マティーニ


マルティニとも言う。カクテルの王様と呼ばれ、そのレシピに関する逸話は枚挙にいとまがなく、一冊の本が書けるぐらいだ。 英国首相のチャーチルはベルモットの瓶をながめながらジンをストレートで飲んだとか、日本記者クラブの倉庫から出てきた空のジンとベルモットの瓶からマティーニをレシピを求めるとどうなるかとか、話題にはことかかない。ジェームス・ボンドがステアせずにシェイクさせることでも有名ですね。(正確にはウォッカベースのウォッカ・マティーニだが)

当然ながらミステリでも良く使われるけれど、最近ではトマス・ハリスの「ハンニバル」に登場する敵役メイスン・ヴァージャーがいじめた子供の涙をいれて飲んでいる。これも一つのレシピには違いないが、限りなく残酷、かつ耽美なので決してお薦めはしない。まあ、失恋したときに自分の涙をいれて飲むなんてのは、美人だったら許されるでしょう。ロバート・B・パーカーのスペンサー・シリーズ「拡がる環」ではこんな会話がある。

コズグロゥヴが椅子に坐ってその大きな封筒をよこした。給仕が現れた。コズグロゥヴがいった、「マルティニ、振らないでかき回して、レモンを香りだけ」
「オリーヴを入れない?」私が言った。
「マルティニにオリーヴを入れるのは野獣のすることだ。オリーヴは塩水の瓶詰めになっている、味が台なしになってしまうんだ」
「おれはまた、ジンとベルモットですでに味が台なしになっているもの、と思ってたよ」
コズグロゥヴが肩をすぼめた。「好みというのは説明のつかないものなんだ」

ちなみにこの会話の舞台はボストンのリッツ・カールトン・ホテルのバーで、スペンサー・シリーズでは何度か登場している。一度は行ってみたいものですが、夢でしょうね。


マティーニはジンとベルモットの比率の問題以外にも、オリーブやレモンを入れることの是非について格好の話題を提供してくれる。上で引用したパーカーの作品ではレモンを使っているが、これにだって異論はある。1960年代にアメリカ標準規格協会によって出された「ドライ・マティーニのためのアメリカ安全基準コードならびに必要条件」というジョークのような本では、『レモネード:レモンの皮に支配されている飲み物の総称。アメリカのドライ・マティーニ標準規格には、いかなる柑橘類、あるいはその皮の油の入る余地はない』なんて記述があって、レモンがやり玉にあがっている。

実はこの話、集英社新書から出ている「マティーニを探偵する」という本で仕入れた。著者は朽木ゆり子さん。主題はマティーニの起源に迫ることにあるのだが、映画のワンシーンでのマティーニから、禁酒法の背景まで幅広く読ませる内容だ。ところで肝心のマティーニの起源なのだが、無論諸説あって簡単ではないが最も有力なものとして、カリフォルニア州マーティネス市を発祥の地とする物語が紹介されている。わたしは勝手にベルモットの製造元であるマルティーニ・ロッシ社が自社のベルモットを売るためにつくったカクテルで社名が変化してマティーニになったと思いこんでいたが、そんな単純なものではないらしい。

本書を読みながら、はてさてと気になった点が一つ。すなわち、日本人で最初にマティーニを飲んだのが誰かという問題だ。こんな事が気になるのもマティーニが発明されたタイミングにあるのです。さきのカリフォルニア州マーティネス市の商工会議所が出しているパンフレットを引用しよう。

ゴールド・ラッシュ時代の1849年、ある金鉱堀りが一山当てて、サンフランシスコに帰る途中だった。最初の大きな町、マーティネスに着いたところで、彼は祝杯を挙げたいと思った。あるバーに入って、シャンパンを頼むと、置いてないと言われた。しかし、バーテンダーは金鉱掘りに、シャンパンよりもっといいものがありますよ、と”マーティネス・スペシャル”と呼ぶものを出してくれた。一杯飲んだ彼は、それが気に入って店にいる人たちにおごった。翌日、その男はサンフランシスコに着くとすぐに有名なバーへ行って、”マーティネス・スペシャル”を注文した。バーテンダーはもちろんそんな名前は聞いたことがなく、どうやって作るのか、どこで聞いたのか尋ねた。金鉱掘りは、そのドリンクは非常にドライなソーテルヌ・ワインが一、ジンが三の割合で、氷と一緒にステアして、オリーブを仕上げに入れて出す、マーティネスという町で作られたんだ、と答えた。

と言うことになると、あの勝海舟や福沢諭吉が咸臨丸でアメリカのサンフランシスコに渡ったのが1860年ということを思い出さずにはいられませんね。その時にアイスクリームを食べたという逸話はあるものの、マティーニに関する話は公式には残っていない。けれども、盛大な歓迎会が開かれたそうだから、その頃にはサンフランシスコですっかり定着していた”マーティネス・スペシャル”を飲んだとしてもちっとも不思議ではない。いや、きっとそうに違いない。そして、咸臨丸で船酔いに苦しんだ福沢諭吉がサンフランシスコでは二日酔いに苦しみ、勝海舟は「こんなに強い酒を好むアメリカ人とは戦争できない」と思ったとか・・・。

こんな具合で「マティーニを探偵する」を読んでいると楽しい連想がつきない。本書の中で、飲んべえの常連客のことをバーフライ(直訳すれば酒場の蠅)と呼ぶことが紹介されているが、まさにそんなバーフライ達には格好の一冊だ。(2002.09.14追補)


なにしろカクテルの王様と言われるだけあって、マティーニを崇拝している人は多い。総じてドライでピュアなレシピを指向する崇拝者からは、こんな飲み方を紹介するだけでお叱りを頂戴しそうだ。その名もダーティー・ウォッカ・マティーニ。きっとダーティー・マティーニというのもあるのだろう。

出所は、マイクル・コナリーの「シティ・オブ・ボーンズ」。ロサンゼルス市警のハリー・ボッシュ刑事を主人公とするシリーズ8作目だ。本書でハリー・ボッシュは仕事のあとで、新人の女性警官ジュリア・ブレイシャーを<ムッソー&フランクズ・グリル>に誘う。<ムッソー&フランクズ・グリル>はハリウッドに生息する者にーーー高名な者にも悪名高い者にもーーーマティーニを一世紀にもわたって提供しつづけていると紹介されているが、実際にハリウッドに実在する老舗だが、手許の資料では創業80年と記載されているから一世紀にもわたって、と記されているのは正確ではない。

ボッシュに気づいたバーテンダーがやってくると、ふたりともオリーブの漬け汁をほんの少し入れたダーティー・ウォッカ・マティーニを注文した。

つまりあのスタッフド・オリーブの瓶の汁をいれようというのだ。”ほんの少し”とは言うけれど、ほとんど神をも恐れぬ所業としか思えない。犯罪を取り締まる側の刑事が犯罪行為に等しいことを行うというのも皮肉がきいている。もっとも、以前に書いたようにレモンピールさえも否定し、ドライなマティーニを崇拝する人がいればいるほど、それをからかうように、また逆らってダーティーなマティーニを飲んでみたいという心理もわかりますね。

それとも、ダーティー・ウォッカ・マティーニを飲むハリー・ボッシュだから、これが本当のダーティー・ハリーだという作者の洒落なのかしらん。(2003.01.25追補)



ジン
3/4
ベルモット
1/4