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「矢内原忠雄」
生涯・思想・信仰


●悲哀の人 矢内原忠雄
                           川中子 義勝


   東京都文京区本郷、東京大学赤門わきにある学士会館分館で、毎月一度ささやかな聖書研究会がもたれている。「東大聖書研究会」と称する、溯れば矢内原忠雄にゆかりのある集会である。この会の世話をするようになって十数年になるが、かつて私もまたそこで育まれた。当時、集まりは三四郎池のほとりの山上会議所で催されていたが、そこで、顧問の杉山好先生から敗戦後復興された当時の研究会の様子をうかがったことがある。戦後、矢内原先生は、大学の要職を歴任されたため会の運営を学生に任せられたが、いつもこの「孤児集会」を心にかけておられ、折々に尋ねてこられたこと。そんなとき、思いがけず「御前講義」をする羽目になり、杉山先生の緊張と冷や汗は並一通りではなかったとのこと。優しさにあふれた杉山先生のご様子からは想像がつかないほどに、矢内原先生は怖い方であられたようだ。矢内原先生の祈祷中に入室した者が、祈りの最中に入ってくるとは何事であるかと叱りつけられた、等々。そうした挿話のひとつひとつは、日々がまさに闘いであった矢内原忠雄の生涯を彷彿させ、身の引き締まる思いをおぼえた。ただ、この原稿を書くにあたって、彼の初期の文章を読み返したりしていると、矢内原忠雄もはじめから預言者であったわけではないという事実に、あらためて感慨を覚えた。若き矢内原は、青年エレミヤと同様、ひとの喜びや悲しみにともに響く繊細な心の持ち主であった。(ある意味で、今日の若者と何ら変わらない。)しかし、そのような素地から導き出され、神のことばを語る状況に独り立たされるとき、そこには峻厳な語り手が現れる。エレミヤと同様に、細やかな心ゆえにいっそう負いがたい神の言を託された者の、独特の悲哀の相が醸し出される。

 矢内原忠雄の言葉を選択する際の方針をあらかじめ示しておく。矢内原は説教をしなかった。そもそも無教会においては説教という形の告知をしない。だが、言葉の提示の仕方、すなわち語りの相として説教に相当するものはある。聖書講義と講演がそれである。それぞれ、いわゆる講解説教と主題説教に相当しよう。矢内原の場合も両者は、聞き手に直接に語りかける際の重要な手段として、ともに不可欠であった。それは、内村鑑三の伝道方法を受け継いだものである。『聖書の研究』という信仰雑誌の表題が示すように、内村は、聖書のある箇所を用いて神学や社会の問題などについて発言するという当時一般的な説教の形態(これは講演にまかせ、それ)よりも、聖書の各書をこつこつと講義してゆくことを重視した。そのような聖書の全体的学び・研究こそが人間を根本から改変する素地を作る。伝道に関するこの姿勢を矢内原は受け継いでいる(本書では、時代状況を示す必要から講演からも多くを採っているが)。いまひとつ、矢内原が内村鑑三から受け継いだものとして雑誌の発行がある。『通信』、それに続く『嘉信』には、彼の講演(あるいはその報告)、また聖書講義がそのつど掲載された。そこには、彼の語りが要約され、再構成されている。そのように一旦人前で語られたものは、他の人々における説教集の出版とおなじ範疇に属するものと考え、ここには載せることにした。しかし、学術論文や、一般雑誌に掲載された論文、また『嘉信』等に載ったものでも最初から論文として構想されたものは採らなかった。速記に基づく講演の再構成は、本書にふさわしいものとして採用した。それらを生涯の時の経過に従って並べたが、生涯のすべての時期を提示することはできないので、重点を定めた。すなわち、日本が大陸に版図を拡大していく際に、その傲慢な高ぶりを批判し、近隣国の虐げに対して厳しい審判の言葉を告げた時期。続いて、敗戦後、一転して癒しを語り、赦しへの立ち返りを説く時期である。それらは、ある意味で正反対の相を示すといえるが、戦争中の発言などはすでに癒しを随所に隠し、来るべき時代の備えとなっている。「二つのJ」、すなわちイエスと(福音に拠って立つべき)日本を二つながら重んじた内村の精神を嗣いで、深い意味での愛国心がキリストの福音の醸し出す世界精神とともに語り出されている点は、両方の時期に指摘することができる。

