(つるざわじゅうてる)
本名   石田千代
出身   京都市
明治45年6月1日生 
 
 しかし、当時は実際生まれた日と届け出を出した日がずれていたことが多く、ご本人が「もっと早く生まれているに違いない。」とよくおっしゃっていました。占いにはかなり影響すると思うんですが...。

 
 

 
 

 若い頃はさぞや、という美貌で、京都に生まれて大連で育ったため、ついたあだ名が「大連小町」だったそうです。京女らしい楚々とした外見とうらはらに、例えば地震とか、飛行機がゆれる、というようなことに全く動じない、大陸的な大らかなところを持ったお師匠様でした。

 子供の頃から、親御さんもお好きだったし、なにより身近にあった「浄瑠璃=義太夫」に親しみ、昭和5年文楽の鶴澤重造師に入門、重輝を名乗りますが、間もなく結婚、子育ての間ほぼ10年は休業しました。子供の手がある程度離れた30才の頃、義太夫を再開。重造師が上京する時期だった為、重造師から、竹澤弥七師のところへ預けられました。「この時からや、ほんまの勉強をしたんは。」と、義太夫をはじめたのが遅い私に、いつも言いきかせて下さいました。弥七師が亡くなるまでの約40年間、仕事のない限り、弥七師のお宅へ朝早くから通い、掃除などをしながら他の人に師匠が稽古しているのを聞いて覚えたといいます。教えてもらうのではなくそばにいて、見て、聞いて、体にしみこませるのでなければ、本当の演奏はできない、という考え方です。今の時代にはなかなか難しいことではありますが、私もなるべくこれを実践したいと思って努力しています。

 三味線には、口三味線といって、音を口で表現する方法があります。義太夫独特の奏法で、ジャランというのがありますが、重輝師は、これがとくに弥七師とそっくりだったそうで「ジャンテルさん」とあだ名されるほどだったとか。「あの音が出せたら死んでもええな。」というほど崇拝していらしたからこそのことでしょうか。

 あだ名のついでにもう1つ、重輝師は、当時の人とするとだいぶ背の高い方でしたので、「はしがみ」というあだ名がついていたそうです。割り箸の紙からおはしが出ている様子と、重輝師が着付け(舞台衣装)を着て、長い足がはみだしている様子とが似ていたからだそうで、よほど若い頃に言われたのか、あきらかに現代人の私より背が低いのに、「まゆちゃんとどっちが大きいかな。」と、私によくおっしゃいました。

 重輝師は、このように修行しながら、3人の男の子さんをたった1人で、腕1本で育て上げられました。「銀行3つたてましたで、安もんやけど。」と、冗談めかせてよくおっしゃいました。もちろん謙遜で、お三方とも大変優秀でやさしいご子息様方です。今の女流義太夫は、それだけで暮らしていくことがなかなかできませんので、時代の流れを感じざるを得ませんが、それでも、授業料の払い込みを待ってもらうように頭を下げに行った話などをよくしていらしたので、苦労を根性で生き抜いた重輝師ならではのことかもしれません。

「少しでもおかしなったら遠慮のう言うてや。」が口癖でした。最後までその必要はなく、

平成6年9月5日午後2時10分永眠。清霄院千室嬋娟大姉。享年82才。

亡くなる前日、幸せな人生だった、とおっしゃっておやすみになったそうです。

 

                 



 
 

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