詩集『廻るときを』
 
 
はじめに
 
 本書に収められた作品が生まれてくる際に、作者が対話の相手とした箇所を以下にあげる。そのような知識は「詩の読解に不可欠というわけではない」と詩集別添の栞に記した。その考えは変わらない。しかし、作品の内容・語句についてもっと詳しい説明が欲しいとの声がいくらか聞こえてきた。その方々の要望に応えて、ネット上にすこし詳細な註解を掲載することにする。
 詩を読むときに、ひとは詩人の感性に説明を求めることはしないのに、作品の知的な要素には註解が要ると考える。感性には直感をもって対すればすむが、知的な側面に関しては知識を補えばもっと理解が深まるはずだと考える。その考えには正しい一面もあるが、大きな誤解も潜んでいる。宮沢賢治の詩を読む際に、作品中の星座や鉱物の知識があればたしかに理解は増すかもしれない。だからといって、天文学、地質学の知識が読解にどうしても不可欠とはいえないだろう。作品の感動を導くものは、もっと別なもの、(敢えて言えば)詩人の感性と知性とを結んでいる実感の響きというものだ。これにたいする共感(あるいは反感)は、たとえ知識の裏付けが無くとも生まれてくる。
 だが、もし知的な側面でも作者や作品に積極的に近づきたいというのであれば(いわゆる「解釈」という文学的営みが問題であるならば)、生半可な知識で足りるとはいえないであろう。中途半端な理解では、(ことにそこに解釈者の自足や高ぶりが潜む場合)読解の歩みも、かえって足もとが危うくなるだろう。
 詩作品に何らかの知識が引かれる場合、作者が元の文脈でその言葉を用いることは、むしろ稀である。そのような「正直な引用」は、作品をそれが引かれた原典の影響下に置き、ただ「亜流」を作り出すだけである。作品は、当該の引用の「仕様解説書」以上のものにはならない。ゆえに、詩人が何らかの知識を特筆して用いる場合、そこにその言葉の伝統的文脈への「批評」や、言葉の担う現実への「異化」が込められており、そのような「距離感」にこそ価値が置かれている。逆に言えば、その言葉や事柄に初めから通じている人は、(安易にその知識を適用すると)かえって作者の意図から遠ざかってしまう事がありうるのである。引用とはむしろ、そのような「偏差」に基づいて新たな詩想が、作者と読者の間に繰り広げられるための起爆剤である。解釈者には、その「偏差」に気づきうるほどに事柄に通じる境地が求められている。そこまでの努力や忍耐を作品が呼び起こすことができない時には、ただ投げ捨てられるだけであろう。作品とは、そのような危険を見込んだ上で提示されている対話へのひとつの挑発なのである。
 作品の知的要素は、作者の感性に結ばれた形で提示されている。読者は自らの感性を信頼して作品の知的要素に接すればよい。そこに誤解があっても、懸命に作品に向かう姿勢、それはそれで、作品との一つの対話と呼べないことはない。一方で、知的要素を含めて作品の意図を汲み取ろうとする営み、すなわち文学的に作品を解釈しようとする読み方には、読み手もその感性や知性を総動員して、自らも創作に加わりつつ作品世界を造り上げることが求められる。いずれにせよ、呼びかけられ、求められている「対話」とは、そのような相互的な営みを謂うものである。
 
 
 
 
『廻るときを』自註
 
 
「譚」
 章題はこの詩集に、「一人称」を主語とする作品の少ないこと、あるいは、一人称を主語としていても、かならずしも(いや、たいていの場合)「私=作者」ではないことを、一語で言い換えている。ただし、ではそこに「作者」はいないのかというと、そうではない。その私的情緒がむきだしの形で主張されてはいない、というべきであろう。
 
