本能寺の変はただの火事?
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 日本史において、一般人に良く知られている大きな謎のひとつに「本能寺の変での明智光秀謀反の動機」がある。確かに遺構から本能寺が燃えたのは確かだし、信長が死亡したのもたぶんそうだろう。しかし、それは本当に明智光秀の謀反によってだったのであろうか?明智謀反はその後の権力者による歴史捏造ではないか?その後の権力者とは言わずとしれた豊臣秀吉のことである。秀吉が歴史改竄作業を大規模に行ったことはよく知られているところであり、この仮定は無理がないと考えられるし、そうであればそもそも謀反は無かったのだから謀反の動機もわかりようがない。
 それでは、本能寺の変とはいったい何であったか?それについては、ただの火事で信長が死亡して、権力空白が発生しただけと仮定したい。嫡男織田信忠は、火事場にかけつけて、父信長救出に突入して巻き込まれて同時に焼死し、両者とも遺体が焼けきったのではないか?これで信長信忠父子が発見できなかった説明が付く。当時京都近辺にいた織田軍団の主力は明智部隊のみであり、主要な織田家臣団の部隊は全国各地で戦闘中であった。そこで、情報伝達がそう短期間には進まないであろうと考えられる。
 光秀は信長の命を受けて秀吉の援軍に向かう行軍中にたまたま本能寺の火災に遭遇して、信長救出のために本能寺にかけつけたのではなかろうか?必死に信長の行方を案じて捜し回る明智部隊を目撃した京都の住民の目には殺気立った明智の軍勢が本能寺を取り囲んでいる様子が見えたであろう。もし、明智の謀反であると言われればそれはそれで信じたであろう。
 一方秀吉は権力欲の異常に発達した人物であることは、その行状を見れば明白である。当時の織田家臣団の中で業績の秀でた光秀は秀吉にとって目の上のたんこぶであったろう。機会が有ればその失脚あるいは抹殺を願っていたとしても不思議ではない。そこで、戦闘中の織田家臣団の中では京都に近くにおり、信長死去の情報をいちはやくつかんだ秀吉が光秀を謀反人に仕立てて抹殺するという筋書きを考えたのでは無かろうか?
   そこで、一気に京都に戻ることにして、それまで懇意にしていた丹羽長秀らを混乱に乗じて「光秀謀反」とだまして引きずり込んで光秀を倒そうとしたのではないか?むろん秀吉部隊の将兵には光秀謀反と信じ込ませてのことである。
 そのような秀吉の動向を知るはずもない光秀は信長の行方を数日間捜索して見つけられずに諦めて、そもそもの目的であった秀吉援軍のために部隊を京都から南下させたところで、ちょうど戻ってきた秀吉部隊と鉢合わせして、わけのわからないままに急襲されて破れたのではないか?これが後に言う山崎の合戦に相当する。これにより、光秀は謀反人でないとの弁明の機会も与えられないままに抹殺された疑いがある。
 当初の目的である光秀抹殺をはたした秀吉はふと、信長不在による権力空白に気付き、織田軍団内での権力闘争に突入、その後は歴史に知られる状況に至ったと思われる。すなわち、秀吉は後に印象づけられる「信長の仇を討った忠義の者」ではなくて、ただ単に信長不在という不慮の事態の中でうまく立ち回って勝利しただけの者ということになる。他の有力武将にとっては、明智謀反でもそうでなくても直接的に不都合はないので特に検証もせずに秀吉の術中にはまっていったのではなかろうか?
 以上のように考えても矛盾は無いだろう。もし、これが本能寺の変の真実であったならば、光秀は謀反をおこしていないのであるから、光秀謀反の理由が謎なのも当然である。
 誰か、こういった線の仮説で本能寺の変を検証してくれる歴史学者はいないだろうか?


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