文  字
(2000/9/16)



テレビのコマーシャルでもおなじみの榊莫山さんの「莫山美学」(世界文化社)という本を最近読みました。

私は書の経験はないのですが、いい「字」に出会うと自分でも無性に書いてみたくなって、近頃では筆ペンをいつも身近に置いて、機会があると練習しています。決してうまい字に憧れているわけではなく、下手でも味のある字が書ければと思っているのですがこれが実に難しく、書の奥深さをいつも痛感しています。ちなみにこのホームページの表題も筆で書いてはみたものの、なかなか思い通りにはいきませんでした。


そんなわけで、莫山流の「書」がどんな美意識から生まれるのか前から興味がありました。本の経歴を見ると20代で審査員にまでのぼりつめたのに、その後一切の肩書きを捨て野に下るとありました。そんな型破りの人ですから、おそらく独自の「美学」をもっているに違いないとの期待がありました。

読み進むうちに、莫山流美意識がおぼろげながら分かってきました。特に先人の「書」について書いた文章では、書はうまさや美しさだけで鑑賞するものではなく、その底に流れている人となりや人生観を見るものなのだということを教えられました。それをどう読みとるかが「莫山美学」なのです。

なかでも空海についての見方はなかなか興味があります。平安時代の山蹟の一人小野道風は「空海の書は邪道だ」と言っているらしいのですが、莫山流美学によれば、その邪道の書こそが空海の真骨頂であり、当時においては前衛の書だったというのです。


「野口英世の母の手紙」という表題の文章があります。莫山さんがNHKのテレビ番組でいろいろな書について語っている時に、ある視聴者から手紙入りの筒が送られてきて、そこにこの手紙の複製が入っていたというのです。それを見たときに、人を感動させる書とはこういう字であると、どきどきする心臓を抑えるのにこまったほどだった・・・・・と書いています。さらに、美の類型のなかには稚拙の美というのがある。その美は、素朴と純粋の極地といえよう。シカの手紙は、その極地に屹立している・・・・と結んでいます。

実は私も以前に、「写経入門」という本でその手紙の写真を見たことがあります。正直その迫力にビックリしました。母の思いがすべてその文字に集約されているようで、もはや上手とか下手とかいう基準では推し量れないような、その範疇を超越したすごさを感じました。

「写経入門」によると『彼女は村の法院さまに頼んで「いろは」の手本を書いてもらった。人が寝静まってから外に出て、月明かりを頼りに、お盆にばらまいたいろりの灰に、指で「いろは」を習った。』のだそうです。


話は違いますが、高知県の北大色さんの「夕やけがうつくしい」という詩に出合った時も、同じような感動を覚えました。彼女が70歳のときに、1か月近くかけて書いたという次の詩です。



わたしは うちがびんぼうであったので
がっこうにいっておりません。
だから じをぜんぜんしりませんでした。
いま しきじがっきゅうでべんきょうして
かなは だいたい おぼえました
いままでは おいしゃへいっても
うけつけで なまえをかいてもらっていましたが
ためしに じぶんでかいて ためしてみました。
かんごふさんが 北代さんとよんでくれたので
大へんうれしかった。


夕やけを見ても あまりうつくしいと思わなかったけど
じをおぼえて ほんとうに うつくしいと思うようになりました。
みちをあるいておっても かんばんに気をつけていて
ならったじを 見つけると 大へんうれしく思います
すうじ おぼえたので スーパーやもくよういちへゆくのも
たのしみになりました。


小さい時から当然のように文字を受け入れている私たちにとっては、文字は水や空気のような存在であり、無意識にその恩恵を享受しています。ですから、文字を知っていようといまいと、モノを見たり感じたりする上では何の関係もないことだと当たり前のように思っていました。

しかし、北大さんの詩は、文字が単に記号以上のものであり、人間としての感動を呼び起こし、人生観さえ変えてしまうような大変な道具であるということを、実感をもって教えてくれています。文字を必死に獲得した人に指摘されて、初めてその本質に気づかされたという思いです。

字を覚えたことで、夕焼を「ほんとうにうつくしいと思うようになった」という北大さんの詩は、とてもショックでした。


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