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ある画家との出会い
フリッツ・フォン・ウーデ Fritz von Uhde (1848-1911)
「欅」(柴崎聰編集) 2002年に掲載



1.

 一人の画家を紹介したい。その名前はフリッツ・フォン・ウーデ (Fritz Hermann Karl von Uhde 1848.2.18 - 1911.2.25)。この画家の絵に初めて接したのはかなり昔。しかし、本当の意味で出会ったのは、二〇〇〇年の初夏のこと。十字架合唱団(クロイツコーア)の歌うバッハ「ロ短調ミサ」を聴くためにドレスデンへの旅。その帰途であった。バッハゆかりのトーマス教会を再訪すべくライプチヒに下車する。かつてはこの町の美術館を訪ねる機会を失した。今回はこれをも取りかえそうという思いで。
 ライプチヒ造形美術館は、ドレスデンの大美術館群に比べると中くらいの規模。あらかじめ私の期待もそれに応じた程度だった(註)。ドイツ絵画が中心で、ロマン派以降の比較的新しい時代に名品が多いという漠然とした印象。ところが、そこで出くわした一枚の絵に、はっとして釘づけに。啓示の光が差したような思いで、数時間をその前に立ちつくしてしまった。その絵の表題は「子供たちをわがもとに来させよ」。ルカ福音書一八章一六節のイエスの言葉である。「神の国はこのような者たちのもの」と。

(註)収蔵数はドレスデンにひけをとらないことが、後で明らかになった。全てを収められる新建物を建築中とのこと。

 幸いにも、そこで彼の画集(ブレーメンにおける一九九九年の展覧会カタログ)が手に入った。この画家の全貌を見渡していく。そこで、長い間心に懸かりつつ絡まっていた糸がするするとほどけた。実はすでに何度か出会っていたのである。そのいくつかの出会いが、瞬時に首飾りのようにつながって、そのひとつひとつが輝き始めた。
 最初の出会いは、一九八八年頃、二度目のドイツ滞在の時。帰国直前にミュンヘンに泊まった折り、ノイエ・ピナコテークで見た風景画がそれ。冬のドイツの景色である。深い夕靄の中をたどる人影。日没時の暗さ。重い冷気が衣服から染みとおってくる。私が自ら経験した実感と同じ。この画面には自然の空気が通っていると思った。それとともに、ある種の精神性に惹かれた。手前に粗末な身なりの旅職人夫婦の後ろ姿が描かれている。若い職人が身重らしい妻をいたわって歩む様子。題名をみると「困難な歩み」(一八九〇)。夫人はいかにも辛そうである。長い副題がついている。「ベツレヘムへの歩み、宿はもう遠くない」。クリスマス直前の情景なのだ。ただ不思議なことに、描かれているのは現代(一〇〇年前の当時)の状況。若い職人は指物師らしい。なるほどそれはヨセフの職業。聖書には大工とあるが、実際は小さな家具などを作る仕事。最近は珍しくなったが、鋳掛けや刃物研ぎなど流浪の職人が廻ってくることは日本にもあった。思い出すとせつなくなるようなその人々の姿を、私の幼時の記憶にも尋ねることができる。「宿はもう遠くない」という言葉が俄然、身近なものとなる。その絵の印象はいつまでも残った。

