古屋和子(ふるやかずこ)
注:この文章は 地湧社刊「湧」1998年9月号 に掲載されたものです。
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ストーリーテリング、日本で言えば、語り。でも、北米でストーリーテリングと言う時、含む意味は、遥かに豊穣だ。初めてストーリーテリング・フェスティバルに参加した時、語り、歌、踊り、朗読、何でもありのその世界に驚いた。「人と分かち合いたいものがある」、共通するのはそれだけだ。
依然として少数派ではあるが、ストーリーテリングは、近年世界的に復活してきている。世界各地で大小様々のストーリーテリング・フェスティバルが開催されて、各国のストーリーテラー(語り手)達の交流も、年毎に盛んになっている。北米の多文化主義やアジア・アフリカ、旧共産圏を中心とする民族意識の激化が一方にあり、教育の荒廃や自然破壊による生活環境の劣化を目の当りにしての、「大いなる魂」に救いを求める自然回帰願望が、もう一方にある。その二つが、大きくうねり絡み合いながら、自分達の文化を次世代に伝える表現作業−ストーリーテリングとして現れてくる。言語としての語りだけではない。目的が同じなら、踊り、音楽、何でもあり、の大きく緩やかな流れだ。
多様な文化の中にあって、言語としての語りに限定してしまえば、いくつもの文化がはじき出されてしまう、ということもあるのだと思う。かつての、詩人、作家、教師や司書によるストーリーテリングとは、はっきりと違う流れが始まっている。今、各地の集まりで出会うストーリーテラー達は、前記の人達に加えて役者、音楽家、各種活動家、政治的指導者、長老達、シャーマン、実に多種多様だ。
そして又、フェスティバルではともかく、日常の集まりは、アマ・プロを問わない。上手い・下手も関係ない。場は、「語りたい」と望む全ての人に平等に開かれている。そこでは、表現技術の良し悪しよりも、他者と分かち合える内容の豊かさが大事にされる。そしてそれは、語る者の人間性も生き方も、全て丸ごと曝け出してしまう。
だから、優れたストーリーテラー達は、非常に開放的だ。何も隠せないと自覚している人間が、閉鎖的になるわけがない。
一九九一年、当時私は、袋小路に迷い込んでいた。演出家から、「おまえの語りは上手くなったが駄目になっている」と数年に渡って言われ続けていた。「おまえの語りは、上手いでしょ、というこれ見よがしな語りだ」とも。「語り」を始めて十数年経っていた。語る事は好きだった。人の喜びや悲しみ、心の闇を思いきり深く語りたい、と気負っていた。もっと上手くなりたい、とも思っていた。その為の努力もしているつもりだった。自分の力が足りないことは、十分に知っていた。だから演出家の言葉は、私にとって理不尽極まった。いくら考えてもいくら努力しても、同じ言葉が返ってくる。一つだけ思い当たることがあった。東北の素晴らしい語部 (かたりべ) 鈴木さつさんの語りを聞いた後で、某有名女優の語りを聞いたとき、俳優の語りはこんなに詰まらないものかと、愕然としたことがあった。たぶんこのあたりに答えがある。尻尾を追い回している鼠みたいな状態は、うんざりだ。健康を損ね、急激な老いを自覚して愕然としている時でもあった。
インディアンの語りを聞こう。突然そう閃いた。文字がなく、口承の文化で生きてきた人々の語りを聞けば、何か解かるかも知れない。
「不惑」というには程遠い四十代に突入して、一つ解かったことがあった。平気で、じたばたしたり、泣いたり、出来るようになっている、ということだ。何が起こっても、何となく先の予測がつく。大した事じゃない、大抵の事にはそう思える。よし、また予測がつかないような事に出会ってもそれはそれで面白い。なんであれ新しい経験は積極的に楽しもう。体験に勝る財産はない。「老い」を自覚した事で、私は積極的になっていた。なにしろ「残り時間と競争」なんだもの。愚痴をこぼしながら死にたくはない。
駄目押しをしてくれたのは、一回り年下の友人だった。「今始めるしかないわよ、あなた。重いリュック背負って幾つまで歩けると思ってるの。」
旅立つまでに五カ月かかった。「身辺整理」というやつだ。「五カ月も」か、「五カ月で」かは考え様だが、とにかくこれが私の「二十数年の仕事の結果」というわけだ。
北米の先住民と長く関わってきた、映画監督の宮田雪さん、カメラマンの宮松武至さん二人から同じことを言われた。
先住民の人達との関係は、縁だ。追いかけても始まらない。もしあなたが彼らと縁があるなら、縁は、向こうからやって来る。僕の縁は、あなたの縁ではない。あなたはあなたの縁を探すがいい。幸い、あなたはストーリーテラーなのだから、ストーリーテラーとして入っていけばいい。そうすればたぶんあなたの縁が出てくるだろう。
