浅川マキ
(02/1/17)

「寺山修司・遊戯の人」(杉山正樹/新潮社)を読んでいるとき、ふと浅川マキさんのことを思い出しました。彼女を歌謡界のあだ花と呼ぶには、あまりにも短絡的すぎる。でも決してメジャーであってはいけない歌手、それが浅川マキなのだろう・・・・彼女がつくる世界は私にとって青春そのものだったから、苦くて甘い思い出でもあったのです。そんな世界から一方的に離脱してしまってもう30年以上、最近はすっかりメディアにも登場しなくなったけど、彼女は今頃どうしているのだろう。

そんな思いから、インターネットで「浅川マキ」を検索してみました。ありましたよこんな書き出しのホームページが・・・・。


久し振りにインターネットで声を発する。それは、浅川マキの肉声と云うことではないのだけれども、現れた活字のなかから、何かしら、「生の声のように響いていったら、いいな」、と思う。

そしてこんなことも・・・・

昨年の夏、私は旅行の途中で、ふと、小学校の5年間を過ごした、加賀平野に行った。何10年振りだろうか。・・・・ようやくに、自分の暮した5軒だけの村を見つける。父が死んで身を寄せた母の生家には、すでに他者が住み、春枝さん(小学1年の時に雪道を負ぶって学校へ連れて行ってくれた当時中学3年生の)の消息も知ることができなかった。だが、変貌したそんな村にも、見覚えのある大きな竹藪の一群はしぶとく、生きていた。(2001年・春のはじめ)

今からちょうど1年前、雪の降る新宿ピットインそばの小さなホテルで書いたらしいこの文章は、「此処はいい。沁みる。今夜は眠ろう。」と結ばれていました。


なぜ「寺山修司」だったのか。彼が作った詩を彼女は何曲か歌っていたからです。例えば「裏窓」・・・裏窓からは夕陽がみえる。洗濯干場の梯子がみえる。裏窓からは寄り添っているふたりがみえる・・・・そんな詩なのです。当時私が住んでいた共同便所しかない安アパートの一室で、いつもいつも彼女のそんな曲を聴いていました。

初めて出合ったのは、国分寺にあるスナック「ほら貝」でした。そこは八ヶ岳山麓で共同生活をしていたヒッピーたちが、東京に出てくると必ず立ち寄る場所で、ヒッピーになりきれなかった私は、その雰囲気だけを味わいたくていつも通っていたのです。

「ほら貝」では、ふだんはボブディランなどが流れているのに、ある日突然日本語の曲が流れ出し、それに合わせて客が一斉に歌い出しました。何だコレハ!フォークソング?・・・イヤ違う。歌謡曲?・・・違う。ロック・・・違う。ブルース??・・・だろうブルースだ。しかも艶歌的情念を引きずった・・・それが彼女の「夜が明けたら」であり「かもめ」でした。


「夜が明けたら 一番早い汽車に乗るから 切符を用意してちょうだい・・・今夜でこの街とはさよならね」「みんな私に云うの そろそろ落ち着きなってね だけどだけども人生は長いじゃない・・・」そう言い残して、いつかうわさで聞いたあの街へ旅立とうとする女。この街でのしがらみを断ち切るかのように・・・。そんな唄を歌っていた浅川マキは今も旅を続けていたのです。

すっかり彼女の虜になってしまった私は、コンサートにもよく行きました。場所は新宿三丁目地下一階の小さなホール、いつも黒ずくめで、少し前屈みになって歌う彼女からは、月あかりで見る陰花のような妖しい魅力が漂っていました。そんな彼女がたった一度だけ他人の曲を歌ったことがあります。西田佐知子の「東京ブルース」でした。この曲には朔太郎も真っ青ヨ・・・・そう前置きして歌った2番の歌詞は「月に吠えよか 悲しみを どこにも捨て場のない私・・・」。彼女が歌うと間違いなく萩原朔太郎が真っ青になるほどの凄みがありました。


今年こそは、旅する彼女を東京でつかまえたい。イヤ、聴くなら地方がいいかな。ホテルの一室で「今夜の彼女は最高だった。沁みる」とつぶやくためにも。


ようこそ
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