続きの思い出し旅行記。小学6年生の時に思ったことをつづっています。

洛陽のホテル(友誼賓館新館)07/30
当時の旅行VTRを見てから思い出すことが多い、それだけ忘れていたということか。洛陽の駅に着いた時もホテルに到着した時も洛陽の市の職員さん方が歓迎に出迎えてくれていた。着いてすぐにホテル内の大広間で交流会になっていた。記憶ではどこかの学校だったと混ざっている。洛陽の職員さんや日本側団長さんの挨拶などがあったらしい。見事忘れている。
カンフー
中国側から、カンフーの披露。うすいぴんくのサテン地のカンフー服を着た私よりちいさい女の子が棒などを振り回して技を決める。かなりのしなやかな動きに力いっぱいのワザだった。しかし私は動きよりも着ている服の布地はどう見ても運動をするのには向いてないだろう、と考えるばかりのあさってな小学生だった。
カンフーは2〜3人が披露してくれた気がします。
タテ笛
日本側は…なんのワザもない。仕方がないのかタテ笛出動、コラ男子、吹きマネだけで吹けてないだろう。トドメは歌だ、もう3地区の小学校みんな習った歌を歌うだけ、なんの日本伝統ワザをもってない一般小学生、さすがに恥ずかしい気がするが、さりとてなにも披露ワザはない。今もない。
ここの記憶がオボロなのだけど、ハルコちゃん、彼女はピアノを習っていて音楽が誰よりもできた。だからみんなの指揮者をしていたはず。彼女こそワザを発揮するべきでは?と、思っていたのだが、VTRを見て納得した。ハルコちゃんは小指をケガしていた。同じく同行のUKさんも交代で指揮をしていた。いろいろ係りを振り分けられていたようだ。
日本舞踊
これもVTRを見てから気がついた、ありがとうVTR。当時の私には別地区からの参加者の動向がさっぱり分かっていなかった。2人の人が、しっかり着物(浴衣?)を着て金銀の扇子を持ち日本舞踊を舞っていた。ああ、日本文化がちゃんと御披露されていたじゃあないか、ほっとした。
姉妹縁組みの小学校(洛陽じっけん小学校(漢字失念))07/31
洛陽の小学校の制服はボーイスカウトやガールスカウトのような感じで、白いシャツに紅い…うーあれの名称はなんだ、セーラー服の胸についてるタイプのリボン、そのスタイルで、校門で並んで歌いながら迎えてくれました。
日本から行った者からは「日中友好」だが中国からしてみれば「中日友好」。文字が逆さになったのを見て、自分本位な小学生は「違うじゃないか」などと思ってしまう。この記憶があるあたりどうも大きな垂れ幕か看板があって、歓迎してくれていたらしい。
VTRを見ていて思い出す、洛陽の小学校のみんなは「朝6時からこの準備をしていた」と。ああ、洛陽側はよりすぐりの児童と数々な打ち合わせをしているだろうのに、日本側は「観光で行けれる児童だけ」がやって来ている。無策なほんとに一般児童だ。こんな連中に朝の6時から…子供心に肩身がせまかった。
贈り物
講堂で形式で挨拶を交わしあい、贈り物をした。何を送っていたのか、私は平福小学校最年長女子だったので連絡係り役を仰せつかっていたはずだが、この件は男子担当だったらしい。なので内容の詳しくを知らない。VTRを見る限りは「七夕集会時の写真」とか言っている。贈り物の数々を後ろの席から見ていて、”即時使用できるアイデアのあるありがたいもの”を大事としていた私は「そんなのいらないだろう」と思って見ていた。そのせいか私の記憶では贈り物の中にぞうきんが入っている。いくらなんでもそれは失礼だろう、この記憶が間違いであってほしいと、今願う。
習字
交流として、いっしょに習字をした。「漢字を書いたら下手なのが分る、ひらがなを書け!」こそくな悪知恵だけはハタラく小学生、「ゆめ」とか「はな」とか書いていた。洛陽の児童のひとりは「墨絵の馬」を描いていた。非常に上手かった。思えばこういう、みんなで同じ机でなにか個人作業をしている方が、和気あいあいと楽しんでいたように思う。
綱引き
ここでの校庭で綱引きをした。日本は負けた気がする。VTRを見るといっしょに輪になってダンスもおどっていた。すっかり忘れていたが、ここの学校でしっかり足のつくキレイなプールでみんな楽しく泳いで遊んでいた。交流と言うのはこれでいいのかどうなのか、よく分らないまま、大人が設定したコースをこなすだけだった。子供心に交流とはなんだろう?と物足りない気持ちがあったからだろう。
でも今この年齢になって当時の交流VTRを見ていると、まるでみんな楽しそうに日中入り交じり子供どうし遊んでいるように見える。が、当時の私はそう思ってはいなかった。ここにミステリーなギャップがあるのだが、そのあたりを追求するための旅行記ではないのでこのまま見送る。
