詩の自覚の歴史


                     川中子義勝


 

 
 「詩の自覚」ということ、それは「詩人としての自覚」と言い換えてもよい。それはまた「個性とは何か」という問いにもつながるであろう。四つの文化圏、四つの詩の世界を窺いながら、「詩の自覚の歴史」という主題のもとに一つの共通の相を引き出してみたい。
 初めは古代日本、万葉初期の時代。
 
額田王、近江の國に下る時、作る歌
うまさけ、三輪の山。あおによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで、道の隈 い積るまでに、つばらにも 見つつ行かむを。しばしばも 見放(さ)けむ山を。 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや。
(反歌)
三輪山を。しかも隠すか。雲だにも 情あらなも。隠さふべしや
右二首の歌、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江國に遷す時に三輪山を御覽(みそなわ)す御歌そ。…
 
近江遷都のとき大和の国境、春日山から振り返り、大和の象徴、三輪山に鎮魂を歌いかけた長歌と反歌。その二首は一体で、反歌は長歌の主題を、雲への呼びかけとして繰り返し、情緒を深める働きをしている。補記には(天智)天皇の歌とあるが、これは額田王が天皇の代作者として三輪山への別れの儀式歌を作ったという謂であろう。三輪山を畏怖する古代的信仰と故郷の山への親しみが二つながら息づいているこの歌は、やはりその二つを等しく感じ取っていた集団の感動を呼びおこし、その感動とともに作者としての額田王の名も留められた。額田王において個の詩的意識はすでに兆しているが、それはまだ集団の統一的感動の内に浴している。

 これに柿本人麻呂の歌を並べてみよう。
 
近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
玉襷(たすき)畝傍(うねび)の山の 橿原の日知(ひじり)の御代ゆ、現(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに、天(あめ)の下 知らしめししを。天(そら)にみつ大倭(やまと)を置きて あおによし奈良山を越え、いかさまに、念(おも)ほしめせか、天離(あまさか)るひなにはあれど、石走(いわばし)る淡海(あふみ)の國の 樂浪(ささなみ)の大津の宮に 天の下 知らしめしけむ、天皇(すめろぎ)の神の尊の大宮は ここと聞けども、大殿はここと言へども、春草の茂く生ひたる、霞立つ春日(はるひ)の霧(き)れる、百磯城(ももしき)の大宮どころ 見れば 悲しも。
(反歌)
樂浪の滋賀の辛崎。幸(さき)くあれど、大宮人の船待ちかねつ
ささなみの滋賀の大曲(おおわだ)。淀むとも、昔の人に またも逢はめやも
 
壬申の乱で廃墟となった近江の都を振り返る歌。公の場で献呈挽歌を奉る立場にあった人麻呂の初期の作。内容は地霊への慰安だが、やはり挽歌に近く、天智天皇とその縁の人々への鎮魂を述べる。その述べ方は、神武天皇の代から歌い起こし、国土を治めた系譜に天智天皇をおいて、その遷都の昔と今日の荒涼たる姿をひき比べ、嘆きをもって結ぶ。前半は、叙事的に荘重な修辞(壽(よ)詞(ごと))を連ねることにより儀式歌として場の要求に応え、終わりの三句ないし五句において、挽歌としての公的性格の内に潜んでいた抒情を響かせる。「霞立つ春日の霧れる、百磯城の大宮どころ見れば悲しも。」これはもう一首の短歌である。枕詞など咒詞的な共同体基盤の上に成り立つ公的な修辞から、個性的な抒情が結晶する。長歌のそのような様式を人麻呂は確立した。同時に彼はまた、「詩の自覚」において短歌における個の抒情を完成させることによって、長歌からの短歌様式の独立と新たな出発を促し、自ら導いたといえる。

 以上、旧い様式の完成と終焉からの新たな様式の誕生、それは、「詩の自覚の歴史」という表題とともに山本健吉の立論に依っている。朝廷の儀式が華美壮大になり、その形式化により共同の情緒がかえって衰退すると、長歌は形骸化し終焉を迎える。一方で万葉短歌は、背後に出自としての共同体との唱和を窺わせる故に、長歌の命を脈々と受け継いでいく。しかし短歌の独立は両義的で、その後は個性化の道を突き進むことにより、抒情の冴えは深まるが、共同性と切り離しのゆえに、大きさとしてはもはや人麻呂の域についに達し得ないと山本健吉は述べる。達し得なかったかどうかは別として、個性を導き出すところの共同体の言葉という着目は、詩についての筆者の関心の起点を形作った。
 

