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川中子義勝詩集『遙かな掌(て)の記憶』
(土曜美術社出版販売・2005.12.15刊)
作品解題


解題を記す意味について。――文学作品の解釈は読者に委ねられている。作者の言葉は余分なものという考えもあろう。だが、作者が語句にこめた意図を知って、読者にはその成否の判定が可能となる場合がある。拙詩の場合はその側面が多いと思う。さらに解説に接してなお読者には自由な読解の余地が残されている。解題は、作者よりもさらに深い読解への挑発である。




第1部 鉄の時代をめぐって


高圧鉄塔

 Erzengel 熾天使。ミカエルを指すことが多い。 Erz = 鉱 は Era =「(地質)時代」と語源が同じ。2003年9月より詩の同人誌ERA刊行開始。誌名に連想されたErzを同人誌の出発の詩として創作。この詩集全体がERA第5号の時点までの詩的営為のまとめを意味。
 連作表題の「鉄の時代」もErz(鉱・あらがね)から導かれたもの。「地質時代」という大きなスパンを考えると、(近)現代は、実は「鉄器時代」という文明のながれの微細な区切りであるにすぎない。その「鉄の時代」において、人間は、遙かな昔から同じことを繰り返してきたように見える。
 「天使」の形象が導かれるには、一方でまた、ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」の示唆するクレーの素描「新しい天使」がどこかに契機として働いていた。しかしそれは、契機にすぎず、ベンヤミンの歴史観に共感したわけではない。むしろ、旧約の預言書に語られるような言葉の現実が念頭にあった。
 言葉が人間がほしいままに操れる道具・記号とされる、平板化した今の時代の言語観に対して、人間の実存を震撼させる「亀裂、切り立ち、背後、向こう側」を、言葉が持つことの暗示。世界と等価、あるいはそれ以上の重みをもつ言葉。世界を創り出し、更新するような言葉は存在するか。そのような問いかけである。
 個人や民族、いな人間存在を滅びに直面させるような発話が、逆説的に、その言葉を受けた個人を介して民族・社会に対する根本的な癒しを語る。審判と救済とを一挙に告げる言葉の存在を旧約預言者は指し示した。そのような言語行為の消息を示唆することが、この詩集をまとめるに先だった創作の根本的な動機であった。
 預言者が時代の現実にたいして直裁に語った側面を、素朴な政治性の次元で言葉化することはしない。むしろ詩の言葉、預言の言葉とは何かという主題そのものの追求。預言者や詩人という存在が未分化であった頃、その言葉の本質と使命という古い主題を採り上げたもの。
 語句註「オルゲルプンクト」: オルガン曲で、バスのペダルが同じ音を長く響かせる部分。バッハでは末尾のコーダがその上におかれることが多い。

花の庭

 「母」の主題の神話的展開。地母神デメーテルを示唆する副題は、個人的な経験を普遍的な次元に開く役割を与えられている。
 後出「書庫の深みに」の「ペルセポネ」はデメテルの娘。冥界の王に誘拐されるが、デメテルの嘆きのゆえに、冥府から一年のある時期だけ地上に還ることを許される。



 第1連は、註にあるとおりキルケゴールの書物の故事。詩人の歌の快い響きを迎える聴衆・読者と、その詩の生まれくる源の詩人の内面的・実存的苦悩との対照。第2連は、先の世界大戦でヨーロッパの歴史と詩とが直面した現実。アウシュビッツの後で詩を書くことの野蛮性を唱えたアドルノの言葉は、その一契機。アドルノの言葉に賛同を示しているわけではないが。第3連は、戦後の科学の言葉の進展を顧みつつ、それにともなう「戦争の二〇世紀」の現実を描いた。第4連は、こうした形象を受けて、現在の実存に問われる問い。真に生を裏打ちする言葉とは何か。「夜の転落を支える者の手」はリルケをイメージ(『形象詩集』の「秋」)している。そのような優しい手の実感が遠のいた時代においては、現実の深刻さを貫くさらに苛烈で厳しい審判の言葉こそが、かえって現実の下支えとなりうる。