 以降はまず、彼の前半生の略歴を記す。矢内原忠雄は一八九三年の一月二七日、愛媛県越智郡富田村に、医師健一とマツヱの四男として生まれた。一九一〇年、兵庫県立第一神戸中等学校を卒業し、第一高等学校に入学。校長新渡戸稲造の薦めで、翌一九一一年から内村鑑三の自宅で催されていた聖書研究会に入門。また門下の東京帝大・一高の法科生の集まりである柏会に加わった。一高弁論部にも属し、倉田百三と論戦。そのころ、内村の愛嬢ルツの葬儀に列して、内村が今日は娘の天国への婚礼の日と述べ、「ルツ子さん万歳」と叫んだことは、矢内原に強烈な印象を与えたという。一九一三年、東京帝国大学法科入学。父の死を契機に、キリストを知らず死んだ者の救いについて問うべく内村鑑三を訪問。内村の「僕にも解らんよ」という率直な答えに感銘を受ける。信仰は各人の「実験」であることを知った。一九一七年、東京帝国大学卒業。  朝鮮で働きたいという志があったが、家族に対する義務を重んじて断念。住友本社に入社。別子鉱業所に勤務し、新居浜に居住。黒崎幸吉のキリスト教集会に参加した。藤井武夫人喬子の妹、西永愛子と結婚。翌年五月、長男伊作(後に哲学者として名をなす)誕生。一九二〇年三月、国際連盟事務局長に内定した新渡戸稲造の後任として、東京帝大経済学部助教授に任官。設立されたばかりの植民政策の講座を担当することになる。その準備のために欧米留学を命じられ、一〇月に出発。ロンドンからベルリンへ、専門知識の習得よりも、ひろく読書をして教養を深める旅をする様子が日記には窺える。ただ、単身で異邦にある寂しさゆえに妻愛子の音信の少なさを嘆く人間らしい記述も見られる。一九二一年七月、留学中に、新居浜時代に記した処女作『基督者の信仰』が内村鑑三の「聖書の研究社」より刊行される。米国滞在を延長、帰国直前に妻の急病を知る。一九二三年二月九日、帰国。同二六日、愛子死去。矢内原忠雄は愛子への想いを封印し、生涯あまり語らなかったと、伊作による父の伝記には記されている。

 一九二三年一〇月、三〇歳にして植民政策講座の教授に就任、講義を担当する。翌二四年六月、勧めを受けて堀恵子と再婚。朝鮮・満州を調査旅行。一九二五年六月、三二歳の時、帝大聖書研究会を設立。内村鑑三には全く期待されず「せめて三年は続けるように」とのみ告げられたという会設立の経緯が、後年の講演「日本の前途」に語られている。一九二六年六月の『植民及び植民政策』を有斐閣から刊行。これは、学問的研究書だが、キリスト教告白をもって結ぶという点で独特なもの。以降、調査旅行を重ねつつ(一九二七年、台湾、一九二八年、樺太・北海道)、次々と学術論文・著書を刊行して学者としての地位を固めた。一九二九年に刊行された『帝国主義下の台湾』は、久しく台湾研究の基礎的文献であったが、今日でもある意味では価値を減じていない。(若林正丈氏によるこの書の『精読』岩波現代文庫、二〇〇一年)。一九三〇年三月、生涯の信仰の師、内村鑑三死去。同七月、後を追うように先輩、藤井武も死去。一九三一年から三二年、『藤井武全集』を刊行する。その長編叙事詩『羔の婚姻』、また『聖書より見たる日本』などは、後に矢内原忠雄自身の講演に度々引用・参照される。一九三二年、『マルクス主義とキリスト教』を一粒社より刊行、時代の主導的な思想に対する自らの態度を公にした。矢内原忠雄にとってのマルクス主義は、現実と世界に対峙する際の焦眉の問題として、学問と信仰とがせめぎ合う一点であった。それは、内村鑑三にとっての進化論的生物学に相当する。内村鑑三は真理を二焦点を持つ楕円に譬えたが、信仰と学問についても、その性急な一元化ではなく、その二焦点をそれぞれに追求しつつたどる地上の歩みを説いた。矢内原にとっても、世界の進行状況を判断する際に、信仰の眼と社会科学の方法とは切り結びつつ深く関わっていたといえよう。そのような態度は、「日本精神の懐古的と前進的」(一九三三年一月)に始まる日本社会を歴史的に分析する論説へと結実していく。一九三二年九月、満州の調査旅行の際に匪賊の列車襲撃を経験。このとき深刻な被害状況にもかかわらず、矢内原の車室に危害が及ばなかったことに神の護りと使命を自覚。これを受けて帰国後一一月に伝道誌『通信』を創刊した。

