こんな小さな身体で(その一)
6月20日娘が第二子、女の赤ちゃんを出産した。
帝王切開での出産だったが母子とも元気でホットしている。
出産は結婚まで勤めていた大阪の病院で娘婿とその両親に孫、私はあいにく所用と会議が重なって立ち会えなかったが、家内と息子が立ち会った。
孫はこの春から年少組み(3歳児)の私立の幼稚園に通っている、出産に当たってその孫・祥吾が幼稚園を出来るだけ休まず、不自由な思いをせず、寂しがらず、明るく通えるように「祥吾送迎計画表」を作成し、娘婿とそのご両親、私たち夫婦と息子でお互いに社会生活を維持しながら無理をせず対応すべく、落ちのないようにマトリックスにして取り組んた。

幼稚園はバス送迎で祥吾の家前から発着する関係で夜はパパ(娘婿)と寝なければならず、寝つきはさぞかし寂しいと思われる。

昨日(20日)は家内と息子は病院から祥吾を連れて帰ってきた、夕刻、私は会議から帰った頃丁度昼寝から覚めたところで、家内は病院の話、赤ちゃんの話を私にしてくれるのだが、祥吾が寂しがるので出来るだけママの話はしないようにした。

とは言え幼い子供だ、さぞかし寂しかろうと一緒になって遊ぼうとすると、爺ちゃんアッチに行き、自分の部屋に行き、と言う。
幼稚園に行くまでは殆ど毎日のように来ていたのに、何か違う、一人でコチョコチョと遊んでいる。

口には出さないまでも寂しいだろうなと思うだけでホロッとしてしまう。
太陽の落ちる頃になると「もう暗くなってきた」と言った。
こんなの初めてだ、キャンプに行っての夕暮れ時、人恋しさでシンミリする心境になってると思うと、懸命に辛抱してる心中を察して思わず涙した。

遅くなって病院からパパが帰ってきた、その時の声・顔は何と晴れやかな事か、辛抱してたんだ、と思うと愛しく痛々しくもなる。
ついに一回もママ・パパの言葉を口にすることはなかった。

パパと帰る姿を見送り、この子は強い、逞しく育つであらうと確信した。
親馬鹿チャンリンとならぬ爺馬鹿チャンリンかも知れないが、こんな小さな身体で強さは大人以上のものを感じた。

お粗末な爺馬鹿の話でした。

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こんな小さな身体で(その二)H14.7月
めでたく今日(29日)は退院日、生まれた赤ちゃんは女の子で璃子(りこ)ちゃんと命名したそうです。

祥吾も頑張りました、心配してた病気にも罹らず元気で良かった。
幼稚園のお迎えも毎日、入れ替わり立ち代り人が変わるので先生も大変だったと思う。
まるで先生に一族の顔見世をしてたようで若い先生だから戸惑ったのと違うかな。

この十日間で祥吾も一段と成長したようだ。
パパと二人で寝るのも初めは随分寂しかったと思う。
ママのオッパイを触りながら寝付いていたのに、それも無事乗り越えたし、昼間過ごしてた家からパパと帰るのを嫌がらないかと一番心配してたたがパパが帰るというとさっさと靴を履き逆に急かすくらいになっていた。

幼い子供(三歳半)はいくらシッカリしてるといっても「何故ママが帰ってこない」かが十分理解できないらしく、昼寝から目覚めてボヤッとしている時など「ママ帰ってこないの」と言って一筋の涙を流すらしく、婆としては一番ホロッとさせられる瞬間らしい。
それでも泣くこともなく直ぐに記憶を蘇らせ自分の立場を悟り、気丈に遊びに転じられる力強さも身についたようだ。

今日から待ちに待ったママと暮らせるが、祥吾の記憶通りにはいかないだらう、今まではパパ・ママ、爺婆を独り占めだったのが、半分以下の関わりになり、祥吾にとってはこれからも辛い試練が続く事になる。

最近の世相で若者の荒れる要因の一つに帰巣性欠如があげられているが
パパと家にいたい、ママと家にいたい、家族で過ごすのが一番と思う子供に成長し、健やかに育つであらう事を願っている。

