落 語
(01/10/9)

10月2日の夕刊で古今亭志ん朝さんが亡くなったという記事をみてびっくりしました。こんなことならもっと寄席へ出かけて行って聞いておけばよかったと悔やんでいます。兄の馬生さんももうずいぶん前、50代で亡くなっていますから、志ん生師匠の2人の息子さんの早すぎる死はとても惜しまれます。

実は、新宿末広亭で、最晩年の志ん生の高座を見たのが私の自慢なのです。当時脳梗塞を患っていて、あまり高座には上がっていませんでした。歩くのが不自由だったらしく、その時も一旦幕を降ろしてから高座に上がっていました。呂律もあまり回らず、小さいな声のところはよく聞き取れませんでしたから、本来なら落語としては失敗なのでしょうが、でもその語り口はまぎれもなく志ん生節で、それが聞けたというだけで十分満足でした。


当時は他にも、桂文楽、林家正蔵(後の彦六)、三遊亭円生などといった名人が競っていて、そのあとに柳家小さんなどが続いていました。志ん朝、談志、円楽、円鏡は「落語界の四天王」などと呼ばれ人気はありましたが、まだまだ荒削りの若手でした。志ん生は別格として、私は文楽と正蔵の落語がとても好きでした。文楽は渋谷の東横ホールで何度か聞きましたが、何よりも立ち振る舞いに色気があり、彼が高座に上がるとそれだけで舞台が華やいだものです。声にも艶があり、やや高めのよく通る声はホール落語によく合っていました。一方の正蔵は文楽とは対照的に、とつとつとした語り口が魅力で、特に人情噺ではたまらなくいい味を出していました。

落語や歌舞伎の世界ではよく「化ける」という言い方をします。若いうちは下手でさほど面白くなかったのに、ある年になって急に芸が輝き出すことを言います。正蔵はさしずめその「化け」た部類ではなかったでしょうか。語り口は器用な方ではなく、性格も生真面目そうで、若い頃はおもしろくなかっただろうと感じられたからです。終生長屋住まいで、落語を地でいくような生活だったそうですから、その一途な生き様が風格となって、晩年の芸にそれがにじみ出ていたに違いありません。芸とはそういうものだと思います。


落語がまだまだ盛んだった当時は、落語好きは自分の「名人」をもっていて、互いに自慢しあったものです。私の場合は「志ん生の高座を見たよ」というのが自慢の種でした。若い時からうまさで抜きん出ていた志ん朝さんでも、「名人」と見なされるようになったのはごく最近のことで、年齢的にもこれから風格が増し、さらに味わいの出る時だっただけに、とても残念でなりません。

日経新聞に橘家円蔵さん(昔の月家円鏡さん)が追悼文を寄せていて、「心の底から悔しい。本人もさぞ無念だったろう。あれほどの芸をあの世へもっていったしまうと思うと、もったいなくて情けなくてしかたがない。」と書いています。


その中で次のようなエピソードも披露しています。
落語家には3つの道しかない。うまい落語家、達者な落語家、そして面白い落語家。だれが見ても分かると思うが、うまいのは志ん朝、達者なのは談志だ。そうすると私は面白い落語家を目指すしかない。30年前、自分の路線をそう定めた。すると、ひがみも、イライラもなくなった。
これを読んだとき当代を代表する3人の落語家を、実にうまく言い当てていると感心しました。

円蔵さんが7代目円蔵に入門したのは1953年。志ん朝さんが父である5代目志ん生に弟子入りしたのが1957年で、以来、40余年のつきあいになるそうです。7年前に「平井(円蔵さんのこと)はチャンポランだけで、芸とは四つに取り組んでいる。もっとネタを増やしなさい」といわれ、志ん朝さんに郭噺の「お見立て」の稽古を付けてもらったことがあったそうです。でも、志ん朝さんの語り口が頭に浮かんでしまって、怖くて高座にかけられなかったとも書いています。


本人はそう言いますが、私は円蔵さんの落語も大好きです。機関銃のようにぽんぽん飛び出す小気味いい語り口は、時代のテンポに実に合っています。古典落語には荒唐無稽な噺がけっこう多いですが、そういう噺をさせたら天下一品だと思っています。落語に限らず芸とは不思議なもので、ある程度極めた人の芸は、芸風の違いは感じられても優劣はなかなか付け難いものです。あとは好みの問題ということでしょうか。


【追記】こんな文章でも書き始めてみるといろいろ悩むことがあります。例えば今回の場合、名前に「師匠」という敬称を付けるべきかどうかずいぶん迷いました。一旦は全員に付けてみたのですが、読んでみるとどうもテンポが良くありません。かといって、亡くなった志ん朝さんを呼び捨てにするのもなんだか落ち着きません。今回は思い切って両方を混在させてみたのですが、こんなのアリなんでしょうか。


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