野上弥生子

1885〜1985


あるいは知らない方もあるかもしれない。数年前に封切られた"秀吉と利休"の原作者である。子供の頃伝説の類が好きだった人なら,岩波のブルフィンチ版"ギリシアローマ神話"の翻訳者というのが馴染みがありそう。この訳稿をあげたとき,28歳1児の母であったというから,時代を考えればなかなか尋常ではない。経歴を見ると尋常でないことだらけで,天分環境もさることながらとんでもなく努力家だったのだろうと思われる。

明治18年(1885年)大分県臼杵の醸造家に生まれ,15歳で東京へ出て明治女学校で学ぶ(足掛け20年ほどしか存在しなかったキリスト教系の女子校である。教師に島崎藤村がいたり来援講師に内村鑑三がいたり生徒に相馬黒光がいたり,爆発的な進化の時代にときどき現われる才能の集中発生の1つの神経節ともいうべきものであったらしい)。卒業後,同郷の野上豊一郎と結婚。ちなみに新夫は東大在学中で,当初は人の手前妹と称していたらしい。この,上京した妹実は同郷から迎えた新妻というシチュエーションは,夏目漱石と寺田寅彦の作品にも出て来る。昔は良くある話だったのか,身近な2人が野上家のエピソードをヒントにしたのか。
夫を介して夏目漱石に師事する格好になり,"縁"でデビュー。以降,100歳近くの長寿の最後まで現役作家として書き続け,文化勲章受賞者(女性は上村松園と2人だけ)を受賞している。

と,何かにつけてすごい人だが,この人の日記はすごい。合間に食料品の値段が入っているあたり主婦の日誌なのでもあるが,60年間継続して付けてあるのもすごければ,これだけ周囲の人をキビしくやっつけている日記というのもあまりない。一目置いて惜しんでもらっているのは芥川龍之介くらい。辻潤,内田百間あたり多分に本人の不徳の致すところとしても,とにかくバッサリ切り捨てられている。
同性に対する見方も辛辣。夏目漱石夫人に始まり(鏡子夫人悪妻説は漱石門下生に多いようなので,あながち彼女1人の見方ではないのだが),岩波茂男夫人,内田百間夫人(夫婦揃って気の毒に),皆揃ってこれまたバッサバッサと切り捨てられている。その観察の底意地悪さに匹敵するものは,紫式部日記くらいであろう。
これが,自らの不遇に世をスネての冷眼ではないから困ってしまう。本人については先に述べた通り。家庭も円満。生家は,酒造と味噌しょうゆ醸造の2社で現在に至るまで営業を続けている(デパートの九州物産展などで気をつけて見ていると出品していることがある)。夫君は法政大学総長まで務め,3人の子息も京大と東大の教授に育て上げている(随筆の中に次男だったかの中学受験随行記があり,もって回った感想を述べながらの右往左往ブリは尋常でない普通の人と言う感じ横溢で楽しい)。もう完璧に完璧である。
ちなみに日記でコテンパンにした人々に対し,実生活ではむしろ相談に乗ったり面倒を見たりしていたらしい(夫君豊一郎氏が好人物で頼まれると引き受けてしまうため,結局弥生子が実務処理に当たっていたという説もある)。常識的で用心深くて質素で勤勉な野上弥生子にとって,困ったサンたちは放っておけないと同時に余程腹に据え兼ねる存在だったのだろうか。でも,だからってここまで書かなくってもと言うか,そう言いながら面倒見るかなと言うか。

不思議なのは,この人共産党ビイキだったのである。幼時選挙があると,候補者パンフの"だれそれさんを推薦します"のところに,野上弥生子の名前がいわさきちひろ辺りと並んで載っていたような記憶がある。ここまでのリアリストが,なんでまた地上のユートピアを信じたのかは謎としか言いようがない。
強いて探せば,少女時代にリベラルな女学校に学び,前壮年期に大正デモクラシーだの青鞜だのに当たったことが素地になっていたのか。当時の俊才たちであり実際に知人も多かった戦前の社会主義者に共感した気持ちが残っていたのか。この辺りを記したと見られる初長編の"真知子"に始まり"迷路"までの一連の作品もあり,昭和10年代くらいにはプロレタリア文学の同伴者作家と言われたらしい。シンパでなく同伴者というところがなかなか味があるが,何とも不思議な組み合わせである。

不思議な組み合わせと言えば,何だったか野上弥生子は中勘介のことを好きだったらしいと書いてあったのを読んだことがある。九州つながりか東大つながりのどちらかで知り合いの輪があったらしいのだが,また,よりによって難しい相手を気に入ったもので,やはり片思い以前の一方的な淡い好意だったらしい。そうだとしたら,いぢわるばあさんもたまに殊勝にうつむく風情でちょっといじらしいものがある。

ちなみに,一般には時代作品が名高い。実際,今読むと何だか主人公クラスのセリフに生硬な感のある現代ものに比べ,時代ものでは意地悪パワー全開で登場人物の心理を読ませている(冷徹な心理描写ともいう)。そんな中で未完の自伝的長編"森"は,なかなかいまどき教養小説という趣で面白いのである。87歳になった昭和40〜50年代から明治30年代の少女時代を振り返って書いているのだから,十分時代は付いているが,何せそれが同一人物の実体験であるからやっぱり恐れ入る。


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