難民の娘たち
 1975年の記憶に遡る。留学先のマールブルクはフランクフルト学派の影響強く、学風が一変していた。そこで、ピノチェト政権下の弾圧から逃れて西ドイツに亡命していた左翼系の学生たちとの出会った。というか彼らは、ただドイツ語の試験に通らないために、いつまでも学生以前の段階に留まり続けていた。そのうちのひとりの娘と親しくなった。あるとき彼女に、外国で暮らすのだから言葉を学ぶことにもっと熱心であるべきだと、不用意に口にした。「あなたには分からない」との一言が、これに対する抗議の言葉であった。「剣の形をした国」はもともとの文脈ではチリを指したが、その後、韓国をはじめ様々な国々の人々との出会いや対話が、この詩想を深める働きをした。
ユディト」:
 旧約聖書外典「ユディト書」の主人公の女性。
エステル」:
 旧約聖書正典「エステル記」の主人公の妃。
 ユディトもエステルも、その男勝りの勇気と武勇で国を危難から救った。
わたしの国を滅ぼしてください」:
 矢内原忠雄の言葉から啓発を受けている。盧溝橋事件をうけて矢内原は、1937年10月1日、「神の国」と題する講演の結尾に「日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください」と語った。
 
騎士と死と悪魔
 世間ではホリエモンがもて囃されていたころ、そのような時代と袂を分かつ志に形象を与えた作品。歴史的人物の独白のうちに、普遍的な一人称が語り出され、そこに作者の一人称もまた結ばれている。ひろい意味では抒情詩。この詩は詩誌「ERA]第6号に発表したが、同号にはエッセイ「桶職 詩人としての内村鑑三」をも載せている。詩とエッセイは、作者の内では対をなすかたちで深くむすびついている。少し長くなるが引用する。
 「道徳が経済に先立つと述べ、鑑三が(二宮)尊徳に見込んでいる職業倫理は、むしろ彼がニュー・イングランドでふれた独立自営手工業者のそれである。信仰者の世俗内禁欲の営みが、逆説的に経済的独立と良心の自由を培い、市民的権利の担い手を育む。ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に述べられる初期資本主義の消息である。〔…〕宇宙万有(自然)の秩序と社会の中に位置をえた個人が、高い正義感と道徳心をもってその生業(天職)に勤しむとき、政治を知らぬはずが国家の歩みをも変える。鑑三はそのような職業倫理が日本人の心に接ぎ木されることを信じた。「桶職」にはその台木に接した喜びが歌われている。
 時代は和魂洋才と称して、実学のみを学ぶ方向に動いた。本当は、蘭英の略奪貿易、賎民(パーリア)資本主義を範として、変質退廃期の資本主義、兵に伴われた経済合理性の精神を学んだのである。鑑三の散文はそのような内外の洋魂に対する批判に満ちている。〔…〕霧散した後に巧妙に飾られた和魂と虚偽、これに対する審判として先の敗戦は臨んだと、彼ならば語ったことであろう。敗戦後なおこの国が何を学びつづけているかも、この詩から明らかである。経済発展とその破綻、さらには株価操作などに対する騒動、勝ち組の英雄視などなど。近代精神の由来する本当の根源に学ばなければ、その変態に惑乱されるばかりである。
 審美的な世界認識の詩やプロレタリア詩の時代。西洋詩の流行と技量の受容に余念の無かった日本の詩史において、鑑三のこの詩「桶職」は素朴に響く。だが、その古拙な響きには、むしろデューラーの版画やバッハの音楽に通じるものがある。平易な言葉の担う思想の世界的広がりと垂直への極まり。人間の全体性を追求するのが思想・芸術の営みであるとすれば、詩はその精髄である。詩を天職とすることについて考えさせられる一篇である。」
騎士と死と悪魔」:
 A・デューラーの銅版画。「メランコリア」「室内のヒエロニムス」とともに三大傑作といわれる作品。
 
流れゆく竪琴
 2011年4月の作品。結局、この年に記したのは、この詩と後出の「地は」の二篇のみ。この詩の冒頭の連は、かつて別な詩の第1連として詩誌「地球」に発表したと記憶しているが、必ずしも意に沿う出来ではなかった。青年時代の留学先では、長い休暇中(貧しさゆえに)無聊の慰めとしてもっぱら散策を日課とした。散策の行程に、しばしば墓地をめぐったが、横に休らう墓石の姿はゆったりとして目に快かった。だが、その「地に身をのべた石」が、覆され砕けた墓の映像として眼前に再来したとき、この詩の後半の連が生まれてきた。
流れゆく竪琴」:
 ギリシャ神話のオルフェウス伝承による。妻エウリュディケの死後、他の女達を寄せ付けなかったオルフェウスは、トラキアの女たちの怒りを買い、彼女たちによりディオニソス祭の狂乱に乗じて身を八つ裂きにされ、ヘブロス河に投ぜられた。だが、その首はなおも歌い、竪琴はこれに和して音楽を奏でつづけ、ともにレスボス島に流れ着き、そこに葬られたという。この故事ゆえに、この島はのちに詩と音楽に名高い地となった。そのような祈念と共に。
叡智の塔
乱れた言葉とともに散らされてゆく
 旧約聖書創世記。古代オリエント世界に共通するバベルの塔の神話。比喩。
陰府に降り三日目に死人のうちよりよみがえり
 「使徒信条」の一節。キリストへの信仰告白を述べた部分より。オルフェウス(詩)とキリスト(信)が結ばれている。そのところで、鎮魂の言葉が言葉の担い手をも超えて、大いなる者の祈りへと転じてゆくことがを希求されている。
 