今考えるなら、団体でまとめると各国の人のみで固まる、席を与えると動かなくなって何も進展しない、言葉の違いで進まないことも多いだろう、勝負ごとは勝ち負けがでる。なので本気スムーズに交流するならこんなのがいいな、と考えてみた。
人数をばらして、席をつかわず、数人がまとまるくらいの机で、それぞれがつくれる個人作業、総合すると簡単な「料理」とか「工作」あたりが和気あいあいとできるのではないか、ダメ押しにお互いの得意分野の物を教えながら作る、という形式にするとなにがなんでも交流になるだろうと思いました。そういえば高校の体験入学もこういう形式だったなぁ。
観光「龍門石窟」08/01
いつここに来たのか正確に覚えていない。黄河に沿っていて、現地の少年達が、前日に雨が降って(?)流れが速くなっている、文字どおり黄色い、泥で濁ったと言うより粒子が細かすぎて黄色い色になった河に飛び込んで遊んでいた。入り口手前に溶けた飴で絵を描くようにつくっていく「飴細工」の屋台があって、すごく興味深かったが、のんきに見ている時間はなかった。
龍門石窟、ガイドさんが「戦時中に日本人兵士が壊していった」と子供ながらブルーになる話を聞かされる。河に沿った岩棚を彫り込んで成形されている仏像達、首がないのが多い。そんな少々申しワケない所だと言うのに、小学生どもは大アホを発揮した。「りゅうもんせっくす!」もうただこれだけの言葉を連呼するだけでおおはしゃぎ。意味はもちろん知らない!(爆)もう先生にも理由を説明できず止めれない!連呼の嵐、やるなと言うことは進んでやる。あああハズイ(おまえもか、十河!ハジ〜ぃ)でも、外国ではせっくすは単に「性別」の意味があるから命びろいした。
最大の仏像17mはヒザ部分が壊されてない。かなり精巧な巨大立体美術が、どんなにすごいものだといっても戦争という惨事の中ではただ破壊されていた、さびしく思う。
観光「かんりん」(水滸伝の要所らしい)
どうもここにも来てるらしい、写真が映っている。そういえば、妹がここで「ガラス細工の動物親子」のちいさい置き物を買ったような気がする。
観光「少林寺」
ここに着くまでが長かった。かなりの時間バスにのり、沿道に沿って植えられた高い木と延々と続く畑を見つつ、山道に入り、途中休憩で牛やヤギを遠くに眺め、崖から小石を投げてみても(コラ)どこに落ちたか気配すら分らない。そんな長丁場で到着、黄色い大地を踏んでいました。
先に墓場(?)の方に行った気がする。観光客だらけで、行き交う地元の子供に驚いたのが、「ズボンの股部分が縫製されてなく」ておしり丸出し!?かなりカルチャーショックだった…。ちなみに今でも中国で、幼稚園手前の年頃の子供にこれを見ることがあります。
脱線戻って墓場、なハズ。黄色い塔が建ちまくってて、色鮮やかな出店が点々と並んでいた明るさを記憶しています。
そしていよいよ少林寺!ここと言ったら「アチョー」でしょう!そうイメージ先攻、思い込んでいた小学生な私は門をくぐり、入ってすぐにあったすすけた台座のみ草が少しはえた、ひなびた壁に囲まれたただなにもない場所にがくぜんとした。あちょーがいない。大ショックだった。なんでもここ(だけ)は火事で焼けたとかなんとか、もうそんなことはどうでもいい、カンフー兄さん、僧侶がいないんだったらもう用はない!私は超高速短慮にふてくされてひとり出ていってしまった…。でも当時は想像も妄想にもふけるほどの知識量と時間の過ごし方ができず、たいくつになってしまい、みんなのところに戻ろうと再度門をくぐろうとした。係り員のおにいさん「チケットは?」…なんだとー金がいったのか!?団体行動だったため分かっていなかった!いくらなのかも、チケットはどこに売ってるのかも分らない!ついでに金も底を尽きていた気がする、あのガイドねえさんのせいか!?(後記
買い物参照) しばらく固まり、断念してバスに戻った。あまりに暑いのだがエンジンがかかってないためクーラーもなく、仕方なくバス内よりは涼しい、地面の粉のような黄色い大地上を寂しくうろついているしかなかった…。この地面は落書きすら書きづらく頼りなく風に吹かれるのでこれもスグにあきた。
ああ、あそこにアチョーや僧侶はいたのだろうか、あの奥にはちゃんと道教の建物が健在しているのか、気になーるううう。
洛陽〜テイ州 08/02
この日洛陽の博物館に行っている。館内よりも覚えてるのは外の柳の木が風に吹かれていたのが、たぶんここだったろうと記憶している。
それからテイ州へと列車で向い、あの魔法瓶が壊れた話になったようだ。
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観光(名称失念) 08/02
どこだか名前を失念した上に今からガイドブックで探す気力なし〜でこのまま文をつづります。確か「西施」に関係してたような〜?
