウェルのモデルは、有名でないし、それを簡潔に説明したくてもできない。しかし、ここでは、以下の核心ないし要点だけを説明しよう。
  「空間を満たし、ある条件を満たして回転する、微小球」
  もちろん、これらの条件はマックスウェルの方程式を意味する。しかし、重要なのは、基礎となる最初の概念である。それは、微小球の概念である。微小球の概念は、超球の概念に似ている。この類似は、微小球の概念と超球の概念の両者が、決して合理性を欠くわけではないことを意味する。
  さらに、彼の方法に注意しよう。マックスウェルはまず具体的なモデルを取り、次に彼の方程式を組み立てた。彼はすべてを彼のモデルの上でまず考え、そのあとそれを形式化した。かくて彼はマックスウェルの方程式として知られている数式を得ることができた。順序はその逆でない。彼が数式をまず取り、次に具体的なモデルを捜したと思うのなら、正しくない。そのような逆順の方法をとったら、彼はマックスウェル方程式を見つけなかっただろう。われわれは彼の方法に着目するべきである。
 

ファインマンの経路積分

ファインマンの経路積分と玉突きモデルは、相性が良い。本質的に言えば、ファインマンの経路積分は、玉突きモデルの形式化とほぼ同義である。
  歴史的には、多くの科学者が、マックスウェルがなしたのと同じように、モデルを先に取り、数式をそのあとで取った。ファインマンもまた、そうした。彼は無限の経路を同時に通る粒子、というモデルを想定した。より正確に言えば、無限の経路を同時に通る無限個の微粒子(粒子の断片)、というモデルだ。もちろん、このモデルは微粒子の全体の合計として、ファインマンの経路積分を与える。
  しかし、このモデルは、通常の理論とは合致しない。すなわち、粒子説、波動説、ド・ブロイ波説などには。
 超球理論は今ファインマンの経路積分のための、別のモデルを与える。それは玉突きモデルである。このモデルは、ファインマンの経路積分の、モデルであるとも言える。玉突きモデルと経路積分は相性がいい。しかし、それらは発想において、一つだけ相違をもつ。次の図を見れば、理解できる。
 

 [ 図16 ]
 
  始点が左に、終点が右にある。始点から終点への方向を「縦」と呼ぼう。それに垂直の方向を「横」と呼ぼう。横とは、波の円弧の方向を意味する。
  経路積分をとれば、縦の値を先に計算し、その値を横に積分するべきである。順序は「縦 → 横」である。
 玉突きモデルをとれば、横の値を先に計算し、その値を縦に積分するべきである。順序は「横 → 縦」である。
  計算に際しては、両者は異なる順序をもつが、結果として最後の値は、同じである。これは数学における積分の性質から明白である。
  結局、玉突きモデルと経路積分は、本質的に、同等の意味がある。
 

二重スリット実験

超球理論は二重スリット実験をのパラドックスを解決できる。このパラドックスは以下のとおりである。
  「一つの粒子が狭い区域になければならないが、同時に一つの粒子が二つのスリットを通ることは不自然である」
  超球理論にはこのパラドックスが本質的に存在しない。なぜなら、高速な量子は、粒子ではなく、超球の波であるはずだからだ。粒子は狭い区域にあるが、波は狭い区域にある必要がないし、むしろ、広い区域に存在できる。したがって、同時に二つのスリットを波が通ると考えれば、何も問題はない。
 上記のパラドックスは、量子が波の性質をもつ粒子でなければならない、という概念から来る。それはド・ブロイ波の発想である。超球理論では、量子は形を変えるものだ。この発想では、粒子が常に粒子ではないことになる。粒子は波に変わり、波は粒子に変わる。
  さらに、玉突きモデルの概念は、以下のように自然な結論をもたらす。
  「超球の波は、二重スリット実験において干渉をもたらす。なぜなら、超球の波は、粒子ではなく波であるからだ。」
  静止する電子は、粒子とみなすことができるが、空間で高速に移動する電子と波と見なされる。かくて二重スリット実験は量子の特別な性質を示す。
 たいていの物理学者は、量子は常に一つの形をもつと信じる。始点では粒子を観察し、終点でも粒子を観察する。かくて、粒子としての量子が二つのスリットを同時に通ると信じる。しかし、超球理論は量子が異なる形をもつと主張する。すなわち、始点では粒子の形、中間の空間では波の形、終点では粒子の形を。
  量子は異なる形をもてる。量子は形を変える。空間を移動するように見えても、粒子は移動しない。単に、一つの粒子が消えて、別の粒子が現われるだけだ。中間の空間では、移動する粒子は存在しない。この現象を観察した科学者は、自然のトリックにだまされがちである。玉突きモデルは、このトリックの秘密を明かす。
 

