最近ではリーガル・サスペンスというのは、ひとつのジャンルを形成しつつあるようだ。ジョン・グリシャム以来、随分とたくさんのリーガル・サスペンスが紹介された。バリー・シーゲルの「潔白」もその中の一作であるが、正直に言えば、凡庸な作品である。
弁護士グレッグ・モナーチは弁護上の失策から無実の依頼人を電気椅子から救えなかったという経験を持つ。それ以来、刑事事件から足を洗ったグレッグだったが、かつてのパートナーであり親友でもあるアイラ・サリヴァンが殺人容疑で逮捕されたことから、再び刑事事件の弁護を引き受けることになる。しかし、検察側の完璧とも思える目撃者の証言により、アイラは死刑を宣告されてしまう。はたしてグレッグはその証言を突き崩し、アイラを救うことができるか・・・。
こんな筋書きだから、決定的な目撃証言をいかに覆すかが、この作品の目玉かと思いきや、その点は意外にあっさりしている。一度でた判決をどのようにして取り消させるかが山場のように読めるのだが、そのあたりの法的な説明もあいまいで、釈然としない。この殺人事件の背景として隣接する原子力発電所の廃棄物問題があるのだが、この事件とのつながりも結局明確にならないまま、終局をむかえる。いたって不満が残る読後感である。冒頭、グレッグが通うバー「赤い雄鳥亭」の情景描写がなかなか雰囲気を伝えていて、期待を抱かせただけに残念だ。
それにしても米国のリーガル・サスペンスを読むと、裁判や弁護といったものに対する考え方の相違にいつも驚かされる。
彼は本能的に刑事弁護士としての計算されたスタンスをとっていた。「依頼人との対話で主導権をにぎれ」−それが刑事弁護士の処世訓である。弁護士は聴問僧ではない。告白を聞いてもしようがないし、依頼人に罪の赦免を与えるためにいるのでもない。洗いざらい話すように求めてはならないし、有罪かどうかを訊いてもいけない。向こうの好き勝手に話をさせるのはよくない。真実をすべて知ってしまったら、ゲームを演じることができないからだ。
そう、米国では裁判は言葉のゲームのようなところがあって、決して真実を明らかにする場所ではない。たまたま、「えひめ丸」と原子力潜水艦の衝突事故に関して日米文化の摩擦を感じる昨今なのだが、現在開かれている査問会議で、事故の原因や真実が明らかにされると思うのは極めて日本的な感覚ではないのだろうか。
| 書名 | 潔白 |
| 作者 | バリー・シーゲル |
| 翻訳 | 雨沢泰 |
| 出版社 | 講談社 |
| ISBNコード | 4-06-273051-0 |