当てはなかった。出た所勝負、これを面白がっていられたのは、年の功だ。私は、猿のように好奇心に満ちていた。
一九九二年一月。デルタ航空の職員の勘違いのおかげで、私は幸運にもアラスカのジュノーにたどり着いた。「ハワイとアラスカを除く」と明記してあるスタンバイ・チケットを使ってである。幸運に吹き寄せられるようにしてクリンケット族のストーリーテラーに会い、そこで彼女の名前を聞いた。
「アサパスカン族のマーサは良いストーリーテラーだ」と。
数日後、出演したラジオ局の職員から芝居に誘われた。
「ブレヒトの<コーカサスの白墨の輪>をやるから見に行かない?」
SCOTの鈴木忠志の下で一年過ごしてきた若い演出家によるその芝居は、鈴木色過多が少々鼻に付いたが、スピード感があって解かりやすく、英語であるにもかかわらず、かつて日本で見た某大劇団の芝居とは、同じ作品かと疑うほど面白かった。若者ぞろいのその集団に一人場違いなオバさんがいた。取り立てて上手いわけではないが、年長者にはかなり辛いであろう鈴木メソッドの動きで頑張っていたのが印象的だった。
二日後、パーティーに誘われた。どこかで見かけたオバさんがいた。彼女だった。若者ばかりのパーティーで、オバさん二人がゲストだった。“Storyteller from Athabascan and Japan”というわけだ。
ストーリーテラーというのは、極めてノリやすい人種である。分け合うことが嬉しくてたまらない、というオ馬鹿さんで、出し惜しみをしない。その際、技術レベルは問題でなく、その物語に対する思いの深さで返すのだ。これはその後、いたるところで体験したことで、プロ・アマを問わずストーリーテラーの基本的姿勢である。基本的資質と言うべきかもしれない。私が語り、彼女が語り、私が語り、彼女が語り、冬のアラスカの、長い静かな夜が更けていく。
最後に彼女が、長い素晴らしい伝説を語り終えた。深い余韻がその場を包んだ。
その時初めて、私の語りは技術的だと自覚した。日本では技術的なものが溢れているから、自分が技術的だなどと考えたこともなかったのだが……。そういえば北米では、決して「上手いストーリーテラー」とは言わない。「素晴らしい」とか「良い」とかいう言い方をする。そして、「素晴らしい」が意味するのは、その人の全体像だ。
パーティーはなお、陽気に続いている。オバさん二人は、階段に腰を下ろして話し始めた。語りを聞けば、その人がどんな人かは大体判る。そんなわけで、私達はすぐ十年来の知己のように打ち解けた。
私の旅の目的を聞いた後、私のことを話してあげるわ、と言って、彼女が話し始めた。
「お祖父さんはとても沢山の話を知っていて、いつも私達に話してくれた。私は子供の頃からお話を聞くのが大好きで、いつもお祖父さんに付いて回り仕事しているそばにも座り込んで話を聞いていた。
ある年、誕生祝いに、日記帳をもらった。数年分が書ける厚い物だった。私は大喜びで、早速それに、聞いた話を書き留め始めた。百……、もっとあった。私の宝物だった。寄宿学校(かつて、先住民の子供達は、政府によって、強制的に親許から引き離され、遠隔地の寄宿学校に入れられた。教育の名の下に行なわれた文化圧殺政策だった)に行くハメになったときも、それを携えていった。
ある日、日記が無くなった。誰かに盗まれたのだ。必死で捜した。だが見つからない。私は絶望し、泣き暮らした。日記はとうとう出てこなかった。
寄宿学校を出た後、私は決心した。もう一度話を集めよう。私は周囲の年寄達に話を聞き回った。それからだんだん範囲が拡がり、自分の村ばかりでなく、いろんなところへ出かけて行き、話を聞き始めた。沢山の話が溜まった。それから、私は話を人々に分かち合い始めた。私はどこへでも出かけていく。」
一カ月後、バンクーバーで彼女に再会した。彼女について、貧しい先住民の人達の集まりに出かけた。彼女の話が終わると、長い列が彼女の前にできた。握手を求めながら、抱きつきながら、彼らは口々に言った。素晴らしい話をありがとう。力をくれてありがとう。
その日彼女が分かち合ったものは、神話や伝説だけではない。先住民の誇りと勇気を分かち合ったのだ。
ヴァイは、コースト・セィリッシュ族の長老であり、ストーリーテラーであり、優れた組織者、教育者でもある。彼女のワークショップに行った時の事。
彼女は言った。
「一番大切なのはあなたが何者であるかということです。この紙に、家族、自分自身、祝祭、平安についてのイメージを、描いて見せてください。それからあなたのバックグランドを教えてください。」
バックグランド?背景?何の??