 このことを筆者の今の関心領域、ヨーロッパ文学で検証してみよう。ヨーロッパ文明の二源泉、それはギリシャとイスラエルだが、詩の源として、ギリシャの詩とヘブライの詩を見てみる。ギリシャにおいて、今日の詩の三つの文学(ジヤ)類型(ンル)、叙事詩・抒情詩・戯曲が生まれた。三者の生起は併行してではなく、連続的な継起である。叙事詩の時代が去って抒情詩が誕生し、抒情詩の響きが止むと劇・戯曲が成立した。

 抒情詩の典型として、紀元前六〇〇年頃の女性詩人サッポーを引く(復元されたもの)。その抒情詩には個性の萌芽を窺うことが出来る。
 
ある人は騎兵、ある人は歩兵、はたまた
ある人は軍船を、暗い地上のこよなく
美しいものと言うがよい。だが私は思う、
己が心に愛しいものこそ最も美しいと。

このことを誰にも納得させるのは
いとたやすい。美しさでは誰にも負けなかった
ヘーレナさえ夫を見捨てたのだから、
男たちの誰にも優っていたあの男を。

海を渡ってトロヤへ行ってしまった、
子供のことも愛する両親のことも
思わずに。それもそのはず、女の心を
やすやすと誘ったのは

恋の女神キュプリス。女を操るのはたやすいこと、
恋の妄念は女心をすぐと惑わす。
今、恋の女神は遠くにいるアナクトリア
のことを私の心に想い起こさせている。

あの人の軽やかな足どりを、顔の
明るい輝きをこの目で見たいもの、
リューディアー人の戦車や武具に
身を固めた戦士よりも。
  (二七、新井靖一訳)
 
これはホメロスにおけるオデッセウスの次のような言葉を下敷きにしている。
 
おぬしにはきっと、切り株を見れば作物の出来不出来が判るであろう――(…)わしの好みはいつも渝(かわ)らず、櫂を具えた船、それに戦争や磨き抜かれた投槍や矢など、いずれも他の者たちが身震いするような兇々(まがまが)しいものばかりであったが、わしにはこれらのものが性に合っていたのだ――神がわしの心に植えつけられたのでもあろうかな。つまりは人それぞれに、楽しむ仕事が違うということだ。   (二二八、松平千秋訳)
 
ともに「どの人も他人とは違った物を喜ぶ」と語っているように響く。違いとは、抒情詩の場合、背後にはっきりと詩人の人格が立ち現れて、自身を個人として表明する点。自己を語る詩人が、自らの生きる現在に関心を持っていることである。感情の琴線に触れる、五感に快いものが価値あるものとされる。そのような個の感性の自覚は共感の新たな人的結合、共同性を導いた。しかし、そうした「詩の自覚」を経たサッポーやアルカイオス、アナクレオーンといった抒情詩人たちは、一方でホメロス的伝統を自らの対照として強く意識している。その個性も、なお個人を超えた神的なものの掌中にあると受け止めている点では、むしろ過去に連なっている。感情の高揚は「寄る辺なさ(アメーカニアー)」(言いようのない無力感)と裏表をなすものといえよう。このような世界観は、現代の詩やその表現と多く共通なものを持っている。「私」という一人称は、その感情において、存在や社会を拘束していたものから解き放たれて自由だと感じている。一方で、自分の現存は、運命とは違うが何か分からないものに囲まれていて、自分ではどうにもならないとも感じざるをえない。

 右のギリシャ詩の叙述はB・スネルの論考に基づくものだが、スネルは生が顕わな現実の姿で迫る先鋭化した状況はもはや抒情詩の世界ではないと述べ、苦境が命への脅威に転じた時、抒情詩はもう書かれないと言う。実際、悲劇の登場とともに抒情詩は響き止む。悲劇は、共同体と拮抗し決断行動する個人を描き出すが、その行為は神話的登場人物に仮託されている場合が多い。そもそも個人の運命が危機に瀕する事態は、はたして抒情詩に終焉を告げるものなのだろうか。
 

 この問いに答えるために、敢えて次にイスラエルに範を取ってみよう。サッポーと同じ時代を生きた預言者エレミヤ(紀元前六二六〜五八六)。彼の名の付いた書には「告白録」と呼ばれる一連の記述がある。預言者の言葉は多く詩の形を取っているが、「告白録」も同じである。エレミヤの使命と活動は、民族の命運がいまや尽きていると警告することにあった。だが、ここでは、そもそも預言者の活動への予備知識が要るので、予め少し述べることにする。