シュレーディンガーの猫

超球理論はシュレーディンガーの猫のパラドックスを解決できる。
  超球理論が有効となるのは、超球の同等性が有効である世界だけでのことだ。すなわち、微小世界だけでのことだ。一方、マクロ世界では、(超球の同等性のかわりとなる)物質の同等性は無効である。
  たとえば、多くの陽子は、微小世界で区別可能でないが、現実の猫はマクロ世界で区別可能である。電子は微小世界の真空のなかから作り出すことができるが、現実の猫はマクロ世界の真空のなかから作り出されることはできない。
  量子力学の概念は超球のモデルが有効であるような微小世界にしか適用することができない。微小世界の量子は決定不能な状態をもつことができるが、マクロ世界の猫は決定された状態がなければならない。量子は波の姿を取るときには決定不能な状態をもつが、猫は決定された状態を常にもつ。
 決定不能な状態は、決定された状態の重ね合わせでない。決定不能な状態は、決定された状態の複合構成物ではない。波は粒子の複合構成物でない。波と粒子は特定の関係をもつ。それが超球理論の主張することである。
 

無限大の困難

今日の量子力学に問題をもつ。すなわち、無限大の困難だ。しかし、超球理論は、この問題を解決し、なぜこの問題が起こるか説明できる。その理由は、以下の通り。
  「無限大の困難は、量子力学が限界もたないことから来る。自身の有効な範囲を言うことができないのだ。かくてそれが無効である小さい範囲を含んでしまう。この小さい範囲では、量子力学は無効となるか、あるいは空虚な結論を導く。かくて、無効な範囲が、空虚な結論をもたらし、それが矛盾を生じさせる。」
  量子力学は自身の有効な範囲を言うことができない。これは問題の核心である。実際、量子力学は自身の有効な範囲をもつ。この有効な範囲は、非常に短い距離を除く(粒子間で)。なぜか? 量子力学は答えを与えないが、超球理論は答えを与える。
  超球は幾何学的に、点ではなく球である。量子は、体積のない点でなくて、体積のある球である。点同士はたがいに距離ほぼゼロになるまでいくらでも近づくことができるが、球は短い距離になるとたがいに近づくことができない。その距離とは何。それは超球の直径より長い。理由は次の図によって説明することができる。
 

 [ 図17 ]
 
  二つの球間の距離は球の直径であるまたは球の半径の2倍である 2r より長い。波の概念は、距離が球の直径より長いときにしか有効でない。次の図によって、それをよく理解できる。
 

 [ 図18 ]
 
  超球はたがいに距離が直径よりも近づくことができない。波は起こることができるのは、距離が直径より大きいのときだけだ。かくて量子力学が有効である範囲を認識できる。
  二つの量子間の距離が量子の直径よりも小さいなら、量子力学は無効になるはずだ。その場合、点のまわりの積分には、意味がない。そのような計算はナンセンスである。かくて、無限大の困難は、超球理論を取れば起こらないわけだ。超球理論は量子力学の下限を教える。
 

