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旅の形象3
詩誌「ERA 第3号」 2004. 3


●風と空
            神話のアウラ


 中部ドイツの大学町マールブルク。小高い山の上に聳える城。その周りに広がる坂の町。坂を下った所に、ドイツ最古のゴシック様式建築、エリザベート教会が立つ。その尖塔と向かい合う丘の上、木々の間に隠された小さな聖堂。ミヒェルヒェン(小さなミカエル)と呼ばれるその礼拝堂の眺めは、雪空の静謐、クロッカス咲く春の青空とともに、それぞれに印象深い。散策の折々に目にする景色、ことに空と建物との一体を感じる。

 アウラという言葉を最近しばしば耳にする。大抵それはベンヤミンの文脈においてである。『複製技術時代の芸術』には、このように述べられている。芸術作品(オリジナル)の持つ「いま‐ここに」という性格、すなわちその唯一無二の特性こそは、その真正さの徴として、芸術作品のアウラをなすものであると。芸術作品が大量に複製可能となった時代、真正さの持続性、出会いの一回性は、複製のその場限りという一時性、また反復可能性によって置き換えらる。ベンヤミンは近代を、芸術作品のアウラが凋落していく時代と位置づけた。収録された細切れ場面のモンタージュという映画制作の実情から彼は考察する。一貫した時間の進行のもとにある舞台とは違い、俳優は「自分自身の人格から追放され」、その「人格のアウラを断念」しなければならないと。この人格のアウラの喪失という表現は、むしろ日常の語法に近いかもしれない。あの人からはアウラ(英語はオーラ)が発せられている、という言い方の裏返しとして。

 アウラauraとは元来ギリシア語で、息や空気を表すもの。空気aerの動き、すなわちそよ風、また朝の爽気を意味した。後にラテン語詩人においては、薫りや木霊、午の光、空、天をも表すようになる。人から発せられる香気ないし光輝を指すようになったのは比喩の人格への転用であろう。光冠、光背はそれを視覚化する。

 芸術作品の唯一無二の性格とはなによりも、それが伝統の内に埋め込まれていることに起因した。宗教・儀式のなかに占める意義がそのアウラを形作ったのである。とすれば、アウラの衰退とは、伝統からの切り離しと軌を一にするものといえる。近代における世俗化や技術の進展は、芸術の伝統からの断絶を導くとともに、芸術を複製という形で日常に近づけることを可能にした。それは、現代芸術の存在領域を深く規定するとともに、その困難をももたらすことになる。浮草的存立への危機感から生じた「芸術のための芸術」という標語は、神無き時代の「裏返しの神学」だとベンヤミンは言う。

 近代学問思想の祖とされるフランシス・ベーコン。彼は、主著『学問の尊厳と進歩』の「学問の第二主要区分すなわち詩について」という章で、「詩の叙事的、劇的、寓喩的の三区分」を論じる。寓喩(比喩詩)は、他の二つに対してより高い性格をもち、神聖で崇うべき高貴な現れをすると。「比喩詩」とは、ほぼ我々のいう「詩」に相当しよう。これについて、ベーコンはさらに二つの使用目的を区別する。未知で理解し難いものを、解りやすく説きあかす「例示」と、一方、神聖なものを相応しくない接近から守る「被覆」である。このような両義性のゆえに、(比喩)詩は、宗教によって、神性と人間性との間の交渉の方法・手段とされると述べ、その消息をギリシア神話から(聖書を含む)古代オリエントへと遡らせる。「神話における寓話は、遙か昔の諸民族の伝承からギリシャ人の牧人の笛に注ぎ込んだ穏やかなそよ風Auraのように思われる。」ベーコンは神話を、笛Aurosを吹き、風神アイオロスの翼をもった少年の姿で表象する。自然と人間とが、深く結びついたその神話の詩的世界には、まさしく天空のアウラのもとに微風がそよいでいる。

 「象形文字が字母より古いように、比喩は推論よりも古い」。既知から出発する理論より、未知を探求する詩の起源は古い。かつて詩は神話と深く結びついていたが、神話は神学のみならず、自然学をも代弁していた。このルネサンス以来の命題に立ち戻って、ベーコンは、ギリシア・ローマ古典古代において、神話の形で提示されたものは、「古人の知恵」として解読されるべきだと主張する(『古人の知恵について』序論)。そこには、近代科学の祖として支配的なベーコン像とは、相当に違う姿が立ち現れる。古い伝統の知を憶見Idolaとして一括して批判し、退ける一方、帰納によって自然を研究する『新しい学問』の創出を提唱したとされるベーコン。だが、一方で彼はまた、単なる人間的イドラとは異なる真理、神のイデアの追求をも説いた。その際に彼は、神話や詩のことばが、人間の認識においてしめる重要な意味を知っていた。西欧の学問を、神話・宗教からの啓蒙と単純化する学問史観のパラダイムを無批判に受け入れるとき、そのようなベーコンの実像は見えない。科学技術のことばをそのまま肯定(密かな「神話化」)するような近代の受容も、またその全的拒否も、等しく浅い理解である。ベンヤミンの場合、近代へとシフトしつつなお、言葉の根源のしたたかさと問題性が見えていた。

 「神話をそのまま生きることはできない」とは、最近のある神学者の発言。だが、逆に近代的「非神話化」をそのまま生きることは可能なのか。それは枯渇の途ではないか。むしろ、言葉はつねに神話を形成すると言うべきでは。世界とは言葉であり、その把握は比喩とならざるを得ないからである。そのかぎり、言葉は社会や時代に纏わる錯誤を免れることはできない。国家神道やナチス神話に陥る危険は常に控えている。問題は、言葉や認識が神話を形成するそのことではなく、旧来の神話が備えていた、自然と深く結んだことばの機能や含蓄を新たな神話が備えうるかということ。そこで、ことばの豊かさとは、感得する深さを言い表すことになる。詩人や詩が、メディアで大量に消費される宣伝コピーに置き換えられる時代、詩人の人格もまたその唯一無二の意義を失っている。回復すべきアウラは詩作の目的因をなす。

 最後に日本語ゆえの連想ひとつ。ギリシア語の宮殿aule、特にその前庭に面にした広間の謂から、Aulaは大学などの講堂を指すようになった。AuraとAula、空には建物のイメージが重なってくる。西欧の寺院のみならず、斑鳩の古寺にしても、風景の中で空を負わぬ建物はない。人もまた同じ。空を負わぬひとはいない。 黒海に注ぐドナウ川。旧い大陸を遙か南東へと流れ降っていく。だが黒き森の水源に発して暫くは、むしろ北東を目指すかと思われる。若々しい流れが南に転ずるあたり、その北端に位置する古都レーゲンスブルク。迅いドナウの流れに架かる欧州最古の石橋に佇むと、街の全容が眺められる。立ち並ぶ尖塔のなかでも、目を引くのは聖堂。擁する少年合唱団「聖堂の雀たち」は、やはり最古と称され、幾度か来日したこともある。




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