爺婆も随分「祥吾」に教わった十日間でした。
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お医者さん開業医H14.7月
平成9年に梗塞になってから、降圧剤・溶血剤を飲み続けてる関係でお医者さんと接する機会が多くなった。
永年サラリーマンをやってきて医者て良いな儲かるだろうな、金の心配なんかしたことないだろうな、と羨ましく思っていた。

確かに経済的には余裕があるようだが、生活にはゆとりが無さそうだ。
診察は朝9時から12時までと午後は5時から8時迄で、木・土曜の午後、日曜・祭日は休診となっている。

トータル時間的には一般のサラリーマンより少し多いくらいだが、問題は午前、午後の診察の間にある5時間は自由に使えるだらうか、出かけるにしては短いし、酒を飲んだり、過激な運動をしては午後の診察に差し障るし、過ごし方には当然制約がある筈だ。
考えようでは午前、午後の診察間の時間も休憩は出来るが拘束されているとみなされる。

サラリーマン的な感覚で考えると、朝の9時から夜8時までが拘束時間で実に11時間勤務と言っても過言でなく、診察が終わってからでも明日の診察に備えてサラリーマンのように自由に過ごせないように思える。
このように考えてみると、自由に過ごせるのは土曜の午後から日曜の夜までだけと言える。

勿論、サラリーマンの様に休暇を取ることも出来ないし、病気にでもなったら診察は出来ないので、体調管理は特に重要であろう。
もし町の「お医者さん」がサラリーマンのような時間帯だったら、当然患者は仕事を休んで診察を受けなければならない。
だからそんなことしたら患者さんは来なくなる。

家族も一家を支える「お医者さん」と行動を共にしているはずだ。
このように考えてみると高給を取るのは当然であり、我々患者はその様なお医者さんの犠牲により、健康を保たさせて貰っていると言えるのでないか、妬むよりむしろ感謝しなければ、との心境になった。

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メル友H14.8月
先日のサスペンスで60歳代の男性と20歳代の女性との携帯メールをテーマにしたドラマを見た。
妻に先立たれ一人暮らしの男性と少女の頃親と上手ゆいかず飛び出し今は彼氏もいて独り暮らしをしている女性との交流で、彼氏の友人がそれを邪推したことにより殺人事件に発展していく物語だった。

メールの内容は娘が一人暮らしの男性を父とダブらせて思いやり、男性は娘が慎ましく生活していくうえで父親らしいアドバイスを送る、そんな内容設定だった。

メール体験の無い周囲はそんな男女をふしだらな関係と見、娘の彼氏だけが信じてくれている想定でドラマは進展していた。

似たような思いを先日ある宴席で私も体験した。
隣に座っていた人がホームページを持って毎日生き生きと生活して素晴らしいと私を持ち上げてくれた。
周囲の人も素晴らしい、難しいだろうな、と言った賛辞の言葉を掛けてくれたが、その中の一人が掲示板でカキコしてるがたまには会ってるの、と意味ありげな言い回しで聞かれたのには愕然とした。

即座に確かに男性より女性とのやり取りの方が楽しい、でも下心を持ってやり取りを狙う者は恐らくホームページの開設も出来ないだろうし、出来たとしても相手にされないだろう、とピシャリと言い返した。

先述のサスペンスを見ながら宴席での不愉快な会話を思い出し、確かにカキコのやり取りは楽しい、今や生きがいになっている、何が魅力なんだろう、と思いあぐねたが結論は出なかった。
カキコは一方的に好き勝手な事を書き、レスを待ち、又書く、自分を出してる様でも全てでもなく、作り話でもないが生活の裏までは出さない、何が魅力なのか分からないが今では趣味的な魅力がある。

言えることは相手の名前も住んでる場所(地域は分かる)も分からない、生い立ちも体験も違う、それでも交流してる内に相手の人間像が自分流に想定して浮かんでくる、その人間像と現実の自分が交流する楽しみ、相手もその逆だからこそ楽しいのではないだろうか。

世間を騒がすメル友事件はそれを理解せず、相手も現実と妄想することで発生しているのでないだろうか。

もしこれを読まれた皆さんで違った角度から良きアドバイスがあれば聞かせて貰いたいと思ってます。

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出会いH14.8月
出会いにも色々ある。
人生の最大の出会いは、第二の人生を共に歩む伴侶と巡り会えたことだらうし、友人、教師、同僚、上司、はては良き部下との出会いと数え上げればキリがない。
人との出会いに限らず、学問、遊び、仕事、趣味、等々あらゆる事物との出会い、こちらも数え上げればキリがない。