ハイゼンベルクの不確定性原理

ハイゼンベルクの不確定性原理と超球理論の不確定性原理は、同じでない。両者は、同じ名前をもち、ほとんど等価である、しかし、一つだけ相違をもつ。すなわち、範囲の相違だ。前者には限界がないが、後には上限がある。超球理論は、「サイズが上限よりも下にあれば不確定性原理が有効である」と主張する。では、上限とは何か。それは、ほぼプランク定数のサイズの、微小次元のサイズである。理由は以下の通りである。
  まず、不確定性原理の本質は何かを考えよう。超球は常に、実数部分が常に変動するように回転するべきである。この変動は、量子の振動と量子の不確実性を意味する。
  比喩的に示す。自転車が一定の速度で動いているとしよう。自転車のそれぞれの点は、観測者が距離を置いて見れば、一定した速度で動いているように見える。ただし実際は、タイヤのそれぞれの点は常にタイヤの回転するにともなって変動する。タイヤのそれぞれの点は、いろいろな値を変える。すなわち、水平位置、垂直位置、運動量、位置エネルギー、など。これらの値は絶えず変わっている。
  超球は自転車のタイヤに似ている。超球は通常、値が変動するように、回転する。すなわち、位置や、運動量など。これらの値は常に変わっている。しかし、これらの値のそれぞれはプランク定数程度よりも小さいサイズであると限られている。それが、超球理論によって与えられる不確定性原理である。
  ハイゼンベルクの不確定性原理は、二つの変数の変動の積(たとえば位置と運動量)が、プランク定数より大きいと主張する。超球理論によって与えられる不確定性原理も、それは同様だ。
  しかし、超球理論によって与えられる不確定性原理はさらに、変動の積だけでなくそれぞれの値の変動もまた、一定のサイズより大きくなれないと主張する(プランク定数ぐらいの大きさ。)
  ハイゼンベルクの不確定性原理と超球理論の不確定性原理の違いは、別の相違によって明らかに示すことができる。それは結論の相違である。
  ハイゼンベルクの理論は、こう主張する。「運動量の変動の値がゼロに縮まれば、位置の変動の値は無限大にふくらむ。」
  超球理論は、こう主張する。「運動量の変動の値は決してゼロに縮まらないので、位置の変動の値は無限にふくらむことは決してない。」
  前者は、「運動量の変動の値がゼロに縮まることができるので、量子の位置が無限に変動できる」と結論する。後者は、「運動量の変動の値がゼロに縮まることはないので、量子の位置が無限に変動することはない」と結論する。
  前者は、「粒子としての量子が非常に広い区域にあることができる」と結論する。後者は、「粒子としての量子が非常に狭い区域にしか存在できない」と結論する。超球理論は、「超球は移動もしないし、非常に広い区域に存在することもないが、超球の波は移動もするし、非常に広い区域に存在することもある」と主張する。
 

重力と相対性理論

超球理論を拡張しよう。今までは、超球の密度は一定であると想定してきた。そこで今、超球理論を拡張し、超球の密度が一定ではなく変化すると想定しよう。そのような概念をとれば、超球理論によって、量子力学と相対性理論を統一できることができる。これは量子力学と相対性理論の統一が可能であることを意味する。
 

超球の密度

今までは、超球の密度を考慮しなかった。これは超球の密度が一定であると想定したということだ。しかし、超球の密度は様々な値をもつことができる。この発想を理解するために、次の図を見よう。
 

 [ 図19 ]
 
  この図は超球が異なる密度をもたらすことがあることを示す。上半分は高密度の空間を意味し、下半分は低密度の空間を意味する。前者は薄い空間であるが、後者は濃い空間である。二つの空間のそれぞれ、異なる値の一定した密度をもつ。
  通常、一つの密度をもつ一つの空間を考えるだけならば、空間の密度を考慮する必要はない。しかし、異なる密度の二つ以上の空間を考えるならば、空間の密度を考慮する必要がある。
 

準絶対静止

ここで話の流れを変えよう。密度のトピックをひとまず置いて、別の話題を取る。
  「準絶対静止」と呼ぶ新しい概念を主張する。この概念は「絶対静止」または「相対性」の概念と比較できる。19世紀の物理学は、「エーテル」と呼ばれる何かが絶対静止した媒体として、真空にると想定した。しかし、マイケルソン・モーレーの実験は、そのような媒体がないことを証明した。
  この実験は、物質としてのエーテルを否定しただけだ。このエーテルは、三つのマクロな実数次元の空間にある。れを「実数エーテル」と呼ぼう。一方、超球理論によって想定されるエーテルは、六つの微小な複素数次元の空間にある。それを「複素エーテル」と呼んだ。実数エーテルは19世紀の物理学で想定され、複素エーテルは超球理論で想定される。両者は、かなり異なっている。
  複素エーテルは、六つの微小な複素数次元をもつ。この六つの微小次元のそれぞれは、三つのマクロ次元に垂直である。この結論は、以下の結論をもたらす。
  「観測者が三つのマクロ次元の空間のどんな方向に動いても、複素エーテル静止するように見える。」
  次の図を見れば容易にこの結論を理解する。
 

 [ 図20 ]
 
