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新 狐 論

 

新狐論、と言うからには、古いのがあるわけですが、
それは恥ずかしいし、お蔵入り。

最近のオモウコトなど。


「ぐるーぷ・あいらんだあ公式ホームページが出来ました」 02.08.13

 懸案だったぐるーぷのホームページを、この春からスタートしました。ほんとにささやかなページだけれど、じつはぼく、怖いのです。なぜ、怖いのか……?  ぼくは、4年前から「島旅メーリングリスト」という会をやっています。参加は無料(ささやかな運営費はぼく個人が負担)。入会して、会のアドレスにメールを送れば、そのメールが会員全員に届くという仕組みです。

 ある人がメールで質問をすれば、それがたとえとてもマイナーな話題であっても、いや、マイナーな話題であればあるほど知っている人がそれに答えてくれます。そのやり取りを見ている他の会員も面白くて、何か投げかけてやろうとネタを考えます。話題が話題を呼び、何しろ同じ穴のムジナの集まりですから、メールはどんどんディープになって行きます。ムジナ初心者にとっても、他では知ることの出来ない情報を得ることが出来るのですから、楽しくないわけがありません。会員は会員を呼び、今では会員数460人。旅先の島で、偶然会員に会うことも珍しくありません。しかし……。

 実はこれは困ったことなのです。コンピューターなんて触るのも嫌だ。ジンマシンが出る。そんな人も、島で「島旅メー……」の噂を聞くことになります。ゆきずりの同宿の会員はその人に会員になれと勧めます。そんなに面白い会なら、何だかわからないけれど入ってみたいわァ。

 先日、ぼくに携帯電話からケイタイメールが入りました。入会しようと手続きをしたいけれど分からない。友人が代行してくれたはずだけど入れない。どうすればいいの?

 ご丁寧にも住所や電話番号まで書いてあるそのメールに、ぼくは返事を書くことにしました。相手がケイタイなので250字以内で書く必要があります。簡潔かつ分かりやすく書かねばなりません。挨拶もそこそこに、携帯電話のメールではかくかくしかじかの理由で参加は難しいですよ、すみません。

 返事が来ました。何だか難しいことが書いてあってよく分からない。だいたい私、類い希なる機械オンチだから、メールでこんなこと言われても困る。電話か郵便で参加手続きできないの?とりあえず電話してよ。

 仕方がないので、電話で説明しました。もちろん通話料はぼく持ちです(まあそんなことはどうでもいいのですが)。かくかくしかじか、ですから、参加は難しいんですよ。

 ケイタイメールは250字って言うけど、そんなこと言ったって、メールをそれにあわせればいいじゃない。だいたいどうして電話や郵便では参加出来ないの。

 メールだインターネットだと、最近の世の中のこの風潮が気にくわない、と言うようなことを5分ぐらい聞かされて、とうとう、さすがのぼくもアタマに来ました。

 でも、アタマに来て電話を切って、よくよく考えてみれば、相手は全然悪くないんですね。ただインターネットを知らないだけです。知らないところに面白そうなものがあっただけ。困りました。どうすればいいのだろう。「あいらんだあ」ホームページも、知らない方々を含んだ会員の共有財産。これは怖いぞ。そう思ったわけです。

 では、どうすればいいのでしょうか。

 う〜ん、そうか、そうですね。知らないと困る……、と言うことならば知って貰えばいいのでは?

 出来るだけいろいろな方にホームページ作成に関わっていただこう。ホームページの掲示板、そこに載る会員の書き込みは、この折込付録にも載せたい……。

 この間の日曜日、河田さんの家にお邪魔して、ホームページの作り方を伝授しました。これであいらんだあ代表も時々ページを作ることが出来ます(たぶん)。試しに会員募集のページの一部を、河田さんと清水さんに作っていただきました。この調子なら大丈夫。

   
 

 
「島旅思春期」02.02.09

 ぼくは三年ほど前から「ひと月ひと島」ということを続けている。ひと月に一度、何でもいいから「島旅」をしようというのがその主旨だ。その島旅に、最近少し変化が出てきた。それは一昨年秋の転勤がきっかけだった。

 2000年10月、ぼくは転勤をして新しい職場で働くことになった。仕事場も千葉から山口に変わった。責任が重くなり忙しくなったけれど、仕事は俄然面白くなった。それまでは自分の中で会社と私生活を区別できていたのが、会社を出ても仕事のことが気になるようになった。
 山口に来たので島が近くなった。しかし休日に島に行きそこで海を眺めていると、いつの間にか、そこには仕事のことを考えている自分がいた。そんな自分は嫌いだった。島であまりゆっくりできなくなった。風を感じ、空気を感じる島旅をしたいと思っているのに、そのために小道具が必要になった。オカリナを吹くのである。オカリナを吹くとなんだかその土地や風と一体になれる気がする。島でオカリナを吹く機会が増えた。

