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「詩について」
抒情のことば


●日本語詩の抒情性について
            2002年に記したもの


 英語や独語などを習い始めるとき、まず「私」「君」「それ(彼・彼女)」という人称代名詞の区別を学ばねばならない。これはほとんどの人に覚えがあるだろう。しかし、「法」の区別については誰もが学ぶわけではない。「法」って何?、「法律」のこと?。いいえ、「直説法」「命令法」「接続法(仮定法)」という、あの区別のことである。その概念を知らなくても、こうした呼び方について多少は聞いたことがあるかもしれない。

 直説法とは「これはペンです」という初等文法のあの文。発言者「私」の立場から対象「それ」の存在・状態を述べる。「それ」は事物とは限らない。「君はずるい」、「私は美しい」、いずれも直説法。要するに、直説法は文の主語になるものについての叙述の形式。眼目はその事実性・客観性の言明にある。命令法とは、「私」の客観的把握の枠を越えた向こう側「君」への語りかけの形式。相手から期待どおりの応答が返ってくるとはかぎらない。「来い」といっても、「いやよ」という。「我」の裁量を越えた「汝」の応答の可能性は常に残されている。こう書いてくると、接続法の概念について想像がつくだろう。そう、それは「我」と「我」の関係、その錯綜する願望を扱う。その願望が実現可能か否かによって要求話法、非現実話法に区別される。「この件はこう取り決めよう」とか、「もし彼があんなこと言わなかったら」という類。いずれにせよ発言者は、そこで主語となる物事を仲立ちとして、実は他ならぬ自分自身(の心の姿)と向き合っているのである。

 ブーバーの術語、「我と汝」「我とそれ」を思い浮かべたかもしれない。ブーバーはこれを世界を捉える「根源語」と述べたが、これと通い合う意味で、文法的な「法」の区別も、発言者「我」という焦点からの世界の包括的な範疇化ということができるだろう。

 欧語文法の解説、また哲学のそれを意図しているのではない。そこでは「法」の区別が、詩のジャンルの発生的区分と見事に対応していることを指摘したいのである。事実を述べる直説法の語りが叙事詩を産み、命令法の担う唱和的・対話的世界が劇詩を導き、そして接続法による内面への沈潜が抒情詩の情緒を呼び起こすという風に。発生的には、人間の語法の隅々にまで詩が浸潤していたことが分かる。その可能性の胚胎はやがて、物語や小説、また演劇、それから狭義の詩へと分化し、洗練を加えつつ特殊化していく。

 森有正はその遺稿『経験と思想』において、日本語には論理的・客観的叙述の形式が無いという興味深い指摘を述べた。日本語にはここでいう直説法の形式が厳密には存在しないとの謂。「これは本だ」と「これは本でございます」。論理的には同一だが、発話者「我」と対象「それ=本」に加えて「聞き手」の存在が暗示される。聞き手の違い。そのように社会的身分関係などの状況に左右されて、論理的思考が苦手で、論争も真の対話もできないという日本人の問題性は、日本語の特徴そのものに由来すると森有正は言う。

 つねに状況を付加する日本語の言明においては、その状況下の発言者のありかたが絶えず意識させられる。そこではつねに発言者=主観への過大な注目が伴う。この主観性への偏りという日本語の特徴は、詩に関しては、例えばすべてが抒情詩と化すという、日本語詩の発展の問題として現れる。叙事詩や物語、また劇が存在しないというのではない。その発展と洗練は、散文詩のような私小説や独り芝居への昇華として帰結しがちだということ。それは単なる傾向としてではなく、日本文学の本質の問題として問われねばならない。

 山本健吉はその「詩の自覚の歴史」や「抒情詩の運命」(『古典と現代文学』一九五五)において、長歌から短歌が、連句から俳句が生まれてくる過程を論じている。民衆の生命的基盤を担う様式がその頂点に達する時に、その貴族的な洗練が始まる。その際の形式的な純化・個性化はしかし、様式そのものの死を導き、詩はより自己閉鎖的なモノローグの空間で洗練の度を深めていくと。また「詩における人称の問題」として、本来一人称を原則とする詩も、挨拶などの形で人称の重層化の可能性を胚胎していたが、抒情詩的純化はそのような二人称的発想・詩劇的発想の締め出しを意味したと。さらには、世俗的対話劇としての猿楽の要素が狂言に局限され、能が、シテの一人格の分裂という幽玄の理念による抒情詩的世界として結晶するのもこれに呼応すると(「詩劇の世界」)。

 山本健吉の立論への賛否は別として、日本文学の抒情詩性という指摘には耳を傾けるべきであろう。そしてそれが、単に伝統の問題だけではなく、日本語自体の構造の内にも根を持つというのが、本論の趣旨である。とすれば、抒情詩の問題は、日本の詩人によりいっそう自覚的な対応を求めているとは言えまいか。

 洗練による抒情詩化という問題は、なるほど日本文学において顕著ではあるが、日本文学にのみ局限されるものではない。近代的個性による文学の洗練と同時にその衰微の関連は世界文学全体の問題である。それはしかし、詩を考える際に、抒情詩の問題(それも日本の抒情詩の問題)だけを考えていては駄目だということを意味している。いわゆる「近現代詩」がすでに様式として確立されたものであるかどうかは知らない。「現代詩」の危機や将来について語られる。いわゆる「抒情詩」と「社会詩」の対置が問題なのか。詩の「想いの世界」が「事物の世界」に至りつかない。それは、一ジャンルの内側の問題ではない。むしろ、詩の発生以来の伝統への問いとともに、言葉の根源への反省と実践を求める問題であるように思われる。

 たとえば、抒情詩の個性化の途を遡行するかたちで、狭義の詩の分化以前に言葉が本来発生的に有していた様々な可能性を辿りなおすこと。現実世界の多様性と切り結ぶ他の言語態との境界を自覚的に踏み越えていく。そこに抒情詩のモノローグ的閉鎖空間化に対し、自覚的に対処してゆく一つの可能性があるかもしれない。拙作「ミンナと人形遣い」などはそのささやかな試み。



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