 以降は講演等の表題を挙げ、その当時の状況を紹介しつつ、矢内原忠雄の活動のあらましを述べる。それによって本書に収録した発言の位置と意味を浮き彫りにしたい。

 「悲哀の人」(一九三三年三月二六日、内村鑑三第三周年記念講演会、東京朝日講堂)は、矢内原忠雄が日本の現状を批判する公的な場に引き出された、いわば預言者としての召命を与えられた講演。「私は伝道者でないこと、後輩であること、気が進まないこと等を理由として固辞したが、どうしても許されなかつた。私が固辞した最も深い理由は、私が此の際壇に立てば、言ふべき言はたつた一つしかなかつた。しかもそれは非常に明瞭に私に与へられてゐた。私はこの言葉を言ふのがおそろしかつたのである。それは私の社会的地位は勿論、場合によつては身体の自由をも賭さなければならぬ一言であつた。」記念講演は他に大阪・京都・名古屋でも行われ、矢内原はそのいずれでも講壇に立った。「殊に名古屋は重荷であつた。… 私は各地の講演で大分疲れてゐたので、長い時間話すことはできなかつたが、之が最後でもあるので、随分思ひ切つたことを言つた。熱田神宮や本願寺の名前まで出して、真の神を畏れねばならぬことを叫んだ。… 講演会の責任者が警察に喚び出されて事情を聴取せられたさうである。よくそれだけで済んだものと思ふが、すべてはまだ『始まり』であった」(全集第二六巻一五一・一五二頁)。日本が大陸で不正を行うのであれば、神の審判は必ず日本に降ると言い切った、この「思想善導と基督教」(一九三三年四月五日、名古屋市会議事堂)を含む一連の講演は、後に「悲哀の人」と題するこの文章にまとめられた。矢内原は、神の悲哀を担うイエスの姿が、一方でエレミヤに溯り、また内村をも特徴づけると語る。さらに、キリスト者は「自分自身、又国民、又人類の真実の状態を見て、それが罪である事を見徹し、而して善き思想善き生命を得る為めには此の罪を悔改める必要を指摘する」と主張した。「之によつて彼は世人の罵りを受け、苦しめられて死ぬる。彼も亦其の主にならうて悲哀の人たらざるを得ないのである。」この講演を契機に、矢内原は請われて一九三三年五月、自由ヶ丘の自宅で家庭聖書集会をも始めた。四〇歳にして。(これは一九四六年に今井館に移るまで続けられた。)

 「悲哀の人」には、「日本的基督教の樹立する為めには、日本的基督教に特殊なる苦難がなければならない。… 日本的基督教には日本的迫害がなければならない。思ふに日本思想の精髄はその国家観念にあるであらう。しかも最美点のある処、最大の罪悪も亦伴ふのである。日本的基督教は世界に比なきこの国家思想を保存完成すると共に、反動としての国家主義に対し具体的に抵抗するものでなければならない」と述べられている。この点は、「日本的基督教」(一九三三年一二月三日、江原万里記念講演会)においても、「日本基督教に取つての試金石は神社問題、国体問題又は国家主義の問題である」と明言されている。一方で、真の愛国心を求めず国家社会を問わない信仰の私化・自己閉塞は堕落であるとも主張される(「宗教は個人的か社会的か」一九三五年三月二二日、帝大聖書研究会)。時代の進行を見据えつつ矢内原は、「神を恐れることがない」ことこそ「我が国の現状」の根本問題と指摘(「朝日講堂以後」一九三六年一一月三日、東京馬場先門外明治生命館)。また同時期の「民族と平和のために」(一九三六年一一月一四日、神田駿河台女子基督青年会講堂)という講演標題にも窺えるように、彼は、満州事変以降の非常時の問題をこの二点をめぐるものと捉え、論評を重ねた。一連の論文を『民族と平和』として公にしているが(一九三六年六月、岩波書店)、これは当局を大いに刺激した。