黄河のほとりに小高い山2つ、頂上に亭がそれぞれあって黄河を望む、その公園でみんな山に登ることになった。が、その時は産れてきて12年こんな階段見たことないぞってな構造で、階段の足をおく踏み場の大きさも段差の高さも一定してなく、中には踏み場が10cmなく高さは40cmかというランダムに急なところもあって、かかとを置けないまま辿り着くまで頂上へ〜と騒ぎになった。と言ってもそんなに高い山じゃなかったのであっさり頂上に着き、流れる黄河を一望できた。補足するなら下りる時の方が行きよりも命の危険を感じる階段だった。
河幅
黄河、相当に広い河と聞いていて、ここでもイメージ先攻でどれほど広いのかを確認しようと見ていたのだが〜他に比較対象になるものがないせいでさっぱり分らない。その内に、河の上の橋をSL列車が通過し始めた。車両の数を数える、当時の視力は2.0ばっちりで(現在は0.07に転落している)28両まで数えることができた。中国のあの長い車両が28、それが河の上に完全に入ってもまだまだ河幅に余裕があった。規模の広さを実感できたことだった。
怪鳥
山から下りたところにナゾの巨大な鳥がいた。ナニ鳥なのか分らないが、どうもホントは大空をぶいぶい飛ぶワシかタカの類のようなのに、上くちばしが本来あるだろうところが切断されていてなく、飛べないらしく歩いていた。観光地用の飼い鳥なのか。小学生と近寄りあうがお互い怖がって完全接触しない。うう私ら鳥レベルか…。
近くに黄河へと流れ込むだろう用水路があって、川べりとか塀の向こうが気になるタイプの背が低い私は、黄河との接点がどうなっているのか見に行こうとちょっと歩いた。用水路の水門あたりは黄河の黄色い泥がどこまでも滞積していて、あまりグループと離れるといけないだろうとそこまで見てから元に戻った。
花火
ここでのホテルは国際賓館だったと思う。売店に花火が売ってあったので、さっそく同行の男子達もいっしょになって駐車場で花火大会になった。私の小学校地区は男女の仲が非常に悪く、いつもいがみあっていたのだが、少人数で旅先ともなるとそれもなくなり、旅行中葉結構楽しく遊んでいた。(帰ったら元にもどるがな)部屋で暗夜行路してみたり、鍵をしょっちゅう忘れて閉じ込められてフロントに走ったり、寝坊した者の部屋を奇襲してみたり。
花火、かなり派手にやっていた、というか派手な小規模な打ち上げ花火しか置いてなかった気がする。もちろん同行の大人につきそってもらっている。遊んでいると地元の人達も集まってきて眺めていて、中に子供達だけの連中が近寄り過ぎてかなり危ない。なので同じクラスの男子Tが注意に入った。注意の言葉だから語気は強い、だからか相手の中国児童(小学3年くらい)はだんだんケンカごしになってきた。Tとの少々どなりあいに近くなってくる。言葉は分らなくても「ケンカしてるのは分るねぇ〜」などとのんきな会話をしていた。日本の花火のように色がついていて、変色していったり、火の吹き方が変化したりの小ワザな演出の記憶がなく、ほんとうに勢いのある、吹き上げる花火だった。派手な花火は終わった。みんなの財力がつきたから。