「困難な歩み ベツレヘムへ、宿はもう遠くない」

 それからしばらくして、もう一度ドイツへ往く機会を得た。一九九二年、家族と滞在したときのこと。家族にせがまれてパリに。その際、ルーブルで見た「食卓の祈り」と題された一枚。同じ題名の絵をさらにベルリンでも見ることになった。一九九八年のこと。同じ画家の絵とは気づかずに。パリのそれは、ベルリンの「食卓の祈り」とは少し違う構図で、イエスが後ろ向きに描かれている。場面はともに、祈りの言葉がそのとおり実現した情景。イエスが現れて、一九世紀末の貧しい家族の食卓を祝福している。その祈りとは、「来てくださいイエス様、私達のお客として。そしてあなたが私達に備えてくださったものを祝福してください(Komm, Herr Jesu, sei unser Gast und segne uns, was du uns bescheret hast. Amen.)」。子供が家庭で最初に習う祈り。ルター派の家庭用教理問答書の最初に出てくる。最初のドイツ留学の際に家庭に招かれたときなど、自分でも何度も耳にした。その素朴な言葉は、思想の世界から聖書に入っていった一学生にとっては、新鮮な驚きであった。素朴に信ずる心が決して軽いものでは無いという実感とともに。この「食卓の祈り」(一八八五)も、当時の典型的な農家の食事を描く。主婦がスープだけの食事をいままさに備えようとする。食卓の上には小さなパンがわずかに一つ。子どもたちが緊張して見つめるなか、一家の父は恭順な身振りで、扉から入ってきたその方を食卓に導く。扉の横で猫が身をすくめているのが愛嬌。画面が訴えるのは決してその食卓の貧しさではない。
 一枚一枚、こうした出会いを重ねつつ、キリストの出来事を現代(画家の同時代)の状況で描くという趣向が、いずれも印象に残った。しかし、それらの絵に接した時には、まだそのいずれもが一人の画家に帰されるとは意識していなかった。ライプチヒでこの時初めて、全ての経験がひとつの名前に結びついた。ああ、あの画家だったのかと、ミュンヘンでの最初の感動が思い出された。
 今回は、画集の記載をとおしてこの画家の経歴を詳しく知ることができた。おかげで、はっきりとその画業全体が見えてきた。ウーデは、一八四八年五月二二日、ザクセンのボルケンブルクで生まれた。ルターやバッハの活動地・精神圏をその出自とする。画学校には行かず、まずは将校としての道を。三〇歳代になって初めて画家を志す。画家としては遅い出発である。当時の軍人らしい髭の風貌を「画家とその妻」(一八八一)に窺うことができる。パリとオランダで修練を積む。時代は写実主義の隆盛の時、マネの描法に接した。ハンガリーの国民画家ムンカーチの影響も強い。漁師の子供や針子、家政婦など、社会底辺層の人々が働く姿を好んで描いた。作品からは、それらの人物への敬意や慈しみが伝わってくる。そのテーマ自体は、バルビゾン派やゴッホにも通じる時代のもの。ウーデの画風の独自な展開としては、次の特徴が挙げられる。まず、彼の絵のモチーフは、このようにほとんどが人物。とりわけ、子供を描いたものが多い。絵画史においては、フランス印象派(外光派)に近い「印象主義の画家」として、あるいは、一九世紀末の社会状況を描いた「社会的リアリズムの画家」として位置づけられている。一言で言うと、印象主義の影響を受けた社会的リアリズムというところ。だが何よりも、彼の名を一般に印象づけたのは、この一連の宗教画。いずれも、新約聖書の出来事を一九世紀末の状況のもと、庶民の暮らしぶりのただ中に描くという、独特な宗教画である。



2.

 ウーデが親交を結んだ画家に、マックス・リーバーマン(Max Liebermann)がいる。今日では、社会的リアリズムの画家としてはむしろこちらの方が有名。一八七九年、リーバーマンは「神殿における一二歳のイエス」を発表した(ルカ福音書二章参照)。この作品は、ユダヤ人をユダヤ人のように描いて、スキャンダルを招いた。世間の非難を浴びて、(黒髪を金髪になおすなど)修正の加筆を余儀なくされる。そこに当時の社会的状況を窺うことができる(リーバーマンはユダヤ人であった)。ウーデは、友人のこの主題を取りあげた。これから画家として立っていこうという際に、その主題の選択には、人の心を捉えたいという、画家の野心も働いていたかもしれない。この意図で、制作・発表された最初の作品が、この「子供たちをわがもとに来させよ」であった(一八八四)。
 制作に先立って、子供たちのスケッチが積み重ねられた。これは、後に彼のもう一つの重要なテーマとなり、それ自体が一連の作品を生んでいく。フランス印象派の作品にも、当時の子供の様子を映した作品があるが、それらはたいてい中流家庭の情景を描いたもの(ルノアールなどを参照)。ウーデの場合、子どもは下町や農村生活のただ中で描かれており、印象派よりもさらに自然の本質そのものを肌で感じさせる。ベルリン旧国立美術館の所蔵する「荒地のちいさな王女さま」(一八八九)の、藁を口に挟んだ少し気の強そうな少女が裸足でアザミの咲く野に立つ姿などは、子どもの質朴な姿の典型。野にすくすくと育ちゆくものへの慈しみにあふれている。


絵の原題名は「Heidenprinzissin」(1889)。2001年12月より2002年3月まで本ホームページ全体の表紙として用いた。拡大は、この絵の上をクリックしていただきたい。