  この図は三つのタイプの次元を示す。次元 x,y,z はマクロ空間に属する。次元z は垂直線として表現される。次元 x,y は一つの傾いた直線で表現される。複素エーテルの6次元は、一つの水平線として表現される。
  観測者が x,y,z の空間のどんな方向に動いても、6次元の空間に何ら影響を及ぼさない。観測者が動くか停止するかは、複素エーテルの波に何ら影響を及ぼさない。
  比喩を示そう。マクロ空間があるり、三つのマクロ次元をもつ。すなわち、y,z,u を。y-z 平面において音叉が動けば、この運動は音波に影響を及ぼさないので、 u 方向の音はドップラー効果をもたらさない。
 かくて、一つの方向の運動が、それと垂直な方向には影響を及ぼさないと判明する。複素エーテルの6次元に着目している限り、マクロ空間の運動は何もないのと同じとしてある。すなわち、移動する物質にとっての複素エーテルは、停止している物質にとっての複素エーテルと、同等である。これはつまり、複素エーテルがあらゆる物質にとって停止しているのも同然だ、ということだ。
 複素エーテルはあらゆる物質にとって、停止しているのも同様である。この概念は「準絶対静止」と呼ばれる。
  実数のエーテルがあれば、絶対静止しなければならないので、実験と対立する。一方、複素エーテルは、絶対静止する必要はなく、準絶対静止するだけでいいので、実験に対立することはない。では、なぜ、準絶対静止の発想を取ってもいいか。それは既に、三つのマクロ次元に垂直となるような六つの次元をもつ複素エーテル、という発想を得たからだ。
 

光速度不変

すでに準絶対静止の概念を得た。この概念は以下の結論をもたらす。
  「光速度は一定である。なぜなら光速度は観測者の運動から独立しているからだ。」
  これは、相対性理論で言われる光速度不変の原理である。この原理を超球理論に適用すれば、われわれは超球の密度についての新しい概念を得る。それは以下の通りである。
  今、二人の人間がいるとしよう。すなわち、地球上の一人と、光速度の半分の速度で飛ぶロケットの一人。二人は光のパルスを前方に発射する。
 

 [ 図21 ]
 
  図の上半分は、地球上の人の例を示す。彼はP 1 の位置で光のパルスを発射し、光は一定時間後にはP 3 の位置に達する。
  図の下半分はロケットの人の例を示す。彼はP 1 の位置で光のパルスを発射し、光は一定時間後にはP 3 の位置に達する。ここまでの説明は上述と同じである。しかし、下半分のロケットは、P 1 から一定時間の間に、P 2 まで動く。
  この二つの場合を比較すれば、(超球)の密度の相違が見出される上半分と下半分のそれぞれで、人とP 3 との間の空間がある。かくて、両者は、たがいに異なる空間密度をもつべきである。次の図を見れば理解できる。
 

 [ 図22 ]
 
  この図は上半分と下半分の両者で、超球が異なる密度をもつこと示す。を | と書き換えれば、次の図を得る。
 

 [ 図23 ]
 
  この図は、ドップラー効果の図と同じとしてある。(横 ▲ を音源とみなし、を音の波とみなすことができる。)

定規の収縮

上術のように、超球の密度は一定ではなく、変化する。密度が薄い空間もあり、密度が濃い空間もある。
  しかし、濃い空間にいる人と薄い空間にいる人の両者は、自分の空間の密度が変わることがあるということがわからない。なぜか? 空間の密度が変わるとき、定規の密度もまた変わるからだ。収縮した空間が収縮した測定器械によって計測されれば、この測定器械は空間の収縮を検証することができない。それが理由である。
  定規の収縮に注意しよう。定規は濃い空間で収縮するが、定規はは薄い空間で拡大する。これらはローレンツ収縮と同等である。超球理論はローレンツ収縮の理由を与える。
 