今思うと花火とは中国では目出たい時にするもので、なんでもない、夏の夜の納涼の遊びにしていた日本人は、あれで大丈夫だったのかどうか、ちょっと誰かに聞いてみたい(苦笑)
アイスクリーム 08/03
テイ州でも現地児童と交流していた。中心をあけて机を二重にぐるりと囲んで席につく、内側が日本、外側が中国、相手を背中に配置してどうするんだ。VTRを見ると机の上にスイカがごろごろしていて、時間経過で食われていた。確かここだったと思う、カップ入りのアイスクリームが出て、かなり甘過ぎて日本側はちょっと口をつけただけでほとんどの人が残していた。中国側はみな食べ尽くしている。私はあまりにもったいないんで後ろの人にあげようか、それとも口をつけたものはもういらないかもと、後ろを盗み見るように何度もちょろちょろ振り返ったので、さぞかし後ろの中国少年は気味悪かっただろうと〜私はそう思うんだが記憶では彼は左右の友達と楽しげにほがらかしていたなぁ。そして勇気の出ないままアイスは溶けた。
緑色のプール
ここでもいっしょに遊ぼうの企画でプールで泳ぐことになった。泳ぐのは大好きだったので、喜んでプールに向かう…がっ、水が緑色だー。バスクリンとかのせいではない、藻が繁殖して緑色!、中国の児童は平気で泳いでいる。〜と言うかあんまり人数もいなかった気がする。それもそのはず、プールに入ってみて分かった(入ったんかい!?〜いや、この程度の緑色なら日本の学校でも入ったことがある。月曜にまともだったプールが火曜2時間目には藻が繁殖して緑色になり、そこで普通に1時間授業をした。はっきり言って問題だろう!?ちなみに水中で目をあけるとやっぱり緑色なんだぜ!オーイエェーやけくそ)話戻って、プールが深すぎて足がつかない。これは泳ぐ人を選ぶだろう…結局プールの壁にへばりついて先と同じく日本人中国人が固まって、ただ緑色の水につかっているだけになってしまった。
夕焼け
いつもぼんやりと日本と変わらないような天気だったのがここで快晴になり、すごい夕焼けを見た。集合写真で朱に染まった毛沢東の巨大像といっしょにみんな映っている。ちなみにこの時は毛沢東が何者なのか、しかもいたるところで巨大像になっているのも知らずにいたっけねぇ。
それからまた夜行寝台に乗って15時間、上海に向かう。

上海(外灘) 08/04
また来た時と同じ上海大厦に泊まった。その後96年にこのホテルに遊びに寄ってみたが、改装されたらしくすっかり変わっていた。日本の個人宅くらいの大きさしかない玄関、最終日にせっかく最後だからと早起きして先生の後を追おうとここまで出たが見失って座り込んでいた階段、入って右あたりにあっただろう売店や、ちょっと高い位置にあった水槽、緑色の水中にぼおっと泳ぐ赤い金魚、あたり前のようになくなっていた。あの時ハルコちゃんがお母さんに買おうかどうしようか迷っていた、うすいオレンジ色の玉石のイヤリングももちろん見当たらない。(16年たっとるっつーの)
ここの前に流れる蘇州河はすぐ黄浦江と流れ込むのだが、なぜか水の色が違う。午前、午後のどちらかは忘れたが、どっちかの時間帯になると蘇州河だけ水が真っ黒になる、黄浦江との接点はみごとにばっきり色が別れて。それがどっちかの時間になると黄浦江と同じ黄色になる。不思議な感じだった。今もなるのだろうか?
