拳よ、闇を払え


エディー・ミューラーの「拳よ、闇を払え」の舞台は1948年のサンフランシスコだ。無論、当時を知るよしもないが、ボクシング業界を中心とした物語が時代背景とマッチし、なかなか雰囲気のある小説に仕上がっている。

新聞記者のビリー・ニコルズはボクシングのコラムを担当し、業界では顔のきく名士だった。ある夜、ジグ・リアルディに呼び出されて彼のアパートを訪ねるが、そこで発見したのはジグの死体だった。そばにはジグがマネージャーをつとめるヘビー級ボクサー、ハック・エスカランティが呆然と立ちすくみ、自分が殴り殺したと告白する。ビリーはやむなく死体を隠す手助けをするものの、偶然にも死体が発見されたことから警察の追求をうけることになる。しかし、警察によれば死因は絞殺であり、ハックの言葉と食い違っていた。ビリーは警察の追求に不安を感じながらも、真相を探ろうとするが・・・。

殺人事件の真相そのものは極めて凡庸で、特筆すべきものはない。クラーク・ゲーブルに似ていると言われる主人公ビリーも、この種の小説の主人公としてはいささか”軽い”。こんなに簡単にハックの妻と寝てはいかんと思うよ。ただし、新聞に載るビリーのコラムもところどころ挿入されているが、さすがに名コラムニストという設定だけあって、レトリックを駆使した文章は見事だ。

なんと言っても本書の魅力は、ボクシングそのものと、さまざまな人間の欲望が交差するボクシング興行の世界でなんとか這い上がろうとする人々の熱気につきると思われる。特に終盤でハックが挑戦するタイトルマッチの一戦の描写は見事だ。現代ではもっとディフェンスを重要視した技巧的なボクシングが主流だが、ここで描かれているのは二つの拳だけが頼りの原始的な殴りあいだ。それだけに気高い精神が香りたつような魅力がある。一方で描かれる冷めた興行の世界との落差もいい。米国ではすでにこの一月に二作目が出版されているが、内容も本書の続編といった感じだ。

さて、ビリーはこの事件を担当するオコナー刑事と何度もぶつかるのだが、その際のセリフを最後に紹介しておこう。

「いったい何様のつもりなんだ?」わたしはそんな脅しには慣れっこになっていた。そんな言葉ぐらいでくじけなかった。
「わたしは新聞記者だ」と答えた。「締め切りが迫っている新聞記者だよ」オコナーがお得意の悪態を並べて立てる直前に電話を切った。


書名 拳よ、闇を払え
作者 エディー・ミューラー
翻訳 延原泰子
出版社 早川書房
ISBNコード 4-15-173851-7