書庫の深みに

 詩を中断して哲学に向かっていたころ。留学時(1975‐77)の記憶から。そのころは、マルクス主義、新左翼などのシュプレヒコールが、日本でもドイツでも聞かれた。そのころの自画像をかなり素朴に提示している。
 「かぎりなく透明」とはその後に「なブルー」と続く作品名。芥川賞受賞作の載った「文藝春秋」をドイツの図書館の書庫で読んだ際の驚き。静かな森に囲まれたドイツの信仰の町で、やがてそこに帰っていく現代日本の倒錯した現実と言葉の状況を認識し、受けとめた瞬間。
 黄泉の世界から帰還するペルセポネ。神話世界の提示は、日常世界からの隔絶の経験を普遍化する。思想や求道の冥府巡りから、現実の生に帰還する。留学ののち、またその後も研究滞在のたびごとに覚える、茫々と果てしない途を還っていく想い。帰り着いた日常はのなかでも、冥府の記憶が失われることはなく、寧ろこれこそが日常を裏打ちする。

死の島へ

 題名は、アルノルト・ベックリンという画家の作品「死者たちの島」から。
 第一連と第三連は、1975年にハルシュタットというザルツブルク近郊の町を尋ねたことが契機。観光町だが、その近くで「鉄器時代」の遺跡が発見されたことでも有名な所。ユーラシア大陸全体にわたるその地質時代の名称は、この町の名をとって「ハルシュタット期」と呼ばれる。湖沿いの町の教会で、頭骨の塚を見た。その後に再び訪ねたときには、骨塚はもう片づけられていたが。
 第二連は、2005年の夏にミュンヘン近郊のダッハウを訪ねた経験。収容所跡を用いた記念館には収容者がまず奪われた身分証明書などが展示されている。入口の鉄扉には「労働は自由にする」との言葉。鉄をめぐる人類史の経験が、私においては30年の時を隔てて照応した。
 語句註「パンを水の上に投げよ」。旧約聖書「伝道者の言葉(コヘーレト)」の一節が示唆されている。



 「石は叫ばず」。新約聖書ルカ福音書19章40節を示唆する言葉。一方、「慰めよ」という終連の言葉は旧約イザヤ書四〇章冒頭に由来。エッセイ集『散策の小径』(2000年刊)の「事物の呻きを聴く」に記したように、「被造物の呻き」は拙詩の根本的なテーマ。
 副題の「ウラノス(天)」は、世界(ガイア・地)に伏すその姿からの連想。ウラノスは当代はやりの神(ゼウス)から斥けられた時代錯誤な存在。そのような「忘れられた(意図的に過ぎ去ったものとされた)過去への共感」を暗示する。
 ただそのような示唆は、副題からすぐに読み取れることではないかもしれない。ここだけにかぎらず拙詩の副題はいつも、理解されない場合があってもかまわない心づもりで提示されている。副題の示唆に気づかなくても、本文はそれなりに読めるように整えているつもりである。アルファベットを用いているのは、最初の読解の際に副題のイメージがいきなり強くなりすぎないようにするための覆いである。
 逆に言えば、読み飛ばすのではなく、正面から詩の解釈を問題とする人に対してのみ、作者からの謎かけ・理解への挑発が副題に込められている。

気象探査機

 武人の勇猛果敢な戦いぶりをたたえる――それはかつて、文学の営みの重要な1側面だった。戦争叙事詩は多くの国に存在する。その代表、ホメロスの「イリアス」は世界文学の名作だが、実はギリシャのトロイ侵略を正面から正当化して歌っている。そのような戦争讃美は今の時代にもはや不可能だろう。だが、かつてこの叙事詩の中にも、戦争へ邁進する時代に抵抗する詩人の声は響いていた。トロイの女預言者(巫女)カッサンドラ。
 「カッサンドラ」は、この詩では旧約の預言者たちに重ねられている。彼らも国の滅亡を預言し、その回避の途を説いたが、カッサンドラと同じく、同胞の誰にも信じられなかった。
 「雲の柱」は、旧約聖書出エジプト記で荒野を彷徨う民族に同伴しこれを護る神の徴。しかし、神の恩顧をゆがめて、宗教を自己実現の手段とした民に神は自ら立ち向かう。預言者はそのように説いた。
 審判に先立つ、警告の言葉。そこには深い悲哀が込められている。しかしそのことばの真実の響きは、人の心に留まらない。何時の時代にもある、しかし極めて現代的な状況を形象化する試み。
 状況が一義的ではなく混沌とした時代に、預言の言葉は黙示的な響きを得る。黙示の言葉とは、錯綜した現実に向かって、叙述に多様な解釈の可能性を重ねるもの。この国の現実を顧みつつ、神話的世界が示唆される。ここで「西の方」も、いろいろな状況を含みうるだろう。ギリシャ、イラク、そして古代朝鮮。
 創作の契機としては、新羅侵攻を行った「息長帶日賣命」(神功皇后)の言葉の方が創作の最初にあったイメージ。彼女は巫女としてカッサンドラの対極的存在だが、彼女の言葉は受け入れられ、侵略の後立てとなった。今日の世界から見るとき、彼女の言葉は真実だろうか。
 真の預言者と偽の預言者を峻別する基準は何か。それは旧約聖書の重要な問い。審判と滅びを語る過酷な言葉が、実は真の救いを内包している。それが、旧約預言者の言葉の真実性。