 ぼうっとしていると不安になるのだ。刺激を求めて何か違う島を目指すようになった。
 今年八月には軍艦島(長崎県)に泊まりがけで行った。昔の炭鉱の島で、戦前から戦後にかけての崩れかけた九階建ての鉄筋コンクリート共同住宅が並んでいる。今は無人となってしまったそのゴーストタウンで、共同住宅の屋上に腰を下ろし、空を眺めながらオカリナを吹いた。気持ちがよかった。
 九月には第二海堡(東京湾)に行った。こちらは明治大正期に東京湾の海防のために作られた人工島である。ここも主役は廃墟だ。砲台跡などが残っていてそれに腰掛けてやはりオカリナを吹いた。島から見える東京湾は船が溢れていた。しかし島には何組かの釣り人がいるだけでゆったりとした時が流れていた。
 それらは非常に刺激的な島だった。しかしぼくは印象を整理しかねていた。

 ちょうどこの時期ぼくの仕事は佳境に入っていた。七月から九月までは特に多忙を極めた。それまでのぼくの人脈を駆使して出張に明け暮れた。それでも仕事のない休日には精力的に島旅をした。仕事に充実感があったから、数少ない休日に私生活の方も充実させる必要があった。会社だけの人間になりたくなかったのだ。
 会社でのぼくは、しょせん歯車のひとつなのだろう。自分の歯車にいくら油を差し続けても、他の歯車が壊れてしまえば仕事はうまくいかない。そしてもし歯車が全部かみ合って仕事が動き出したとしても、もともと歯車の組み方が間違っていたら仕事は間違った方向に進む。自力だけでその状況を打破するのは至難である。
 ぼくはそのうち何かを見つけて自力で人生を切り開いていきたいと思っている。今はそのための準備期間だ。将来自力で求めるものはなかなか見えてこないし、会社の中でそれが実現できる可能性だってあるのかもしれないけれど、そんなわけでぼくは私生活のウエイトを下げるわけにいかなかったのだ。

 数えてみるとこの三ヶ月のうち自宅で眠れたのは約十日だけだった。しかし三ヶ月の仕事の結果はいいものではなかった。結果は予想されたうちのひとつだったけれど、期待されたものではなかったのだ。職場で結果をまとめながら、自分で自分の力が抜けていくのがわかった。
 昼休み、息抜きに非常階段に出た。青い空を雲がゆったりと動き、風が海の香りを運んでくる。ぼくはここからの景色が好きだ。工場の煙突の向こうには海がある。海には瀬戸内の島々が浮かんでいる。目の前は安芸の宮島。そして少し沖合いに阿多田島。阿多田島には行ったことがなかった。
 ぼくは島旅に非日常を求めていたのかもしれない。だから島から職場が見えるというのはどうにも落ち着かない気がして、今まで行くのをためらっていたのだろう。でも今なら大丈夫かもしれない。今週末、あの阿多田島にでも行ってみよう、そう思った。

 たっぷり朝寝坊をして、阿多田島には昼過ぎの船で渡った。ぶらぶら歩きながら島を一周した。
 道には赤い蟹がいっぱいいた。道ばたの枯れ草がぼくの足音に驚いてがさがさとうごめく。ときどきおっちょこちょいの蟹がいて、枯れ草の下から道の真ん中に飛び出してくる。棒切れで突っついて、蟹を怒らせて遊ぶ。
 小さな島だからそこここで寄り道しても、三時間で一周できた。オカリナは結局、吹かなかった。

 集落の入り口に立派な小学校があった。そこで校長先生に声をかけられた。最終の船の時間まであと三十分。道ばたで話をする。
 校長先生は陶山勝さん。阿多田の前の任地はチリのサンチャゴ日本人学校。銀行マンから学校の先生に転職したという方だ。
 広島の山の中の小さな町で育ち、大阪に出て銀行マンになった。しかし都会の空気は肌に合わなかった。仕事の担当は地元の小学校。集金等で子供たちの相手をしているうちに昔の夢を思い出した。
 陶山さんは五人兄弟の末っ子。要領が悪く親に逆らわなかったから、学校の先生方との親交が深かったお父さんに可愛がられた。その影響で学校の先生に憧れた。子供を見ているうちに一度は諦めたその夢が再びよみがえってきた。
 踏ん切りがついたのは交通事故で九死に一生を得たときだった。もう一つの人生をはじめるつもりで会社を辞め、大学に入り直して教職の資格を取った。そこまで憧れて手にした先生という仕事は、陶山さんにとって楽しくて仕方がなかった。だから一生懸命子供とつきあった。
 さらに陶山さんは、「海外を体験する」というもう一つの夢も、サンチャゴ日本人学校への転任という形でとうとう実現してしまう。そして今、その体験を生かして海外と日本を繋ぐ何かを模索しているという。