要はそれらの出会いをどのように受け止めるか、心の持ち方で良い出会いになったり、悪い出会いに変わったりするのでなかろうか。

人はそれぞれ固有の能力・プライドを持っており、そのバランスが考え方や性格により左右され、人間性の成長に大きく影響する。
その能力やプライドも出会いがあって初めてわかるもので、仙人では自己の掴みようがないだろう。

換言すれば人(出会い)に揉まれて人は成長し、孤独(独学)では限界があるのではないだろうか。

それを肌で体験した一例
私は平成7年に退職し、会社組織から解放され自由人になった。
9年頃よりパソコンを始め、自分史の作成やインターネットで結構充実した日常を送っていた。
12年初頃からホームページにも興味を持ちだしたが、ホームページ作成ソフトも無く(有ったけど知らなかった)ワープロのホームページ作成説明書を頼りに何とかアップ出来たのが平成12年8月だった。

ホームページを作ること自体に興味を持ち、壁紙に凝ったり、テロップを流したり、BGMをつけたり、アニメを動かしたりして楽しんでいた。
その後カウンターも付け、何とか多くの人に見て貰いたくヤフーに登録しようとしたが幾らチャレンジしても無理だった。
8月にアップし、暮れにカウンターは400そこそこだったと思う。

悶々とした気持ちで居た12月中旬、「広島の若い女性」から一通のメールが届いた。(当時は掲示板を付けてなかった・・知らなかった)

(現在、掲示板で交流されてる方は何方かおわかりと思いますが、誰が読まれるか分かりませんのであえて名を伏せてます)

嬉しかった、飛び上がるほど嬉しかった。
私のページに反応を示してくれた喜び、これこそネットの楽しみだと認識した。
内容は「高齢なのに頑張ってる」と言ったような励ましのメールだったと思う。

その方のページはチャンとカウンターも掲示板も付いていた。

年が明け再びメールでさりげなく「掲示板をつけたらどうですか」と指摘して貰った、早速悪戦苦闘して掲示板を設置し、今のページの原型を作ることが出来た。

それから2年、交流を続けさせて貰い、教えられ、真似もさせてもらった上に色んな方とも知り合う事ができ、新たな出会いの機会も得、老いてますます盛んな人生を送れるのもその「広島の女性」との出会いがあればこそと思っている。

お陰で私のページが新聞社の目にとまり、紹介され、今では生活の一部に位置づけたネット生活を送れるようになった。

世間では一部の不心得者のために出会いという言葉を卑猥に受け止められ勝ちだが、この例の出会いは単なる研鑽、錬磨の出会いでなく恩人との出会いであり、大袈裟な言い方をすれば「人生を変え」「生きがい」持たせてくれた出会いであった。

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33333
3と言う数字が好きだ。
石の上にも三年、三人寄れば文珠の知恵、三拍子揃う、三度目の正直、三尺下がって師の影踏まず、三顧の礼、三十にして立つ、向こう三軒両隣、仏の顔も三度まで、三三九度の杯、二度有ることは三度ある、三つ子の魂百まで、等々三にまつわる言葉は多くある。

長い会社生活での生き様でも私はその三を糧にして勤め、自分なりにそれで良かったと思ってる。
難しいテーマ(業務)に遭遇した場合、断る人が多いが、私は断らなかった

三日間頑張ろうと取り組み、三日経てば三ヶ月頑張って駄目なら断ろう、と努力し、次は三年とにかくやってみようと心を切り替え、その内に自他共にその努力が認められそれに慣れてしまう。

又、俗に言う嫌な役割が自分ばかりに当たると思える時でも決して無下に断らなかった。
とにかくやってみてから文句を言おうと取り組み、再び当たってもとにかく三回やってから断ろうと、続けている内に、役割を与える側も周囲もそれに気づき二度と嫌な役割に当たらなくなってくる。

逆に職場の者が失敗しても、本人が反省してるのだからと辛抱し、三度までまって傾向を掴み、その上で指導するようにしていた。
(勿論一度の失敗も許されない場合は別だが)
本人もその方が自分を知った上でだし、指導もより効果的に出来る。