ふたつの庭で
Stammbaum]:
 家系樹の謂。ヨーロッパの古城や名士の館には樹の姿で描かれた家系図を見ることがある。ときにその姿は逆立ちして根を上にしている。
 
死と乙女
死と乙女」:
 ドイツ18世紀の詩人マティアス・クラウディウスに同名の詩がある。日本では、この詩にシューベルトが作曲した歌曲として有名。
夏まつり」:
 H. M. Novakの詩「der Tod steht bei uns am Fenster死がわれわれの窓の処に立って」に想を得た作品。かつて、詩誌「地球」に「死の舞踏」と題して発表した。幼少時に経験した日本の夏祭りや盆踊りの情景を重ねた。
骨肉」:
 人間の「肉体・身体」の聖書的表現。
あいつがしずかに振りかえる」:
 振りかえる死の貌。続く行に「主、振り反りてペテロに目をとめ給う(ルカ福音書22章61節) And the Lord turned, and looked upon Peter...(Luke 22,61)」と、異なった脈絡を示唆。死とキリストの二重写し。死の深刻な現実に向かい合う所でのみ、キリストの出来事は生起する。
オイリュディケ」:
 ギリシャ神話より。オルフェウスの妻エウリュディケ(オイリュディケはドイツ語読み)。毒蛇に噛まれて死す。オルフェウスは妻を恋して冥界まで降ってゆき、音楽で神々を動かして、地上に出るまで後ろを振り向かない条件で、妻を従えて還る。しかし地上寸前で振り返ったために妻を永遠に喪う。「使徒信条」のキリスト告白に「冥府にくだり」の一節があることも参照。ここでもオルフェウスはキリストに重なる。
三度の否を顧みず」:
 オルフェウス伝承ではなく、先立つペテロの記事(ルカ福音書参照)に関連。キリストの捕縛ののちの切迫した状況で、ペテロは三度、キリストを知らないと否認する。これには、ヨハネ福音書21章15節以下も呼応。ペテロは復活したキリストに三度「我を愛するか」と問われる。
水風船」:
 縁日の出店で(ときに水槽に浮かべて)売っていた色とりどりの風船。「ヨーヨー」とも呼ばれていた。
逸る風がまっぷたつに」:
 エリマ・エリシュ(アッカド創世神話)より。神々の世代間の争いの際に、バビロニアの主神、風の神マルドクは、母神ティアマト(水の神)の懐に多量の風を吹き込んで、その腹を弾けさせた。その後に、神々の賦役につく奴隷として人間は創造される。
幼子のように泣き叫んだ」:
 ギルガメシュ叙事詩より。ギルガメシュはウトナピシュティム(旧約聖書のノアに相当する存在)から創世の洪水の秘話を聞く。神々は、気まぐれに洪水を起こしたが、そのあまりの恐ろしさに驚き慌て、萎縮して、「心沈んだ神々は座って泣いた」。「イシュタルは(人間の)女のように叫びわめいた」。古代神話において、「神々」とは「文明の担い手」を指す。いつの時代でも、災害は人間の慢心にも責任があり、そのうえに築かれた文明が引き起こした結末である。
水はむしろ抱かれたのだ風の息吹に」:
 創世記第一章第二節。「地は形なく空しくして、闇、淵の面にあり。神の霊、水の面を覆いたりき」。「霊」は「風」や「息」と同義である。これは、ヘブライ語に限らず、ギリシャ語やラテン語、また、その派生語としてのヨーロッパ近代語(英語、仏語、独語など)すべてにあてはまる。
右の手」「左の手」:
 神の「右手の業」とは、キリストの十字架に示されるような、神の愛と救いの業を言い表す。ルターはこれを神の「本来の業 opus proprium」と呼ぶ。しかし、ルターは他方、神の業には、人間には忖度の許されぬ「左手の業」もまた属することを指摘する。神の怒り、神の審きは、その「異なる業opus alienum」であり、これは、人をして神の本来の業へと追い込んで行く存立と働きを持つ。地上の生につきものの苦難や人生の究極の死は、そのような「左手の業」であり、神にかかる両面があるからこそ、ひとは生への問いを生涯担いつつ、真摯にその一生を歩んでいく。
 
