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未刊の詩より
遠く、戦いの火蓋の切られた日に


●譚詩・辻楽師ミステルとヴィオラの娘
            あるViola d'amore奏者の来歴から


      Es war einmal ...
  むかしむかし、
といってもそれは 遠いむかしのことではなく、世界の国々が相争った 先のおおきな二つの戦いの間の あわただしく不穏な時代のこと。 度重なる戦争で 勢いをましたある国の 国境(くにざかい)からさほど遠くない ちいさな村のはずれに ひとりの男の子が暮らしていました。 おそらくその子は、どこか遠い国からの遍歴のはてに いつしかその国境の森に居着くようになった ひとり者の楽器職人の子どもでした。 無口で愛想のないこの男を 村びとは いつまでも斜めに睨んで ついに親しく交わりませんでしたので、どこかにその子の母親がいるのかいないのか、その居所も名も知られてはいませんでした

 親たちの心は 子どもたちにもつたわります。 男の子の姿はたいてい 森のどこかにみとめることができましたが、その姿はいつもひとりで、村の子どもたちと遊ぶこともなく 話すことすらまれでした。 暗い森から出ることもなく 色白で娘のように華奢な手足をし その髪はちじれて丸い毛糸玉のようでしたので 村人たちはたわむれに男の子を 宿り木(ミステル)と呼びならわし、子どもたちも その口調をまねて囃しました。 男の子がいつも 森の縁の菩提樹の木の 人の背丈の倍ほどのところ 幹が分かれて二股になったところにすわり、下の街道をたどるひとびとの姿を 興味深そうに眺めていたからです。

 村人が男の子を避けたのは ほかにも理由(わけ)がありました。 この森にさしかかる旅人は 運が良ければ この菩提樹の梢から ときおり響きわたる音楽に驚かされ、しばらく歩みを休めることになるのでした。 そう、男の子はいつも ひとつの楽器をたずさえ それを巧みに弾きこなしました。 きっと楽器作りの父が与えたものでしょう、ヴァイオリンに似ていましたが、そのちいさな体にはすこし大振りの ビオラ属の何かであったと思われます。 菩提樹の枝に身を預け 巧みに均衡をたもちながら その大きな楽器をあやつる姿は、まるで妖精か 別世界の霊のようで、葉むらの間に見え隠れするその姿を認めた旅人は 背筋が凍りついて おもわず十字を切ることさえありました。

 ときおり風の音に混じって 弦の響きが 森の方から聞こえてくると 村びとは不思議な想いにかられるのでした。 それは季節のかわりめに 湖を渡る風のざわめきのよう、あるいはこれに応える波のうねりのよう。 その響きは ほかならぬ村人の 胸の奥底から浸みだしてくるかに思われ、そんな定まらぬ想いに ひとの心を捉える音楽は、村人にとってはむしろ恐ろしく 忌々しげに鎧戸をおろす者さえありました。
 その不思議な奏者の評判は むしろ外の世界に伝わりました。 ある日、都会から来た商人が、その才能を捨てておくのはもったいない、都の楽団に入ったら 少しは人のためになるだろうに、何なら口をきいてもいい、と誘いました。 
 楽団?と、男の子はいぶかしげに応え、とても乗り気には見えませんでしたが、樹上で 久しくもの思いにふけっているうちに、ある時から急に 弦の響きがぱったり途絶え、村には噂のみが残りました。 ミステルが日曜日のような身なりで ひとり街道を都の方へと歩んでいったと。

 ここを行けば都の音楽の殿堂だ と、人づてに聞いた楽友協会(フィルハルモニア)の正面では 楽屋口に廻れ と逐いやられましたが、そこに待ち受けて いくどか頼みこむと、なんとか 演奏を聞いてもらえることになりました。 あるいはそれは 楽団員の気まぐれによるものでしたが ともかくもはじめの扉は開かれました。 ミステルが都に着いた その頃といえば、不況と迫りくる戦争の気配に 都は落ち着かない気分にみちていました。 管楽部門(パート)は軍楽をやって 小銭を稼ぐことができましたが 交響楽そのものははやらず、すでにもう数ヶ月以上 演奏会の予定すらありません。 弦を奏する人びとの心も感動から遠のき ひっそりとして 鳴らなくなっておりました。 ミステルが練習場に入っていくと 案の定、あの姿は何だ、卑しい生まれまるだしだな、きっと音楽も下品な響きにきまっている と、ひやかしや嘲笑の声が聞こえてきました。

