成 熟
(01/03/13)

一時期、讀賣新聞に「名文句を読む」というシリーズが掲載されていたことがありました。何人かの方が交替で、文学作品などのコトバを引用し、それについて語るというものです。

その時の筆者の一人、柳田邦男さんが、トルストイの「アンナ・カレーニナ」の次のコトバを引用して「人生を受容する成熟」という文章を書いていました。

「幸福な家庭は一たいによく似ているものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。」

これに対し、柳田さんは・・・・この世にあるのは「幸福な家庭」と「不幸な家庭」ではなく、「成熟した家庭」と「未成熟な家庭」ではないか・・・・と異を唱えていました。


その理由を次のように述べています。

自分や家族の辛く苦しい歩みを書かないではいられない心境になった時、書き出す瞬間は、人生に激変が生じた日々に気持ちが引き戻され、苦悩の刻一刻を追体験するに等しい悲愴な心境になる。そういう中で、「不幸」という言葉に魅せられるのは、自然な心の動きだろう。
しかし、手記を書き進め、一巻の作品として完成させるともはや「幸」とか「不幸」という言葉は折々の風の色に過ぎなくなって、今はそれらが混在する人生のありのままを俯瞰して受け入れている成熟した自分を見出すことになる。もはや箴言的言葉にはおさまらない、生きることの全体像が、そこにある。

お子さんの不幸な出来事を体験された柳田さんのコトバだけに、とても重たく感じられました。


なかにし礼さんも、ラジオでこれと全く同じようなことを言っていました。それは、「兄弟」を書き終えた瞬間、兄に対する恨みが全くなくなったというのです。
テレビの「兄弟」は、兄の死を電話で知った主人公が、「死んでくれてありがとう」と独白するシーンから始まります。小説を書き終えた礼さんが、その時の成熟した自分の気持ちを凝縮してそのセリフに託し、冒頭に書き加えたのかも知れません。


このように、文章を書くという行為には、そのプロセスの中で過去の不幸や恨みをも止揚してしまうような効力があるのだと思います。それとは逆に、最近感じていることがあります。それは、ごく平凡な生活や出来事であっても、そのことを注意深く見つめ、自分のこととしてきちんと受け止めて書かれた文章を読むと、それぞれに代えがたい味わいがあるということです。時には、平凡であるが故に胸を打つということもあります。


柳田さん流に言うならば、そこに「平凡な人生を受容した成熟」を感じるからなのかも知れません。そんなふうに考えると・・・・この世にあるのは「平凡な人生」と「非凡な人生」ではなく、「無意識な人生」と「意識する人生」ではないか・・・・と言うこともできるのではないでしょうか。


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