 帰りの船は六時発。甲板のベンチに座ったらすぐに船は動き始めた。島がだんだん小さくなり、代わりに職場の工場の煙突が、オレンジ色の空を背景に少しずつ大きくなってくる。しかしそれは悪い感じではなかった。
 今回の島旅は非日常ではなかった。阿田多島は空間的にも心理的にも、日常と同じレベルで続いていた。
 島ってなんだろう。なんでぼくは島旅を続けているんだろう。ひょっとするとその答えは永遠に変わり続けるのかもしれないし、あるいは島にこだわり続けることで少しずつ分かってくるものなのかもしれない。
 島旅を意識して島に行き始めてまもなく十年。なんだか少しずつ島旅がぼくの心を動かし始めている。そう、きっとぼくは島旅思春期に入ったのだ。

 西の山の向こうの空に赤い色を残したまま、東の藍色の海から月が出た。満月だ。そういえば今夜は中秋の名月だった。

「三宅島噴火災害について思うここと」00.9.11

 噴火活動の長期化を受けて三宅島全島避難が実施された。大英断だと思う。しかしこの関連の最近のニュースを見ていて何か腑に落ちないところがある。「全島避難」したはずの島にいまだに200人の作業者・連絡要員がいると言うことだ。
 たしかに、全島避難したとは言え、確実に何も起こらない日があるならば、災害復旧作業をすることは重要であると思う。しかしいくら空からのヘリコプターによる監視を併用しているとは言え、火砕流に対する備えとして島内に配備されているコンテナ型の避難設備だけで対応が可能なのだろうか。
 私は報道関係に疎いため、必要なすべての情報を持つ立場にいないので、的はずれな議論になっているのかもしれない。しかし、島民全島避難の理由は「火砕流の危険」のためだったと記憶している。それなのに今の島内作業では「泥流」の備えのみに偏重している気がしてならない。
 今の被害はほとんどが泥流によるものであるから泥流に対する備えももちろん重要である。しかし時速100キロを超すような火砕流が本当に起こる危険が少しでもあるのなら、安全が確認されるまで島内作業は見合わせるべきではないか。そのかわり安全が確認されたら自衛隊等を大量に派遣して一気に復旧を急ぐべきだ。分不相応とも思える防災訓練を行った東京都なら、それぐらいの英断は出来ると思うのだが。
 このままでは作業に当たる方々のや、その家族に対してあまりにも理不尽だ。
 また、「連絡要員として」役場に残る村長以下何名かの職員についてはなにをかいわんやである。東京都や国の防災拠点のような堅牢な施設での待機なら連絡要員として意味があるが、このままでは「島を守るために島民を捨てる」結果になる気がする。即刻島を出て、避難住民のためのバーチャル三宅村の構築に邁進する方がいいのではないか。

 こんな時に、部外者が島民の心情も知らずに何を言うか、という非難を承知で敢えて書かせていただきました。

「心の援助」00.2.13

 「ブンブンプロジェクト」と称し、ビキニ近くの被爆島民たちに船を贈る活動をしている島田興生氏の話を聞いた。(ブンブンとは、現地語で動力船のこと)
 アメリカによってある日突然被爆の憂き目にあい、最近になってようやく被爆の地を離れ挙島移住した島民たち。アメリカは表面上、援助を島民たちに与え、最低限の生活物資は軍の手でもたらされている。
 いま島は、還住を選択するかどうかで揺れている。昔住んでいた被爆の島の放射能レベルは低くなり、米軍の手で家や学校、公民館などの公共施設も建てられた。しかし還住するとなるとアメリカからの援助は止まるかも知れない。アメリカは義務を果たしたというわけだ。そういう島民に、足を与える方法として、島田興生氏は船を贈った。船を贈るだけではなく、そのあとのメンテナンスやつながりを重視する援助を行っている。すばらしいことであると思う。
 島田興生氏は米国の援助が至らないため、住民は苦労をしているという言い方だったけれど、ぼくはそうではないと思う。それだけではないと思うのだ。
 つまり、物質的な援助はアメリカが行っている。しかしそれは同時に昔ながらの島やそこで育まれてきた文化、生活の知恵、などの非物質的なものすべてを、放棄させる結果を招いたのである。非物質的な島民の尊厳、自立する心を失わされてきたのである。だから、島田氏のやっている「船を贈る」という活動は、実は「船」という物質以上に「船を贈る」という「心」を贈る活動であったのである。
 最近、青ヶ島の還住の物語をいろいろ読んだ。火山の爆発により住民の半数を失った島民は八丈島に逃れて50年の歳月を過ごす。幕府は青ヶ島島民への年貢を免除し、船を贈り、復活の支援をした。しかし復活はうまく行かなかった。最終的には青ヶ島のモーゼとも称される次郎太夫が指揮して還住を果たすまで50年もかかった。最後の還住は幕府の援助は最小限の融資を受けるだけにとどめ、島民自らの立案、島民自らの力によって成し遂げられた。この話は大いに参考になりそうだ。
 還住は島民にとってとても大きな自己回復のチャンスである。最後は島民が立ち上がらないとうまくは行かないのである。そして援助する側の我々も、それをいかに盛り上げていくかを念頭に援助していくことが求められている。決して物質だけの援助をいつまでも続けてはならない。
 