非物質宇宙

振り返ろう。光速度不変が(超球)の密度の概念によって説明できる、とわかった。実際、密度という概念は、ローレンツ収縮の概念をもたらす。しかし、ローレンツ収縮の概念は光速度不変を結論するには十分でない。今この段階の超球理論は、何かに欠けている。では、それは何か? 
  準絶対静止の概念を、前に述べた。この概念はすべての量子に適用できるか。否。それは光に適用できるが、電子、陽子、等のような通常の量子には、適用できない。では、なぜか?
  準絶対静止の図を思い出そう([ 図.20 ])。エーテルは、動いたり停止している観測者にとって、停止しているように見える。しかし、エーテルに三つのマクロ次元があれば、エーテルは停止しているように見えない。かくて、エーテルには、三つのマクロ次元のどれもないのだ。光速度不変が有効なら、エーテルの波としての光に、三つのマクロ次元がまったくないという必要がある。逆に、エーテルの波としての光に三つのマクロ次元がまったくないのであれば、光速度不変は有効となる。というのは、光が三つのマクロ次元から独立しているからだ。かくて、われわれは以下の主張をとることができる。
  「エーテルの波には、三つのマクロ次元がまったくない。エーテルの波には、他の7次元だけしかない。」
  この主張は以下の主張と同等である。
  「超球には、三つのマクロ次元がまったくない。超球には、他の7次元だけしかない。」
  この主張は以下の主張と同等である。
  「この宇宙は、二つの独立した部から成っている。一つは三つのマクロ次元の宇宙であり、他は複素エーテルの六つの微小次元の宇宙である。」
  たとえば、通常の物質は三つのマクロ次元の宇宙にしか属しないし、光は複素エーテルの6次元の宇宙にしか属しない。前は質量をもつが、後者は質量をもたない。そこで、前者の「物質宇宙」と呼び、後者を「非物質宇宙」と呼ぶことができる。通常の物質は物質宇宙に属するが、光は非物質宇宙に属する。
  光は物質宇宙に属するべきでない。光が物質宇宙に属することができれば、光に速度の不変性がない。かくて、光は物質宇宙に属するべきでないのだ。それは既に説明されている。さて、(光を除いて)他の量子の超球については、どうか? それらは物質宇宙に属するか? 多分、否だ。電子または陽子のような通常の量子の超球が物質宇宙に属するなら、この超球は物質宇宙において観測可能なサイズをもち、かくてこの超球は観測されなければならない。実際は、それは観測されない。かくて通常の量子の超球は、物質宇宙に属しないはずだ。それらは非物質宇宙にしか属しない。まとめて言えば、超球はすべて、非物質宇宙のみに属する。
  物質としての粒子は、物質宇宙に属する。しかし、ワープが起これば、それは波への転換する。これにともなって超球は非物質宇宙で回転する。こういうふうに、粒子は、物質宇宙から非物質宇宙に出ていく。
  一方、光は常に、波であり、非物質宇宙にある。非物質宇宙の波は、物質宇宙の観測者の運動から独立している。物質宇宙では波は同じ速度をもつようである。かくて光速度不変の概念は、非物質宇宙の概念によって説明することができる。
  光速度不変の概念と非物質宇宙の概念はほとんど同等である。普通の人々は、光速度不変の概念が、神秘的で不自然であると感じる。たいていの物理学者はこういう素朴な感情を軽視する。それはフェアでない。物理学者はこういう素朴な感情を尊重するべきである。なぜか? 普通の人々が正しいからか? ノー。普通の人々は間違っている。とはいえ、彼らの間違いはたいていの物理学者と同様である。両者とも同じ間違いをもつのだ。それぞれ、以下のようになる。
  「光速度は一定であるべきでない。光速度は、観測者の運動に左右されるべきである。」
  「光は、別の宇宙に属するべきでない。光は、この物質宇宙に属するべきである。光はこの物質宇宙内を移動するべきである。かくて速度は物質の運動に依存するべきである。もっとも、それが不可能だけれども。」
  両者の概念は、自然だが間違っている。両者の概念はほとんど同等である。光速度不変の概念は、やや不自然だが正しい。そのことは、非物質宇宙の概念についても言える。

 [ 補足 ]
  光は非物質宇宙に属するべきである。同時に、われわれは目か計器によって光を物質宇宙に観測できる。それらの間に矛盾はあるか? 否。
 超球理論は、光の存在のみが非物質宇宙に属するべきだと主張するだけだ。(これは光が質量をもたないことを意味する。) 一方、光の力は物質宇宙に属することができる。(力は物質宇宙で観測することができる。)
  存在と力は異なる。光の存在と光の力は異なる。前者は非物質宇宙に属し、後者は物質宇宙で観測することができる。別に矛盾はない。
 

密度の勾配

すでに超球の密度の概念を得た。さて。空間では、密度は漸進的に変わるかもしれない。次の図で示せる。
 

 [ 図24 ]
 
  超球の密度は左側では濃くて、超球の密度は右側で薄い。この図の意味は容易に理解できるだろう。では、そのような空間は、現実にあるか? ある。それは重力場である。
  図のずっと左側には大きな質量がある、と想定しよう。この大きな質量は重力をもたらす。重力が強いところでは空間は濃くて、重力が弱いところでは空間は薄い。両者の間の空間では、力が物質に働く。その力が重力である。その方向は、薄い空間から濃い空間に向かう。
  この力は空間の密度の密度勾配によってもたらされる、と想定できる。この発想は、一般相対性理論とほとんど同等である。
 