 一九三七年八月、蘆溝橋事件が起こると、矢内原はこれを受けて一気呵成に論文を執筆。だがこの論文「国家の理想」を掲載した雑誌「中央公論」九月号は、処分を受け全文削除となった(一九三七年八月)。「その論文で一番当局の忌諱に触れたのは」「国家の理想は正義と平和にあるということ、戦争という方法で弱者をしいたげることではないということです。… 理想にしたがって歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びるものだという議論が問題となった。/特に戦争は国家の理想に反するというところでしょう。もちろん、私は気をつけて書きましたから、日本の現状を直接に指摘したような言葉はないのです。理想論として書いておる。最後に旧約聖書のイザヤの預言を引いて解説をした。ですから、読む人によっては、あまり抽象的に過ぎるじゃないかという批評もあったくらいです。/しかしそれが問題になったというのは、つまり過去の実績があるものだから、何か問題にしようと思っていたときにそれが出たから、そのもの自体は大したことなくても口実にした。そうしてかかる論文を書きかかる反戦思想を持っている者は、大学教授たる資格があるかという形で、問題が提起されてきた。経済学部の教授会の中でもそういうことが問題になってくるし、外では当時文部省に教学局という思想問題を取り締まる役所かあって、そこが問題にしてきた。/内務省の警保局や、それから警視庁… しかしどうも大したきめ手にならぬ。公平に、しさいに読んでみると、このくらいのことは、というので致命傷にならないんだ」(全集第二六巻四八‐四九頁)。しかし、決定的な時は間近に迫っていた。

 「神の国」(一九三七年一〇月一日、藤井武第七周年記念講演)。「ちょうどその年の一〇月一日に、藤井武の記念講演会を日比谷の市政講堂で開いた。私は「神の国」という題で、二十分位の短い講演をした。」そこで、「アッシリアの罪はユダの罪より大きい」と、比喩で語ってきた矢内原は、最後に藤井の言葉を引いて乾坤一擲の一言を述べた。「…/それを『通信』に出したのです。非売品だったが、それでも当時千部くらい出た。警察の方ではそいつを見つけ出して、私の家にもらいに来たので、その号は家にないと言ったのですが、それをどこかで手に入れて、謄写版に刷って各方面にパアッとくばった。/日本の国をほうむれ、なんというのはけしからぬ、それがきめ手になったのです。… それもたった一句ですよ。『今日は、虚偽の世において、我々のかくも愛したる日本の国の理想、或いは理想を失ったる日本の葬りの席であります。… どうぞ皆さん、もし私の申したことがおわかりになったならば、日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください。』というところを突きつけてきた。それで、長与総長はこれではだめだと、とうとうさじを投げてしまわれた」(全集第二六巻四九−五〇頁)。「『国の葬式が自分の葬式になった』と、友人たちは批評した。全くその通りである。併しそれももとより心に期したことであった」(全集第一四巻四三一頁)。『通信』一〇月号は発禁となる。

 「神の国の預言について」(一九三七年一一月一四日、丸の内明治生命館、『嘉信』創刊号〔一九三八年一月〕に掲載)。「当時すでに私の言論は当局のきつい監視の下にあつたから、一言一句、文字通り鳩のごとき単純と蛇のごとき智慧とを要した。講壇に一番近い最前列の座席には、警視庁、丸の内警察署、検事局、憲兵隊、軍法会議の役人がずらりとならび、第二列には私の集会の青年たちが数名緊張した面容でならんだ。彼らは、万一事が起れば壇上にかけ上つて私の身を守るつもりであったといふことを、後で私は聞いた。/… 初めの讃美歌を歌ふために一同厳粛に起立した時、第一列の役人たちは勝手がわからずまごついたが、その中の誰かが『我々も立たう』と言つて、みな起立したのは、壇の上から見て居て気もちがよかつた。この講演会は私どもの大勝利であつた」(全集第二六巻二〇三頁)。さらに一一月二九日、東京商大基督青年会五十周年記念講演で「自由と統制」と題して語った翌々日の一二月一日、友人の教授たちの勧めを受け辞表を提出。翌一二月二日、帝大経済学部最終講義。辞職の後も、翌年二月までは聖書研究会は続けられた。一六日には総長以下九千名が戦勝祝賀行進に出たあとを反対方向に向かい山上会議所で「歴史の到達点」と題し講義。一九三七年五月以来の九回のイザヤ書講義を締めくくる「帝大聖書研究会終講の辞」(一九三八年二月一七日、東京帝大山上集会所)は、イザヤ書三四‐三五章の講義で、諸国民への審判、捕囚よりのイスラエルの復興を語る。