 古代イスラエルの「十戒」は、日本でいうと憲法に相当するものだが、十戒にも「前文」がある。その前文は十戒の精神を、神の救い、すなわちエジプトからのイスラエルの救済に基づける。「我は汝の神ヤハウェ、汝をエジプトの地その奴隷たる家より導き出せし者なり」(申命記五章六節)。そこから安息日(第四戒)の精神は、こう説かれる。その日は奴隷や寄留の他国人など、はた家畜に至るまで自らの手中にある弱い者たちを休ませよと。「汝誌(おぼ)ゆべし。汝かつてエジプトの地に奴隷たりしに汝の神ヤハウェ強き手と伸べたる腕とをもて其処(そこ)より汝を導き出(いだ)したまへり。是(ここ)をもて汝の神ヤハウェ汝に安息日を守れと命じ給ふなり」(同五章一五節)。エジプトの奴隷状況からの解放を、社会の下層にまで行き渡らせよとの謂。弱者を顧みる社会、これがイスラエルの神の選びに適う義と愛の精神であるからして、その建国精神を忘れた国は亡ぶ。これが預言者の説いたこと。ところが実際のイスラエル史においては、乳と密の流れる地カナンに到達し、そこで農耕が始まると貧富の差が生じ、国内には社会的格差がもたらされた。王国期に入ると、富裕層は宗教的にも上層を形成し、経済的貧しさゆえに律法を守れない弱者を罪人と断罪した。権力者の奢りは国際政治にも映し出され、当時の古代帝国主義のもと、時々の都合で諂いつつ利用する大国を右左と替える「振り子」政治を導いた。

 建国の精神を忘れたそのような本末転倒は国を滅ぼす。国際状況の下で審判は外的として臨む。現にユダ王国は滅亡の危機に瀕している。エレミヤはそのように説いた。しかし為政者や民衆からの応答は嘲笑と脅迫。言葉は侮られ、命をつけ狙われた。聞く耳を持たないのは、彼らが愚かだったためか。実は為政者や民衆にも彼らなりの根拠はあった。かつて王国への移行期に、ダビデの信仰に基づいて与えられた「ダビデ契約」がそれである。ダビデの家は「万世一系」、永遠に絶えることがない。これもまた神の約束とされていたから、ダビデ契約に楯突くエレミヤは、神を畏れぬ「不敬漢」「非国民」と告発された。これに対してエレミヤは、神の契約は神の側から翻ることはなくとも、人の奢りがこれを反故にすると述べた。もとの建国の精神、十戒(「シナイ契約」と呼ばれる)に立ち返れと説いた。しかし聞かれなかった。そのような状況下で、どんな迫害にも怯むことのなかった預言者にも、生身の人間ゆえに疲れて、神が見えなくなった時がある。「告白録」はそんな内面の挫折を赤裸々に披瀝する。
 
ヤハウェよ、あなたがわたしを誘惑されたので、
わたしは誘惑に任せました。
あなたはわたしを捕らえ、暴行を加えられました。
わたしは四六時中、もの笑いとなりました。
人々はみなわたしを嘲笑するのです!
実に、わたしは語るごとに叫んで、
「暴力と抑圧」と呼ばらわねばならないからです。
というのは、ヤハウェのことばこそ、終日、
わたしにとって避難と嘲りととなったからです。
わたしが「もうこのことは考えまい、
もはや彼の名によって語るまい」と思っても、
ヤハウェのことばはわが心の中で燃える火のようになり、
わたしの骨に留まりました。
わたしは疲れ、
それに耐えることができません!
というのも、多くに人の囁きがわたしの耳に入るのです。
「恐怖が周囲にあるだって!
彼を告訴せよ、われらは彼を告訴しよう!」と。
わたしの友はみな、わたしが倒れるのを窺っています。
「おそらく彼は惑わされるだろうから、
われらは彼をほしいままにし
彼に仕返ししてやろう!」と。…  (月本昭雄訳)
 