 「子供たちをわがもとに来させよ」に描かれた子供の姿もそのようなもの。一九世紀末の田舎町・農村の民家か、教会付属の建物の中。屋内はやわらかな、不思議な光に充ちている。それは、イエスの後光ではなく、画面奥の窓から差し込む初夏の自然の光。その光はまさしく印象派のものである。だが、当時のウーデの手紙にはこう記されている。「印象主義者は新しい画法を逐っているだけだ。私は魂Seeleのようなものを求めていた。当時私は、大人を描くよりも子供の姿を描くことに喜びを感じていた。あるとき子供らがひとりの牧師のもとに近づいていく様を見て、それを用いたのだった。」イエスに信頼して手をさしのべる幼子たちの光景。距離をおいて取り巻く大人たちの畏敬の眼差し。その間に、かいがいしく小さい者の面倒を見る少し年上の娘たち。室内にあふれる光の中に、真剣さと暖かみが充ちる。そこには、共同体の絆というべきものが肯定されて描かれている。たとえ、この画面からイエスの姿を消し去ったとしても、画面の人々は描き出されたその心のすがたを変えないであろう。画家は、その純朴な信仰のすがたをこそ描き出そうとしているのだ。画面のちょうど中央、少し退いてイエスを上目づかいに見つめるひとりの娘。画家の視点は、その娘の真摯な眼差しに託されている。

「子どもたちをわがもとに来させよ」

 日本人は、フランス印象派の絵画が好きである。毎年どこかでその展覧会が開かれる。私自身も、高校時代に絵を描くことに興味を持った頃、印象派にも夢中になったが、やがて醒めた。光のもとに形が解消してしまう印象派。しかし、西洋絵画にはそれだけではない伝統があって、そちらの方に私の関心は向いていった。光のちらつきではなく、内面性や魂、詩精神といったさらなる深みを求める。後期の印象派自体もたどった歩みを、ウーデもまた自覚していた。
 そこには、技法の点でもある違いを語ることが出来る。それは、この時代のドイツ絵画に共通する点と言えなくもない。印象派の表面的な光に飽きたらず、ものの方から外光に応えて発する存在の輝きや翳りを描く。リルケが抒情詩で追求した物象詩への志向を、たとえばベックリンやトーマにも見ることが出来る。彼らの画面は、光がみちみちていても、陽光に焦げた心の陰画(ネガ)のようで、ウーデに比べるとむしろ暗い。だが光に対する態度は共通のもの。印象派は、光に照らされたものを光の側から、あるいは少なくとも光に併行して見ている。これに対して、この人々は光に真向かう時にその視野に入るものを描こうとする。事物は後ろから照らされ、輪郭の輝きを得る。フランス印象主義とドイツ表現主義の狭間に、光に対するそのような態度を指摘できると私は考えている。ウーデの場合にも、印象派を受けとめつつ、むしろ光の中にくっきりと浮かび上がる姿を映そうとした。「子どもたちをわがもとに来させよ」においては、まさしくその逆光の中に、イエスもひとびとも共に浮き上がる。人物は皆、一つの空間をともにして、同じ空気を吸っている。そこには、人となって世に来たイエスという、クリスマスの主題が自然な形で描き出されている。画家はその連帯の姿を、素朴だが伝統に深く根ざした共同体の中に描き出そうとしているのだ。印象派にはない精神性と、私が感じたのはそのことである。
 発表された当時、この絵はたしかに注目を浴びた。識者・教養人は、カトリック、プロテスタントともに、ひどくこき下ろしたという。このイエスはあまりに貧相で魅力・威厳を欠いている。また、人々の姿・服装が、絵の主題としては卑しすぎる、などと。伝統の画法では、イエスにはつねに尊厳とある種の美貌が付されてきた。これを受け継いだ当時の文化の担い手、中流市民の美意識に対して、社会的貧困層への画家の連帯と視点のシフトは、違和感を与えたに違いない。今日シュトゥットガルト国立美術館に展示される「最後の晩餐」(一八八六)などは、国王ヴィルヘルム二世によって「アナーキストたちの餌場」と評されたという。なるほど、それはドストエフスキーの「悪霊」の世界を思いださせる。この「子どもたちをわがもとに来させよ」もまた、ライプチヒ造形美術館に受け入れられるまでに、喧々囂々とかなりの論議があったと伝えられている。
 一九一一年二月二五日ミュンヘンにて没。それから一世紀近くを経て、ウーデの受け止め方も変わっている。展覧会開催など再評価の声が挙がる一方、印象派の純粋絵画に対して不純なものと退ける批評家もある。当時に比べるとはるかに世俗化の進んだ現代では、布教の意図などで配布される信仰玩具としての宗教画の低俗(キッチュ)と区別の付かない教養人すらあるであろう。だが、芸術の純粋さとは何だろう。純粋なものの追求をとおして現代芸術は、社会から離脱し、孤立した個性の袋小路へと入り込んでゆく。芸術の本性と使命についてウーデの絵画は、考える機会を与えてくれる。だが、なによりもその画面から響き出す自然と精神こそは彼の芸術についてすべてを語っている。



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