祈りのかたち
Rudolf Bohren」:
 スイスの神学者。実践神学教授。多数の和訳がある。主著は『説教学』。拙訳『源氏物語と神学者』。
紗奈」:
 三歳の孫娘。
黄ばんだ冬空と辛うじて釣り合うコバルトの海」:
 つづく「野ざらし」の「上半分は黄灰色 下半分は暗いコバルト」もまた同じ描写である。これは1775年に、P・ヴァレリーゆかりの町、南仏のセトで見た眺めの記憶。
海辺の墓所」:
 P・ヴァレリーの同名の詩。堀辰雄の小説名となった「風立ちぬ、いざ生きめやも」はこの詩の一節である。
暁の翼を駆って」:
 旧約聖書 詩篇第139篇第9節。
母親たちが我が子を喰らったその街」:
 旧約聖書 (エレミヤ)哀歌第4章第10節。
サウルのようにひたすら真実を尋ねて」:
 新約聖書 使徒行伝第9章他。
淵々の呼び応えおおうみの砕けおちる」:
 旧約聖書 詩篇第42篇第7節。
注ぎ出される前からきみの声は聞かれていた」:
 旧約聖書 イザヤ書第65章第24節。
馴れあう群れの睦みをさけて
 この連は、主催する聖書研究会に一時期参加していたある青年の記憶と哀悼のために。
 
国境にて
 この詩は全体が、ルカ福音書第一七章の翻案というべきものである。歴史的人物の独白(「俺」)のうちに、普遍的な一人称が語り出され、そこに作者の一人称もまた結ばれている。個的な抒情と造形にとどまらない意図と構成を持つという点で、「騎士と死と悪魔」などとともに本詩集の主調をなすべき作品の一つ。
他の九人は何処にいるのか」:
 新約聖書 ルカ福音書第17章第17節。
血を流すまでに戦ったことがない」:
 新約聖書 ヘブル人への手紙第12章第4節。
 
ときの象り
廻る時を
廻る時」:
 回帰する時間というと、仏教の輪廻や古代ギリシャのピタゴラス学派の思想、近代ではF・ニーチェの「永劫回帰」などを思い浮かべるかもしれない。それらを排除するわけではないが、「廻る時」という観念で作者が想定しているのは、ヘブライ・キリスト教における予型的な歴史理解である。かつて生じた出来事が、その出来事の当事者ですら知らなかった意義を得て後の時代に回帰する。そのように時の呼応として「充実した時(カイロス)」が繰り返し生起する。たとえば、預言とその成就の関係として理解された時間把握のことである。この詩にかぎらず、この詩集の作品において、形象はそのような時間意識から導かれている。
 この詩に関しては、作者の還暦、また結婚30年目の記念という素朴な動機も織り込まれているが。
天地が新しくなる」:
 新約聖書 黙示録第21章第1節。
時の馳せ場を
赤い馬」:
 黙示録第6章第4節。そこには「時の馳せ場」を駈ける四人の騎士が描かれている。これを示唆する時、作者の青年時代に交わりを交わした三人の友人たちとの交友もまた想い描かれている。作者も含めて四人は、みずからを四つ葉のKlee(クローバ)になぞらえた。黙示録という世界史的な形象群のなかに、個人史の場面が描き込まれている。個人史をそのようなものとして受け止めなおしたということであろうか。
無花果の実ほどもある霰」:
 黙示録第6章第13節。
這ひ廻(もとほ)ろふところ葛(ずら)」:
 大御葬の歌「なづきの田の稻幹に、稻幹に、這ひ廻ろふところ葛」より。倭建命の葬送の歌として記されている。イメージ、色彩、響きの連想から。
巨匠がはるばる訪れた」:
 オルガンの名手ブクスフーデを擁したリューベックの街を、青年バッハはアルンシュタットから徒歩ではるばる訪ねたという。二つの詩「廻る時を」また「時の馳場を」は、オルガン曲の構成を示唆しつつ互いに共鳴している。「前奏曲とフーガ」や「パッサカリアとフーガ」などのように、想の違う二つの曲を結ぶオルガン曲の構成が、この詩「ときの象り」ばかりではなく、この詩集のいくつかの詩の構造、またそのほかの詩の配置に影響を与えた(二つ一組で前後の詩が対をなし、互いに響き合うものとしても読めるように配置されている)。
 
