寺田寅彦

1878〜1935


本名寺田寅彦では東京帝国大学理学部教授,一方,吉村冬彦(冬生まれだからだそうな,ちなみに本名は寅年寅の日生まれだから)や薮柑子名義で多くの随想を発表。今でもときどきいる医者など理科系で作家と2足のワラジを履きこなす元祖と言えましょう。

東京に生まれ,父の陸軍退職と郷里での再就職に伴って4歳から高知で育つ。熊本の第五高等学校に進学,夏目漱石に英語を学び,その後終生最大の恩師として慕うことになる。大変できる生徒だったらしい。後年英文での科学著作もある。また留学時にもその土地の言葉で積極的に会話し,日記にも原語で書き留めている。一方で,上京後にバイオリンのことで憧れていたケーベル先生宅の訪問にあたって,英語がまずく意を十分に伝えられなかったという本人の述懐も残っている。
クラス代表として同級生の落第救済嘆願に赴かされたのが契機で,個人的に漱石から俳句を習うようになり教室を越えた知遇を得る。漱石が熊本を去りイギリス留学していったん間があくが,寅彦が東京大学に進学して帰朝後の東京の漱石宅に出入りするようになる。野々宮や水島寒月など夏目作品中の人物のモデルと言われている。

漱石から正岡子規に紹介されてホトトギスに作品が載るようになり,文壇的にも一応漱石人脈につらなる。ただし,出会いの時期が群を抜いて古く,年齢も近く,文筆以外に確固とした本業もあり,一種別格の扱いだったらしい。芥川竜之介や内田百間など後期の歴々からは,日録中などでも尊敬なり敬遠なりを受けて寺田さんとサン付けで呼ばれている。

作者個人の印象で言えば,子供の頃,これぞ随筆の傑作と言われて読んだ初期の寅彦随筆は,儚く淋しい読後感を抱かせるものだった。多分"花物語"あたりからの作物だったのではあるまいか。
確かに,寅彦の寺田家周辺にはある種の薄命さがある。まず江戸時代末期に,父が兄弟(寅彦から見て叔父)の切腹を介錯する羽目になっている。当時の風習ともいえる美少年愛好がもともとの私紛なのだが,当時の高知では,長曽我部の地付き侍と関ヶ原後封じられた山内の家臣に起因して武士の中でも上士と下士に大変な身分扱いの区別があり,両者の反目が絡んで余計こじれてしまったらしい。この経緯については,荒俣宏の"帝都物語"にも説明がある。また,司馬遼太郎の"竜馬がゆく"で触れられているのもこの一件のように思える(何分元来美少年を巡る鞘当てであるためか,ちょっとなかなかあんまりかもしれない扱いがされているが)。
それはさておき,寅彦自身も1人目の夫人夏子を若くして亡くしている。五高在学中に結婚したものの熊本と高知に引き離されて暮らす。寅彦の父利正は宇賀家から母亀の寺田家へ入った養子であるが,家内ではなかなか厳格な権制を敷いていたようである。大学に進んで妻を呼び寄せ新居を構えたのも束の間,それぞれ病を得て須崎と種崎でまた別れ別れに療養する羽目に。寅彦本人は健康を回復したが,夫人は20歳そこそこで世を去った。同居できたのは1年あまり,1児が遺された。
その後,2人目の夫人寛子との間には4児を設けたが,10年あまりでやはり先立たれている。ちなみに寅彦本人はなかなか温厚で,子煩悩で特にこどもの健康には非常な心配性だったと言われる。しかし,文中ではミザントロポスなど自称し,父親や知人,さらに往来で突き当たった人を斬って自分も切腹した親戚の1人,などに仮託して意固地イゴッソーぶりを吐露している。
本人自身もあまり健康に恵まれず,前述の東大在学中と溯って中学入学前の2回,1年ずつ肺尖カタルで休学を余儀なくされた。これまた父親譲りか歯が悪く,"我輩は猫である"に書かれてしまった,椎茸を食べた拍子に前歯が飛んだなどはまだしもお笑いのエピソードである。40歳前後からは胃潰瘍をわずらい,東大の研究室で吐血して病院に担ぎ込まれたこともある。師漱石の宿阿と同じでやはり入院記を残しているが,周囲に神経を遣い内心に鬱積を溜める質の師弟だったのかもしれない。どれだったか忘れたが,40歳ちょっと過ぎで老学者だかと自称しているのに驚いたことがあるけれども,確かに長い闘病にやつれていたらしい。

しかし,寅彦の随筆からは家族苦病苦にへこんだままではいない自由で旺盛な好奇心が感じられる。とにかく多趣味で,楽器が大好き。旧制高校時代から裏山に登ってバイオリン独習を試みたり(当時の熊本はバンカラ満開で,男が楽器など弾こうものなら鉄拳制裁をくらったらしい。新婚の妻を熊本へ連れていけなかったのも幾分かは同じ理由によるらしい),東京へ出てからピアノを習ったり,前述のケッペルさんにバイオリンを習いそこなったりしている。他にチェロ,オルガン,ホルン,アコーディオンなどまで弾いたらしい。博士号取得も尺八の音響に関する研究である。
時候の良いときは写生旅行に出掛け,秋冬は室内で自画像を試している。カメラにも凝ったらしい。映画を良く観て,当時もてはやされていたモンタージュ技法の向こうを張って,映画と連句を結び付けた批評も書いている。持病のこともあってスポーツは然程やらなかったようだが,ビリヤードは嗜んだ。曲打ちの物理についてなど如何にも何処かに書いていそうである。また,銀ブラにしばしば出掛け,甘いものが大好物でコーヒー飲みだった。俳句と随筆については既に言わずもがなである。このあたり,今から見ても多彩多才でモダーンで楽しい。そのもう一段奥にある時代を超えた正確な観察眼と共に,古びない所以であろう。

科学者でありながら文筆を能くし,としばしば紹介されるが,具体的な研究題目については寡聞にして良く分からない(それでなくても物理は良く分からない)。物理学での恩師はやはり五高の教師だった田丸卓郎である。漱石同様後に田丸も東大に転じたため,また長い師弟関係となった。同級生のために点をもらいに行ったのはこっちだったかも知れない,その席でバイオリンを初めて見せてもらったとも言う。
ともかく,東京帝国大学理学部を首席卒業,いわゆる銀時計である。学部で田中館愛橘,大学院で長岡半太郎,本多光太郎の下に学ぶ。卒業後,地球物理学研究のためドイツに国費留学しているのだから将来を嘱望されていたのだろう。実験物理学者として,エックス線による結晶構造解析の研究「ラウエ映画の実験方法及其説明に関する研究」で学士院恩賜賞を受賞している。東大では理学部教授として教鞭をとり,生徒には中谷宇吉郎などがいる。中谷は雪の結晶研究で有名だが,先生に倣ったのか"雪の華"など好随筆もモノしている。晩年研究に専念することを認められてからは,航空研究所,理化学研究所,地震研究所の3つの研究所を拠点として,物理に生物や化学など多様な分野がクロスオーバーする研究を行った。
科学絡みでも,金平糖のツノとか墨流しとか電車の混雑とか,常におやッと見落としがちな面白いテーマを拾い上げているが,これがちゃんと流体や統計に昇華している。また,地球物理/宇宙物理に関連した地震の研究で述べたという"天災は忘れた頃にやって来る"(オリジナルは"天災は忘れたる頃来る"らしい)は,誰が言ったか知らなくても使っている定番名文句の域に入っている。寺田寅彦は忘れた頃読んでもいつも新しく面白いのである。


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