とうとう父が逝ってしまいました。満で98歳、あと2か月足らずで白寿だったのです。
11月11日、眠りについてすぐに電話が鳴りハッとして飛び起きました。夕方弟から電話があり父が「そう長くはないかも知れない」と聞いていたからです。予想通りそれは弟からで、「ついさっき亡くなった」ということでした。時計を見ると午前1時(12日)を回っていました。1週間前に会っておいて良かった!あれが最後だったなァ・・・・そんな思いと同時に、父がまだ若くて必死で家族を支えていた頃のことがいろいろ思い出されなかなか寝付かれませんでした。
12日がお通夜、13に火葬、14日が告別式でした。田舎のお葬式は告別式が終わるまで、時間に関係なく、次々と弔問客が訪れます。告別式の日も式は午後1時からなのに、朝から焼香客がやってきますから、家族はずっと祭壇の前に座っていなければなりません。
火葬が終わり取り出された父の遺骨に混じって、20センチぐらいの鉄の棒が出てきました。9年前、大腿骨を骨折したときに埋め込まれたものなのです。ああそうだった、父が入院していた同じ病院で母が亡くなり、病院から一時帰宅して車椅子で葬儀に参列したんだっけ・・・・その鉄の棒を見た瞬間、母が亡くなった時のことがいろいろと思い起こされました。
母は胃ガンで、手術後いったんは退院できたのですが半年後に再入院していました。亡くなる前日の夜、弟から危篤だとの知らせがあり4時間以上かけて車で駆けつけました。病院に着いた時はすでに零時を回っており、その玄関前に立ったとき中庭に咲いていた満開のしだれ桜が外灯の光に艶やか浮かび上がっていたのを今も忘れることができません。
昼間と違って夜の病院は驚くほど静かでした。その長い廊下を走るようにして病室に駆けつけると母の苦しそうにゆがんだ顔が見え、こんなになってしまったかと哀れでした。手を握ってやること以外に何もしてあげられず、ただただ母の生命力を祈るしかありませんでした。隣室にある心臓メーターが発する音だけがやけに大きく感じられイライラさせられましたが、その間隔も少しずつ長く、弱くなっていき、結局その日の未明に母は逝ってしまったのです。
父にはそんな母の病状を教えていませんでしたから、朝になってから私が別病棟にいた父に知らせに行ったのです。突然現れた私の姿に、父はこんな朝早くからどうしたのかとびっくりした様子でしたが、昨夜からのことを話すと「そんなに悪かったのか・・・・」と言っただけで押し黙ってしまいました。
車椅子に乗せて母のところに連れて行く途中で「もう3〜4年は生きていて欲しかったなァ!働かさせてばかりだったから、これからゆっくり楽しんでもらいたかったのに・・・・」と自分に言い聞かせるように話していました。
今これを書きながら、ふと小津映画「東京物語」のラストシーンが脳裏を過ぎりました。妻を亡くした笠智衆が、火葬を待っている間に嫁と夕日を見ながら、「あぁ・・・明日もいい天気だ!」と言うシーンです。あの日の父の心境が、どこかそれと似ているような気がしたからです。そう言えば父は笠智衆に似ているとよく言われていました。
父の骨折は自転車に乗っていてアイスバンでスリップ横転したためだったのです。大腿骨の複雑骨折で、まもなく90歳になろうという時でしたから、主治医は骨折よりも寝たきりになることが一番心配だったようです。そう主治医から言われた弟は「うちの父親にだけはそういう常識は当てはまりませんから・・・・」と答えたということでした。
その弟のコトバどおり、間もなく父は何事もなかったように退院し、元の働き者の父に戻りました。そんなふうに常識を越え、人並み以上の生命力をもっていた父でしたが、今年の2月に会った時にはほとんど歩けなくなっていて、一日の大半をベットで過ごすようになっていました。そして、「働けなくなってつまらない・・・」と私に話していました。
亡くなる1週間前に会いに行った時は、あの気丈だった父が一日中大きな声で「痛み」を訴え、まるでだだっ子のようになっていました。ひといちばい分別のあった父だっただけにその落差が何だかとても哀しく思われました。
あの父親でなかったら、私の人生はもっと違ったものになっていたかも知れない・・・・そう思うことがよくありました。何か冒険をしようと思ったとき、いつも思い出すのは、年の瀬に東京に仕入れに行って戻った父が、大きな風呂敷包みを2つも3つも抱えて駅に降り立たった時の姿でした。「ここを踏み出したらあの父の期待を無にするかも知れない」そんな思いから、もう一歩を踏み出すことに何度躊躇したことでしょう。それぐらい父の生き方が私に強い影響を及ぼしていたのです。
そんなふうに、良くも悪しくも私の生き方の規範であった父がとうとう逝ってしまいました。