 辞職後は、一九三八年一月に『嘉信』を創刊。四月、お茶の水YWCA小講堂にて月一回の公開聖書講義開始。藤井武全集を再刊。クリスティー『奉天三十年』の翻訳を岩波新書として刊行。精力的に活動を続けた。一九三九年一月、土曜学校開講、アウグスティヌス『告白』講義開始。翌年、一九四〇年四月、同『神の国』講義開講。一九四〇年四月二九日には大阪の内村鑑三第十周年記念講演で、「前十年と後十年」と題し講演。一九四一年、『余の尊敬する人物』を刊行。検事局への呼び出しや度重なる雑誌の発禁・削除処分にも屈せず、福音の真理を市井の心ある者に伝え、周囲の者の内に封印することに努めた。

 『嘉信』には、朝鮮における皇民化政策・同化政策の状況が事実として報告され、寡黙ながら、隣国の民の窮状に対する憂いと、日本の横暴への批判が語られてきた(「朝鮮基督教会に関する事実」一九三八、「同化政策」一九四〇)。一九四〇年八月二二日から九月一六日まで、矢内原はみずから朝鮮講演旅行を敢行する。九月九日から一一日まで、京城基督教青年会で「ロマ書講義」を行った。福音がユダヤ人を放れて異邦人に及ぶ摂理を解明。東洋の選民日本の滅亡と朝鮮を初めとするアジアの民の解放を暗示した。「ロマ書は人の救の基本的原理を明かにしたものであるが、それのみでなく、またユダヤ人と異邦人の救を説くことによつて、もろもろの民族と人類全体の救について神の経綸を明かにしてゐる。この問題に関するロマ書の重要性は、個人の救を論じた部分に劣らない。いかなる人もキリストを信ずる信仰によつて義とせられ、それによつて自由と歓喜と勝利の生涯に入ることが出来るやうに、いかなる民族もキリストの福音にあらはれた神の経綸を信ずる事によつて救と復興の希望をもつことが出来る。そこに偉大なキリスト教の歴史哲学が述べられてゐるのである。/私は一九四〇年九月の初め朝鮮に渡り、京城のキリスト教青年会館で日本人及び朝鮮人の混合した会衆にむかつて、五日間にわたりロマ書の講義をした。当時朝鮮はいはゆる「皇民化」運動の渦中にあり、キリスト教の伝道は弾圧の下に置かれてゐた。殊に私自身は、私の思想と言論の故に、総督府の歓迎せざる人物の一人であつた。… /かかる状況の下に私が朝鮮に渡つた事は、いくらか身辺の危険の予想せられなかつたことではなく、私として決心を要した事柄であつた。併しキリストの愛が強く私に迫つて、警察政治の弾圧下にある朝鮮の人々に対し、個人の救と民族の救についてキリストの福音を宣べ伝えることを圧倒的な使命と感ぜしめた。それ故に私は「異邦人の使徒」と自らを称したパウロのロマ書を携へて、朝鮮海峡を渡つたのであり、五日間にわたつてこれを講じた時、私の血管の中の一ドランマの血液もキリストの熱心に燃えざるものはなかったのである」(『ロマ書講義序』)。帰国後、手を入れられた講義原稿は、『嘉信』掲載を経て一九四九年に書物として刊行されるが、本書には、死をも覚悟した著者が「私の告別式にはロマ書八章の三〇節以下を読」むように言い遺してきたという、当時の肉声をそのまま伝える部分、また解放の真理が何よりも「キリストとの結合」に基づくことを説く「潔の問題」(六‐八章講義)を収録した(一部省略)。切迫した状況はあったが、この旅行は成功裡に終わった。その直接の成果として、『聖書朝鮮』主筆金京臣の拘束という迫害下で、試練に立つ信徒の励ましとなりえたとの来信を得たこと(「朝鮮来信」)。また、自らの召命について新たな自覚に達したことが挙げられる。「人、私を目して内村鑑三の弟子なりといふ。正にその通りである。… 併しながら私は単なる『内村先生の弟子』であるよりは以上の者である。私は私である。私は何者か。『キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の福音のために選び別たれたる者』(ロマ一の一)である。内村先生が然うでありし如く、私も先生と同等の資格に於いて然うである。本年初秋、朝鮮京城にてロマ書講義をして居る時、私は壇上にて圧倒的に右の自覚を与へられた」(全集第一七巻一三五頁)。