地域社会でもそのような調子で、頼まれれば引き受けるお陰で辛い思いをしたこともあったが、今となっては貴重な体験で良い思い出になっている。

ホームページを持つようになってカウンターの数字が上がるのは楽しい。
100や1000に成ったときは特に嬉しかった。
その数字を楽しみに出来るだけ多くの方に見て貰えるように更新をしたり、画面構成に工夫を加えたりしてきたし、今も続けている。

お陰様で私のカウンターも万台になった、前述のように3が好きなので333、3333もスッキリさせて貰ったが、次に3の連番に巡り会えるのは33333が最後になるのでないかと思う。

一日に多目に見て50アップしたとして(333333−33333)÷50=6000日で、それは200ヶ月になり、これは17年となる。
恐らく実際には20年くらいか、それ以上になると思う。

従って3の連番に当たるのは次の33333で最後と思います。

まだ先の話で恐縮ですが、これを読まれた皆さん是非33333を狙って下さい、私にとっては貴重な思い出になります。

該当者は是非掲示板で知らせて下さい、記念品を送らせていただきます。

記念すべき33333はHARUさんでした

記念すべき番号は東京のHARUさんがゲットしてくれました。
HARUさんは浪曲、落語等でご存じの「目黒のサンマ」で有名な目黒に住まれてます。

目黒のサンマ
お殿様が遠乗りで目黒に行き農家のサンマを焼く臭いにつられ、ご馳走になり、城に帰ってサンマが食べたいと言ったが、出されたサンマは味が悪く、「サンマは目黒が一番」と言われた話で、家来は焼きたての味を読みとれなかった。

HARUさん有り難う御座いました。



写真はHARUさんが掲示板に知らせてくれたものをコピーしたものです。
書き込み日時は2003/01/19/22:55分だったので恐らく22:30頃に33333になったと推定されます。
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コミュニケーションH14.10月
コミュニケーションとは「言語による意志の伝達」とある。
組織・集団を好ましい状態で維持するにはコミュニケーションが如何に重要かは組織の一員として長年暮らしてきたので痛いほど理解している。

ここに書こうとしてるのはコミュニケーションまではゆかないが、俗に言う「顔なじみ」「顔見知り」と言う類が如何に重要かを体験したものを書いてみた。

勤めている駐輪場は4年ほど前に開設したもので、私は開設、立ち上げからそこに関わっている。
元々は駅前の市有地を無料駐輪場として開放されていた場所を整備し、有料化したものだった。

有料化に際しては個人の駐輪場所を指定し、利用者はその場所を借りる形になるのだが、当初は隣の利用者の止め方が悪い、舗装面に水が溜まる、照明が暗い、近くに変えてくれ、果ては料金が高い、等々の苦情が絶えなかった。
無料時代は、「我が、俺が、」で殺伐とした状態だったことが推察できる。
中には千枚通しでパンクさせたり、虫ゴムを抜いたり、転倒させたり、の嫌がらせも日常茶飯事でその都度管理人は苦情処理に奔走していた。

「お早うございます」「今日は」「今晩は」、の挨拶は当然、「暑いですね」「寒いですね」と言った時候の挨拶を重ね、常に乱雑な置き方の自転車を整理し、置きやすく出しやすいように気をつけながら巡回することを定着させた。
開設して3ヶ月頃よりお客さんも慣れてきたのか苦情回数も減り、半年程経つと互いに挨拶の交換も出来だし、苦情も皆無の状態になり、自ら整理して駐輪されるように変わってきた。

管理人の中にも「挨拶をしても知らん顔をされる」とか「不愛想だ」と批判する人も居て、挨拶も仕事の内と割り切り、笑顔で挨拶を交わすことが出来ず、逆に客から苦情の出る管理人も居た。

その都度スーパーや百貨店で店員に挨拶されて君は一々答えているか、我々はその店員と同じ立場で接客業だと説得してきたものだった。

設して5年、お客も随分入れ替わったし、管理人も替わったが、 駐輪場には特有の伝統が出来た。

「顔なじみ」「顔見知り」になる原点は挨拶であり、少々の不平不満も「顔なじみ」「顔見知り」では辛抱が出来、気軽に言葉に出して解決もできる。

駐輪場という特定組織の事を書いてみたが社会、組織、団体、はては隣近所の付き合いもコミュニケーションすなわち意志疎通挨拶に原点があるのではないだらうか。

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