水晶の炎

 ナチス時代、ユダヤ人のシナゴーグや商店が破壊され、虐殺が行われた1938年11月9日の夜は、破壊されたショウウインドウの破片の輝きから「水晶の夜」と呼ばれる。
 ここに記された歴史的出来事は、それからさらに500年ちかく遡って16世紀宗教改革の時代に行われた迫害。シナゴーグ跡の発掘はつい最近の2003年のこと。

船渠

 かつて戦艦を建造し、戦地に送りだした軍港のドックの形象。艦を建造する槌音にあわせて戦争へと鼓舞する詩を歌った記憶。あるいは、みずから生んだ子を勇ましく戦地に送りだした女性の悔いなどのイメージが重ねられている。
 副題の記す、トロイ戦争からの形象がもう一つの契機。その後日譚、ホメロス「オデッセイ」を示唆。ギリシャ軍の将オデッセウスの妻ペネロペは、戦地に送った夫の帰国を待ちつづける。彼女は、征服という男の論理を彼女に押しつけようとする新しい求婚者に取り囲まれている。婚礼の備えが整わないからと求婚の受け入れを先に伸ばし、衣裳を織ると見せかける営み。一日に織った織物をその夜の内に再びほどく。「月ごとに溢れ」「月ごとに断ち切られる」としたのは、月経を暗示しつつ、不幸な子を産むまいとする女性の決意を描いたつもりだが、どうか。男の論理とは、ここでは戦争肯定へと回帰していくこの国の風潮をも示唆。
 「空虚な墓」は、新約聖書の復活の希望の基づく実存的基盤。文学史において、オデッセウスは「己が国を尋ねたるに、その国人、彼を受け入れざりき」(ヨハネ伝)という意味で、キリストの予型的形象とされる。しかし、これを知らなくとも、この詩が終連で、ある種の希望を描いていることは通じるだろうと思っている。死の向こう側の逆説的な希望として。

古起重機

 副題クリストフォロスは聖人の名。久しく待ち望んだキリストを肩に担いで対岸に渡した、その故事から「キリストを担う者」の謂。ヴォラギネ『黄金伝説』に詳しい。
 思想や信仰を形成するには、肯定的にも否定的にもそこを目当てとするしっかりとした土台(梃子の支点)が必要だが、その基盤の失われた現代という時代状況を描いている。
 20世紀の中頃には、良い意味でも悪い意味でも思想的・政治的に旗幟鮮明にできる状況が残っていた。しかし単純に、民主主義とか戦争反対を唱えていられた時期は過去のものとなり、ことにマルクス主義の失墜以降は混沌とした状況だけが残った。方向定まらぬ民族運動の奔流。宗教の倒錯とグローバリズムの詭弁。これに呼応する自然の深い崩壊。テレビの画面だけが様々な移ろいを映し出している。ひとびとは何を根拠とすべきか分からぬままに、足場もなく流されていく。
 20世紀末から21世紀へ続くそのような時代状況に堪えて、なお真実の到来を待ち続ける形象としてのクリストフォロス。 
 今日のクレーンに比べればみすぼらしい、一部に木材を使った古いクレーンがヴュルツブルクの河畔にあったはずだが、今では観光案内にも記載されなくなった。

