1984年中国旅行記(前半)

2000/12/29

こちらは私、十河都が小学6年生の時に行った、中国旅行の思い出し旅行記です。
これを書いてる今より16年前のことなので、かなり思い違いハゲシイですから
正確でない点、御容赦ください。


名称・日程・旅行地・目的・他

名称--「第1回日中友好少年少女大交流会」
日程--(昭和59)1984/07/29〜08/05
   (日程表を紛失したため詳しくが分りません。始めの募集時の予定表なら手元に
    あるんですが〜北京が入ってる。最終日程では北京へは行けなかったのです)
土地--洛陽・テイ州・上海
金額--子供155000円 大人210000円(だったはず)
目的--「平福小学校」が洛陽の小学校と姉妹縁組みを結んだのの交流旅行
----これがなー友好旅行のはずが、ひとつの小学校だけでは当たり前のように
   人数が集まらず、なので岡山県全体に旅行募集したらば他2地区から参加者が
   集まり、総勢68名のグループ団体旅行と化したのだった。
   目的の交流といっても、「子供どうしいっしょにしておけば楽しくやるだろう」
   などと安直な考えはしてはいけないのだよ…と子供心に強く思った旅行だった。

私はちょうど、家が保険が満期で還っていたのと、父親が珍しい体験をさせてやろう
との組み合わせにより、妹と2人で参加できたのでした。
しかし当時は中国に全然興味がなく、その後京劇にハマルまで10年の月日がたち、
今は娘2人時々海外へふらりと出かけるようになるとは、父親は思いもしなかっただろう。

注:文中この色表記してある部分は、
文を書いてから当時の記録VTRを見て補足したところです。
(先に見ろよなー)


上海


ホテル「上海大厦」から外灘を撮った写真

岡山→上海 07/29
旅行前、初めての海外+1週間もの旅、とのことで知恵熱を出したらしい私はすっかり寝込み、母親を心配させ、たのに当日はばっちり元気になり、旅行中にはなんの影響もありませんでした(迷惑な…(;--))
余談だと、この夏休みの宿題に「中国旅行」の感想文を書いた私は、いかに行くまでが大変だったかを書きつづり、本文の旅行記を書くまで行かずに終わった記憶が…当時から本末転倒していたらしい。この文はそんな人が作成しています(^^;)

前フリ終わって、大阪伊丹空港から飛んだ初めての飛行機、あまりの気持ち悪さに同行の隣んちの幼馴染みのハルコちゃん(5年生)と妹(4年生)が完全な飛行機酔いになりグラグラになりつつ到着。もちろん私も酔っていた。同学校からの参加男子たちも酔っていた。
当時の空港は今と変わり無いような記憶があります。

上海(農業展覧館)
夏まっさかり、あちこちに南国のような花が咲いていて、館内は魚類がホルマリン漬けになった展示物が暗い中、下から光があたっていて無気味…みやげ物屋に漢方屋もあった。ここでお昼を食べた気がします。ついていた炭酸オレンジジュース、これがこれから行く先々でお世話になるシロモノでした。ああ、思い出した、お茶もあって中国式のお茶の入れ方で、お茶っ葉が直接コップに入ってできているものでした。味は〜猫舌だったから飲めてない気分…。
余談だと(ここから先はお食事中の方はおさけください)ここでトイレに行ったら、洋式ではあるのだが、戸が地面から40cmくらいの部分がないタイプの物で、小学生で背の低かった私はかなりあせり、しかもなぜか用を足されたブツは流されずてんこもり。…一度流すとつまったら怖いので、自分がすんだ後に流して逃げました。その後は知りません。こんな惨状のトイレの話は今でも聞くのですが〜もとからつまっていたのか、流さず放っておいた最終形態なのかは分りません。

観光
なくしていたのがつい最近発見された当時の写真冊子の1冊目、見返していたら初日に軽く観光していたようです。確かに「上海展覧館」とどこかの「廟」に行った記憶が。
展覧館は入って正面にある大きなトビラ、その向こうから音楽が聞こえていて、なにをやっているのかすごく気になったがさすがに開ける勇気はありませんでした。と言うか開けてはいかんだろう。
廟は「中は写真撮影禁止です」と添乗員さんかガイドさんが説明していたはずなのだが〜手元に中の写真があるのはこはいかに?もしかしたら廟は2つ回っていて、その片方だけなのかもしれません。VTRを見返して分りました(先に見ろよ)廟は「玉仏禅寺」。