大榧
 この詩は詩誌「地球」の終巻号に載せたが、そこには詩とともに「大榧のころ」と題したエッセイも並んでおいた。かけがえのない人との結びつきを重んじるという動機において、次の詩と対をなしている。
 
魚の腹の中から
 この詩は初め「小舟の艫にて歌う」との表題のもと、詩誌「ERA]第7号に発表された。気がつけば詩人の世界に入り込んでいつのまにか15年ほどを経ていた。詩の世界にも、その精神とはあまり関わりのない動機で睦みまた諍う人の関わりがあることを見聞きして、ふりかえって自己のあり方を問われたとき、そこから精神的な意味での脱出を志した。交わりをより深めるための離別の歌、
魚の腹の中から」:
 旧約聖書 ヨナ書第2章第1節。題名を改めたのは、上述の動機にヨナの悔改歌に通じる想いを込めたから。
十弦の楽器」「喧しい鉢」:
 作者の学問上の対象であるヨハン・ゲオルク・ハーマン(一八世紀ドイツの思想家)の言葉から。信仰の言葉とは何か。第1コリント書第13章第1節。
言葉の焔は骨のうちに熾る」:
 旧約聖書 エレミヤ書第20章第9節。
われらの内なる天国にしてまた地獄」:
 ハーマンが、友人であったキリスト教哲学者ヤコービの感情的な信仰とその独善的熱狂を諫めた言葉。
握った拳を掌に開くことをしない」:
 ハーマンの思想・文体を評した一九世紀哲学者ヘーゲルの言葉。
 
天国論
 快楽の園への素朴な欲望から、実現されなかった幸福のルサンチマン的な投影まで、人によって天国にはさまざまなイメージがある。「真実を希求しつつ地上の歩みに務めていき、しかし理想がついに果たされなかったとき」これを充たすことのできるところ、というイメージもまた可能であろう。いずれにせよ、真実を尽くすという点で、人間よりも動物の方がはるかに誠実と思われることがある。
 
諍う女
 旧約聖書第一の英雄ダビデの親友ヨシュアの妹にして、彼の最初の妻、ミカル。その生涯にはあまり注目されることがない。旧約聖書 サムエル記上第18章、第20章、サムエル記下第1章、第3章、第6章ほかを連ねていくとその失意の生涯が浮かび上がってくる。彼女の誠実はダビデのそれとついに重なることがなかった。そのような悲嘆は時代を超えて繰り返される。この意味で前の詩「天国論」と結ばれている。
 
晩い夏
眺望」:
 フリードリヒ・ヘルダーリンの晩年の詩の題名。精神的錯乱の後、テュービンゲンのネッカル河畔の塔にその晩年を久しく暮らした。
 
カササギのいる風景
カササギのいる風景」:
 P・ブリューゲル晩年の油彩画。カササギはヨーロッパのみならずユーラシア大陸にひろく分布している。日本では珍しいが韓国では身近な鳥とのこと。
 「晩い夏」そして「カササギのいる風景」は、音楽そして絵画に照らしつつ詩の存立と詩人のあり方を描いた。詩人とはいかなる存在か。その意味で一対をなしている。
 
 
「祷」
 この章題にも、一人称言語よりは二人称言語を志向する、その意図を込めた。
 
ぶなの森で
柵山」:
 地名エッタースベルクEttersbergの直訳。古都ヴァイマルの郊外に位置する。詩人ゲーテが宰相の執務から一時逃れて騎馬散策を重ねたところとして知られる。
偉大な錯誤」:
 ゲーテ晩年の劇詩「ファウスト」の生涯。第一部、グレートヒェンとの逢瀬や第二部の結末近く、海岸の干拓の場面など。人間の抱く理想と、図らずもそれが導き出してしまう暴虐との、落差のおおきな現実。
麓の町」:
 ヴァイマル。
若い妻」:
 ゲーテの妻(久しく内縁)クリスティアーネは詩人に先だって亡くなったので、この詩に描かれているのは現実の情景ではない。 
ぶなの森」:
 地名ブーヘンヴァルトBuchenwaldの直訳。詩聖にゆかりの地名エッタースベルクを強制収容所に冠することには、ヴァイマルの文学者協会他の反対があった。これを避けるためにこの名が選ばれたという。
斬られた樫」:
 収容所跡地に残る「ゲーテの樫」の切り株。
 
