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書窓の隙間
雑録・折りにふれて (5)

 


★2002.4.23 絵本をつくる

 新たな本を作りたいと考えている。そのための挿絵を、時間を見つけて描きためている。黒い紙のスケッチブックに白のパステルで。本ページの前後ページの絵は、そのための模索のかたち。
 以前、一気に書き上げた「ミンナと人形つかい」。その後、結びの一行を「瞳をしずかにかがやかせて。」と書きかえた。そのほうが、この人形クララの個性がはっきりする。
 その挿話は譚詩(バラード)としてそれ自体独立しているので、ちかく詩誌Ganymedeに掲載。こちらは夏ごろの敢行予定。
 
 
 (あとがきとして)

 人形とひと、どちらがこの話の主人公でしょうか。話を読み終えると、いつのまにかワキとシテが交代している。そのような筋立ては、枠物語の構成とともに、能の表現に啓発されたものです。わたくしに能の世界のゆたかさを示してくれた人に、この本を捧げたいと思います。感謝とともに。
 わたくしの他の本の読者には、ハマン老人の名が心にとまったかも知れません。200年前、北ドイツに生きたハーマンという人は『ソクラテス追憶録』という本の中でこう述べています。昔の書物を読んだり、あるいは、昔生きた人物と出会ったりするためには、読み手の側に「共感」が、すなわち(愛において)かつての出来事をともに受け・苦しむ「実感」が必要だと。
 この話に登場する一対の人形たちのうち、クララはそうした「書物」や「言葉」を、一方ジークリートは「書物や言葉を愛する営み」を、あるいは担っているのかもしれません。とすると、この話のいまひとりの主人公、ミンナという娘は、そのような営みを真実として愛するわたくしの内なる分身でしょうか。
 「がくもん」という世界のむずかしい言い方で言うと、そのような営みは「文献学 Philologie」と呼ばれます。でも、このお話はそんな言葉づかいを敬遠するようなひとにもわかるようにと願っています。お話を好んだり、「ことばを愛する」という営みは、すべてのひとのものなのですから。
 あなたは、あなた自身のクララやジークリートを見出したことでしょう。その表すものはそれぞれに異なってかまいません。この人形たちを愛してくださるなら、そんな違いなど小さなことなのですから。

 



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