上海大厦
たぶん「上海大厦」で夕飯。この時だったと思う、いきなり鳥の丸焼きが出て私のグループは初めてのグロテスクに大騒ぎになり(;--)、しかも初中華丸テーブル、あの回るヤツで「ぐるりと回し止まった前にある料理を食え」との指令が出て(出したのは誰だ)ハルコちゃんの前にばかりわざと止めてトドメに鳥の丸焼きのハラから本人(トリ)の首がでてきてさらにパニック、大騒ぎになっておりました。

その日の晩のうちに夜行寝台に乗って洛陽へ18時間かけて向かいます。


洛陽


龍門石窟

列車(上海〜洛陽) 07/29〜30
今にして思えば最高級の軟臥席、4人部屋に柔らかい2段寝台でした。お湯を入れた魔法瓶が常備してあり、お茶が飲めた。窓から見える風景は「中国なら地平線!」と思い込んでいた私にはもの足らず、延々続くとうもろこし畑、しかも岡山とあまり変わらず薄くもやがかかりどこまでもぼおっとした風景が続くのでした。だがしかし、どの列車もばっちり石炭で走るSL車だった記憶が!そしてこの列車の写真を全然撮っていないのを今ちょっと悔やむ…。VTRにはばっちりSL車が映っていました。

余談では後日洛陽からテイ州へ向かう列車で、この魔法瓶を倒して壊した別学校の児童が出現。みんないっしょに叱られて、しかもかなり叱られた。壊した本人が誤って弁償すればいいだろうのに、なんだか理不尽だ〜。と、自分の事はタナに上げる小学生。

食堂車
食堂でごはん。食わず嫌いが激しかった私には、熱々の太い麺+具沢山に閉口しほとんど食べれなかった。「中国と言えばラーメン」これも間違ったイメージで日本で言うラーメンには今でも中国ではお目にかかったことがない。この時は「うどん」と言う方が近い麺でした。
そして冷たい飲み物がなく、テーブルに常備されている炭酸オレンジジュースor炭酸パイナップルジュースは有料!?しかも当時の通過レートは「1元=110円」!!そのジュースは1本1元!なんて物価の高いところなんだろうとくらりとしたのだった。昭和には消費税すらなかったからね!
VTRに朝食をとっている風景画あった。メニューは「目玉焼き+食パン+コーヒー」そうか、私はコーヒーがダメだから飲み物は上の記憶になってるんだな。

列車の客
時々停まる列車は客を入れ替えて進み、いつの間にか昼寝して起きた時に、見知らぬおじさんと談笑しているグループの人々に気が付いた。〜が、様子が全然分かってないのと、途中から行っても話に入れないので、またふて寝した。この中国人のおじさんはなにか楽器をもっていて演奏する人だったよう。
また、食堂車へ向かう途中にある硬臥寝台車両、せまく3段の席に所せましといる中国人のおじさんに私ひとりだけつかまり、胸につけていた名札をしげしげと読んでおじさんどうしの談話になってしまった。もちろん中国語は何を言っているのか分らない、私の名前十河は珍しいのか、それとも書き込んである団体名を知りたかったのか、本意は分らない。

洛陽(ホテル。名は失念) 07/30
ここに3日ほどいた気がする。ホテルは快適〜〜…隣部屋は西日がすごくてハルコちゃんが避難に来ていたけれど。10階以上の高さの部屋で、朝起きて下を見ると人々が太極拳をやっていた。これはイメージほんとうだった。同行の先生や、息子2人と一緒に参加していたおばちゃんがよく朝に近くの公園とか町並みに出かけて散策していたようで、私は朝に弱くてついて行けれなかった。
外国人客満載のホテルで、白人男性と同じエレベーターに乗った時、ハルコちゃんがボタンを押そうとした手をはたき、「緊急停止」ボタンを押しやがった。漢字が読めないなら余計なことはしないでくれい、そして階段を10階近く歩いて登るはめに。さすがに夏できつかったのでそんなくだらないことを今も覚えている。

通貨レート1元=110円 (総合記憶)
くだらないと言えばここのホテルも炭酸オレンジジュースは1本8角。角と言う元以下の単位にくらくらし、やっと100円くらいのジュースに出会えた。今にして思えばそれでも高いのだろうけれど、そういえば当時は外国人は「外貨兌換券」なるものがあって人民元にはお目にかかれなかったと思う。あら、最終日に2枚だけお釣りにもらってたや。まあ団体観光客なのだから普通より高いレートだったのかもとも思う。
さらに余談だとこの貨幣を全種類持って帰りたかった私は、当時最高だったと記憶している「50元」紙幣当時5500円を換金せずに持って帰り、家族みんなにバカにされた。今じゃ600円くらいの価値しかないだろう。確かに金銭的にかなり損をしているけれど、たった10年くらいでこれだけレートが変わった、それは重要なことだと思う。今もこの札を手元に持っている。