 朝鮮講演旅行と時を同じくして、矢内原は「宗教改革論」を講じている(一九四〇年四‐一一月、京都・仙台・釜山・京城)。個人主義・自由主義から全体主義へと移行する時代風潮を捉える点は時代を窺わせるが、論の展開は時代の制約を超えている。矢内原は、全体主義は個人を没却するものではないとして、全体主義の「精神」を問う。これは、一方で「個人の自由と責任」を、他方で「権威の確立と権威への服従」を並び立てる。だがこれは本来、神の権威と宇宙の普遍的道義への主体的服従にこそ基づくものであって、民族などの自然的見地をそのまま肯定すれば、堕落した全体主義となる。さらに歴史上の宗教改革から問い返すとき、この問題は単なる国家論の枠を越えて、聖書の示す聖なる共同体へのたちかえりをも要請することになる。矢内原は、この宗教改革論に「無教会主義」の歴史的使命を見込んでいるが、それは同時に、福音の普遍的精神を吹き込まれた霊的共同体としてのエクレシア(教会)の意義の追求であった。この立論は当時の政治的社会的状況に寄り添っていく宗教の批判にとどまらず、一方で宗教の主観化、他方でその原理主義的全体化の問題を抱えている現代の問題をも先取りしている。

 「日本の基督者平民に告ぐ 」(一九四三年一〇月二四日田園調布教会)という、ルターの宗教改革文書をもじった講演表題にも窺えるように、戦時下の矢内原の関心は、真のエクレシアの担い手を育てるべく、身近な者たちの内に福音を封印し、機会を捉えて少数の心ある者たちとの出会いに心血を注ぐことにあった。その具体例を「戦時下松本講演」と「エゼキエル書講義」から採った。籾山民子氏による速記原稿を中村勝己氏また矢内原勝氏が編集したものである。「戦時下松本講演」は、帝大辞職以前から矢内原に共鳴し、支持し続けた手塚縫蔵の招きで、その牧する松本日本基督教会において行われた。多年にわたる松本教会への支援のなかでも、太平洋戦争勃発直後の正月から毎年三年間(一九四一‐四三年)、新年信仰集会においてそのつど三回ずつ行われることとなった連続講演は、矢内原自身が後にひとまとまりのものと見なしている。三年間のテーマは、一九四一年が「愛国心について」「教育について」「信仰について」、四二年は「神について」「キリストについて」「聖霊について」、四三年は「信仰」「愛」「希望」。六、七十名の会衆は長野県各地の教員たち。神と天皇とどちらが偉いかなど当時の信徒の直面した話題についても述べられる。矢内原は、会衆の感話に応じ、その立場に立って具体的な悩みを共に負おうとした。天皇への敬意は、その権威を担いで利を得る人々ではなく、むしろ真の神を敬う者においてこそ実現される。そのように述べるとき、矢内原の言葉は、以前の歯に衣着せぬ鋭さを去ったかに響く。しかし、ことを神学や教理の弁証として扱うのではなく、あくまでも神の前に立つ人格の真実を指し示す。その姿勢は、戦時下で、信徒の困難を共に担いつつ、悩む良心を支えようとする際にも一貫している。本書に採った「神について」における「八紘一宇」や「共栄圏」への言及にもそれはあてはまる。彼は、そのような表現を頭から否定はしない。だが、他国と共通基盤を持ち得ない民族神から諸民族を導く真の神へと、神観の改変を説くとき、矢内原の本意は、妥協ではなく、真実をもってする換骨奪胎にある。それは、先に「全体主義」をそのあるべき精神から説いた、その論法である。