重力レンズ

密度勾配の現象として、重力レンズをとろう。重力レンズについて、超球理論は、以下の概念をとる。
  「光は、超球の密度がだんだん変わる空間で、屈折する。」
 超球理論における屈折とは、何か。それは次の図を見れば明らかであろう。
 

 [ 図25 ]
 
  超球理論の屈折は、光学の屈折と同じである。薄い空気中から濃い水中に光が進むとき、空気と水の境界で、光が屈折する。空気と水には異なる屈折率があり、境界では屈折が起こる。
  空気と水は通常、異なる屈折率をもつ。しかし、それらがだんだん変わる漸進的な屈折率をもつならば、経路は、境界面で折れ曲がるのでなく、なだらかに少しずつ曲がる。これはもちろん、重力レンズを意味する。
 

まとめ

まとめて言えば、次のように言える。
  「相対性理論は、超球理論の範囲内で説明することができる。そのためには、超球の可変的な密度、という概念をもてばいい。」
  単純に言えば、相対性理論は超球理論の一部分である。もちろん、相対性理論は数式を与えるので、非常に重要である。しかし、超球理論の発想に基づいて数式をつくれば、その数式は、相対性理論によって与えられるのとまったく同じになる。
  相対性理論と超球理論の両者は、異なる用語で同じ内容を語るだけだ。相対性理論は、マクロサイズの世界を記述する古典力学の用語を使うが、超球理論は、微小サイズの世界を記述する超球理論の用語を使う。それが、主な相違である。
 

重力と力

重力の問題を取ろう。最初に結論を言えば、超球理論は重力の本質を明らかにすることができる。重力を、波の姿をもつ力とみなすべきでない。波には無関係の力だと見なすべきだ。
 

力とは何か

重力の問題をとる前に、新たな問題を取ろう。それは、こういう問題である。すなわち、「力とは何か?」
  もちろん、今日の物理学は以下の答えを与える。
  「力は、粒子の交換によって引き起こされるような、何かである。」
 

 [ 図26 ]
 
  二つの大きい粒子  と  があると想定しよう。これらは同じ種類である必要はない。これらからの力は、これらの間で媒介される。この力は、小さい粒子  によって媒介される。
  たとえば、電磁力は光子の交換によって引き起こされる、核力は中間子の交換によって引き起こされる。上記の図では、小さい粒子は光子か中間子を意味する。
 

粒子の交換

ここで、新しい問題が現れる。それはこうだ。「粒子の交換とは、何か?。」
  二つの解釈が、以下のようにある。
 
  (1)現在の物理学
 
  現在の物理学は「粒子の交換」という解釈を主張する
 

 [ 図27 ]
 
  粒子は、左から右に移る。この粒子は 「 → 」 の方向で動く。かくて粒子の運動が起こる。「 → 」と「←」という双方向の運動が、たくさんあれば、この現象は、粒子の交換である。かくて、力が生じる。
 しかしこの概念は、直観的に受け入れるには、やや不自然である。スポーツの球をキャッチボールするように、光子の交換があるということは容易には想像できるが、しかし、その現象が力をもたらすというのは、容易に受け入れがたい。
 
  (2)超球理論
 
  超球理論は粒子の交換について、別の解釈を主張する。超球理論は、まず、粒子の運動についての解釈を示す。それはワープである。
 

 [ 図28 ]
 
  上記の過程は一つの方向のワープを意味する。もちろん、別に、反対の方向のワープがある場合も考えられる。
 

 [ 図29 ]
 
