ベッド一面を埋め尽くしたゴキブリ。そしてゴキブリがわたしの脚や腕をはいあがり、抱えている小さな女の子の口の中に入っていく。といったとんでもないシーンは、敵の呪術者によって幻覚を見ているという設定なのだ。まっ、さすがにこのシーンは幻覚だとわかるが、こうした夢幻と現実の境目がはっきりしない展開が続く。いま紹介しているのはマイケル・グルーバーの『夜の回帰線』。大変な力作だが、呪術などの超常現象をどこまで許せるかによって、読者の評価は分かれるだろう。
マイアミの街を狂気が襲う。妊婦が惨殺され、胎児の脳が摘出されるという事件が連続して発生する。殺人課のジミー・パス刑事は母体から検出された多くの化学物質と現場に落ちていた不思議な木の実を手がかりに捜査を続けるが、そこで行き着いたのはアフリカを発祥の地とする黒魔術。容疑者を突きとめたものの、呪術の反撃によりマイアミ全体が混乱に陥る。そんななか、犯人とその目的を知るひとりの女性人類学者ジェイン・ドゥはある決意をする・・・。
粗筋をまとめてしまうと、こんな感じなのだが、決して物語は素直に展開するわけではない。なにしろ、この本の最大の魅力はその三層構造にある。連続殺人を追うマイアミ警察のパス刑事を中心にした三人称表現の部分。女性人類学者ジェイン・ドゥが一人称の視点で描く現在。そして、彼女が書いた過去の日誌。この三つが組み合わり、時間と空間を往復しながら、いろいろな謎が少しづつ明らかになるという、工夫をこらした構成になっている。
ただし、この『夜の回帰線』を読みこなすには大層なエネルギーを必要とする。この夏の猛暑と戦う以上の気力を奮い起こす覚悟は必要だろう。なぜだか、ページの中にびっしり文字が詰まったいて、それだけでも圧倒されるのだが、文化人類学から合気道まで雑多な知識も詰まっている。人類学や黒魔術について詳しくなったような気になるのだが、わたしにはどうしてもスッキリしないものが残った。
結局、どうなったかって? 実はそれもよく分からない。ふむ、この本を読んだということ自体が、ひょっとして幻覚なのかしらん。
ところで、今回紹介するのはジミー・パス刑事のセリフ。
彼は少し考えてから言った。「バーロウはよく言っていた。いい刑事と値打ちのない刑事のちがいは三つあるって。つまり、忍耐と忍耐と忍耐だって。だから、おれは待っているのさ。何かが起こるのを」
これは応用編がいくつかできそうですね。「離婚する夫婦としない夫婦の違いは三つある。忍耐と忍耐と忍耐だ」
(2004.07.18)
| 書名 | 夜の回帰線 |
| 作者 | マイケル・グルーバー |
| 翻訳 | 田口俊樹 |
| 出版社 | 新潮社 |
| ISBNコード | 4-10-214321-1 4-10-214322-X |