到着
すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、ともに苦しむことを」:
 新約聖書 ローマ人への手紙第8章第22節。
誰もが自分の負い目を負え」:
 門扉に鋳込まれた銘Jedem das Seine の訳。「負い目Schuld」の語を補ったのは、これに責任、罪という意味があるため。その責任(罪)は誰にあったのか。詩や信の負う責とは、個人の内面の深みにおいてさらに重い。
蜘蛛(シュピンネン)」:
 ドイツ語の「蜘蛛」(複数形)と「妄想」、いずれも「シュピンネンSpinnen」と読む。
ものみなすべてが虚無に服した/己が願いではなく服させたもののため」:
 ローマ人への手紙第8章第20節。「それは、被造物が虚無に服したの自分の意志ではなく、服従させた者のためであって、望みがあるからだ」。「服従させた者」とは「神」か「人」か。世界を満たしている「被造物の呻き」は、「神の意志と計画」によるものなのか、それとも「人間自らの罪(責任)」によるものか。その問いが示唆されている。
 
檻と口
パウル・シュナイダー」:
 ドイツの牧師。シュナイダーはナチスの鈎十字旗への敬礼を拒んでブーヘンヴァルト収容所に収監された。同所で処刑された。
義のために迫害されるひとは幸いだ」:
 新約聖書 マタイ福音書第五章第一〇節。キリストの「山上の説教」の嚆矢におかれた「八つの祝福(幸いだ)」の八番目の一節。「幸いなるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり」。
 
婚約者
獄(ひとや)」:
 ディートリヒ・ボンヘッファーが一時収監されていた牢。その檻の前でウイリアム・ブレイクの詩「虎」冒頭の響きを聞いたように感じた。作者の抒情が三人称において語り出されている。
 
地は
はく はかぷと」:
 旧約聖書 アモス書第九章第一節。「柱の頭を撃て」のヘブライ語の音を写したもの。この響きには、日本語の「拍」やドイツ語の「ハッケンhacken(斧で)たたき切る」「カプトkaputt壊れた」が重ねられている。祖国を襲う地震を告知するアモス。
 
夜のしずく
ディートリヒ・ボンヘッファー」:
 ドイツ告白教会の牧師。ヒットラー暗殺計画に連なったために逮捕され、一時ブーヘンヴァルト収容所に収監されていた。ドイツ敗戦直前ベルリンにて処刑された。
善きものの密かなちから
 ボンヘッファーの遺した詩の冒頭一節。「善い力の担い手たちに静かに囲まれ/誠実な護りとすばらしい慰めを与えられて」。
 
朝のしずく
堤岩里」:
 日本統治下で朝鮮の人々に暴虐が加えられた地。地域の人々を集めた教会に火がかけられたため、多くの人が焼死し、逃れようとする人々は惨殺された。「ひとりの若者」とは、丹羽篤人氏の出会った若者。肉親をそのような弾圧で喪ったが、日本人にキリストを伝える願いを抱いて来日したという。丹羽篤人氏は戦後、堤岩里への贖いに力を尽くされた方。この詩の後半の描写は、丹羽氏の語りに負う。前半のブーヘンヴァルトの形象に結んだ。
死はついに死を打ち砕いた」:
 M・ルターの讃美歌「キリストは死の縄目に繋がれたりChrist lag in Todesbanden」の一節から。「ひとつの死がいまひとつ(の死)を喰いつくした」。
 
変奏曲
最も若い日」:
 最も若い日der Juengste Tagとは「終末の日」の謂。
枯れ骨の野」:
 旧約聖書 エゼキエル書第37章。本詩集冒頭の詩「エステル」の「肉が生じ 骨が立ち上がる」という描写は「枯れ骨の復活」を描いたこの章にある。