ごはん(総合記憶)
あちこちで食べたごはん。「中国なら肉マン」そう信じていた私は(さすが小学生イメージ先攻がハゲシイ)行く先々に現われる白い饅頭を必ず割った。中身はなかった。肉がない。すべてハズレな気分だった。それは花巻であって、ついに肉マンにはお目にかかれなかった。
朝は必ずお粥があって白く白濁していてかき混ぜるといくばくかの米が浮いてくる。こ、米。たらふく米を食べるもんではなかったらしい。チャーハンが大好きで必ず食べた。よく小石が入っていて、一度に入ってた最高数は4つ。コイも食べた。ハエ入りだった。そんなことばかりしか覚えていない(;--)ハタチを過ぎるまで食べる楽しみはどうでもよかったもんだから。今では目覚めて体重がやばくなっている。
いちど、春巻きらしきものがあった。非常においしくて、お代わりをしまくり、グループ男子が走り回って同じ店員に頼むとダメかもしれないと、次々と違う店員をつかまえゼスチャーで「もうひとつ」と暴れる。いったい何回「もう一回」をやっていたのか。すっかり笑いの種になっていた。
日本を出る前に、親が「口に合わなかったら」とカップラーメンを大量にもたせてくれた。食わず嫌いな上、食が細いのを心配したようだが(ちなみに同行者ほぼ全員持って来ていた)食べ物に困ることなくそのまま持って帰った。邪魔な荷物だった(ヲイ)。どうもそんなあたり、中国のごはんはおいしかったようだ。
文追加、そういえばさすが中国、量がものすごかったのを思い出した。なにしろ小学生、いくら育ちざかりの中〜高学年とはいえ食べる量には限りがある。ある日の夕飯の時、数グループのテーブルのみんなはお腹いっぱいになって部屋に帰って行った後、食べるのが遅い私は自分のテーブルひとり残ってへなへな食べていた、すると「デザートにスイカ」が出て来た。店員さんの「あれ?」というこまった顔を覚えている。しかたなく誰もいないテーブルにスイカの山を置いていく店員さん。申し訳ないので他テーブルの大人といっしょにしばらくかじっていた。次の日には「スイカがあったんだぜ〜」と地味なことを自慢する小学生。

いい加減な現地観光 (やっぱり日にち分らず)
半日、朝からお昼のお弁当を持ってでかけるはずの観光があったはず。〜が、当時は現地についてからもちょくちょく予定が変わり、どうなっているのやら同行の添乗員さんに先生達大人はやきもきしていたようだ。結局お昼に食べる予定だったホテルのお弁当だけもらって、ただついて行ってるだけの我等はホテルでダラダラしていた。この中身がもう。ゆで卵2個。うすいパン1枚。なんか硬い乾燥肉ひとかけ。なんか甘そうな焼き物。これがコワレかけたようなスペース余りまくった箱にカラカラと入っている。食わず嫌いの私には食べる物がなかった。観光中止で助かったのかもしれない。ちなみに今も同じような箱にお弁当は入っています。

町並み (総合記憶)
これがどこだったかあんまり覚えていない。混ざっています。
どこかの観光名所への手前、ぬかるんだドロ道にカラーペイントされたニワトリが走り回っていて、ペイントと言ってもピンポイント、なんでもどこの家のニワトリか分るようにの目印だったそう。
プラタナス、洛陽はこれが沿道にずっと植えられていて、葉がおいしげり夏の日ざしをさえぎってくれていた。が、どこもあちこちに街の人々が食べた後の「スイカの皮」が点々と山盛りに固めてあり、夏+生ゴミ=ハエ×惨状。気にしてはいけないようだ。
油条、中国の一般的な朝食にある細長い揚げパン。が、ショッークっだった。ある店先で作っている風景をバスの窓から見たのだが、「ハエと戦いつつ揚げている!」おかげであれには近よらまいと幼心に固く決心したのだった。今は食べています。うまいじゃないかあああ!!


〜と、肝心の交流はどこよ?はこちらへ続く〜

十河んち
京劇の都