傷ついた天使

 ギリシャの政変とは1967年の軍によるクーデター。風景をなす山並みはちょうど、「ユリアと煙の侏儒」の舞台のあたり。

水底から

 自己愛の化身とされるナルシス。水に映った自分の鏡像を、文字通り死ぬほど愛したというエピソードはオヴィディウス『転身物語』に由来。ここでは、その死後も鏡像だけが水中に残り、意識をもって水面をみあげるという設定。
 「いのちを捧げてかえりみぬほどに」自分以上に相手を愛するというくだりは、創造における自己の「似姿」のために自己を捧げるという、キリストの十字架の出来事を指し示す予型像。過去の言葉や事件が未来に生じる出来事の型となるという予型論は、こうしてキリスト教世界の外側にまで広げられる。
 本当の意味で愛されたと自覚する者のみが、自己の生を意味あるものと受けとめることが出来る。その自覚が他者への愛の出発点となる。聖書の肯定する「自己愛」は、そのような「犠牲」の上に成り立っている。後半は、そのような「自己愛」の連帯としての共同体(教会)が時代の流れの底にかろうじて存在していることを暗示する。
 教会は「女性」なので、この詩には全体的に、女性のことばの響きがある。女性言葉の使用には、この詩の対極の形象として、ハムレットの錯乱した自我と自己愛の犠牲となって水底に沈んだ、オフェーリアの連想があるからかもしれない。ハムレットは近代的人間の始まりとされるが、その破滅の一因は、そのように肥大した自意識にある。現代はそのような「エロス(自己愛)」の嘆きに満ちている。
 「深き淵より・・・」という言葉は旧約詩篇130篇の冒頭。

燻煙の夜に

 季節の巡りと人間の営みの関係を、日本とヨーロッパの民俗的行事を対比しつつ描く。「ホルダ」は年末に現れて、空中を飛び、子供をさらっていくとされる魔女。グリムの「ホレ婆さん」に同じ。煙を焚くのは、そのように怖ろしいものをもたらす冬に対処する民間行事のひとつ。
 冬の男と夏の精との闘いも、春を迎える行事としてヨーロッパ各地に伝えられている。冬の男には様々な名が付けられているが、ユダと呼ばれる所もある。ゲルマンの風習がキリスト教の意義付けを得た形。ゲルマン信仰における冬の克服は、闇に対する光の勝利を意味するが、民衆信仰的なキリスト教の悪の克服もそこに重ねられた。そこにはユダヤ人への偏見という問題も伺える。
 一方で、キリスト教は、民衆信仰の素朴な春の祝いに、根本的な悪と罪の克服の祝いを敢えて重ねてそれを復活節として祝うようになった。春の祝いが冬の死に続くように、復活の命は罪に死をもたらす真の犠牲のうえに成り立つ。聖書の信仰は、自然宗教を換骨奪胎して、真の開放を告知する。
 そのような形象は、しかしヨーロッパにのみ固有なものではない。冬から春にかけて、同じく稲わらを焼くというこの国の古くからの風習に等しい営みを見ることができる。
 大切な相手のために自己を「犠牲」として差し出すという心理も、古くからの日本人の心根にある。これもまた、そのままでは問題含みの志操だが。
 冬の初めに樹木に筵を巻く。「菰」は冬の間に害虫を集めて春の初めに焼かれる。自己犠牲の心がここでは「菰」になぞらえれれている。しかし、そのような「菰」は、手前勝手な「愛」や「まごころ」の押しつけではない普遍性に立たねばならず、一民族の志操以上の姿を獲得せねばならない。真実を担った「菰」としての実存が形成されるためには、来るべき「庭師」のもたらす真の世界への信頼が不可欠だと思う。
 「水底から」とおなじく、日本の現代に、新約聖書的な世界の形象化を模索している。

空の幕屋

 歴史の「進歩」の過程でみずから創造者となった人間が、技術と映像によって宇宙創造の状況そのものまで描き出す。広大な空の「穹隆(堂宇)」が、人類の進歩を映し出す「映画館」、その「銀幕」となる。プラネタリウム。
 宇宙の銀幕にはさまざまな歴史のドラマが映し出されていくが、その様々な映像には焦点が失われ、「時の徴」が見いだせない、そんな混沌とした現代の状況は、終末的な様相を呈している。「星が落ちてくる」「空が巻き取られる」「自分たちを覆ってくれという」など、いずれも新約聖書「黙示録」の形象。墜ちてくる「航空機」のイメージなど。
 詩の冒頭は創造の空を描くが、しかしここでは、保守的キリスト教の根本主義(ファンダメンタリズム)が掲げるような「創造の復権」を唱えているのではない。近代科学技術における「物神化」と人間中心的な拡大思考に対して、宇宙・自然に、それがかつて備えていた光輝(アウラ・霊光)を一時なりとも返そうとすること。それがこの詩の提起することである。
 もし人間が本当に創造者の「似姿」であり、その姿を「十全に」発展させる使命を(仮に)この後も持ちうるとするのであれば、創造と自然の秩序の中に、これを逆説的に支える「犠牲」の意義と位置づけをいまいちど確認しなければならない。
 そのかぎり「終末」はここで絶望の形象ではなく、創造の「傷ついた手」(十字架の釘跡)による回復の希望として望まれている。