  この図は、二つの方向を示す。二つの方向のワープがあれば、この一対のワープは粒子の交換を意味する。まとめて言えば、粒子の交換と見なされるものは、本質的には、双方向のワープである。粒子の交換と見なされるものは、たくさんのワープの見かけの姿であるにすぎない。
 現在の物理学の考えによれば、粒子の交換は双方向の運動を意味し、双方向のスポーツのボールの運動に似ている。超球理論の発想によれば、粒子の交換は双方向の運動を意味しないで、双方向のワープを意味する。
  前者が主張するのは粒子の運動であり、それは運動エネルギーを必要とする。後者が主張するのは波の伝達であり、それは運動エネルギーを必要としない。前者は不自然であり、後者は自然である。
  たとえば、W粒子またはZ粒子のような非常に重い粒子を取り上げよう。前者の概念を取れば、この重い粒子は存在する必要があり、運動のために運動エネルギーを必要としそうだ。(仮想粒子の概念がなければ。)一方、後者の概念をとれば、この重い粒子は物質としてある必要がないし、運動のために運動エネルギーを必要としない。粒子の波の伝達だけが必要であり、粒子の運動は必要でない、というのが超球理論の示すことだ。
  かくて、前者よりも後者をとるべきである。もちろん直観的に、後者を受け入れることはできる。すなわち、ワープとしての力を。
 

力と波

二つの解釈をすでに見た。これらの解釈は同じでないが、見かけだけ見れば、ほぼ同等と見える。
  なぜか? 力と粒子の関係は次の図式で示すことができる。
 

 [ 図30 ]
 
  この図式は、以下のことを意味する。

 超球理論によれば、それぞれの解釈は同じ見かけをもつ。見かけだけを見れば、どちらの解釈が本当であるかを決定することができない。では、いかにして、決定したらいいか。それは、理論と実験の間の関係の問題である。この問題はここで言及ほどのことはない。しかし、後者の解釈をとったら、有益な結論を得ることができるだろう。これらの有益な結論は、後でまた説明される。
 

力と重力

さて、重力の問題を取ろう。
  重力は力である。しかし、それは電磁力のような他の力と、同じような力であるか? 今日、たいていの物理学者は、肯定的な答えを信じるが、超球理論は、否定的な答えを取る。なぜか? 理由は、複雑すぎて、簡潔には説明できない。それについては、後で説明しよう。かわりに今は、以下の通り、おおまかな結論を言おう。
  「重力は、粒子の交換によって引き起こされる力ではなく、超球の衝突によって引き起こされる力である。」
  この主張は、次の図によって示すことができる。
 

 [ 図31 ]
 
  大きい粒子  が左の位置にあり、小さい超球  が右の位置にある。大きいのは物質の粒子であり、小さいのは超球である。大きいのに対する小さい方が衝突するとき、この衝突が何らかの力を引き起こす。その力が重力である。
上記の図の概念をとるとき、以下のことに注意しよう。

 これらは衝突の特徴である。これらは、粒子の交換の特徴とも異なるし、また、双方向のワープの特徴とも異なる。
 

重力と一般相対性理論

超球理論によれば、重力をもたらすのは、双方向の粒子のワープではなくて、一方向の超球の衝突である。この概念をとって形式化すれば、何らかの数式を得ることができる。
  どんな数式か? 実際には、それらは、一般相対性理論のそれらと同じである。換言すれば、重力を考慮する限りでは、超球理論と一般相対性理論は本質的に同じである。
  前にも述べたように、超球理論は超球の密度を想定し、また、密度の勾配を想定する。超球理論は、密度が高い値から低い値にだんだん変わる空間があると考える。次の図のように。
 

 [ 図32 ]
 
  この図は、密度がだんだん変わる空間を示す。左側には高い密度があり、右側には低い密度がある。漸進的な密度のある超球の空間は、重力場と見なされる。
  この図を見るときには、左側にとても大きい質量をもつことを想定するとよい。重力が強い左側では密度は濃く、重力が弱い右側では超球の密度が薄い。力は右から左へという方向で、物質に作用する。すなわち、低い密度の空間から高い密度の空間へ。その力が重力である。この力は、密度の勾配から来る。──この発想は、一般相対性理論のそれと同等である。
  上記のことは、前に述べたことと同じとしてある。ただしこのあと、以下の質問が生じる。
  「なぜ重力は、空間に密度の勾配があると、空間内の物質に作用するか。なぜ波なしに、力が起こるのか?
  もちろん、超球理論は、重力が超球の衝突から来ると主張する。これは結論である。理由は、次項で説明される。
 

重力モデル

重力を説明するためには、超球理論は「重力モデル」という名前のモデルを使用する。このモデルは次の図で示される。
 

 [ 図33 ]
 
  左に大きい粒子  がある。それぞれの小さい超球  は左の方に向かって動く。この図は、それぞれの超球が静止せず、一つの方向に移動することを意味する。  

重力

前項でもたらされた重力モデルは、「重力は何であるか?」という質問に答えを与える。答えは、以下の通りである。
  「重力とは、物質に超球が衝突することによって与えられる、力。」
 