まだ対岸に「東方明珠タワー」ももちろんない、それどころかなんにもなく、写真を撮るのもつまらない風景だったようで当時の写真に対岸の風景はひとつもない。VTRを見るとしっかりこのホテルも対岸も映っていた。
上海少年宮
どうも写真を見ていて思い出すことが多い。ここでもどこかの学校に行っていた。VTRを見て「上海少年宮」と更に分かった。ここでは優秀な小学生児童、7〜13歳(?)を1000人集めて能力を自由に伸ばそうと(とVTRが言っていた)いう授業をしていたのを見学したのを思い出す。美術の授業なのか白い石膏立体物をスケッチしていた人の絵に感動して写真を撮っている。ここは交流と言うか見学をして帰った気がする。そういえばたくさんの鉛筆ももらった。塗装が青色で消しゴムがついていて芯の硬さがH、当時持ったこともない最高に硬すぎる鉛筆であまり使えなかった。
それより当時は「めぐまれない子供達に鉛筆を」とか言って使いさしの物やお古をアジア圏に送るために召集していた。そんな頃同じくアジア圏の中国から新品の鉛筆をもらった。どうも日本側は自分が裕福だと思い込んでいたらしいのかもしれない。
時代補足すると、この頃はちょうど「シャーペン」の種類が増えてきた(昔は「シャープ」社の製品と言うことでシャーペンしかなかったのが、シャープ社以外のシャーペンが増え始めた)頃で先生達は「鉛筆を使いなさい」と鉛筆推進派だった。「ファミコン」が大ブレイクするのはこれより3〜4ヶ月後というあたりだ。
魯迅の墓
ここでもツアーが変わったとか聞いた気がする。そして魯迅、誰だかさっぱり分らない。今もよく分らないが(彼は京劇を良く言ってなかったようだからな)国語の授業で彼の文を習ったのはこの旅行終わってからのことだった。
夏まっさかり、岡山とさほど変わらない暑さの中、緑色の葉やきれいに刈られた芝生の横の遊歩道を地元の人々と交差しつつ碑まで歩く。ああ、小学生、ここでも騒ぎだし魯迅の「魯」の字が読めないもんだから字をバラして「魚の目!うおのめ」と連呼する。もはや先生も疲れているのか放ったらかしだ。
最後の夜ごはん
最終日の晩御飯とあってごちそうだった。どうもこう記憶しているのが、この上海大厦を出て、道向いにある建物で御飯を食べた気がする。
ひとつ個人的に気に入らない記憶がある。この日に別地区からの参加者で2人とも誕生日だという親子連れがいて誕生パーティだと言って、浴衣を着ている。この旅行の本来の目的は「交流」だったはず、が、彼女達にとってこの旅行はほんとうに「観光」だったのか、しかもみんなでいっしょの団体行動の中、すごく個人的なことで祝ってもらっている。なにより誕生日ケーキまであった気がする。だいたいヤツらは誰なんだ。
16年前、当時は日中の国交が回復してまだ10年だったとVTRが告げていた。その時の中国がどんな世論のところだったかまでは当時の私には分らない、でも戦争でかなり酷いことを中国の人々にしてしまったということは知っている、その当地で、さらに戦時中酷かっただろう上海で、浴衣を着ているのはどういうことか。小学生なりに世間体を疑ったできごとだった。
でーもー店の店員さんも楽しげにしていた気がする、しかもみんな。考えすぎなのか私。でもこの旅の目的はそれじゃないー…どうも私はこの親子が本能的に嫌いだったらしい。そもそもケーキが私らのハラにも入った記憶がない。だから嫌な思い出になっているのだろうか。
上海雑技団
夜から、あの有名な雑技を見に連れて行かれた。メインは「芸をするパンダ」すごく珍しいとガイドさんの力説を覚えている。が、ここでは天の邪鬼だった私はパンダに興味がなかった。それよりトラの演技が見たかった。着いた時にはもう始まっていた気がして、しばらく犬の芸が続いていた。パンダ、顔の黒模様のせいか怠惰に見える。しっかり演技をして玉を転がしたりイスに座ったりしている。記憶はナニかこいでいたのだが〜手元の写真はそんなのない。VTRではこう言っていた「写真映像は撮らないでください、なので残念ながら画像はありません」。…オーノーこの手元のパンダ写真はなんなのだー!? どうも言うことを聞いてなかったらしい。さすが小学生。
そして、ガイドさんが言った「もう遅くなるから帰りましょう」。トラの演技は見れなかった。
買い物 08/05(他)
ホテルから歩いて外灘の西洋建築のどこかの建物の中に入った記憶がある。1、2階の広い土産物屋で、最後の買い物をした。ツアーパックなもんだから土産屋はあちこち連れてかれた。
覚えてるのは、洛陽で「洛陽と言えば唐三彩」とみんな馬の置き物を買っていた。いろいろ安くないな〜と思っていた中国パック旅行だったが、ここだけは手ごろな大きさの馬が300円くらいで買えていて、妹が2つ手に入れていた。