「コソボと北方領土」99.09.14

 コソボから帰ってきたフォトジャーナリストの話を聞く機会があった。コソボ「難民」という言葉からはなにか凄絶な印象を受けるけれど、現地は至って穏やかで、ヨーロッパ各国からの救援活動もあり、少なくとも都会部ではちゃんとした生活が営まれているらしい。
 国家が事実上存在していないにも関わらずそんなことになり得るのは、もちろん国連の力でもあるのだけれど、電気や水道などの公共料金は現在タダだという。国連が引き上げるときの引継ぎがいったいどう行われるのかが、鍵なのかも知れない。
 それはそうと、その話の席上、「戦争を起こさないためには何が大切か」と言うことが話題となった。
 戦争を起こさないためには過去ばかり見ず、現在未来を見て政治を行うことが大切である。グローバルな視点での未来構想を持ち政治を行えば、戦争などと言う行為に至らないのは当然である。政治家には頭がいい方が多いから、将来構想を考えることが出来ないはずはない。問題は過去をどう断ち切るかにある。
「しかしそうすると、日本も北方領土は諦めなきゃいけないのですか。竹島も尖閣諸島も諦めた方がいいんでしょうか」
「いや、日本のやり方はいいんです。国民には伝わっていないかもしれないけれど、あれは振られた昔の女を懐かしんでるだけでしょうから。やっぱり情はなかなか消えないですからね」
 戦争を起こさないためには男女関係の経験豊富な首長を選ぶべきなのかも知れない。なるほど、最近のアメリカはバランス感覚に優れた舵取りをしているように見える。

「禎子の千羽鶴」99.08.06

 毎年八月六日というのは何かを考えさせられる日の一つだ。今年はNHKで、「禎子(さだこ)の千羽鶴」の話を特集していた。
 とてもうかつなことなのだが、ぼくは広島の千羽鶴の物語をほとんど知らなかった。禎子は幼児のころに被爆し、原爆病で入院する。一日一枚ずつ、最後は必死に鶴を折ってそれは千羽鶴となる。生きる希望の千羽鶴。千羽になったらよくなると信じて折っていく。
 しかし、この物語は悲しい物語ではない。同じ境遇のほかの子どもたちに比べて、たとえ同じだけしか生きられなかったとしても、彼女は目標を千も果たすのだ。
 あることに気づいて唖然とした。
 ぼくは今年、半分冗談で、「ひと月ひと島」計画と題して毎月島への旅をしている。仕事の都合とか、ただ気分が乗らなかったりとか、いろんな理由があって行かない月があっても、それはそれでいい。でもできれば一月に一度、江ノ島や城ケ島や、果てはお台場でもいいから島旅をする。そんな課題を自分に課すことにしたのだ。
 それで考えてみたら、百歳までぼくが生きるとしても、あと千は島旅ができないのだ。一月一度の島旅を、ひとつひとつの折り鶴と考えて、大切にやらないといけない。そんなことを考えた。
 なんでも、やろうと思った以上は、きちんとやることに意義がある。それ以上の意義は終わってから考えれば自然と浮かんで来るものだろう。

「ミソジを迎えての決意表明」
99.07.08

 このサイトはぼくの28の誕生日に始めたものだ。それから2年、とうとう、ぼくもミソジに入ってしまった。
 20代、ぼくには自信がなかった。ホームページを立ち上げたときも、ちょっと勢い込んでエッセイを「狐論」と称してアップしたときも、なんとなく斜に構えて、正対するのを避けてきたような気がする。
 日々、いろいろ思うことがあってもまだ若いから、などと自分にいいわけをして内にそれを秘めていた。いろんな考えをホームページで公開するのも、30になってからだ、などと考えたりしてきた。ただの先延ばし、現実逃避だったと思う。
 そしてその30になってしまった。
 30なんて若い、と言ってくれる人がいる。その通り、若いと思う。でもそれを理由にして何かを避ける、ということは、今後しないでおこう。そう心に決めた30歳の誕生日だった。
 若い、若いから何でもできる、という言葉にぼくは反発を覚えるけれど、でもしかし、それを何かができないことの理由にしてはいけないと思った。

 

   


By Atsushi Shibuya, .


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