発表が始まった。
----私の父方の祖父はオランダ、祖母はアイルランドとドイツの混血。母方の祖父は……
----僕の母はギットゥサン族、父方の祖母はハイダ族とカギウートゥル族とイギリスの血が交じっていて……etc. etc.
この日の二十人近い出席者の中で、バックグランドが一つというのは、日本人の私のみ。最大は、十六!多文化、多民族国家というものを、この時初めて、具体的に理解した。
さて、イメージの絵であるが、私が描いたのは、全て自然物だった。そして、他の人々は、ほとんど、抽象か、人との関わりの状況を描いていた。これは、個人的な性格の違いから来る、というだけの理由だろうか?それとも血の背景の違いから来るものなのか?
いずれにしても、こんな複雑な文化背景の中で、伝統や文化を伝えていこうという作業は、そして、そこで「自分は何者か」と考えるという事は、日本人の私には、想像もつかない事だった。
先住民を例にとれば、混血の進んだ北米で百%先住民の血だと言い切れる人は、どのぐらいいるだろうか。一〇分の一、二〇分の一ともなれば、もはや白人と見分けはつかない。白人として生きるか、先住民として生きるかは、本人次第だ。AIM(アメリカン・インディアン・ムーブメント)の集会で、ずっとドイツ系アメリカ人として生きてきたけど、今、先住民として生きることを決意した、という女性に、会ったことがある。彼女の例は、特殊ではない。けれどこれは、日本名で生きてきた在日韓国人が、韓国名を公にして生きることを決意する、ということとは、本質的に違う。一〇分の一の血を、自分の存在基盤として決定する、ということなのだから。
「自分は何者なのか」という問いかけは、それがどんなに真剣なものであれ、私にとって、観念だった。大抵の日本人にとっても、同じではないかと思う。けれど、ここでは、これは観念ではなく、極めて具体的な事、なのだ。
一九九六年、ユーコン・ストーリーテリング・フェスティバルに出演した時、土地の名士の家に泊めてもらった。夫人は、北米で十七代目だと言う。彼女は、昨今のストーリーテリングが気に入らないのだ。
「この頃のストーリーテリングはなによ。皆バックグランドの話じゃないの。スコットランドの話、フランスの話、ファースト・ネイションズ(カナダの先住民)の話、結構よ。素晴らしい文化だわ。でも、カナダの話、はどこにあるの?多文化主義、モザイクカナダ(多民族、多文化を無理に融合させず、各々の文化を保ったまま共生する、モザイク国家を作っていこうとする政策)が言われ出してからは、カナダはどこかへ行ってしまったわ。
十七代にもなれば、血の中に何が混じっているかは、最早判らない。先住民の血も、黒人の血も混じっているかもしれない。でも私は、紛れもない十七代目のアメリカ人よ。今はカナダ人だわ。それなのにフェスティバルに行ってごらんなさい。どこにも私達の話はないわ。」
「それなら、あなたがそれを語ればいいのよ。あなたには、それが語れるのだから。」
そう言いながら、そうだ、この国でストーリーテラーになるというのは、こういうことなのだ、と私は思った。
ジョウジアナは、大学で現代文学を教えている。ピュマ族とカィョワ族と四分の一アイルランドの血が混じっている。幼い頃から、誇り高い父親に、伝統、伝説、薬草の知識などを教えられてきた。ところが小学校に進むと……。
歴史の時間、自分達の英雄の話は一度も出てこない。それどころか、インディアンは凶暴野蛮と教えられる。自分達の美しい伝説は一度も語られない。教えられるのはヨーロッパやアメリカのことばかり。インディアンは劣等人種だと幼い心に刻み込まれる。誇りはズタズタにされた。自分は何者なのか、何をすれば良いのか、解からない。様々な道も、インディアンには、時として黒人に対して以上に、閉ざされている。高校の時、彼女はドロップアウトした。やがて結婚、出産、カトリック教徒の彼女は五人の子持ちになる。
北米の先住民にとって忘れられない大事件ウンデット・ニーの戦い(一九世紀末、ラコタ族が合衆国軍隊と戦って、壊滅状態にされた事件。百年後、ネイティブ・アメリカンの復権運動が起こり、同じラコタ・ネイションでFBIと銃撃戦を続けた。これが大きな刺激となり、先住民の復権運動は、北米各地に拡がっていく)が起きた時、彼女は初めて自分のネイティブの血に向き合った。
ネイティブの誇りを取り戻す為に国家と戦う人達がいる。では、私には何ができるか?