他はどこだか山の休憩所にあった土産物屋、ビーズ細工のちょっとホコリをかぶったブローチを数を買おうとして現地ガイドさんに訳を頼んだ。ら、ガイドさん、勝手に買う数を増やして割り引き交渉をはかるのだが、個数が増えたのだからもちろん金額も上がっている。なにすんねん!?中国式な買い方なのか、単に人を小学生と思って、たばかり絞っているのか、まるで分らなかったがかなり余計なことだった。最終思いもしない数に増え、けれども金額はそう大変でもなかったが、ガイドさん、勝ち誇られても迷惑だ。サービスの心は難しいのだー。
そう、上記「少林寺」の時に金欠になっていたのはこのせいだったのかもしれない。いや、少林寺で勝手な行動していた私も問題なのだがな…。くくう。
ナゾの質問
話戻って外灘、財力つきたので再度両替えをしにカウンタに行った。係りのお姉さん3人が片言の日本語で聞いてくる「これはあなたのお金ですか?」お姉さんが指してるのが外貨兌換券で、この質問は困った。意味の解釈(1)「これはあなた本人の金か?」いや、親がくれたこづかいです。(2)「日本円を両替えした私のお金か?」いや、それは換金手続きしたお姉さんあなたにしか真意は分らない。(3)「この札はあなたのものか?」そうなんだと思うがなんでお姉さん1枚しか持ってないの、そうだと言ったら1枚しかくれないのか。この3つの中のどれか分らず、かなり困って固まった。両替えの感覚がないもんだから、外貨兌換券を指されるとこう言ってしまいそうになる「それはこの国のお金です」そう思っていたからなのだが、そう言うと、私の金が帰ってこないんじゃ!?と考えてしまい、最終うなずくだけでお姉さん3人も困らせて両替えをした。お姉さん、日本語の言葉は通じたのです、でも意味はよく分らなかった…。変なところでつまづく小学生、猿知恵は中途半端だ。
帰り(お食事中の方はお避けください)
思い出した、確かまた、着いた時と同じ店で御飯を食べて、同じトイレで同じ惨状なのを、また流して逃げた。あのトイレで2回同じことをした覚えがある。確か2度目には「あ、戻ってる」とつまったらしい形跡もないのにほくそ笑んだが、結局同じ惨状になっていたのを改めてくり返した。同じく流した後は無事だったかどうかを知りません。
こんな調子の交流旅行は終わった。ものすごく行きたい所だったという思いがなかったためか、ごらんのように淡々としていて、また当地事情も知らず、とうの目的の交流も、ごらんの様に児童本人達が何をしてるのもよく分かっていない。元々日本人な上に小学生で、知らない土地に分らない言葉で更に畏縮して、ますます積極的な人はおらず、最終結果空振りという感が当事者の自分には残る。大人には分らなかっただろうか。
文中表記したが今VTRを見ると子供がすごく楽しそうに交流しているように見える。当時の自分達がかなり頼り無かったという心細い記憶を和らげてくれるくらいに。それともこれはVTRの編集パワーか演出か。それなりに形になっていたかどうかは大人が判断するところで私は感知しなくてもよかったのかもしれない。でも後ろ髪ひかれる。洛陽で友達はできなかったから。(とか言ってるが、当時の私は超消極的で全てがだるいヤツだったから、こういうヤツになんの演出をしてやっても無駄だろう)
実際不評な旅行だったようで、次の年にも募集したものの人数が集まらずその年はなかった。その後は知らないが、もしかしたらまた何度か出発しているのかもしれない。
当時の旅行にはビデオ作成のための係りの人も同行していて、私達は「おいちゃん」と呼んでなついていた。小学生にとってお兄さんと言うには年上で、おじさんと言うには若かったから。その人が録って編集したVTRは親が珍しく親バカして買って(3万円!)手元にある。このページ後半部分はこのVTRを見返すことによって、だいぶん当時の記憶をまとめる手助けになり、懐かしくもあった。同行の先生の名前も忘れたし、なついていた息子2人連れのおばさんにも「遊びに行くよ」と運動会のたびに見つけてお互い話したわりには一度も遊びに行っていない。みんな元気にしているだろうか。
この時から10年たって、徐々に京劇にハマっていった。それまでの10年は京劇も知らず、中国にも全然興味がなく、あのNHK人形劇三国志もちょうどこの16年前のあたりの時が本放送だっただろうにも全然触れることなく、なので人は興味があるかないかでずいぶんと動きが変わるもんだと改めて思う次第です。
そんな思い出し旅行記、ただいまの年齢で覚えていることをつづっているので、このままこのページが存続する限り「16年前」の表記のままで置いておくことを締めにして、
ここまで長々と読んでくださった方、どうもお疲れさまでした〜m(_ _)m