 集まってきた楽団員たちは 練習をしていた雰囲気ではありません。 酒瓶を抱きかかえよろよろと 立っていられない赤ら顔も混じっていました。 それは予想もしない眺めでしたが、ミステルは落ち着いて目をつむると 菩提樹の梢をわたる風の音が聞こえます。 あの懐かしい大枝に腰を下ろしたときのように、椅子にしっかりと足をかけ 少し斜めに身をもたれかけて 弓をひたすら弦にゆだねました。 すると練習場の広間に いきなり風がそよぎだし 響きは一気に 夏の嵐へと転じてゆきました。 ミステルの招きに応え 森羅万象がつぎつぎと立ち現れ、星々がみずからの歌をうたいました。ほんの短い曲でしたが、赤ら顔の男も いっぺんで酔いが醒めてしまいました。 楽団員たちは その音色に魅せられたように、いやむしろ打ちのめされたように 蒼白になって声も出ません。

 それは神聖な楽器のようだ、ならば 祈るように 背筋を伸ばして弾かねばならん。 かろうじて楽長が口を開くと、その言葉に力を得た 楽団員のひとりがへつらう仕草で その楽器は面白い形だが どうやらビオラのようだ、それならこれも弾いて見せろ と、楽器置場の隅から 埃をかぶっていた古い楽器を持ち出してきて、ミステルのうえに 覆いかぶせるように投げ出しました。 それは ビオラ・ダ・ガンバという ミステルの背丈ほどもある楽器で 重みで息もできないのでは と思われましたが、ディステル と銘のあるこの楽器は 受けとめてみると思いのほか軽く、何とか支えることができましたし ミステルがかろうじて手を伸ばすと 大きな楽器のはずなのに 後ろから左手が十分に弦に届きました。 さらに不思議なことに 右側から弓をさしのべることも出来ます。 まるでそれは楽器がみずから寄り添うように その腰を細めたかのようでした。 ミステルはその楽器を体全体で支えると ふたたび菩提樹の梢を思い描きました。 弓がひとりでに動き、ただこのたびは ミステル自身が思いも寄らぬことに 甘い愛の音色が響きだしたのです。

 先ほどの演奏に勝って 楽団員のおどろきは大きなものでした。 いままで楽団員の誰も このように この楽器を奏することができなかったからです。 曲が終わったというのに 驚きと深い満足とで だれも声を上げません。 沈黙を破ったのは ふたたび楽長の 批評の言葉でした。 それは神聖な楽器なのだから 祈るように 背筋を伸ばして弾かねばならん、と。 さきほどと同じ台詞ですが、言葉も幾たびか繰り返すと 重みが生じるものです。 たしかに音楽とは 響きや音色だけではない 演奏の姿勢も才能と技量の一部だからと、楽団員もなんとか自分を納得させ ようやく自尊心を取り戻し、楽長も面目を保つことになりました。
 仰向けに寝ころんで弾くような者は 楽友協会にふさわしくない。 それがミステルの得た評価でした。 こののちも楽団員たちは 不本意ながら 幾度かこの試験演奏を思い出しましたが、そのたびごとに自分に言い聞かせました。 寝ころんで演奏するような者は 音楽家としてふさわしくないのだからと。

 就職の希望は叶いませんでしたが ミステルは それでよかったと思い、爽やかな気持で楽友協会を後にしました。 ただ あの楽器と分かれねばならないことだけは、どうしても心に痛みを遺しました。 心のひとところに むかしから 大きな隙間があったようです。 今までそれに気づかなかったのはなぜでしょう。 その腰部に あざみ(ディステル)と記されていたのは、どこかの工房の名でしょうか。 あの楽器を懐かしむ情念(おもい)と 懐かしんでもどうにもならないという諦念(あきらめ)は、ミステルの演奏に 新しい響きを加えました。 そののち彼は あの森にふたたび帰らず、都やほかの町々を遍歴し 街角や辻で 人々に請われるままに演奏しては、口に糊する術(すべ)を学びましたが、自然の響きを映すだけではなく 人間の心の おくふかい喜びや憂いのこもった音色が、そして何よりも 愛を知る者のひそかな悲しみが、道すがら 耳を傾ける人の心を捉え、荒んでゆく時代に心の慰めとなりました。