「私は真剣に祈った。私の民族のために私に何ができるか教えてください。何日も祈った。
ある風の強い日、神の声を聞いた、と、私には思えた。その考えは天から降ってきたように思えた。
書け。そして人々に語り継げ。
物を書くなんて事はそれまでした事もなかったけれど、私は高校をやり直し、大学に入った。三十を過ぎていた。夫も同じ道を取った。居留地に住んでいたが町に出てきた。大学を出て、詩を書き始め、少しは人に知られるようになった。
三年前、又思った。ストーリーテラーになって、子供達に語り継ごう、って。」
不当に圧殺されてきたもの、蔑視されてきたもの、無視されてきたもの、そうしたものが、今、出口を求めて沸きかえっている。それは決して政治的なだけのぎすぎすしたものではない。時に、行き過ぎはあるだろう。けれども、人が、人としての誇りを取り戻し、人としての足場を築こうとする時、その喜びや悲しみを他と分かち合おうとする時、それは決して、後ろ向きの被害者意識に塗り固められたもの、とはならない。
知人に、非常に攻撃的なユダヤ人のストーリーテラーがいる。彼女の話はいつも、いかに自分達がひどい目に遭ってきたか、ということなのだが、二度三度となると、正直なところ、うんざりする。彼女の話からは、ユダヤ人の大変さは見えても、素敵さは少しも見えない。いったい、素敵だと感じさせないものに、人は本当の興味を持つだろうか。歴史的事実は知らなくてはならない。が、どんな悲惨な時代にも、人に生きていく力を与える出来事は、あったはずだ。
カルラは、グリーンランドのイヌイット族の出身である。彼女の話を初めて聞いたとき、その風習の不思議さに、終わるなり彼女に質問を浴びせ、結局彼女の家に、一週間居候した。彼女の語るイヌイットの風習の数々は、大自然によって隔離された僻地の、閉鎖的にならざるを得ない小集団の中で、しかも、命がけの仕事を共同でなさねばならない人々の、生活の知恵が溢れていた。
「私達イヌイットだって、ひどい差別を受けてきた。でも、そんな話より、あなた達が野蛮だと馬鹿にする私達には、こんな素晴らしい、生きていく為の知恵があるんだって話をしたいの。」
日本でもある山村で、かつてその地にあった夜這いの風習について語り続けている老人に会ったことがある。
貧しく苦しい山奥の暮らしの中で、生きていく知恵であった。夜這いとそれにまつわる風習を、何も知らぬ都会人の倫理観で、野蛮だの性的放縦だのと言われることは、我慢できない。まして、若い人達が、自分達の知恵を、都会人と同じように考え、恥じ、蓋をしてしまう事が悲しい、と言って。
風習や価値観は、時代や風土から独立して存在するわけではない。[正解は一つしかない]という錯覚から、いい加減自由になってもいいではないか。[進歩と文明]の神話は、もう崩れ始めている。
ストーリーテリングの復権は、こんな時代の思いとも無関係ではないだろう。
世界には様々な価値観と様々な生き方がある、と知ることは、どんなに人を勇気づけてくれるだろう。そして、世界のどこかに、私が私のままで生きていく事のできる場所がある、と、信じられることの幸せを、ストーリーテラーほど知っているものはないだろう。
注:この文章は 地湧社刊「湧」1998年9月号 に掲載されたものです。
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