 [ 図34は ]
 
  この図は、動く超球と、静止した物質 ■ があること示す。超球はこの ■ に、一つの方向で次々と衝突する。これらの衝突は、同一方向の力を ■ にもたらす。この力が重力である。
  この図は、注目すべき意味をもたらす。重力は左にある何かが引っ張る力ではなく、右にある超球が押す力なのだ。 ■ は何かによって左に引っ張られているのでなく、右から超球によって押されているのだ。右の超球は ■ に次々と衝突して、押す。
  たとえば、太陽と地球の間に重力があるとき、地球は太陽に引っ張られているのでなく、反対側の空間にある力によって押されているのだ。超球理論はそう主張する。
 

 [ 図35 ]
 (一般の重力のモデル)
 
 

 [ 図36 ]
 (超球理論のモデル)
 
 重力がたがい引き合う二つの物質間の力であるなら、それら間には超球の波があるだろう。しかし、重力がそれらの外側からの力であるなら、二つの物質間には超球の波はあるはずがない。超球の衝突という概念をもてば、重力波という概念を捨てていいだろう。

  【 追記 】
 ただし、量子論的な意味での「重力波」という概念は捨ててもいいが、一般相対論的な意味での「重力波」という概念は残る。それは、「超球の回転によって生じる波」ではなく、「超球の衝突によって生じる波」である。つまり、「弾性波としての波」「気体分子運動論的な密度の波」である。これは当然ながら、量子論の枠組みでは記述されない。その意味で、「量子論的な波」ではない。
 電磁力は、電磁波から生じるが、重力は、重力波から生じるのではない。重力と重力波との関係は、(気体の)圧力と音波との関係に等しい。音波なしで圧力が生じるように、重力波なしで重力が生じる。この点で、重力と重力波との関係は、電磁力と電磁波との関係とは、まったく異なる。  

重力モデルと一般相対性理論

重力モデルを使って、重力をもっと詳しく調べよう。 重力場に ■ が静止していれば、押す力を受ける。しかし、 ■ が重力場で自由になっていれば、押す力を受けない。これは、重力場において自由落下する物体が、力を感じないことを意味する。
 

 [ 図37 ]
 
  人を ■ で示すと、この人は、自分が重力場で静止しているか、自分が非重力場で加速しているのか、区別することができない。([ 図.36 ]) 逆に、自分が重力場で自由になって加速しているのか、非重力場で静止しているのか、区別することができない。([ 図.37 ]) まとめて言えば、重力モデルは本質的に、一般相対性理論と等価である。
 

重力についての結論

すでに重力について、いろいろと調べてきた。そして今、以下の結論を得ることができる。
  「重力は、三つのマクロ次元の空間の質量に作用を及ぼす力である。」
  「重力を、超球の衝突によって引き起こされる力とみなせば、重力を十分に理解できる。」
  「重力モデルと一般相対性理論は、本質的に等価である。重力モデルの数式は、一般相対性理論の数式と同じである。重力を計算するとき、現在の数式を変更したり、新しい数式を用いて拡張する必要はない。」
  「しかしながら、適用可能な範囲に注意しよう。アインシュタインの数式は、古典力学に基づいているので、適用可能な範囲がゼロから無限大である。一方、重力モデルの適用可能な範囲には、超球の直径としての 2r という下限がある。」
  「重力モデルはそれ自身によって、適用可能な範囲の下限を示す。非常に小さい区域では、エーテルは滑らかさを失い、粗っぽくなる。なぜなら、エーテルは超球の充満した空間だからである。」
  「物理学のそれぞれの数式には、適用可能な範囲があり、適用可能な範囲の外部ではいくらか不正確である。しかし、超球理論自体は、モデルまたは発想としては不正確でない。超球理論の発想は、特定の固定された数式に対応してはいない。かくて超球理論は、数式というものの限界を、逃れて越えることができる。」






 《 和訳は、これでおしまいです。元の英語原稿の前半だけです。後半部分は、専門的になるので、和訳では省略します。興味があれば、英語原稿の方をお読み下さい。英語版が正式です。 》
 《 後半で扱うのは、「力とは何か」という、より根源的な話題です。特に、電磁波と重力の本質を探ります。 》

 
 サイトのURL:
  http://www004.upp.so-net.ne.jp/nando/physics2/index2.htm

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