 冒頭「あなたがわたしを惑わした」と神にくってかかる預言者の言葉は、冒?すれすれの激しさ。しかしその言葉は、使命からの預言者の破綻を同時に映しだすがゆえに、人間として弱さのどん底に陥った魂の消息をも告げている。精神的に磨り減ってしまった預言者の言葉は、ここでイスラエルの詩の伝統に依って辛うじて発せられている。詩篇という共同体の歌が、エレミヤを危機においてなお支えつづける。「詩篇」(ユダヤ教の讃美歌)は、大きく「讃美の歌」と「嘆きの歌」という二つの類型に区分されるが、ここでエレミヤは自らの経験と内面の呻きを「嘆きの歌」に言寄せる。「嘆きの歌」とは本来、虐げられた者がその経験を祭儀の場で同胞の前に注ぎだし、神に依り頼んで救い出された感謝と讃美を述べる様式。祭儀の場でその朗唱に与る共同体は、詩の経験をともにすることによって、本来の信仰に立ち返り、共同体として再建された。エレミヤの時代、前述のように宗教祭儀は腐敗し、その実質は失われてしまっていた。祭儀の精神が失われたとき、皮肉にも、祭儀の批判者エレミヤだけが独りその担い手として残った。久しく真の担い手を欠き、その意義を失った「嘆きの歌」は、ここでエレミヤの存在を支えることにより、逆にその存立を回復するのである。
 
なおもヤハウェは、恐るべき勇士として、わたしと共に居られる!
それゆえ、わが敵は躓き、勝つことがない。
彼らは何ひとつ獲られず、恥を蒙った。

ヤハウェに歌え、ヤハウェを讃美せよ!
彼が貧しい者の生命を
悪しき者たちの手から救い出されたがゆえに!
 
「嘆きの歌」はその定式どおり、救い出された者の感謝と讃美をもって終わる。だがそれはエレミヤ自身の現実ではない。生涯の終わりに至るまで、彼は拒否と危難に晒された「苦難の預言者」であった。預言者としての破綻をも、彼は心底味わい尽くした。これを自らの真実として偽らず証言するように、「告白録」は歌の末尾になお、数節を付け加える。
 
わが誕生の日は呪われよ。
わが母がわたしを生んだ日、
これは祝福されてはならない!

何故、わたしは母の胎から出て、ただ悲惨と心痛に遭い、
わが日々は今恥辱の中に過ぎ行くのか。
 
 エレミヤは、生涯に一度も自身を詩人と意識したことが無かっただろう。共同体の詩の精神は、しかしそのようなエレミヤの個によって保たれる。エレミヤの経験は、バビロン捕囚の、国破れて山河も何もなくなってしまった流謫の時を経て、新たな「詩の自覚」と文学類型を生みだした。民族の滅亡と苦難の意義が焦眉の問いとして立ち現れたとき、魂のどん底を偽らず、真実を吐露したエレミヤの言葉は、捕囚期後に成立した『ヨブ記』の詩人によって受け止められる。信仰の人ヨブの説話物語に、生存と苦難の意義を問う論争詩を継いで、ひとつの長編詩を綴った詩人は、すでに明確な「詩の自覚」を持していた。
 
我が生れし日亡びうせよ。
男子胎
(はら)にやどれりと言し夜も亦然(しか)あれ。
その日は暗くなれ。
神上
(うえ)よりこれを顧(かえりみ)たまはざれ。
光これを照らす勿れ。
黒暗
(くらやみ)および死(しの)(かげ)これを取もどせ。
雲これが上をおほへ。
日を暗くする者これを懼れしめよ。
その夜は黒暗の執
(とら)ふる所となれ。
年の日の中
(うち)に加はらざれ月の数に入(い)らざれ。

何とて我は胎より死て出
(いで)ざりしや。…
如何なれば膝ありてわれを接
(う)けしや。
如何なれば乳房ありてわれを養いしや
 
 ギリシャ詩はその形式において、またヘブライ詩はその内容においてヨーロッパの詩を深く刻印した。最後に、その典型を示す一例を挙げよう。宗教改革期、ルターの個の経験から共同体の新たな詩の様式、ドイツ・コラールが成立する。

 「宗教改革」は世界史の転換点として、あまりにも有名な事件だが、本来それはルター個人の内面の密かな「改革」に発する。すでに博士として大学で聖書を講じていたルターにとって救いの現実が新たなものとして立ち現れた。「神の義の新理解」とも呼ばれるその出来事について、ここでは神学の言葉で述べることはしない。むしろ『三帖和讃』から引く。「浄土真宗に帰すれども/真実の心はありがたし/虚仮(こけ)不実のこの身にて/清浄(しやうじやう)の心もさらになし」(愚禿悲嘆述懐)。親鸞のこの自己認識と嘆きは、ルターの実感でもあったが、彼もまた「他力不思議にいりぬれば/義なきを義とすと信知せり」(正像末法和讃)と告白するに至る。その意味でそれは「回心」の出来事であった。信仰無き罪人であるがゆえに、「入れものがない両手でうける」(尾崎放哉)素朴な受け身としての信仰。「宗教改革」とはそのような「福音の再発見」を民衆に伝えゆく営みであるが、その方途としてルターは歌と音楽を重視した。
 