 それから三たび年の巡りを経た 春のはじめのこと、あの菩提樹の梢に ふたたび弦の音が響き、あの縮れ髪の頭と、大枝に身を預けるようにして奏する ミステルの姿を認めることが出来ました。 辻楽師として この年月を各地の遍歴に過ごした後、ミステルは郷里の森に帰っていたのでした。 流浪の間に世界は変わりました。 都を席巻した新たな政権は 芸術を無用なもの、戦意を削ぐ頽廃と断じて 楽友協会は解散させられ、人も楽器もちりぢりになったと噂されていました。 郷里の森にも 父の姿はすでになく 菩提樹の他に彼を待つものはありませんでした。 ミステル自身の貌も ずいぶんと大人びて 体躯には若者の逞しさが加わっていました。 奏する音色はいっそう多彩になり 喚起する感情もよりゆたかになっていました。 耳を澄ますとこのたびも 万有の響きを湛えた呻くような音色から 憧れるような輝きが生まれ、愛を告白することばの 甘やかな世界へと転じていきます。

 そのときミステルは ふと気づきました。 どこからか彼の弦の響きに応える あたらしい響きのあることに。 それは 近づいてきてはまた遠ざかり、かき消えたと思うと 思いがけないところから ふたたび近づいてきます。 ミステルが問いかけるように一楽節(フレーズ)を弾くと、応えるように同じ楽節を響かせたり あるいは別な音階で繰り返したり、ミステルがこれに気づいて弓を急がせると、その響きは一生懸命これを追いかけ ふたつの旋律が組みあわさって 一つの遁走曲(フーガ)ができあがります。
 
        喇叭のとどろく戦いの朝
       愛のうたはおわります
      もういちどください
     あなたの金の手と
    銀のまなざしを
   旅ゆくかなた
  祈りの鐘を
 響かせて
 
その響きは人の歌声、しかも澄んだソプラノでした。 ますます近づいてくるその響きには、伴奏するように 生活のさまざまな音が伴っています。 馬に牽かせた荷車の車輪がきしむ音、荷を負った驢馬の嘶き 家畜を逐う男たちと女たちの戯れと諍いの声。 それらがみなひとつとなって いよいよ村の境ちかく 森の菩提樹のところにまで達し、その姿がミステルの目にはいるようになりました。

 ロマの人々でした。 ついに間近に迫った 戦争と迫害の手を逃れて ちょうど都を後にしてきたところです。 その眼差しには 味わったばかりの 悲惨な出来事の記憶からでしょうか 恐れと憂いの名残が見てとれますが、そのふるまいや身振りには おたがいへのいたわりがあふれていました。 一行の真ん中をゆく荷車の上に ミステルはひとりの娘の姿を認め、それがあの遁走曲の相手とすぐに気づきました。 娘は娘で ミステルを共演の相手とただちに認めて 信頼するように見つめ返します。 その眼差しと姿はどこかで見たことがある、かつてどこかでこの娘が彼に寄り添い、その一途な気持ちで守ってくれたのではなかったかと。 それはとても ありえないことですが、ミステルの心には不思議な確信がありました。
 長(おさ)らしき老人が、その晩はこの森に宿営をさだめたいのだがと、ミステルに告げ 宿営の交わりに加わるようにと招きます。 ミステルはよろこんでこれに応じましたが、気になってしかたがないのは さきほどの伸びやかな歌声とはうって変わって 気恥ずかしげにこちらを見ている娘の眼差し。都で一座に加わったばかりの 新入りなのだ と長は語ります。新入りにしては、旧くからの仲間のように 皆に信頼されているのは そのやさしい眼差しと 澄んだ心のためでしょうか。 長の告げた娘の名前はなんと ディステルといいました。

 同じだ、あの楽器に記されていた銘と同じ。 何という偶然でしょうか。 それともそれは なにかの計らいなのでしょうか、ミステルにとって その名前と歌声と眼差し、それらは ひとつの組曲をなしていると思われました。 事実それらは彼の心と そしてまた彼の音楽と 一つのものとなりました。その夜、ささやかな宴の炎に照らされて、娘の姿は彼の傍らにありました。長年伴ってきた彼の楽器のように。 次の日 ミステルは ディステルとともに またこの一座とともに、流浪の旅路を往く と心を決めました。道すがら 戦いに怯え荒んだ人の心に 彼の音楽を奏でながら、ともに歩んでいこうと。 そののち彼の姿は今一度この地方からかき消え、ふたたび人々の目にとまることはありませんでした。
 めでたしめでたし とお話を終えるのであれば おそらくはここらが一区切り。 その後の世界のうつりかわり、国々が相争う歴史のなりゆきや ロマの民がなめた辛酸 その苦難の行程を想うときに 望みは軽薄なものであってはなりません。 ただ ミステルとディステルの生涯もまた きっとかれらの音楽のように 希望と不思議とにみちたもの と信ずるならば、彼らは今もきっとそんなふうにして 暮らしつづけていることでしょう。
... so leben sie auch heute.




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