Fredric Brown

1906〜1972


フレデリック・ブラウンと言えば,SF勃興期にミステリと二股掛けて活躍した才気きらめく短編の名手であった。短編集の後書きに,ブラウンと星新一を読んでいる男性はオシャレと女性雑誌にも書いてあるというくだりがあったくらい(ちなみに真鍋博氏談の孫引きだったが,今はお3方とも世にない)。しかし,フレデリック・ブラウン本人は,背が低く貧弱な骨組に眼鏡を掛けた風采のあがらないタイプだった。それにもまして,ブラウンのリアルライフの記録は,地味で勤勉で過酷ですらある。いわば,クラウンの笑顔のペイントの影の憂い顔か,あるいは華やかな仕掛け時計を組み立てる寡黙な職人か。いずれ,この言葉のプロは素顔を見せることを好まなかった。フレデリック・ブラウンについて残っている伝記は多くない。

1906年に本名フレデリック・ウィリアム・ブラウン Fredric William Brownとして,父カール母エマの1人っ子としてオハイオ州シンシナチに生まれる。14歳で母親,15歳で父親を亡くす。両親の没後事務員などそのときどきの職に就きながら,オジの経済的な支援も受けて高校を卒業,インディアナのハノーヴァー・カレッジとシンシナチ大学の夜学に在籍。一緒に暮らした訳ではないようだが,オジとオイの関係に後年のハンターシリーズの原型を見る向きもある(更にこのオジはカーニバルに関係があったという説もあります)。

大学を1期で辞めた後,機械部品を扱う事務所に就職(この時期のことは1958年の唯一の一般小説"Office"のベースになっている)。その後事務員,速記者,保険外交員など数々の職のかたわら(ガテン系の仕事は向いていなかった),掘削機械の業界誌,フォードのディーラーの雑誌などの専門誌に掌編を寄稿する。1942年にミルウォーキー・ジャーナルの校正係の職を得て,ミルウォーキーの作家クラブにも所属。1937年からハードボイルドのパルプ雑誌に作品を売り込み,徐々に多くの短編が掲載される。
1929年にヘレン・ルース・ブラウンと結婚(同姓でごく遠い縁続きに当たるとも言われる。また文通の末の結婚とも言われる,BROWN-ingみたいだ),2児が生まれる。しかし,ブラウンは家庭に馴染まない人物だったようである。不況が深刻な頃,全く仕事にあぶれた時には家族を置いて貨物列車に飛び乗り,出稼ぎがてらロスアンゼルスへ旅立ったこともある(結局仕事にありつけず文無しのまま帰ってきた)。実際に生活費を稼ぐためもあったが,この時期から家庭との距離を時折取りたかったのもあるかもしれない。作品が売れるようになると,執筆に打ち込めるようにと自宅から離れたアパートで1人過ごすようにもなった。結局1947年に離婚。エドとアムのハンターコンビを登場させた初の推理長編"シカゴ・ブルース This Fabulous Clapjoint"が発表された頃であった(この年のMWA最優秀処女作品賞となる)。長編が売れたことで離婚時に渡すまとまった金額も用意できるようになったのではないかと,ブラウンの次男リンは後にこのタイミングについて推測もしている。とにかく,会社を辞め,家族と別れ,土地を離れ,全て蒔き直しでフルタイム作家ブラウンが誕生した。

1948年にエリザベス・チャリアと再婚。ニューメキシコ州タオス,ロスアンゼルスを経て,1950年代後半はアリゾナ州ツーソンに移住。ミステリサスペンスでは,ハンターシリーズに加えて"312とノックせよ Knock 3-1-2"など単発ものの秀作がある。SFの分野にも手を広げ,傑作"火星人ゴーホーム Martians Go Home"に加え,"天使と宇宙船 Angels and Spaceships""スポンサーから一言 Honeymoon in Hell"などの作品集にまとめられた無数の短編とショートショート(自分ではvignetと呼んでいた,一番短いのは2センテンスでまとまってます)を書く。長短問わずどの作品にも,奇抜な着想と更にヒネリの効いた展開,ときどきホロリとさせる人情オチとその倍くらいのニヤリとさせるブラックジョーク,それを無理なく読ませる文章の巧み,更にお茶目とも言える頭韻脚韻や語句の分解など言葉遊びなどブラウンの特徴がフルに出ている(ハードなSF読みには,地口と下ネタまとめて宇宙人のコロモ着せただけじゃないかなどと言われるのでもありますが)。日本に奇想とユーモアの推理SF作家として紹介されたのはこの時期であり,冒頭に紹介した後書きもその頃出た創元文庫のもの。

1960年代に入ってから体調が優れず,作品の発表数がメッキリと減る。ブラウンは若い頃から小柄な上に体が弱く,第2次大戦で兵役を志願した時も体格ではねられている。喘息持ちでロスアンゼルス在住時にはスモッグにやられて救急車のお世話になったこともあり,アリゾナに移ったのも医者に勧められたため。1960年代冒頭に映画の脚本を書こうとハリウッドに移ったこともあるが,やはり空気が合わず(比喩ではなく本当に呼吸器の状態が悪化した)早々にアリゾナに戻っている。
かてて加えて大酒が健康の悪化に拍車を掛けた。もともと酒好きで,前述の次男リンも一緒に飲めるようになって始めて父ブラウンは自分の存在を認識するようになったと回想している。晩年の何年かはほとんど何も書かずに日がなメキシコ産のブランデーを飲み,1970年あたりには失明状態だったと言われる。1972年3月,ツーソンで逝去。
前夫人のヘレンはミルウォーキーで2人の息子を育て上げ,ブラウンに先んじて1970年に世を去った。未亡人となったエリザベスは資料の散逸を防ぎ,長く絶版になっていた短編に再び光が当たるよう活動に勤めた。1973年には"Paradox Lost and 12 Other Great S.F. Stories"を自ら編纂している。また,単行本未収録だった専門誌パルプ雑誌掲載の短編を取り上げたデニス・マクミラン社の作品集全19冊のうち,1990年に出された16冊目の"Happy Ending"には,彼女の未刊行の回想録"Oh, for the Life of an Author’s Wife!"の一部が序文として掲載されている。そのエリザベスも1990年に亡くなり,さらにミルウォーキー時代からブラウンのエージェントを務めたハリー・アルトシュラーも1993年に亡くなっている。作品の管理は,直系の家族として1人だけ残った次男のリンにバトンが渡された形になった。

ブラウンは作品を書き始めるのは嫌いで,ありとあらゆることをして机の前に座るのを引き伸ばしたとエリザベスは回想している。一方,ミルウォーキーの作家クラブで一緒だったウォルト・シェルドンによれば,天才的なストーリテラーで外に出て目にしたもの全てから"もし,あれが〜だったら?"とアイデアを捻り出して見せたという。タオス時代には,午後はバーで友人と過ごし,夜家に帰ってからやおら執筆に取り掛かっていた。コツコツと積み重ねる職人技で,湧き出すアイデアをドンピシャの構成と表現で仕上げていったのである。あるいは晩年の沈黙も書き疲れたのかもしれない。
生前自分についてあまり語らなかったブラウンであるが,もしその生涯の記録を短編に仕立てよと言われたらどのように書いたのでしょうか。


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