キリストは死の縄目に捕らわれたり。
われらが罪のゆえに渡されたれば。
かれふたたび甦りたまいぬ。
しかしてわれらに命をもたらしたまいぬ。
そをわれら心より喜ばん。
神を頌え、感謝を帰しまつり、
歓呼して歌いまつらん、ヤハの讃えを。
 
 一五二三年に作られた復活節の讃美歌「キリストは死の縄目に捕らわれたり」の冒頭第一節は、十四世紀の手稿にまで遡るという素朴な民衆歌「キリストは甦りぬ」を歌詞、旋律ともに典拠とする。その第二節に、ルターは自らが経験した闇の深みを普遍化して表現している。
 
人の子らの内にて
死を制しうる者ひとりだに無かりき。
そはすべてわれらの罪のゆえなり。
無辜なる者いずこにも見いだされざるなり。
されば死は速やかに迫り来たり、
われらを力ずくにて捉え、
おのが国に虜と繋ぎぬ。
 
神の御子、イエス・キリスト
われらが身代わりとして来たれり。
しかして罪を除きたまいぬ。
これによりて死の手より
権利と威力はことごとく奪われぬ。
かくして死は形のほか何をもとどめず、
死はその刺を失いたり。
 
第三節には、人の勲によらぬ,もっぱら神の恵みとしてのイエスの代贖が告げられ、人間存在を捉える「死の刺」すなわち「罪」の無力化が宣言されるが、注目すべきは、その出来事をひとつの戦いとして描く第四節である。
 
げに不思議なる戦いありき。
死といのちと相争いぬ。
勝ちを収めたるは命にて、
そはついに死を呑みこみぬ。
御書(みふみ)はそを述べ伝えて曰く、
ひとつの死、別なる死を喰らいて、
死は恥辱にまみれぬと。
 
これは、冒頭第一節の民衆歌の元ともなったラテン語歌を踏まえている。ヴィポWipo von Burgund(1500頃没)に帰されるその「復活節続唱」は、「死と命と相まみえて/不思議なる戦いを交えたり」とすでに歌っていた。しかし、「命の勝利」を「ひとつの死」が「別なる死を喰らった」と述べるのはルター独自の表現である。キリストの十字架の死が死そのものを滅ぼしたとの謂である。人間存在の危機とその「破れ」を覆う神の十字架、その天地の隔たりが逆説的に「死」の一語に込められる。このとき改革者ルターは「詩の自覚」に到達したと言ってよいかもしれない。意味の充填と感動の凝集により、出来事とこれに接した人間の感動が一度に表現される。その閃光によって、詩は、世界の動態を宇宙的な生死の闘争劇として描く丈高い讃歌の伝統に位置づけられる。その力強さは伝統の讃美歌の枠を踏み越えそうだが、その負荷ゆえにかえって共感の枠そのものを拡大し、質的に深める役を果たしている。これによって、ドイツ・コラールという文学類型が新たに誕生し、その発展の駆力を得ることになるのである。
 

 「詩の自覚」を経て共同体の言葉から個性が輝き出す、一方また、個性の閃きが共同体の言葉へと還元されていく。ルターの復活節歌は「イエス・キリストは『死の死Todes Tod』なり」というドイツ讃美歌に特有な表現の萌芽ともなった。本稿の初めに、個性とは何かと述べた。現代には個性的なものが充ち満ちているように見える。だがそうした状況の中で、個性とは何かともう一度問い返してみる。他の人との明確な違いが個性なのか。日ごとに移りゆく流行の中で、次々と消費されていく新しさが個性なのか。そのような問いをもって言葉に臨むとき、右に述べてきた四つの例は、それぞれの世界で独自の相を示しつつ、個性の由来をむしろ、共同体との深い関わりの中に指し示す。そうして「詩の自覚」を、時代の伏流として流れる言葉のさらに深い層から求めるように示唆している。
 
(参考)
山本健吉『柿本人麻呂』新潮社、一九六二年。
ブルーノ・スネル『精神の発見』新井靖一訳、創文社、一九七四年。
アルトゥール・ヴァイザー『ATD旧約聖書註解20・エレミヤ書』月本昭雄訳、ATD・NTD聖書註解刊行会、一九八五年。
Hansjakob Becker u.a. (Hg): Geistliches Wunderhorn, Große deutsche Kirchenlieder, München (C.H.Beck) 2001.