風力発電

 この詩の形象は「高圧鉄塔」と基本的には重なる。「気象探査機」「古起重機」「空の幕屋」などで伸べられた時代状況も重ねつつ、「鉄の時代をめぐる」連作を締めくくるものとして最後に置かれている。
 人には「明日の天気はわかっても、時の徴が分からない」というのは、新約聖書マタイ福音書16章のイエスの言葉。学問や科学技術は「見つめる存在」としての人間の到達点を示す。しかし、人間は見つめる存在であるだけではなく、向こう側から「見つめられている存在」でもある。言葉とは、そのような「窓」に他ならない。
 そのような光学の転換に気づかなければ、むこうがわから語り出されている「細い声」も聞こえない。「大風の中にも、地震の中にも、火の中にもヤハウェはいなかった。すべてのあとにかすかな細い声があった」(列王記19章11節)。
 プロメテウスの形象は、人間存在と同じように両義的である。その巨人性を掲げつつ、人間性を超える者にたいしてどこまでも抗う反抗者として描くことも可能だが、人間のためにへりくだって、自己を犠牲にする存在をも暗示している。その場合、身に矢を打ち込まれた姿でつねに描かれる聖人「セバスチャン」の像にも重なり、十字架の形象を指し示すものとなる。


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第2部 譚詩

ユリアと煙の侏儒

 ボニファティウスは実在の聖人。大陸に渡りゲルマン伝道を行ったスコットランド人。彼の伝記にはその助力者としての修道女リオバが登場する。ボニファティウスが、リオバを精神的な伴侶として愛したことも知られている。ボニファティウスの墳墓教会(大聖堂)が立つフルダの郊外には、リオバに縁の教会のある村がある。フルダの町の丘に立つと、その教会を見ることが出来る。拙詩集『ときの薫りに』に収めた作品「時祷の朝」を参照。
 甥のウィンフリートは、本書で創作された架空の人物。
 ピレモンとバウキスの老夫婦の記述は、オヴィディウス『転身物語』を出典とするもの。この夫婦についても『ときの薫りに』で扱った(「養老」「口上」を参照)。
 『ときの薫りに』第二部冒頭の「登攀」は、「ユリアと煙の侏儒」の「反歌」として成立したものだが、先に発表されている。この詩集と同じく、譚詩「ウィンフリート伝説」も、父の看病と葬儀を契機に生まれた。経験の普遍化を目指して。
 詩集「遙かな掌の記憶」は詩人中村不二夫氏によって懇切丁寧な解説が付されている。その一言一言は作者の心にしみる心のこもったものであった。
 「ユリアと煙の侏儒」にふれた部分、ひとつだけお応えしておきたい。中村氏は最後にこのように述べている。「その意味で、川中子の詩に出てくる人物はきわめて悲惨な人生を極めるが、来世での救いが待っていることではもっとも神に祝福された人たちということになる」。
 キリストのことば「貧しい者は幸いだ」という言葉を思いおこす。それは、今貧しい者はいつかはきっと豊かになる、たとえ地上の人生では実現されなくても、天国にいったら豊かになる――という意味なのか。そのような幸福主義であったら、この言葉は現に今貧しい多くの者たちを納得させるものとはならないだろうし、私の心にも響くことはなかったのではないかと思われる。
 「現世と来世の価値観の逆転」が、たとえ人の眼には映らなくとも、すでにこの世界の真実(生命)として現実の直中に入り込んできている。それが「貧しい者は幸いだ」という言葉の福音であろう。そこに私は革命的な響きを聴く。
 中村氏の言葉の意図も、そのようなことではないか。




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