S.S. VanDine

1888〜1939


ファイロ・ヴァンスと言えば,今,パっと皆がイメージする名探偵の一方の派閥のプロトタイプである。学識深く趣味が広くお目が高く頭も高く,裕福であくせく働かずとも全く生計に困らず,暇がある上各界に知人が多く,それやこれやで次々難事件に出くわし快刀乱麻を断つのである。
この名探偵を生み出したのが,本名ウィラード・ハンティントン・ライト Willard Huntington Wrightこと,S.S.ヴァンダイン S.S.VanDine。ハーバード卒の新進美学評論家,売れっ子として雑誌新聞に評論を書きまくった激務のあまり神経衰弱で療養。その間に想を得て書き出したのがヴァンスの登場する推理小説であり,一世を風靡したのである。
と言うのが,子供の頃読んだ文庫版の後書きにも載っていた説明だったのだが,どうやらこれはライト=ヴァンダインの最大のフィクションであったらしい。

ライトは,1988年にホテル業を営む両親のもとに生まれている。カリフォルニアのセント・ヴィンセント・カレッジ,ボモーナ・カレッジで学ぶ。ハーバード大学にも通っているが,卒業はしていない(聴講生だったのか)。1907年,シアトルの新聞社主の娘キャサリン・ベル・ポイントと結婚。ロサンジェルス・タイムスの書評担当を振り出しに,ハーバード出のヨーロッパ新帰朝の若手評論家として売り出す。H.L.メンケンの知遇を得て1912年にスマート・セットの編集長に雇われ,妻子をカリフォルニアに残してニューヨークに移る。同誌を離れた後,純文学と美術評論を目指したのも,映画産業に入ろうとしたのも事実である。
ただし,著書は売れず,映画界入りは叶わず。この間ニューヨークからカリフォルニアに戻り,またニューヨークへ出る。各紙に美術評論を寄せるものの大した収入にはならず,友人や出版社からの前借りが嵩む。その上コカインヘロインに手を出して療養生活を強いられる。
この辺りは1992年に出たジョン・ラファリー John Laugheryの評伝"Alias S.S.VanDine"で発掘された裏話である。小説より奇なりかどうか分からないが,この体験を生かした主人公を作れば,いきなりニューウェーブハードボイルドに足を踏み込んだようなもので,余程面白かったかも知れない。

療養中に2000冊の推理小説を読んだというのも,どうやら伝説らしい。ただし,推理小説20則を立てたり自分で破ったり,ライト名義で序文と注解を加えた"The World's Great Detective Stories"を編纂して自分ヴァンダインについてもチャッカリ言及したり,彼の時点迄で刊行された中での本格推理ベスト11を選んだりしているので,かなりの冊数を研究していたのは間違いない(それはそれとして,ご本人がそもそも本格の夜明けの人。当時推理小説というに値するモノが2000冊と言わず2000話もあったんだろうか)。

とにかく,破綻した生活の立て直し策として一般受けする小説,推理小説を書いて稼ごうと思い立ち,3作分の梗概をハーバード時代の知り合いでスクリブナー社の編集者マックス・パーキンスのもとに持ち込む。推理小説作家のレッテルが本業に差し障るのを憚り,S.S.ヴァン・ダインなる筆名を使用。結局推理小説の方がメインとなり,本名と評論著作がかすんでしまったのはお約束の成り行き。S.S.は蒸気船steamship,VanDineは母方の古い名字と本人は語っているが,そんな親戚はいないとの説もあり,これも伝説の一部かもしれない。
ちなみに,ライト=ヴァン・ダインと同じ理由から,あるいは筆のすさびで1作だけ書いてみただけだから,もっとあるいは出版社との契約の加減で,別名で推理小説を発表している人は黄金時代の作家を始めとして結構いる。バーナビー・ロスことエラリー・クィーンを別格に,オスカー男優ダニエル・デル・ルイスのお父さんでニコラス・ブレイクこと桂冠詩人セシル・デイ・ルイスなど(今は統一されていますが,フィルポッツなんかも本来は別名で出していた気がします)。
この企画がスクリブナー社で認められて1926年にベンスン殺人事件が出版され,ライトの素養を活かしたヨーロッパ帰りの衒学好事家名探偵ヴァンスが登場した。翌年第2作のカナリア殺人事件が出版されて更に売れる。3作目グリーン殺人事件で用意しておいた梗概は一応終わり,4作目僧正殺人事件からは順次作品を準備していったわけだが,一般にはこの2冊が最も優れた作として定評がある。

一連の作品はウィリアム・パウエルをフィーチャーして映画化され,ルイズ・ブルックスなんかも相手役に出ている。初期本格派の中では銀幕で成功した方だと思われる。原作者としても潤い,映画界に蹴られた往年の恨みを幾分か晴らせた訳。11作目グレーシー・アレン殺人事件,12作目ウィンター殺人事件になると,逆に映画化してもらう積りでヒロイン役を当て書きしている。
ちなみに本格は映画に向かないのか,エラリー・クィーンやアンソニー・バウチャーも映画の原作にトライして失敗している。ずっと下って1970〜80年代に丸投げでスターを並べてヒットさせたクリスティは別格として,マクドナルドあたりのハードボイルドの方が映像化しやすいらしい。

長編ミステリを書けるのはいいところ6作までと自分で言っていたにもかかわらず,結局12作書いた。しかし,自らの説を証明するごとく後半は明らかに力抜け,酷評を受ける。かてて加えて1930年代に入ると世間が不況で読者の趣味が変わる。贅沢な豪邸を舞台に有閑人種がウロウロするヴァン・ダインの作品は,時代遅れで嘘くさくって馬鹿らしくなってしまったのですな。それやこれやで作品の売り上げは減少,本人も極度のスランプに陥る。(この辺の因果関係は鶏と玉子だが)今度はアルコール依存状態となり,パーキンス氏から厳しいお手紙やら有り難いアドバイスやらを貰うはめになったらしい。
ちなみにこのパーキンス氏,S.フィッツジェラルドの編集者と多分同一人物。ベストセラーの生みの親どもとは言え,こんなんばっかり担当でお気の毒である。でも,もしかしたら実は引き抜き防止のため,生かさぬよう殺さぬよう酒漬けで書かせていたのかも(これはミステリー読みの何でも邪推というもの,パーキンス氏は伝説の名編集者と言われ,人柄も温厚で篤実だったということです)。

1939年に冠状動脈血栓でなくなる。ヴァンスそこのけの極度に優雅な生活のせいで,遺産が13000ドルしか残らなかったという話である。

現在,かの地では彼の作品は人気がないらしく,amazonあたりで探しても絶版だらけ。逆に初版の古本は競争が激しくないのが幸いして,存外手の届く価格だそうな。それを言ったらクィーンも国名シリーズなどは絶版で後期のペーパーバックオリジナルくらいしかなくて悲しい限り。同時代の作家としてなぜかクリスティはごく前期の作品から入手可能だが,これはTVシリーズや映画があるおかげか(セイヤーズも結構出ているので,女流作家もしくは英国作家は強いのかもしれない)。未だに文庫本で全12作が買える日本というのは,余程名探偵が好きなお国柄なのである。


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