 すでに矢内原支援のかどで官憲の弾圧・監視を受けていた手塚の集会に招かれて、矢内原の語る言葉は、徒に人を煽るような軽挙からは遠い。これに対し、「エゼキエル書講義」(一九四三年一〇月三日‐一九四五年一月一四日)は、「厳重な面接試験をパスすることが必要」とされた、自由ヶ丘家庭聖書集会で講じられた。「両開きの引き戸は、内側からかけ金がかけてあった。」「父はこれら少数の一五〜四〇名ほどの選抜した者たちに、聖書講義を通じて神の真理を注入し、封じ込めようとしたのである」(矢内原勝「自由ヶ丘家庭聖書集会について」『矢内原忠雄未発表聖書講義エゼキエル書』栞、一頁)。困難な時の「心の純粋・個人の責任・平安の根拠」について、矢内原はくりかえし説いている。「家庭集会でエゼキエル書が講義された約一年間は、太平洋戦争の戦局が急転直下悪化した時期でもあった。… 家庭集会の緊張も高まり、集会員も男子は兵役あるいは学徒動員に、徴用に、… 女子も勤労動員で工場へ行き始め、だんだん少人数となっていった。… 激しい審きの言とともに、他方ではエルサレムの聖所を離れて補囚の民とともにどこまでも行こうといわれる神のみ言は、やがて信仰の故に司たち王たちの前に立たされるであろう者にとって、大きな慰めであり、励ましであった。… 枯れた骨の復活の預言(第三七章)は息をのむ思いであった。骨があたりに散乱し、拾う者とてない状況は南方戦線から次第に本土に近づきつつあったからである」(中村勝己、「エゼキエル書講義のころ」同栞、二‐三頁)。本書には、やがて戦後講演「人の復活と国の復活」で鮮やかに描き出される「枯れ骨の復活」を講じた箇所を収録した。

 『嘉信』は圧力を受け続け、一九四二年には用紙割当が全廃され、四四年にはついに廃刊を宣告されたが、『嘉信会報』と改名して終戦まで謄写版で刊行され続けた。矢内原は敗戦の報を山中湖畔で聞く。これを受けて直ちに誌名を『嘉信』に復し、国土のみならず、虚脱と誇り喪失の状態に心まで荒廃した民と苦しみを等しく負いつつ、魂の底からの悔い改めの哀歌を歌う(『嘉信』九月号)。さらに、(そらみたことかと冷淡な喜びに浸るのではなく)一転して癒しを語り、赦しへの立ち返りを説きはじめる。それは自らが講じてきた預言者の態度そのものであった。「エゼキエル書においては、国民についての救いの法則が非常に明瞭に出ている。… 神はイスラエルを愛したまうが故にこれを滅ぼしたまう。しかしまた愛したまうが故に、これを救い上げたまうのでありまして、イスラエルに対する神の真実が非常にはっきりわかっている」(『未発表聖書講義エゼキエル書講義』第二七章、四三八頁)。「我々がエゼキエルを読む時に自分の国に当てはめて読み、自分の国についてこれから学ぶことは許されること、できること、またしなければならないことであると思うのです」(同四四三頁)。「日本人でも神を信じれば、自分が神に選ばれたものである。日本人は神に選ばれたものである、ということがわかるのです。だからして日本民族は神の選民である。偉大な世界的使命をもったものである。… こういう信念を本当に正しく持つことが出来る者は、神を信じた者であります。」(同四四二頁)。「エゼキエルの預言は救いの法則の旧約的な表現である。すなわちキリストの十字架の法則、福音の法則をあらかじめ準備し教えられたものであります」(同四三七頁)。「バビロン捕囚を経てイスラエルの信仰が霊的になったように、日本もこの時局を経て飛躍することができるでしょう。それができなければ駄目だし、駄目ならば、日本は神の選民ではない、ということがわかる。これは必ずできるだろうと思うのです。しかしそれを実行するのは、我々神の真理を教えられたキリスト者の任務であるわけです。… キリスト者でありましても、預言の法則とか福音の法則を純粋に信じなければ、エゼキエル当時のほかの多くのユダヤ人と同じように、見るべきものを見ることができないのであります。国についても個人についてもそうであります。十字架のもとに自分たちの罪の悪しきことを知って泣き崩れるまでは、私どもに救いはないけれどもその時に私どもがそこから救い上げられる。私どもはそういう意味において、自分は大丈夫という人間的な傲りをもつことができない。と同時に、私は駄目だという人間的な絶望もまたもつことができない」(同四四六頁)。

 東京帝国大学教授に復す(一九四五年一一月)のと時を同じくして、矢内原は、この精神のもとに個人と民族を植え直そうと日本中を往き巡った。「日本精神への反省」(一九四五年一〇月、木曽福島国民学校)に始まり、「日本の運命と使命」(一九四五年一二月一二日、山形県会議事堂)を説き、「日本の傷を医す者」(一九四五年一二月二三日、東京芝田村町飛行館)について語る。さらに「国家興亡の岐路」(一九四六年二月一一日、大阪中ノ島公会堂)、「基督教と日本の復興 」(一九四六年二月一二日、名古屋朝日会館)、「日本の前途」(一九四六年一二月二五日、東京帝大クリスマス講演会)と続く。「日本の傷を医す者」では、まず、日本精神の二重の虚偽に反省を突きつける。国際的信義に悖る条約違反と天皇を神として偶像礼拝を強いた国体、すなわち他国への虚偽、また真の神への虚偽。この二重の虚偽が敗戦という苦難を導いたことを指摘。いまは審判の苦難を神の手より受けよと勧める。また、この時にこそ、神の前に義しく、真理を愛する人格を作り出す教育の大切さを説く。和魂洋才を唱えてキリスト教を排斥してきた明治以来の教育が、神の他誰も見ていない所でも貫かれるような責任観念に疎くさせ、真理愛の欠如を導いた。それゆえに今はまず聖書の真理観を学ぶように訴える。そのうえで、フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』を挙げつつ、日本の遺産の中にも優れたものを指摘し、これを普遍性へともたらし、何よりもキリストの福音において生かせと説く。天皇に聖書の真理を学ぶように勧めるのも、この文脈において。キリスト教に改宗することをではなく、天皇をも神の前のひとりの人格と見て、そのようなひとりの人格として立つことを勧めるのである。それは、預言者の精神に倣うものといえよう。預言者は社会思想家ではなく、ましてや革命家ではなかった。王を敬うという点で民衆と心を一つとしていても、王を神の前に立つ一人格と見て、真正面から王に諫めの言葉を語る。矢内原は事柄を社会運動や制度の問題とは見ていない。一国や元首がキリスト教を奉じても、キリスト教の名で虚偽が行われることもあり得る。日本国民にキリスト教を受けるように勧めるとき、矢内原は聴衆に、神の前の一人格として「真実であってください」と訴え、これこそが日本の傷を癒すと告げる。捕囚期の預言者、エレミヤが指し示したのも、そのような真実であったと。「人の復活と国の復活 」(一九四八年三月二八日、内村鑑三第一八周年記念講演会)においても、何を喰らい何を着るかよりも、日本を真実に立つ義しい国にすることを、いかに心底望むかが大切と説かれる。聖書の言葉を観念的にではなく、真実として受け、「自分たちの実験した結果として」生きることが真の復活であると説かれている。これらの講演は一九四七年に、戦前の「国家の理想」「神の国」などとともに『日本の傷を医す者』の表題で一書にまとめられた。

 矢内原忠雄のその後の活動については、もうあまりふれる余地がない(「聖書から見た日本の将来」一九五一年九月、岐阜県笠松聖書講習会講義、など参照)。キリストの福音に立って、この国に真の「自由と平和」を据えようとした。その活動に、この国がどう応えたのか、それは我々がよく知っている。新しい体制やその主義に対する賛否はいずれであれ、神の真理の前に額ずく一人の人格が顧みられないところ、真理愛と責任の精神が根づくことはない。それは矢内原が最も危惧したことであった。「時勢の動きと預言者の声」(一九五四年三月二八日、内村鑑三第二五周年記念講演、東京)では、敗戦後数年を経ずして既に、自由な空気の時代は過ぎ去りつつあると、時の徴が見据えられ、国・民族の大勢に抗する「悲哀の人」としてのキリスト者のあり方が再び説かれている。国・世界を救う道は苦しみと悲しみの狭い道であると。内村鑑三の信仰について語られるが、矢内原忠雄が自らたどってきた道もまたそこに二重写しとして映し出されている。

               (『日本の説教11  矢内原忠雄』日本基督教団出版局刊 二〇〇四)



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